第4話:契約は甘い口づけのあとに
「俺の専属になれ」
至近距離で囁かれた言葉に、私の思考はフリーズした。
目の前にいるのは、王弟にして『魔公爵』と恐れられるジークフリート様。
その彼が、まるで迷子の子供が母親にすがるような、切実な瞳で私を見つめている。
「あの……恐れ入りますが、閣下。少し離れていただけませんか?」
「駄目だ。離したら、この甘い香りが消えてしまいそうでな」
彼は私の肩に顔を埋め、くん、と鼻を鳴らした。
くすぐったさと、彼の体温の高さにドキリとする。
「俺は『暴食』の呪いを受けている。代償として、味覚を失った。何を食べても、泥と砂利を噛んでいるような味しかしない」
「泥と……砂利……?」
料理人として、それは想像を絶する地獄だ。
食べる喜びを知らないなんて。
「だが、お前の料理は違った。あれは……奇跡だ」
彼は私の手を取り、指先に残っていたパンケーキのソースを愛おしそうに見つめた。
「確認させてくれ。これが本当に『料理』のおかげなのか、それとも……」
彼はテーブルの上に残っていた『プリズムベリー』を一粒、無造作に掴み取った。
さっき私がマカロンに使った残りだ。
そのまま口に放り込む。
ガリッ、と硬い音がした。
「……やはりな」
彼は不快そうに顔を歪め、吐き捨てた。
「俺が自ら口に運ぶと、ただの石ころの味だ。……レティシア、今度はそのベリーを、お前の手で俺に食わせてみろ」
「えっ? でも、同じ実ですよ?」
「いいから、早く」
急かされ、私は恐る恐るプリズムベリーを一粒摘んだ。
七色に光るその実は、薄皮の中にたっぷりの果汁を湛えている。
彼の唇に、そっと押し当てる。
「……あーん」
彼は躊躇なく、私の指ごと実を口に含んだ。
プチンッ。
口の中で果実が弾ける音が、指先を通して伝わってくる。
「ん……ッ」
彼の喉が大きく動いた。
閉じた瞼が震え、長い睫毛が影を落とす。
「……甘い」
吐息混じりの声が漏れた。
「弾けた瞬間に、爽やかな酸味が広がる。まるで初夏の風のようだ……。そして後から、濃厚な蜜の甘さが舌を包み込む」
彼は私の手首を掴んだまま、恍惚の表情で続ける。
「果汁が喉を潤す感覚……ああ、生き返るようだ」
どうやら私の手から直接食べることで、彼の呪いが一時的に中和され、本来の味が届くらしい。
そんな条件があるなんて。
「分かったか? 俺にはお前が必要なんだ」
彼はゆっくりと目を開き、私の指先を見つめた。
そこには、果汁と、先ほどのパンケーキのハニーソースが少し付着していた。
「……デザートが、まだ残っているな」
「え?」
次の瞬間。
彼は私の人差し指を、パクッ、と咥え込んだ。
「ひゃっ!?」
熱く湿った舌が、指に絡みつく。
ザラリとした舌触りと、吸い付くような動き。
ちゅっ、ちゅぷ……。
彼は指についた甘い雫を、一滴残らず舐め取っていく。
まるで、最高級のキャンディを味わうかのように、丁寧に、執拗に。
背筋にゾクゾクとした電流が走る。
これは……恥ずかしすぎる!
「ん……ご馳走様」
ようやく口を離すと、彼は妖艶に唇を舐めた。
その仕草があまりにも色っぽくて、私は顔が沸騰しそうだ。
「契約成立だな、レティシア」
「け、契約って……まだ返事をしてません!」
「断ると言うのか? 俺の城には、王家御用達の食材ルートがあるぞ」
「……えっ」
私の動きがピタリと止まる。
「北の氷河でしか採れない『スノーホワイト・カカオ』、南の火山島にある『火竜の卵』……。市場には出回らないSランク食材が、倉庫に山ほど眠っている」
悪魔の囁きだ。
そんなもの、パティシエなら喉から手が出るほど欲しいに決まっている。
「しかも、設備は最新鋭だ。魔導オーブンは三台、冷却庫も完備している。……どうだ?」
彼はニヤリと笑った。
その笑顔は、お腹を空かせた狼そのものだったが、今の私には魅力的な提案者にしか見えなかった。
希少食材使い放題。
最新設備完備。
そして、私の料理をこんなにも美味しそうに食べてくれる(ちょっと手のかかる)顧客。
……断る理由が、見つからない。
「……本当に、好きなだけ使っていいんですね?」
「ああ。その代わり、俺の飢えを完全に満たしてみせろ」
「望むところですわ!」
私は拳を握りしめた。
パティシエの魂に火がついたのだ。
「貴方のその呪い、私のスイーツでねじ伏せてご覧に入れます!」
「ふッ……頼もしいな。それでこそ俺の『餌付け役』だ」
ジークフリート様は満足げに頷くと、軽々と私を横抱きにした。
「きゃっ!?」
「さあ、城へ行くぞ。腹が減って死にそうだ。次はもっと重い……そうだな、ガトーショコラでも作ってもらおうか」
「ちょ、歩けますってば!」
「離さんと言っただろう」
こうして私は、魔公爵様の専属パティシエとして(兼、抱き枕のような扱いで)、彼のお城へと連れ去られることになったのだった。
腕の中で揺られながら、私はこれから出会う未知の食材たちに思いを馳せる。
……まあ、この偏食家の野獣を餌付けするのも、悪くないかもしれない。
彼の体からは、不思議と甘いスパイスのような香りがして、私はこっそりと胸の高鳴りを覚えるのだった。




