第一章
王国立学園の卒業式後に開かれた立食パーティーは、春の陽光に照らされた会場に相応しい、華やかな雰囲気に包まれていた。
祝福を受けるべき卒業生たちが中央で歓談に興じ、各国からの賓客たちは壁側で控えめに言葉を交わしていた。表向きには、これ以上ない和やかな光景だった。
エレオノール・ド・サントゥイユは、その光景を静かに見つめていた。幼い頃から、このような場で振る舞うことを学んできた。しかし今日は、どこか空気が違う。胸の奥に、漠然とした不安が広がっていた。
「今年も優秀な卒業生に恵まれましたな」
王国立学園の学園長の言葉に、魔術師団を統べる宮廷魔術師長が静かに頷いた。
この国では十八歳の誕生日を迎え、学園を卒業することで、晴れて成人としての扱いを受ける。
特に今年は、王国中の注目が集まっている。フィリップ・ド・ブルボン王太子と、その婚約者であるエレオノール自身が揃って卒業を迎えるためだ。次代の王太子妃となる彼女の姿を一目見ようと、普段以上の賓客が集まっていた。
エレオノールは、婚約者である王太子の姿を目で追った。
フィリップは離れた場所で、いつもの側近たちと談笑している。
最近、彼は自分から距離を置くようになっていた。
しかし、それを問い質すことはしなかった。一国の后となるべき者として、感情的になることは許されない。
「成人の儀を終えられた皆様に、心よりお祝いを」
宮廷魔術師長の言葉に、新たに成人を迎えた卒業生たちが一斉に会釈する。魔力の波動を帯びた杯が、侍従たちの手によって配られていく。これは単なる祝宴の酒ではない。
成人の証である魔力測定を終えた者だけが口にすることを許される、古より伝わる儀式の象徴でもあった。
エレオノールは、差し出された杯を柔らかな笑顔と共に受け取った。緊張した面持ちで給仕をする侍従の少年に、彼女は穏やかな声で、ありがとう、と告げる。
春風に揺れる淡いブロンドの髪と、赤い薔薇を思わせるドレスが、公爵令嬢としての気品を自然に表していた。
祝宴の杯を口元へと運びかけたその時、背後から声がかけられた。
「エレオノール様、本当におめでとうございます」
振り向けば、そこには隣国の大使館に勤める若き貴族の姿があった。
この国と隣国は、表面上の平和な関係の下で、国境地域での小規模な衝突を繰り返していた。
一瞬、エレオノールの瞳に戸惑いが宿る。しかし、次の瞬間には優雅な微笑みへと変わり、公爵令嬢としての完璧なカーテシーを見せた。自分への言葉一つ一つが持つ意味、そして今この瞬間も多くの視線が自分に注がれていることを、彼女は十分に理解していた。
「誠にありがとうございます。大使館の皆様にも、日頃より大変お世話になっております」
彼女は丁寧に、しかし慎重に言葉を選ぶ。外交の場では些細な言葉が思わぬ波紋を呼ぶことがある。それは祖父から幾度となく聞かされた教えだった。
「陛下のご体調は、いかがですか?」
さりげない問いかけに、エレオノールは一瞬だけ目を伏せる。東の国との緊張が高まる中、この質問には明確な意図が隠されているはずだ。特に、年長というだけで王位継承権を持つフィリップ王太子の立場を考えれば、国王の健康状態は国の安定に直結する。
「陛下におかれましては、至って健やかにいらっしゃいます。ご心配には及びませんこと」
その言葉に、周囲の者たちが耳を傾ける。
やはり、この立食パーティーが始まった瞬間から貴族としての資質を試されているのだと実感する。
「まあ、エレオノール様!」
高めの声が、パーティーの喧騒を突き抜けた。男爵令嬢シャルロット・ド・ラ・モットである。
一年下とはいえ、すでに社交界では頭角を現しつつある存在だ。しかし今日の彼女には、どこか普段とは違う得意げな雰囲気が漂っていた。
その背後から、王太子の護衛騎士、アンリ・ド・モンモランシーが姿を見せる。伯爵家の跡取りでありながら、いつも王太子の傍らを離れない忠実な騎士だった。彼は何かを確かめるように、シャルロットの様子を窺っている。
「シャルロット、そしてアンリ様」
エレオノールが言葉を掛けようとした時、新たな足音が近づいてきた。
女性と目を合わせられない性質で知られる宰相の子息、ルイ・ド・リシュリューである。彼は今日も視線を逸らしたまま、シャルロットの後ろに控えめに立つ。
そして最後に、魔術の教本を手放さない子爵子息、ジャン=マリー・ド・コリニーが加わった。将来の筆頭宮廷魔術師候補とされる彼だが、今は周囲への関心より本の方に夢中のようだ。
エレオノールは彼らの様子を見て、一瞬だけ目を伏せる。かつては、フィリップ王太子と共に、楽しい時間を過ごした仲間たち。しかし今は——。
「シャルロット、皆様。本日は誠におめでとうございます」
感傷は一切見せず、エレオノールは優雅に会釈する。その完璧な立ち居振る舞いに、シャルロットが一瞬たじろぐ。その瞳には、羨望か、あるいは別の感情が浮かんでいた。
「本日は特別な日です。皆様とご一緒できることを、心より嬉しく存じます」
遠巻きに様子を窺う外国の使節たちは、エレオノールの対応に感銘を受けたように見えた。一方でシャルロットは、その優美さに表情を歪める。
最近、彼女の周囲で『エレオノール様は冷たい人』という噂が広がっているのは、偶然ではないのかもしれない。
エレオノールはそれを不問に付してきた。しかし今、この場の空気に何か確かな違和感を感じ取っていた。
その時、会場の空気が一変する。
「本日ここに集いし皆の前で、宣言したいことがある」
フィリップ王太子の声が、魔法で増幅されて響き渡った。宮廷魔術師たちが、思わず眉をひそめる。このような公の場で、許可なく魔法を使用するなど、常識では考えられないことだった。その異常な行動に、エレオノールの心臓が一拍だけ早く打つ。
普段の王太子なら、決してこのような無作法は犯さない。ましてや、国の重鎮や諸外国の使節が集う場で。これは何か重大な宣言の前触れなのか。しかし、その動揺は誰の目にも触れることはない。
ゆっくりと、彼女は王太子の方を向く。
担任教師が、いち早く事態を察したのか、王太子に近づこうとしたが、護衛騎士のアンリが制止の仕草を見せる。担任は一瞬たじろぎ、そのまま風見鶏のように、強い立場の者に従うことを選んだ。
「エレオノール・ド・サントゥイユ」
王太子の視線は、真っ直ぐにエレオノールに向けられていた。その瞳に、かつての優しさを見出すことはできない。
エレオノールは、静かに息を整える。これから起こることは、おそらく——。
「余は汝との婚約を、この場において破棄する」
一瞬、会場が凍りついた。各国の使節たちが、思わず顔を見合わせる。宰相が、一瞬だけ目を見開いた。王家・貴族・平民・奴隷という厳格な身分制度の中で、王太子の婚約者という立場は、単なる縁組以上の意味を持つ。それを、このような場で、この形で破棄するというのは——。
「理由は明白だ。汝は我が愛する者に、理不尽な迫害を行った」
エレオノールは静かに目を閉じた。しかし、その表情には取り乱した様子は微塵も見られない。ただ、深い悲しみの色だけが浮かんでいた。
「私、もう耐えられないんです」
シャルロットが涙ながらに声を上げる。
「エレオノール様は、私が王太子様とお話するたびに、周りの貴族たちに私の悪口を吹き込んでいたんです」
涙を拭いながら、シャルロットは続ける。
「魔術の練習中に、わざと私の方に魔力を飛ばしてきたり……図書館で勉強していると、重たい本が"偶然"落ちてきたり……」
エレオノールは、黙って聞いていた。そのような出来事は一度もなかった。むしろ、シャルロットが魔術の練習に躓いた時は、こっそりアドバイスを残してきたのは自分だった。図書館でも、シャルロットが高い棚の本を取ろうとして危なっかしい姿を見せた時、密かに見守っていたものだ。
「それだけではありません」
シャルロットの声が震える。
「私の髪飾りや、大切な手帳がなくなることもあって……」
檀上には王様とその妃の姿もあった。しかし両陛下は、あまりの事に呆気にとられ、動けずにいた。その表情からは、息子の行動に、王としての威厳さえ忘れた困惑の色が見て取れた。
「王太子殿下のお言葉、重く受け止めさせていただきます」
護衛騎士のアンリが、得意げな表情で一歩前に出る。その姿に、エレオノールは一瞬の既視感を覚えた。以前、剣術の試合で敗れた相手に対して、まったく同じ表情を見せていたのだ。彼にとって、これは単なる勝負事なのかもしれない。
「シャルロット令嬢への虐めは、看過できる事態ではございませんな。私めが護衛騎士として、シャルロット様の安全を今後もお守りすることをここに誓わせていただきます」
その言葉の裏に、エレオノールは別の意図を感じ取った。アンリは、この機に乗じて自身の立場を確固たるものにしようとしているのだ。王太子の信頼を得ることは、すなわち伯爵家の権力基盤を強化することに繋がる。
「そうだ」
ルイが女性陣から目を背けながら続ける。「公爵令嬢という立場を利用して、理不尽な圧力をかけ続けていたのは明白だ。これは早急に対処すべき事態だと進言していたのだが……」
宰相の子息らしい言い回しだった。しかし、彼の声には微かな震えが混じっている。女性を直視できない彼が、このような場で発言すること自体が異常だった。誰かに促されたのか、それとも何かの見返りを約束されたのか。
才能一つで這い上がってきた子爵家の跡取りは、その魔術への自負だけは誰にも譲らなかった。
「シャルロット様のような純真な方を、それも魔術まで使って追い詰めるとは。筆頭魔術師として、このような魔術の悪用は断じて許せません」
まだ候補者に過ぎないのに、既に筆頭魔術師を名乗るその態度には、下級貴族ゆえの焦りが透けて見えた。筆頭宮廷魔術師として、このような魔術の悪用は断じて許せません」
まだ候補者に過ぎないのに、既に筆頭宮廷魔術師を名乗るジャン=マリー。その焦りの裏には、下級貴族である自身の立場への不安が透けて見えた。
三者三様の物言いには、明らかな慇懃無礼さが滲んでいた。しかし、その非難の言葉には明確な証拠が示されていない。外国の大臣が小さく舌打ちをした。一国の王太子となるべき者の側近たちの態度とは思えない。
「王太子殿下」
エレオノールの声が、静かに、しかし確かに響く。その声音には、揺るぎない意志が込められていた。国の将来を見据えた、冷徹な決意。
「ただいまのご発言について、私からお答えさせていただいてもよろしゅうございますでしょうか」
その態度は、どれほどの理不尽な非難を受けようとも、一片の怒りも見せない完璧な礼節そのものだった。今この瞬間にも、エレオノールは『後の世に禍根を残さぬよう』という師の教えを思い返していた。
「証拠など必要ない。ここにいる全ての者が、汝の性質を知っている」
王太子の言葉に、宰相の表情が曇る。シャルロットは、その場にへたり込むように泣き崩れていた。アンリとルイは、得意げな表情を隠さない。ジャン=マリーは相変わらず教本に目を落としたままだ。
「お言葉を賜り、誠にありがとうございます」
エレオノールは、優雅に扇子を開く。彼女の瞳の奥深くに、一瞬だけ何かが宿った。それは悲しみでも怒りでもない、ある種の覚悟のようなものだった。
春の陽光は変わらず明るく差し込んでいるというのに、会場の空気は肌を刺すように冷たくなっていた。彼女の視線が、ゆっくりと会場を見渡す。諸外国の使節たち、国の重臣たち、そして王族たちまでもが、この場に居合わせているのだ。
「殿下。このような場でのご発言には、相応の御覚悟がおありかと存じます」
「な……なにを」
フィリップの声が、反発を含んだ震えを帯びていた。エレオノールは、その様子を見て心の中で小さく息をつく。王太子の器ではないと、幼い頃から感じていた不安が、ついに現実となったのだ。
エレオノールは、最上級の礼儀作法と、公爵令嬢としての威厳を保ちながら、ゆっくりと口を開いた。この瞬間、彼女の心には、国の将来を案じる思いだけが満ちていた。
「では、お話をお聞かせいただけますでしょうか」
その声には、いかなる慇懃無礼さも、皮肉も込められていなかった。ただ、真摯に相手の言葉に耳を傾けようとする、純粋な意思だけが込められていた。そして同時に、これから始まる反撃への、静かな決意が。