三十七、贖罪
紫色の雲がたなびく朝、黄瑞殿の中で、麗殊は玉座を見上げていた。初めてここに立ち入った時と同じく、白い襦裙を纏って。太皇太后を悼む気持ちがあるかはともかく、形式上必要なことだ。
泣き腫らしたせいで瞼が重いが、それを隠すことなく薄化粧のままここに来た。この姿が麗殊の自然体だからだ。
「二十二年前に起きたこと、主上は全て知っていたのですね」
「ああ」
同様に白の礼服を着た朧鳴帝は、観念したように目を伏せる。
「復讐したいだろうが、太皇太后はもうこの世にはいない」
「復讐など……甜氏の名誉を取り戻すことができるならば、それで我々の悲願は叶います。どうか、真実の公表を願います」
「そのつもりだ。喪が開けたら司察局に命じて、記録を正しく書き直させる」
随分とすんなり承諾を得られて、麗殊は安堵する。
これで、母たちも溜飲を下げてくれたらいいのだが。真実が公になれば、じきに兄以外の男も官吏に登用されるはずだ。椿妃の汚名は晴れ、甜氏の名も元通り。
──こんなにあっさり頷いてくれるなら、なぜ最初から私に言ってくれなかったのかしら。
麗殊は訝しみ、朧鳴帝に問いかける。
「私を後宮に入れたのは、どうしてですか。朔殿を私の傍に寄こしたのは、宴で幻食の儀式を行うと分かっていながらそれを止めなかったのは、どうして。あなたが拒めば、私に過去を暴かれることもなかった。兄の任官だってそうです」
朧鳴帝の行動は最初から矛盾している。自分の記憶を見られるのを拒むのに、それ以外は麗殊の好きなようにさせていた。事件の真実を知られたくないのか、むしろ突き止めて欲しいのか。
「償いだ」
「償い?」
「……国を統べる者として頂きに立った以上、雑念は捨てねばならない。だが、過去の罪がどうしても追いかけてくる。蟠りとなって消えないのだ」
朧鳴帝は玉座から立ち上がり、段を降りて、麗殊へと歩み寄る。
「二十二年前、朕は椿妃を見殺しにした。いいや、朕が殺したのだ。……あの時、椿妃ではないと言うつもりだったのに。頷いたら椿妃を追い込むだけだと、良く考えれば分かったものなのに」
郎の中の椿妃に会いに来た時も、己の祖母が椿妃を陥れたことなどまるで知らない様子だった。
「主上は真実をいつお知りになったのですか」
「椿妃が亡くなった後、黎晟帝と太皇太后──当時の皇后が口論しているのを偶然耳にした。そこで、槐妃を殺したのは皇后だと知ったのだ」
朧鳴帝は話しながら麗殊を、否、その奥にある椿妃の影を見つめる。
「椿妃は美しく、優しい人だった。朕は、そなたにあの方の無念を晴らしてほしかった。……同時に、己の罪をそなたに知られるのが怖かった。椿妃によく似たそなたに、憎悪の目を向けられるのが恐ろしかったのだ」
話を聞き、麗殊はそうか、と心の中で得心がいく。
「だから、私が自分の力で真実を知るまで、あなたは動かなかったのですね」
「……その通りだ」
朧鳴帝は自嘲気味に肩をすくめる。
この男の行動の矛盾は、全て彼の葛藤が表に現れた結果だ。真実を知られたくないけれど、突き止めて欲しかった。その両方が本心だったのだ。
「黎晟帝は口論の後、事件の記録を偽り真相に蓋をして、公にしないことにした」
「どうしてでしょう」
「甜氏や椿妃の信者を抑えるため、宮中に混乱を招かないため、皇后の罪が知られないように詮索されないようにするため……様々な理由があったと思うが、彼も椿妃への情が断ち切れなかったのだ。だからこそ、太皇太后と口論になっていたのだろう」
椿妃は黎晟帝が助けてくれると信じて、彼に眼差しを向けた。記憶では黎晟帝の心情が読めなかったが、そこに思いやりが残っていたのなら、椿妃の心も少しは救われる。
朧鳴帝は麗殊の目を見つめて言う。
「復讐をしたいならばするがよい。朕は憎まれて当然だ。皇帝ではなく一人の人間として、非難も罵倒も全て受け止めるつもりでいる」
国の君主がこんなことを言ってくれるなんて。本当にこの男は変わり者だ。
麗殊はそう思いながら、ゆるゆると首を振る。
「まさか。憎むなんてありえません。椿妃様はあなたを恨んではいない。私もそうです」
記憶を見て感情を共有したから、断言できる。椿妃の中に朧鳴帝を恨む気持ちなどなかった。
それに。
「私がここに来ずとも、あなたはいつか事件の真実を公にして、甜氏の名誉を取り戻してくれていたはず。ただ、君主として厄介事を避けるために、太皇太后の目が消えるまで待っていた。そうなのでしょう?」
「そなたは心を見透かす異能も持っているのか。ずっと分かっていたのか?」
「いえ。そんな異能はありませんし、確信したのはまさに今です。主上が本音を話してくれたから、ようやくあなたの心を知ることができました」
「……こんな遠回りをさせずに、最初からそなたに打ち明けるべきだったな」
憑き物が落ちたような顔で苦笑する朧鳴帝に、麗殊は安堵する。
──主上も私と同じで過去に囚われていた。けれど今日、ようやく前に踏み出せるわ。
その後、朧鳴帝は椿妃との思い出を話してくれた。通りすがりにいつも笑いかけてくれたこと、庭園で一人で遊んでいるとよく相手をしてくれたこと。
帰り際、朧鳴帝に「待て」と引き止められた。
「そなたが欲しいと、朔から申し出があった。……そなたはどう思う?」
昨夜のことだ、と心臓が跳ねる。
──朔殿ってば手が早いのね。まったく。私が拒んだらどうするのかしら……。
などと呆れつつ、麗殊の答えは決まっていた。
麗殊は膝を折り、その場に深く叩頭する。
「朔殿は、何度も私を助けて、信じて、救ってくれました。彼と共に生きたいと思います。妃という立場でありながら、身勝手な発言をお許しください」
本来ならば、許されざる願いだ。以前、竹妃の記憶を見たからこそ、余計に身に染みて分かっている。
けれど、どうしても願ってしまう。
平伏して言葉を待つ麗殊に、朧鳴帝はふっと笑う。
「もとより、朕とそなたの間に愛は要らぬと言っただろう。朔──叔父上とは約束もある。我々がそなたたちから奪った自由を、返すときが来たようだ。……面を上げよ」
麗殊は恐る恐る頭をもたげる。
朔と似ているようで微かに異なる琥珀色の瞳が、こちらを見下ろしている。初めて相対したときとは違い、その眼差しに恐れや疑念を抱くことはない。
「甜麗殊。桃妃の号を排し、朔親王へ下賜する。よいな」
「心より感謝いたします」
麗殊は喜びを噛み締め、震える手で拱手し、頭を垂れる。
──ようやく、私は私として生きられるのね。誰の想いも背負わずに。
***
翌日、桃晴宮に宣旨が届いた。
二十二年前の事件の主犯が太皇太后であったこと、そして椿妃及び甜氏への処罰が不当であったことを認め、改めて椿妃と槐妃を追悼する……という内容だ。
加えて、麗殊の下賜も後宮中に通達された。おそらく、空いた枠には雛嬪が入るだろう。
個別の文に、梅妃が朧鳴帝の前で罪を白状したという内容が書かれていた。烏頭の出処も梅泉宮だと発覚した。朔の言う通り、昨日の事件は全て自作自演だったらしい。
「凄まじい異能を目の当たりにして、主上の寵愛が全て奪われてしまうと思ったのです……」
だとか。
以前梅妃が話してくれた彼女の祖母こそ、二十二年前のあの尚膳で、そこから太皇太后との繋がりを持っていたらしい。甜氏を良く思っていない太皇太后と結託し、麗殊に罪を着せて蹴落とそうと考えたのだという。
その結果、全てが裏目に出て、梅妃は充媛まで落とされてしまった。おかげで繰り上がった他の九嬪は、予期せぬ儲けものだ。
──呆れた話ね……。
文を読み、麗殊はため息を吐く。
今となってはそう思うけれど、あのとき朔がいなければ、己も椿妃と同じ目に遭っていたかもしれない。彼には本当に頭が上がらない。
昼下がり、麗殊は卓の上で文を綴る。
一つ目は故郷の母に。全て終着し、甜氏の名誉挽回が果たされたことを知らせるためだ。椿妃が妹を守るために毒を煽ったこと。それは心の中に仕舞っておくことにする。
そして、二つ目は己を助けてくれたおじさん、矯の薬師に。これは、謝礼金を添えて商店街の薬屋の店主宛てに送り、仲介してもらう。
事件には触れず、過去の解毒の礼だけを述べた。きっと、彼は麗殊を助けた時点で前を向くことを決めていた。余計な言葉は要らない。
麗殊は城外への文を出しに内侍省に向かおうと、桃晴宮の門を出る。
そこで、南敬と征椑の二人に出くわした。ちょうど、二人とも麗殊に会うために来たらしい。
「椿妃様の無念を晴らしていただき、ありがとうございました」
南敬と征椑は、並んでその場に叩頭する。
麗殊は慌てて二人を立たせて言う。
「いえ、そんな。あなた方が椿妃様を信じて待っていてくださったおかげです。こちらこそ、ありがとうございました」
頭を下げて感謝を述べると、二人は年季の入った目元を緩ませる。
かと思えば、征椑が困ったように眉尻を下げる。
「万が一のために蒔いた種がちょうど芽吹いてしまって、良かったのか悪かったのか」
「種?」
種とは。麗殊が訊くと、二人はハッとしたように顔を見合せる。
その後、南敬が慌てた様子で言葉を続ける。
「征椑に秘策を講じてもらっていたのです。ともあれ、本当に良かったです。もう後宮を出てしまわれるそうですが、何か困ったことがあれば私共が手助けしますので、お声かけください」
二人はそう言って、再度頭を下げ、去っていった。
──秘策って、何かしら。
征椑が講ずることのできる策。征椑は太医だ。それも、太皇太后の主治医だった。彼は朧鳴帝に太皇太后の病が重いことを告げ、彼女の死を看取った。
彼は太皇太后のすぐ側に近づくことができた。彼女の病に診断を下し、薬を選んで出していたのは彼だ。薬ではないものを与えることだって……。
「まさか」
一つの仮定が浮かび、麗殊は瞠目して征椑の少し丸い背を見つめる。
動いていたのは甜氏だけではない。彼らも彼らなりにできることをしていた。
──推測に過ぎないわ。二人は私に何も言わなかった。ならば、私が余計な考えを巡らせてはいけない。
頭を左右に降り、思考を中断させる。
もう全て終わった。先のことに集中しよう。
今度こそ、麗殊は内侍省へと歩みを進める。
その道中、通路の端で、嬪たちが麗殊を見つめて語り合うのが聞こえた。
「桃妃様、親王様に下賜されるんですってね」
「親王様ってどなた? まさか、皇弟殿下?」
「いえ、先代の皇子ですって。どの皇子かは分からないけれど」
「まあ、主上から嫌われてしまったのかしら。媚びを売ってばかりいたと聞くし」
「自業自得ね。でも、昨日は冤罪を被せられていたし、少し可哀想かしら」
「そうかも」
相変わらず好き勝手言われているが、そんな言葉は耳をすり抜けていくだけ。
誰に何を言われようとも、麗殊の心は後宮入りした時よりも遥かに晴れ晴れとしていた。




