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二十八、正体

 どんよりとした鈍色の空が広がる昼下がり。

 もう自由に動けるくらいには体調が回復していたので、麗殊は栖遥と共に大医の仮宿を訪れた。朔に会うためである。しかし、仮宿には征椑(せいへい)という名の四十程の大医がいただけで、朔の姿はなかった。


 そこで、麗殊はまた奇妙な体験をした。仮宿の房室の中に入った瞬間、卓越しに征椑からぎょっとした目で見つめられたのである。それも、まじまじと。司察局を訪れた際に、南敬という司察から凝視された時と同じだ。

 怪訝に思い「どうしましたか?」と尋ねても、征椑は「いえ……」と気まずそうに視線を逸らすだけだった。


 その後、釈然としない気持ちのまま桃晴宮に戻った麗殊は、秘技を使うことにした。

 桃晴宮の門前に出て、「蕾」と呼びかけ、ぽんっと手を叩く。

 すると、一瞬にして仏頂面の男が麗殊の前に姿を現した。麗殊は僅かに肩を揺らす。二度目だからか、以前よりは驚かずに済んだ。本当にこの男はどこに隠れているんだか。

 驚きと同時に、相変わらず桃晴宮を監視している事実に安堵する。朔との連絡手段が途切れたわけではないようだ。


 麗殊は蕾に尋ねる。


「蕾、朔殿は外朝に?」

「はい。朔様は大医局にいます。今日は後宮に訪れないかと」

「そう……。明日は来る?」

「分かりませぬ」

「それじゃあ、"あなたに会いたい"と、朔殿に伝えてくれないかしら」


 思いの外、切実な声色になってしまった自分自身に驚く。

 蕾は読めない表情で僅かに黙り込んだ後、「御意」と頭を下げ黄瑞門の方へと走り去った。


 夜が更けた。

 麗殊は就寝用の薄い深衣に着替えて窓際に座り、ぼんやりと空に浮かぶ月を眺める。結局、今日は朔には会えなかった。彼は己から会いに行くことはできない存在なのだと、はっきり思い知らされた気がする。

 襦裙に茉莉花の香りは染み付かなかった。開花した花は当然の如く既に落ちていた。それが少し残念だと感じる。己と朔は、秘密の逢瀬を重ねていた鎖徹と竹妃、陶鼓のような関係とは違うのだ。


 ──私はどうしてしまったのかしら。

 麗殊はため息をつく。いつから、朔のことを考えて苦しむようになったのだろう。彼と出会ってから変だ。まるで、恋煩いみたいに……。


 コンコン。

 突然、思考を遮るように、扉を叩く音が聞こえる。こんな時間にどうしたのだろう。

 麗殊が「どうぞ」と声をかけると、栖遥が普段よりも上擦った声で「主上がおなりです」と告げた。


「うそ」


 思いがけない事態に、心臓が跳ねる。

 夜に妃の宮に来るということは、そういうことだ。今夜の相手に、麗殊が選ばれたというのか。

 

 冠を被らずに髪を垂らして緩く結い、服はいつもの礼服とは違ってゆったりとした薄着だ。黄瑞殿で見る姿とは異なる朧鳴帝に、麗殊は驚く。

 そして、腕を組んでこちらを見つめているのに気が付き、慌てて拝舞する。


「お出迎えできず、大変失礼いたしました」


 朧鳴帝は無礼を詫びる麗殊を手で制し、口を開く。


「倒れたと聞いたから見舞いに来てやったというのに、随分元気そうだな。やはり、朔の腕は優れている」


 朔という名に反応して、思わず肩を揺らしてしまう。

 その様子を見て何を思ったのか、朧鳴帝はふっと鼻で笑う。


「そなたと同衾どうきんするつもりはない。あくまで、臣下の様子を見に来ただけだ」

「……そうでしたか」


 直接的な台詞に息を呑み、同時に安堵する。


 ──主上は私を愛さない。

 そのことを実感できて、ようやく緊張が解かれた気がした。記憶を見るため彼に近づくことを望んでいたのに、矛盾している。

 麗殊はその矛盾から目を背け、朧鳴帝に尋ねる。


「今朝、私の兄が官職を賜ったと聞きました。どうして、今になって……。主上のおかげですか」

「そなたの尽力への感謝だ。それに、朕は才が欲しいと言っただろう。そなたの兄は試験でも成績を残している。親族の罪業は当人には関係ない」

 

 とは言うが、連座は政治において、重要な処罰だ。椿妃の罪が晴れないまま罰を緩めたなら誰かの反感を買うのではないかと、こちらの方が心配になる。

 否、麗殊がこうして後宮にいる時点で、既に恩赦をいただいているのか。


「喜ばないのか」

「そんな、恩情に感謝いたします」


 麗殊が恭しく頭を垂れると、朧鳴帝は満足げな顔を浮かべる。そして、房室の奥にある寝台に腰かけ、こちらを見上げた。

 麗殊は慌てて彼の近くに寄って床に膝を付き、彼よりも頭が下になる体勢をとる。


「それで、そなたは司察局に行って何か分かったのか」

「主上は二十二年前の宴に参加していたのですよね。椿妃様が槐妃様に毒殺したとされる、あの日に」

「そうだ」


 平然と頷く朧鳴帝に、麗殊は思い切って問いかける。


「では、主上は椿妃様が毒を盛った瞬間を見ましたか」

「見てはおらぬ。朕は父上に連れられて宴の座にいただけだ。真相が知りたいならば、幻食の力で椿妃の記憶を探ればいいだろう。竹妃の時みたいに。それをするつもりでいるのではないのか?」


 朧鳴帝に問われ、麗殊は悔しげに下唇を噛む。

 それができればどんなに楽なことか。椿妃の遺品は持っていない。後宮内の彼女の記憶を辿る触媒がないのだ。幻食の力を持って生まれたにも関わらず椿妃の記憶を見れないために、何度罵りを受けたか分からない。

 辛い過去を思い出し、麗殊は少しムキになって聞き返す。


「あなたの記憶は見せていただけないのですか」


 己は宴に参加した他の人間の記憶を見るために動いている。その筆頭が目の前の男だ。

 朧鳴帝は驚いたように目を見開き、その後、眉間に皺を寄せた。


「まだ分別のつかない稚児の記憶など、そなたの役には立たない」

「役に立ちます。なにか鍵があるかもしれません」

「無意味だ」


 朧鳴帝はぴしゃりと言い放つ。思っていたよりも頑なに拒まれ、麗殊はそれ以上懇願を続けられなくなる。それならば。


「では、質問を変えます。主上は、本当に椿妃様が槐妃様を害したと思いますか」


 麗殊の問いに、朧鳴帝はぴくりと眉を動かした。しかし、動揺のようなものが見えたのはほんの一瞬で、彼はすぐに平然とした様子で語り出す。


「それが司察の出した見解だ。状況的にも椿妃が犯人だと考えるのが妥当だろう。何より、彼女自身がその罪を受け入れている。疑う方が無理があるのでは」

「そうお思いならばなぜ、罪人の血を継ぐ私を自由にさせてくれているのです。調査の許しまで与えて」

「……そなたは質問ばかりだな」


 呆れたように肩を竦められるが、ここで引いては損だ。この男の方から桃晴宮に来てくれることなどこの先ないかもしれない。今こそ情報を聞き出す好機なのである。

 この問いには答えを貰えないと判断し、最後に請う。


「もう一つだけよろしいですか」

「言え」


 朧鳴帝は顎を上げて促すので、麗殊は意を決して尋ねる。


「どうして、朔殿を私に……あの方は何者なのですか。主上の寵はただの太医には過ぎると思うのです。彼に聞いてもはぐらかされてばかり。昨日、彼が《《あの矯氏》》であることだけは教えてくれましたが……」


 彼の名を口にした瞬間、目の前の男は微かに意表を突かれたような顔を見せた。

 

「口止めしていたのに漏らしたのか。そなたがこの様子では仕方のないことだな」


 そして、気難しい顔をしてひとりごち、今度は麗殊を手招きする。


「近う」

「?」


 命令通り、敢えて取っていた距離を埋め、彼の膝元までにじり寄る。

 すると、朧鳴帝は片手で麗殊の腕を掴み、くいと自分の胸元へと引き寄せた。


「あ、あの……?」


 何を。

 男の力には勝てず、麗殊はされるがままに朧鳴帝の胸の中にすっぽりと収まった。床に付いた膝は身体を支えるには心許なく、彼の腕だけで姿勢を保っている。


「ふむ」


 こちらを見下ろす男は意味深に目を細め、もう片方の手で麗殊の顎を掴む。その指先は朔と同じで温かい。

 琥珀色の眼差しが麗殊の顎先から頭の頂までゆっくりとなぞっていく。


「こうして見ると、あの方の面影がある。儚げで美しい。……宝の持ち腐れだな。他の妃のように着飾ればよいのに」

「主上──」


 麗殊が震えた声で呼びかけた瞬間。

 再び腕を引かれて身体の向きを変えられ、視界が反転した。ぽすりと軽い音を立てて、背に微かな衝撃が走る。


「は」


 朧鳴帝が麗殊を寝台の上に押し倒したのだ。敷かれたしとねが引っ張られて、皺が寄る。

 恰幅の良い身体が、そのまま麗殊の上に覆い被さる。彼の結われた黒髪が肩越しに垂れて、麗殊の顔に影を落とした。


 ──動けない。

 背筋がしんと冷えて、身体が硬直する。どくどくと早鐘を打つ鼓動が、頭の奥まで響いてくる。

 朧鳴帝は白いしとねの上に乱れる麗殊の髪を指で掬い、するりと絡ませて遊ぶ。

 暫しの沈黙の後、蛇のような瞳が麗殊を射貫いた。ぐっと息が詰まる。


「桃妃よ、そなたは椿妃のことばかり気にしているが、槐妃のことは知らないようだな」


 麗殊は目を瞠る。

 椿妃のことばかり。昨日も同じようなことを言われた。しかし、朔とは異なる声音だった。そこに怒りはなく、ただ哀れむような優しい音をしている。

 

「彼女の姓は矯だぞ。そして──朔の生みの母親だ」


 朧鳴帝は残酷なまでに正直に、麗殊が知ることを望んでいた朔の正体を囁いた。


「母、親」


 刹那、鈍器で殴られたような衝撃と痺れが、麗殊を襲う。

 昨日抱いた違和感──朔の異変、恩人である薬師の表情、その謎が瞬く間に紐解かれた気がした。


 ──私はなんて身勝手な。

 途端に目の前が暗く染まり、腹の底の何かが喉元までせり上がってくる。

 朔の前で何度椿妃の話をしただろう。こんなの、知らなかったでは済まないことではないか。


「はは」


 麗殊を拘束する男は、嘲るような乾いた笑いを零す。そして、吐息混じりに呟く。


「その顔は唆るな。口惜しい約束をしてしまった」


 あまりの動揺で、朧鳴帝の声は意味をなさず耳をすり抜けていく。

 麗殊は喉を引き攣らせながら問う。


「もしや、槐妃様に……男の兄弟はおられましたか」

「たしか、あの方には弟がいたか。なぜそのようなことを訊く」


 朧鳴帝は不思議そうに首を傾げた。

 対して麗殊は、弟という言葉に嫌な予感が的中したことを悟る。

 同時に六年前の記憶が鮮明に蘇ってくる。


『子どもはいないよ。でも、僕には姉がいてね。彼女はとても優しくて、よく僕のことを心配してくれたんだ』


 そう語る薬師は、愛おしむような、それでいて哀しい表情だった。

 薬師は槐妃の弟だったというのか。だから、彼は朔を見てあのような、悲痛な表情を見せたのか。朔は槐妃の子であるから……。

 だとすれば、六年前、薬師は何を思って甜氏の住処にやってきたのだろう。姉を殺した一族の住処に。

 何を思って、甜氏の娘の命を助けたりしたのか。放っておけば、仇であるはずの椿妃の血を一つ葬ることができたというのに。


(朔殿……)


 この十数日麗殊に尽くしてくれたあの男は、どのような思いで微笑みをたたえていたのか。

 己はただ一族の言いなりになって、洗脳ともいえるほどに教え込まれた椿妃の無罪の証明ばかりを気にして。

 他人の想いなど考えずに、幻食の力を持って生まれた己の存在意義を示すために奔走してきた。一族に認められるために。己の欲だけを満たすために。


「ごめ──」


 無意識に謝罪の言葉を紡ごうとする麗殊の唇を、朧鳴帝の骨張った手が遮る。

 物理的に口を塞がれた麗殊は、瞳を揺らして朧鳴帝を見上げる。

 彼は同情を滲ませた表情で麗殊を見つめ、眉根を寄せた。


「身体は平気そうだが、心はそうでもないらしい。異能の発揮は精神にも影響が及ぶと、朔が言っていた。早く回復しろ。そなたの力は役に立つからな」


 そして、朧鳴帝は低く響く声でそう言い残し、麗殊に重なっていた身体を起こして、淡々と房室から出ていった。


 麗殊は中途半端に仰向けになったまま、静かな房室の中に一人取り残される。

 そうだ、己は今、精神的に参っているのだ。しかし、それは力を使いすぎたという理由だけではない。


 腕を回して目元を覆い隠す。

 燭台に灯した光と窓から差し込む月明かりが、今は眩しく感じた。

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