第14話:陥落するプライドと夜空の味
「食ってみろ」
ジークフリート様の低い声が、呪いのようにクラウディオ様の耳にこびりつく。
彼の目の前には、漆黒に輝く『星降る夜のオペラ』。
漂ってくるのは、焦がしたキャラメルのような甘苦い香りと、濃厚なバターの香りだ。
それは、長らく「水と空気」だけで生きてきた彼の胃袋を、容赦なく刺激した。
(……毒だ。これは毒物だ!)
クラウディオ様は必死に自分に言い聞かせる。
しかし、震える手が勝手にフォークを握りしめていた。
(一口だけだ。一口食べて、「なんて不味いんだ」と吐き捨ててやればいい。そうすれば、僕の正義は証明される!)
彼はフォークを突き刺した。
スッ……。
幾重にも重なった層が、抵抗なく切れていく感触が手に伝わる。
スポンジにはシロップがたっぷりと染み込んでいるようで、断面からジュワリと黒い滴が滲んだ。
彼は意を決して、その一口を口に放り込んだ。
パクッ。
一瞬の静寂。
そして――。
「ん、んぐぅ……ッ!?」
クラウディオ様が目を見開き、口元を押さえた。
吐き出そうとしたのではない。
あまりの衝撃に、言葉を失ったのだ。
口に入れた瞬間、『天の川バター』を使ったクリームが、舌の熱で瞬時に溶け出した。
こっくりとした重厚なコク。
まるで上質なシルクを舌に巻き付けたような滑らかさ。
そこに、『真夜中の珈琲豆』から抽出したシロップが、洪水の如く溢れ出してくる。
強烈な苦味が、バターの甘さをキリッと引き締め、鼻腔へと芳醇な香りを送り込む。
さらに、表面の『彗星チョコ』のグラサージュが、ねっとりと全体をまとめ上げる。
ザクッ。
底に敷かれたフィヤンティーヌ(薄焼きクレープ)が砕ける音が、脳内に響く。
とろけるクリームの中で、唯一のサクサクとした食感が、強烈なアクセントとなって理性を揺さぶる。
(な、なんだこれは……!?)
苦いのに、甘い。
重いのに、軽い。
相反する要素が、口の中で奇跡的なバランスで踊っている。
「……う、美味い……?」
クラウディオ様の口から、信じられない言葉が漏れた。
一度認めてしまえば、もう止まらなかった。
彼の体は飢えていたのだ。
本当の栄養に。本当の「味」に。
「なんだ、この深みは……! 泥のような味ではない、これは……夜空だ! 星空を食べているようだ!」
彼は二口目、三口目と、猛烈な勢いでケーキを口に運び始めた。
もはやフォークなどまどろっこしいと言わんばかりに、皿を手に持ち、かき込むように食べる。
「クラウディオ様……?」
隣でミナ(彼女も既に完食し、二皿目を狙っていた)が呆気に取られている。
「うおおおっ! 甘い! 苦い! 美味いッ!」
口の周りをチョコだらけにし、涙を流しながら食べる元婚約者。
その姿は、「霞を食う妖精」ではなく、「飢えた亡者」そのものだった。
「ふん。……いい食べっぷりじゃないか」
ジークフリート様が冷ややかに、しかしどこか満足げに笑った。
「どうだ、レティシア。これが、お前の菓子が『毒』ではないという何よりの証明だ」
会場中の視線が、一心不乱にケーキを貪るクラウディオ様に集まっている。
「毒だ」と騒いでいた本人が、誰よりもその味に魅了されているのだから、これ以上の皮肉はない。
私は少しだけ、彼が哀れに思えた。
でも、それ以上に誇らしかった。
私の作ったお菓子が、頑なだった彼の心を(物理的に)ねじ伏せたのだから。
「……お粗末さまでした」
私は静かに頭を下げた。
◇
## 第15話:魔公爵の勝利宣言
皿まで舐め回しそうな勢いで完食したクラウディオ様は、ハッと我に返った。
「はっ……! 僕は、何を……!」
口の周りについたチョコの甘い余韻が、現実を突きつけてくる。
周囲の貴族たちが、ヒソヒソと笑っているのが見えた。
「あんなにガツガツ食べて……」
「やっぱり我慢できなかったのね」
「パティスリー・リュヌのお菓子、本当に魔性だわ」
クラウディオ様の顔が、土気色から真っ赤に変わる。
「ち、違う! これは……その、罠だ! 幻覚魔法か何かがかかっていたに違いない!」
彼はまだ往生際悪く叫んだ。
「僕の高貴な舌が、こんな庶民の菓子を美味いと感じるはずがないんだ!」
「……まだ言うか」
ジークフリート様が一歩踏み出しただけで、その場に重圧がかかる。
ビリビリと空気が震え、クラウディオ様が腰を抜かしてへたり込んだ。
「認めろ。お前は負けたんだ。レティシアの才能に。そして、お前自身の欲望にな」
ジークフリート様は私の肩を抱き寄せ、会場全体に見せつけるように宣言した。
「このレティシア・ベルガモットは、我がグランヴェル公爵家の『至宝』だ。彼女の菓子を侮辱する者は、この俺が許さん」
そして、私に向かって甘く微笑む。
「……よくやったな、レティシア。最高の見世物だったぞ」
「ジークフリート様こそ……あんなに煽るなんて、性格が悪いです」
「褒め言葉として受け取っておこう」
彼は私の手を取り、甲に口づけを落とした。
その姿は、まさにお伽噺の王子様(ただし魔王属性強め)だった。
会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こる。
それは、私たちが社交界に「最強のカップル」として認められた瞬間でもあった。
「く、くそぉぉぉ……!!」
クラウディオ様は床を叩いて悔しがった。
その横で、ミナが冷めた目で見下ろしていることにも気づかずに。
「……ねえ、クラウディオ様」
ミナがポツリと呟いた。
「もう帰りましょうかぁ。私、なんだか疲れちゃいましたぁ」
「ミ、ミナ……? ああ、そうだな。君だけが僕の味方だ……」
ミナは内心で舌打ちをしていた。
(チッ、使えない男。もうこいつから絞れるものはないわね。……でも、あのケーキは本当に美味しかった。なんとかして、あのお店の権利とか奪えないかしら?)
彼女の瞳の奥に、怪しい光が宿る。
レティシアへの逆恨みと、あの美味しいお菓子への執着が、新たなトラブルを招こうとしていた。
◇
騒動の後。
私たちはバルコニーで夜風に当たっていた。
「……疲れました」
私が手すりにもたれかかると、ジークフリート様が後ろから包み込むように抱きしめてきた。
「よくやった。今日は特別に甘やかしてやる」
「甘やかすって……また何か食べさせる気ですか?」
「それもいいが……」
彼はポケットから、小さな小瓶を取り出した。
中には、キラキラと輝く金色の液体が入っている。
「これは?」
「『天使の涙』だ。飲むと疲労が一瞬で吹き飛ぶと言われる、希少なリキュールだ」
「へぇ、そんなものが……」
「だが、そのまま飲むのは味気ない」
彼は瓶の蓋を開け、その液体を自分の口に含んだ。
そして、私の顎を指で持ち上げる。
「……んッ!?」
唇が重なる。
熱い舌と共に、甘くてトロリとした液体が、私の口の中へと流れ込んできた。
カッ! と喉が熱くなる。
まるで蜂蜜とブランデーを煮詰めたような、濃厚な甘さと芳香が脳を揺さぶる。
アルコールの刺激と、彼のキスの熱で、頭がくらくらする。
「ん……ぷはっ」
ようやく唇が離れると、銀の糸が引いた。
ジークフリート様は、潤んだ瞳で私を見つめ、ニヤリと笑った。
「……デザートは、やっぱりお前が一番だな」
私の顔は、きっと『火竜の卵』みたいに真っ赤になっているに違いない。
王都の夜は、まだまだ甘く、更けていくのだった。




