第六章 第一話
北方の監視所は、凍てつく風が吹き荒れていた。
アンリ・ド・モンモランシーは、生まれて初めて、自分の存在価値を見失っていた。一度は誇り高き伯爵家の跡継ぎ。王太子の護衛騎士。その全てを、自らの手で打ち砕いてしまったのだ。
かつての部下たちは、もはや彼を見ようともしない。単なる監視所の詰め将として、辺境の静けさを守るだけの日々。それが、アンリの新たな現実だった。
「騎士道と名誉」
エレオノールのあの言葉が、今も耳に響く。父から教わった騎士の心得。代々受け継がれてきた伯爵家の誇り。全てを、一瞬の感情で踏みにじってしまった。
「一騎士一主君」
彼は呟く。その言葉に、かつての重みはない。ただの空虚な響きだけが、凍える風に溶けていく。
監視所の窓から、また一陣の風が吹き込む。
手紙が一枚、机の上で揺れた。父からの最後の便りだ。「お前には失望した」ただそれだけの言葉が、墨痕鮮やかに残されている。
アンリは、剣を抜く。かつては王都一の腕前と謳われた護衛騎士。今では誰も、その剣を恐れもしない。敬うこともない。ただ、辺境の地で刃を振るう、一剣士でしかない。
「シャルロット様を、お守りしたい」
あの時の自分の言葉が、今は嘲笑のように響く。守るべきものの優先順位を見誤った。いや、そもそも騎士としての本分を忘れていた。
壁に掛けられた鏡に、自分の姿が映る。まだ若い。しかし、その目には既に諦めの色が宿っていた。エレオノールの凛とした瞳を思い出す。あの時の彼女こそ、真の騎士の姿を示していたのではないか。
「護衛騎士の責務」
彼女の言葉が、再び心を刺す。主君の身の安全だけでなく、名誉も、立場も守るべきだった。その全てを台無しにしたのは、他ならぬ自分。
窓の外では、雪が降り始めていた。
北方の冬は長い。しかし、アンリの心の冬は、それ以上に果てしない。
監視所の兵士たちが、遠巻きに彼を見る。かつての王太子の護衛騎士。今は、誰からも見放された落ちぶれた貴族の一人。その視線には、憐れみすら含まれていない。
「父上」
アンリは、机の上の手紙を見つめる。伯爵家の当主は、息子の処分を自ら決めた。それが、騎士団の伝統を守るための、苦渋の選択だったことを、アンリは痛いほど理解している。
「本当に申し訳ありませんでした」
しかし、その謝罪が父に届くことはない。伯爵は、既に息子との文通を絶っている。今の自分に、父を呼ぶ資格などないのかもしれない。
剣の稽古場からは、若い兵士たちの声が聞こえてくる。かつて自分は、王都の騎士団で指南役を務めていた。今では、その腕前を披露する機会すら与えられない。
「エレオノール様」
その名を呟いた瞬間、胸が締め付けられる。
彼女は今、王都で政務に携わっているという。その評判は、この辺境の地にまで届いている。冷静な判断力。揺るぎない信念。そして何より、一切ぶれることのない騎士道精神。
自分は、彼女の何を理解していたのだろう。表面的な高貴さしか見ていなかったのではないか。あの時の指摘の一つ一つが、今になって痛いほど胸に響く。
「フィリップ様を、お守りできませんでした」
護衛騎士としての最大の失態。主君を守るどころか、その失脚を招く原因を作ってしまった。今、フィリップは王太子の座を追われ、第二王子が新たな継承者となっている。
そして、シャルロット。
守ると誓った令嬢は、今では誰からも顧みられることはない。自分の愚かな判断が、彼女の人生までも台無しにしてしまった。
再び、凍てつく風が吹き込む。
机の上の手紙が舞い上がり、床に落ちる。アンリは、それを拾い上げようとして立ち止まった。
もう、拾う資格もないのかもしれない。
騎士としての誇り、伯爵家の跡継ぎとしての自覚、王太子の護衛としての責務—。全てを投げ捨てた者に、父からの手紙を手にする権利などないのではないか。
窓の外では、雪が一層激しく降り始めていた。まるで、彼の心を映すかのように。
「時間を、戻せるものなら」
しかし、それは叶わない願い。彼にできることは、ただ、この辺境の地で、自らの過ちを永遠に想い返すことだけ。
エレオノールの最後の言葉が、また胸に突き刺さる。
「騎士道とは、己の感情を制する道」
その言葉こそが、騎士の本質だった。しかし、その理解に至るには、あまりにも遅すぎた。