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二十九、黎明

 夜が明けた。今日は昨日とは一転して、太陽が明るく照らす晴れ日和である。

 就寝前、栖遥から朧鳴帝が先日約束した胡餅を持ってきてくれていたと聞いた。しかし、全くもって食欲が湧かず、手を付けずに小厨房に保管してある。もう身体の不調は治っているのに。

 こんなことは初めてだ。毒を盛られた時でさえ、食欲最優先であったというのに、あの男──朔のことになると弱ってしまう。


 ──昨日のことは夢じゃないのよね……。

 現実である証拠として、麗殊の手首にはうっすらと赤い痕が残っていた。思いの外、朧鳴帝に強く掴まれたせいだろうか。


 昨夜の衝撃はまだ抜けきっていない。朔が槐妃の子だったなんて考えてもみなかった。槐妃は朧鳴帝の祖父である黎晟帝の妃。

 ということは、年齢は朔の方が若く見えるが、立場的には彼は朧鳴帝の叔父に当たる。なんとも複雑だ。

 朔が皇室であるからこそと思えば、朧鳴帝の重用ぶりも納得もいくが、何かそれだけではないような気がする。


「というか、問題はそこじゃないわ。私よ、私自身が一番の問題なのよ……」

 

 麗殊は、はあ……と大きなため息をつく。

 あまりに無神経だった過去の自分を殴ってやりたい。二十二年前の事件を引き摺っているのは甜氏だけではない。そんなの当たり前のことだというのに、槐妃と関わりのあった人々の気持ちを考えるのを失念していた。


「朔殿はきっと私のことが憎いでしょうに、どうして何度も助けてくれたの……」


 仮宿でよろけた時も、絵画の粉塵を触った時も、一昨日倒れた時も。

 いくら考えても、彼の心は読めそうにない。

 

 悶々としながら、麗殊は姿見の前でいつもより張り切って己を着飾る。襦裙は紅色と桃色のものを。唇に差す紅もいつもより濃いめに。髪もいつもより凝った形に結い、いつもの簪の他に、花飾りの付いた櫛も挿す。

 表面だけでも気合を入れて、心を保たなければ。皆に迷惑をかけてはいけない。


 庭園にでも行こうかと麗殊は房室の外に出る。


「栖遥、ちょっと日に当たりたいの──って、いないのかしら」


 近くに設えられた栖遥の房室に呼びかけるが、どうやら外出中らしい。

 麗殊は仕方なく、一人で桃晴宮の門まで歩いていく。

 すると、待ち望んでいた男がちょうど開けた門の向こう側に現れた。


「あっ」


 男の姿を認めた麗殊は目を瞠り、息を呑む。そして、「来てくれたのね」と小さく呟いた。

 翠緑の礼服に、上半分を結った長い黒髪。男──朔は驚く麗殊を僅かな間眺めた後、無愛想な表情で言う。


「昨夜、主上が桃晴宮を訪れたらしいね」

「ええ……」


 麗殊が正直に頷くと、朔の眉根に皺が寄る。

 そのまま何も言わないので、沈黙に耐えかねて、身体の向きを元来た方向へと戻す。


「取り敢えず、中にどうぞ」


 そう言って歩き出すと、朔は口を閉ざしたまま着いてきた。

 麗殊は炉辰に来客を伝え、広い客間に朔を案内する。二人は卓を挟んで向かい合った席に座った。


「桃妃──」

「ごめんなさい」 


 朔が何かを言い切る前に、麗殊はその場で頭を下げた。俯いたまま、膝元の裙の布をぎゅっと握り締める。微かに汗が滲んでいた。

 心を決めて頭をもたげ、朔の目をしっかり見て話す。


「私、自分のことしか考えていなかった。朔殿が槐妃様の御子だったなんて知らなくて……。椿妃様の話をして、あなたを傷つけかったわけじゃないの」


 すると、朔は驚いたような顔を見せた。


「……母のことも主上から聞いたのか」

「そう。昨夜は見舞いにいらしてくれて、あなたのことを教えてくれたの。その後はすぐに帰ってしまわれたけれど」

「そうか」


 麗殊が告げると、朔はなぜかほっとしたように全身の強ばりを緩めた。そして、その場で首を横に振り、麗殊に謝る。


「この前は悪かった。……俺も混乱してしまったんだ。てっきり、あなたは母のことを把握していると思っていたから」


 眉根を下げて自嘲気味に笑う朔に、麗殊はますます罪悪感が募るのを感じる。

 しかし、こちらが再び謝罪の言葉を紡ぐ前に、朔が指を立てて言う。


「素性が知られてしまったことだし、あなたが知りたがっていたことを教えてあげよう」

「知りたがっていたこと?」

「うん。まず、俺は二十三年前に生まれた。黎晟帝の最後の皇子だ。一応親王の位を与えられているが、父が死んで驘寛帝に代替わりして以降、特に公にはしていない」


 二十三年前ということは、十六歳の麗殊よりも七つ年上ということか。四つ上の兄よりも歳上だ。


「どうして公にしないのかしら」

「母の死の影響だよ。もう椿妃はいないけれど、俺も誰かに殺されるんじゃないかと心配されて、密かに暮らしていたんだ」


 さらりと告げられ、麗殊はどきりとする。

 その反応を目敏く察知した朔は「むしろそれでよかったよ」と苦笑した。


「俺は矯氏の呪術的な力を強く持って生まれたし、母が遺した医学書と薬学書が豊富にあったから、医官として生きられるように父が整えてくれた。それが自分の身を守ることにも繋がると」


 奇しくも、あの薬師から毒についての書を貰って知識を身につけた己と似ている。置かれた立場は異なるというのに。

 麗殊は恐る恐る朔に尋ねる。これを聞かねば気が済まない。


「……朔殿は私を殺したくないの。どうして助けてくれたの。私には椿妃様の血が流れているわ……あなたにとっては、母の仇と同じはずよ」


 すると、予想外に朔は困ったような顔を見せた。


「俺には母と過した記憶なんてない。当時はまだ赤子だ。それに、俺にとっては椿妃が母を殺したとして、それは他人事のような感覚だった。君に近づいたのは復讐しようだなんて考えからじゃない」

「ならどうして」


 食い気味に尋ねる。

 憎しみを抱かないはずなんてない。二十年以上前の出来事に固執し続けている甜氏を見てきたからこそ、そう思う。けれど、この男は違うらしい。


「単純に興味を持ったんだ。母を殺したという一族の娘はどんな顔や性格をしているのか。すぐそばにいた俺が罪の遺産であると気づいたら、あなたはどんな顔をするのか」


 朔はそう言って、琥珀色の瞳で麗殊を射貫いた。

 瞬間。


 ──ああ、この瞳が朧鳴帝に似ていたのは、血の繋がりがあるからなのね。

 麗殊は場違いにも、そのような気付きを得た。


 同時に、朔の語る動機に困惑する。趣味が悪いというか、変わっているというか。やはり、この男は朧鳴帝と同じで変わり者だ。


「私はどんな顔をしていた? 私を観察していて、あなたはどう思ったの」


 麗殊が動揺しながら訊くと、朔は顎に手を添えて、暫し考え込む。

 一度逸らした視線をちらりとこちらに向けて、朔はおもむろに口を開いた。


「あなたは、過去に囚われている」


 言葉が胸に刺さり、どくりと心臓が跳ねる。


「才を持って生まれたばかりに重い枷を嵌められ、翻弄されているんだ。ここに入宮したのだって、自分の意思ではないだろう?」


 そんなの、あまりに今更だ。

 あの状況下で椿妃と同じ能力を持って、後宮に入ることのできる女として生まれてしまった。麗殊の人生はその時点で決まっていたのだから。

 麗殊は苦々しげに問い返す。


「朔殿は違うというの」

「いいや、俺も同じさ。俺自身が逃げようとしても、逃げられない。過去のことを忘れられない人間は、宮中に少なくないから。……その筆頭は主上だろうね」

「主上?」

「ああ、まだ俺もあの方の考えていることは分からないけれど」


 たしかに、朧鳴帝の様子には引っ掛かりを覚える。昨夜も色々とはぐらかされた。朔も違和感を感じているということは、見込み通りあの方は何かを知って、隠してるのだろう。


「まあ、そういうことだ。俺だけでいえば、あなたに憎悪の気持ちなんてないよ。好奇心だ」


 そうは言うけれど。あの日の尖った声、怒りの籠った眼差し。

 麗殊は甦ってきた記憶に不安になる。


「でも一昨日、朔殿は怒っていたでしょう。私、本当に申し訳ないことをしたわ……無知ほど罪なものはないのに」


 謝罪を聞いて、朔はバツが悪そうに視線を逸らす。

 

「別に桃妃に怒ったわけじゃない。ただ、あなたがあまりに純粋な顔をしていたから……」


 顔、とは。麗殊は首を傾げる。

 朔はそのまま曖昧な物言いを続ける。


「当時産まれてすらいない何も知らない若い娘に一方的な願いを押し付けて、後宮という恐ろしい場所に放り込むなんて残酷だ」


 そこでようやく麗殊は朔の真意に気がついた。

 まさか、朔は麗殊ではなく、その後ろにいる甜氏に対して怒ってくれていたというのか。


 ──そんな、この人は私さえ目を向けていなかったところに、憎しみを向けてくれたというの。私のために……。

 たまらなくなって、目頭が熱く疼く。

 今までの緊張がすっかり解けて、泣き出してしまいそうだ。


「なんだ、そういうことだったのね……怒ってくれてありがとう」

「悪い、あなたを困らせてしまった」

「そんなことないわ。でも……」

「でも?」


 麗殊は胸に手を当てて、朔に告げる。


「過去に囚われていたとしても、私は椿妃様が濡れ衣を着せられているのなら、それを拭い去ってしまいたい。たとえ冤罪でなかったとしても、この目で真実を知って納得したい。そうして初めて、私は過去から解放されて自由に生きられると思うの」


 朔は安堵したような面持ちで「そっか」とだけ頷いた。

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