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◆第十五話『揺れる心』

 ため息が自然と漏れた。

 誰にも見られることはない。

 聞かれることもない。

 ここには静寂だけが佇んでいる。


 水峰都市オゥバル最上層の地に建てられた城。

 その中の貴賓室にラトカ・クルコシュカは幽閉されていた。


 部屋が部屋だけに瀟洒な装いだ。

 床に敷かれた絨毯は深く沈み込むほど柔らかい。

 整然と配された家具は一目で上質とわかるほどの艶を持っている。


 国の意向に逆らったのだ。

 本来なら牢に入れられてもおかしくない。

 それでも幽閉に留まっているのは巫女だからだ。


 部屋の端におよそ一人用とは思えないほど大きなベッドが置かれている。

 そこにラトカは腰掛けると、自身の腹にそっと手を当てた。


 ここには巫女の証とされる竜印が刻まれている。

 産まれたときよりついていたものだ。

 違和感はない。

 ただ、好きではなかった。


 これさえなければ、ただの人として生きられたのだ。

 ラトカはシーツをきゅっと掴む。

 昔のことを思い出してしまったのだ。


 ――兄ちゃんが竜を倒してラトカを守ってやるよ!


 兄であるクリスの言葉だ。

 そう言い残して、彼は力を得るため貴族の家の養子になった。

 それが始まりだった。


 ラトカは物心ついた頃には親から離され、オゥバルの教会に保護されていた。

 だが、クリスが家を出たのをきっかけに親が押しかけ、罵声を浴びせにきたのだ。


 竜印が刻まれた子に未来はない。

 だから、親にとってはクリスだけがすべてだったのだ。

 そのクリスがラトカのせいで出て行った。

 それが許せなかったらしい。


 お前のせいで。

 お前がいなければ。


 あのときの親の顔は忘れられない。

 だが、もっと忘れられないものがあった。

 ときが経ち、成人して現れたクリスの目だ。


 活力に満ちた過去の姿が嘘のように冷め切っていた。

 ラトカはすべてを悟った。


 兄は……クリスは知ってしまったのだ。

 天蓋竜がどれほど恐ろしい存在であるかを。

 人の剣が届く類の相手ではないことを。


 もしかしたらまだ救われるかもしれない。

 兄の言葉を胸に抱いて、心の中に残していた希望。

 それが崩れ去った瞬間だった。


 そして、ラトカは未来を諦めた。


 ――はずだと思っていた。


 脳裏にある男の姿が浮かんだ。

 数日前、竜の頂にいきなり現れた人。

 ガレンだ。


 おかしな人だった。

 記憶喪失であることを除いても聞いたことのない言葉を口にしていた。

 それに見たことのない魔甲印を使っていた。


 不思議な人でもあった。

 どれだけ窮地に立たされても決して弱気にならない。

 ただひたすらに前を、天を見据えていた。


 まるで大地に根付いた大樹のような揺るがぬ意志を持っていた。

 そんな彼だからこそ発する言葉に力を感じた。

 一緒に行こうと差し出してくれた手を握りたいと感じた。


 ラトカは胸辺りの服を両手できつく握りしめる。

 短い間だが、誰かとあれほど多く話したのは久しぶりだった。

 あんな風に自分を出したのも初めてだった。


 楽しい、と。

 そう思ってしまった。


 彼に会わなければこんな気持ちにはならなかった。

 また生きたいなんて思うことはなかった。


 苦しい。

 痛い。

 どうしてくれるの……。


 気持ちが溢れに溢れていく。

 ついには息が詰まりそうになった、そのとき。

 部屋の扉を叩く音が聞こえた。


 来客だ。

 思考が取り繕う方向で勝手に動きはじめた。


 冷や汗のようなものは残ったままだ。

 体も重い。

 喉も詰まっているような感覚だった。


 一度、ゆっくりと深呼吸をした。

 しっとりとした肌に貼りついた髪をかきあげたのち、応じる。


「どうぞお入り下さい」


 静かに扉が開けられる。

 入室してきた人物を目にし、思わずまぶたを跳ね上げてしまう。

 だが、気取られないようにすぐさま平然を装った。


 クリス・バルバラード。

 《聖騎士》の称号を持つ、オゥバル最強の騎士。

 そして、ラトカの兄でもある人物が目の前に立っている。


「明日の正午に儀式を執り行う」


 淡々とした声で告げられた。

 クリスの顔にも動きはない。


「心構えはできているな?」


 その問いにラトカは答えられなかった。

 少し前なら即座に頷いていたに違いない。

 いまでも頷くべきだという思いはある。

 ただ、体が動こうとはしないのだ。


 訪れたわずかな沈黙。

 その間に、ラトカの中で一つの疑問が膨れ上がる。


「お兄さ……クリス様はわたしが生贄となることをどうお考えですか?」


 一度として訊いたことのないものだった。

 クリスの顔がほんの少しだけ崩れたような気がした。

 いや、本当に気がしただけだったのだろう。

 ひとたび瞬きをすれば変わらず厳しい顔が映っていた。


「お前が贄とならねばオゥバルが滅びる。この地に生きる者すべてが死ぬ。これは仕方のないことだ」


 予想通りの言葉だった。

 だからこそ切ない気持ちで満たされた。

 きっとどこかで裏切って欲しいと思っていたのかもしれない。


「もう一度、訊く。心構えはできているな?」


 付随して、先のクリスの言葉が頭の中でもう一度流れる。

 オゥバルを守るため。

 その理由を出されてはラトカに選択肢はなかった。


「……はい」


 ラトカは頷いた。

 俯いたまま床に敷かれた絨毯を見つめる。

 クリスからの言葉はない。


 聞こえるのは彼が去っていこうとする足音だけだ。

 そのとき、ラトカの中である思いが浮かび上がった。

 とっさに顔を上げ、クリスの背に問いかける。


「あの人は……ガレンさんは無事なのでしょうか」

「……お前の望み通りヴィオラ・エシュモニークのもとで自由を与えている。元気かどうかは知らん」


 クリスが振り向かずに答えた。

 ラトカは思わずほっと息を漏らしてしまう。

 ずっと引っかかっていたものがとれたような気がした。


 それだけわかればいい。

 彼が無事であるのなら。

 いま一度、現実を受け入れることができる。


「望みを叶えた代償。明日に支払ってもらうぞ」


 そう言い残して、クリスは部屋から出て行った。

 扉が閉められると、再び静かなときが訪れる。


 これまでクリスと顔を合わせれば心が乱れることが常だった。

 それが今回は逆に働いたようだ。

 不思議と心が落ちついていた。


 ヴィオラはオゥバルの騎士だ。

 ただ、その扱いは嘱託に近い。

 詳細は知らないが、どこかの国の貴族らしいのだ。


 そんな背景があるため、彼女にはオゥバル騎士は強く出られない。

 ガレンの監視役にヴィオラを選んだのはそれが理由だ。

 ただ、理由はもう一つある。


 数年前に彼女と話したことがあった。

 とても綺麗で優しいお姉さんといった感じだった。

 彼女ならガレンを危ない目に合わせることはない。

 そんな確信があったからだった。


 心の整理はできた。

 もう自分にできることはない。

 窓の外は、すっかり暗くなっている。


 息の詰まる時間を過ごしたからだろうか。

 誘われるようにして窓を開けた。

 ふわっと夜風が入り込んでくる。


 先ほどかいた汗もかすかに残っていたせいか。

 余計にひんやりと冷たく感じた。

 あまりに心地良くて思わず目を閉じてしまう。


「おい、主! たぶんここだ! ここにいるぞ!」


 ふいに明るく可愛らしい声が聞こえた。

 目を開けると、眼前で人の手ほどの小さな光球がふわふわと浮いていた。

 いったいこれはなんなのだろうか。


 よく見ると、少女の姿をしている。

 まるで童話で見たことのある妖精のようだが……。

 目をぱちくりとさせながら、ラトカは妖精らしきものを見つめる。


 と、妖精の奥側に人影が映り込んだ。

 窓枠の大きさはちょうど大人一人分ほど。

 それが影によって埋め尽くされる。


「よっと……どれどれ。お、当たりだ。でかしたぞ、テュール」


 声だけではない。

 少しぼさっとした黒い髪。

 余裕を含んだ目。


 隆々とはしていないが、しっかりとした筋骨。

 その姿も記憶の中と一致する。


 間違いない。

 人影の正体はガレンだ。

 彼は窓枠に体をはめこむと、ふぅと息をついた。


 ラトカは目の前の光景が信じられなくて思わず放心してしまう。

 視界の中、いまもガレンと妖精の会話が続けられている。


「ふふん、もっと褒めてもいいんだぞ」

「あとで気がすむまで褒めてやるよ」

「ボクはしつこいからな。覚悟しておくといい!」

「わかったわかった」


 ガレンの胸ポケットに妖精がすぽんと入る。

 が、二つに結われた長い髪が上手く入りきらなかったようだ。

 髪を引っ張り、今度こそ完全に姿を消してしまう。


 そこでラトカははっとなり、意識を取り戻した。

 ぽつりと疑問を漏らす。


「どうやってここまで……?」

「あ~、壁を伝ってきたんだ」

「壁を伝ってって……ほとんど絶壁じゃないですか。それにここ、城の中でもかなり高いところなのに」

「ま、兵士が沢山いる城内よりはマシだろ」


 ガレンはさらりと言ってのけた。

 ラトカは思わずぽかんと口を開けてしまう。

 あまりに平然としすぎだ。


 混乱している自分のほうがおかしいのでは。

 そんな錯覚に陥りそうになって首を振った。

 訝るように目で問いかける。


「どうしてこんなところに来たんですか? まさかわたしを連れ出しに」

「それも考えた。たぶんいまの俺ならラトカを連れて逃げることはできる。けど、それじゃダメだって。なにも解決しないって、このオゥバルを見て思ったんだ。だから――」


 ガレンが勝ち気な笑みを見せる。


「あのでっけー竜を……天蓋竜を倒すことにした」


 吹き込む風に彼の髪がさらりと揺れた。

 大衆の前で公言すれば間違いなく笑われるような宣言だ。

 だが、不思議と笑うようなことはできなかった。


 彼ならもしかして。

 そんな期待感が湧き上がりはじめる。

 ただ、それは表に出る前に綺麗さっぱり消え去った。

 ラトカは半ば反射的に叫ぶ。


「そんなの無理です!」

「無理じゃない」

「無理です!」


 ラトカは思わず怒鳴ってしまった。

 はっとなって口を閉じる。

 だが、間違ったことは言っていない。


 天蓋竜に勝てる者などいるはずがないのだ。

 長い歴史の中、天蓋竜が空を支配し続けてきた。

 それがなによりの証明だ。


 ガレンが驚いたように目を瞬かせていた。

 かと思うや、ふっと笑みをこぼす。


「相変わらず頑固だな」

「だ、誰が頑固ですかっ」


 そう返すと、彼はまた笑った。

 以前、竜の頂から逃亡したときもそうだ。

 気づけば、彼の持つ独特の空気に呑まれてしまっている。


 ……しっかりしないと。

 ラトカは気を引き締める。

 相反して、ガレンはさらに肩の力を抜いていた。


「ま、天蓋竜を倒すってことを伝えに来たってのもあるんだが、本題はこっちだ。ラトカに改めて訊きたいことがある」

「訊きたいこと、ですか」


 頷いたガレンが話を継ぐ。


「自由になって……生きたいか?」


 ラトカの全身をなにかが駆け抜けていった。

 この目だ。

 どこまでも真っ直ぐで。


 心の奥底にまで届くような、芯の通った意志を宿した目。

 これが、どうしようもなく心を揺さぶってくるのだ。

 ラトカは俯き、服の裾を両手でぎゅっと握りしめた。


「どうしてまた来たんですか……どうしてっ」


 言葉が溢れるように零れていく。

 これ以上、彼と向き合っていたくなかった。

 きっと余計なことまで口にしてしまう。


「……帰って」

「ラトカ」

「帰ってくださいっ!」


 心の中の感情が激しく渦巻いている。

 訪れた沈黙が余計にその動きを浮き彫りにさせる。


「明日、もう一度訊きにくる。そのときに聞かせてくれ……本当の気持ちを」


 前髪がそっと揺れるのを感じた。

 誘われるように顔を上げる。

 そこにはもうガレンはいなかった。

 カーテンだけが静かに揺れている。


 ラトカはその場にへたり込んだ。

 下唇を思い切り噛みながら首を振る。


 せっかく心の整理がついたと思ったのに。

 こんな苦しい思いはもうしたくないのに。

 あの人が現れたせいで、また……。


 開いた窓から夜風が吹き込んでくる。

 これまででもっとも冷えた部屋の中、ラトカは一人涙を流した。



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