第3話:空腹の魔公爵とパンケーキ
廃屋のキッチンは、驚くほど設備が整っていた。
埃を払い、魔導コンロに魔石をセットすると、火がボッと音を立てて灯る。
「よし、火力も十分!」
私は旅行鞄から、商売道具を取り出した。
パティシエにとって命よりも大事な『天空麦』の粉袋だ。
これは浮遊島でしか栽培できない貴重な小麦で、挽くと空気を含んで驚くほど軽くなる。
「今日のメニューは……『森の恵みのスフレパンケーキ』にするわ!」
まずは森の入り口で見つけた『太陽鳥』の卵を割る。
カコン、と殻を叩くと、中から現れたのは夕焼けのように真っ赤な黄身だ。
ボウルに入れると、それだけでほんのりと温かい。
この卵は濃厚なコクと、自然な甘みが特徴なのよね。
白身を泡立て器でシャカシャカと混ぜる。
天空麦の粉と合わせ、空気を抱き込ませるようにさっくりと、優しく。
ジュウゥゥ……。
熱したフライパンに、鞄に入れておいた『白牛』の発酵バターを落とす。
芳醇なミルクの香りが立ち上り、焦がしバターのナッツのような香ばしさが鼻をくすぐる。
そこに、ふわふわの生地をこんもりと高く落とした。
「ここが勝負よ……」
蓋をして蒸し焼きにする。
数分後。
蓋を開けた瞬間、ボフッ! と甘い湯気が顔を直撃した。
「わあ……っ!」
素晴らしい膨らみ具合だ。
厚さ5センチはあろうかという生地が、ふるふると揺れている。
まるで赤ちゃんのほっぺたみたい。
私はそれを皿に移すと、仕上げに取り掛かった。
フライパンに残ったバターに、砕いた『鋼胡桃』を放り込む。
殻が鋼鉄のように硬いこの胡桃は、中の実が恐ろしくクリーミーなのだ。
そこへ、先ほど命がけで採取した『魔蜜蜂のゴールデンハニー』を、惜しげもなく回し入れる。
ジュワワァァーッ!!
黄金色の蜜が熱せられ、泡立ち、キッチン中が濃厚なキャラメルの香りで満たされた。
甘く、焦げた匂いが食欲中枢を直接殴ってくる。
「完成……! 特製、ハニーナッツソース!」
私は熱々のソースを、スフレパンケーキの上からたっぷりと掛けた。
とろりとした黄金の滝が、白いパンケーキを覆い尽くし、皿の上へと流れ落ちていく。
バターの塩気を含んだ蜜の輝き。
湯気と共に立ち昇る、暴力的なまでの甘い誘惑。
「い、いただきます……!」
フォークを手に取った、その時だった。
――ドォォン!!
廃屋の扉が、何者かに蹴破られた。
「ヒッ!?」
飛び込んできたのは、夜の闇そのものを纏ったような長身の男だった。
ボロボロの黒いマント。
整ってはいるが、血の気がなく青白い顔。
そして、その瞳は血走っており、ギラギラと飢えた獣のように光っていた。
「……匂うぞ」
男の声は、地を這うような低い唸り声だった。
「俺の渇きを刺激する……極上の、匂いだ……」
彼はふらつく足取りで、しかし恐ろしい速さで私に――いいえ、私のパンケーキに詰め寄ってきた。
全身から放たれる殺気に、私は腰が抜けそうになる。
この黒髪、この禍々しい魔力……まさか、噂に聞く『魔公爵』ジークフリート様!?
「よ、寄らないでください! 私はただ、料理を……」
「よこせ」
彼は私の手首を掴むと、問答無用で皿を引き寄せた。
マナーもへったくれもない。
彼は素手で、焼きたてのパンケーキを鷲掴みにしようとしたのだ。
「ああっ、熱いですってば!」
私は咄嗟にフォークを突き出し、彼の口元へ運んだ。
やけくそだった。
このままでは私の最高傑作が、手で握りつぶされて台無しになってしまう!
「食べるなら、ちゃんとお行儀よく食べてください! はい、あーん!」
「……む?」
彼は虚を突かれたように目を見開き、反射的に口を開けた。
そこへ、たっぷりとソースが絡んだパンケーキの一切れを放り込む。
瞬間。
時間が止まった。
口に入れた瞬間、天空麦の生地は淡雪のようにシュワリと溶けて消える。
あとに残るのは、濃厚な卵の風味と、焦がしバターのコク。
そして何より、『ゴールデンハニー』の強烈な甘み。
カリカリにキャラメリゼされた『鋼胡桃』が、食感のアクセントとなって弾ける。
熱々の甘露が、喉を焼きながら胃袋へと落ちていく。
「…………ッ!!」
魔公爵の瞳が、驚愕に見開かれた。
「……味が、する」
「え?」
彼は震える手で私の手首を掴んだまま、信じられないものを見るように私を見つめた。
「砂じゃない……灰でもない……。甘い……これが、甘いという感覚か……?」
彼の瞳から、殺気が消えていく。
代わりに浮かんだのは、子供のような純粋な感動と、底なしの渇望。
「もっとだ。もっと……俺に食わせろ!!」
「ちょ、ちょっと待って! ペースが早すぎます!」
彼は私の手ごとフォークを操り、次々とパンケーキを口に運んでいく。
一口食べるごとに、彼の青白かった頬に赤みが差していくのがわかった。
枯渇していた魔力が、食事によって急速に満たされていくのだ。
喉を鳴らして飲み込む音が、静かなキッチンに響く。
「うまい……。なんだこれは。口の中で溶ける……胡桃が香ばしい……」
彼は夢中で咀嚼し、最後には皿に残った黄金色のソースまで、行儀悪く指ですくって舐めとった。
その表情は、先ほどの怪物のような形相とは別人のように、とろけていた。
恍惚。
まさにその言葉がふさわしい。
「……ふぅ」
完食した彼は、満足げなため息を漏らし、ようやく私を見た。
その瞳は、獲物を見る肉食獣のそれだった。
ただし、「殺意」ではなく、別の意味で。
「お前、名は?」
「……レティシアです。通りすがりの、パティシエですが」
「レティシアか」
彼は私の顔を覗き込み、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
その野性的な色気に、心臓が跳ねる。
「逃がさんぞ。お前の料理だけが、俺の『呪い』を満たせるらしい」
「は、はい?」
「契約だ、レティシア。俺の専属料理人になれ。報酬は望むだけやる。城も、金も、地位も……」
彼は私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。
甘い蜂蜜の香りが、彼の吐息から漂ってくる。
「俺の胃袋と、この狂いそうな飢餓感を……責任を持って満たしてもらおうか」
どうやら私は、とんでもない相手の胃袋を掴んでしまったようだ。
逃げようにも、腰に回された腕は鋼鉄のように固く、絶対に離してくれそうになかった。




