その六
目覚めた時、まだ外は暗かった。
あのテニラケスニーカーを捨てなかったのは私なのか!
私自身がボロボロの靴なのに、新しい紙にくるんで綺麗な箱に入れて押入れにしまったのか!
テニラケスニーカーの言葉に昔を思い返していたら、次第に記憶がよみがえってきた。
そうだった。私だ。私があの靴を捨てなかったのだ。
十年以上経たっていたから、押入れから出してきた時の箱も、靴をくるんでいた紙もシミだらけで薄茶色にくすんでいたが、押入れにしまったときにはどちらも真っ白だった。あの靴の最初の色のように……
捨てられなかったのだ。当時の私には大切な思い出の一部だったから。
テニラケスニーカーは友達と遊ぶ時によく履いていたし、両親と出掛けた動物園や遊園地へも履いて行った。お盆とお正月には祖父母の家へも。
あの頃の私の楽しい思い出のほとんどにテニラケスニーカーは結び付いていたのだ。
あの頃、あんなに大事にしていた思い出をすっかり忘れていたなんて……
「ありがとう」
夢で聞こえたテニラケスニーカーの涙声が甦った。
テニラケスニーカーがお礼を言ってくるとは思っていなかった。
お礼を言わないといけないのは私の方ではないのか?
もしもあのテニラケスニーカーを履いていなかったら、年末に痣どころではない大怪我をして新年を病院で迎えていたかもしれない。
本当に春日君達がよからぬことを企んでいたのなら、テニラケスニーカーを履いていなかったら、のこのこと三人についていって、新年早々嫌な目にあっていたのかもしれない。
本当のところはわからない。
けれど、このまま、あの、自分の役に立ちたかったという、白く甦った靴を棄てていいのか。そんな気持ちが込み上げてきた。
「股関節や膝に全く負担がかからない」私に「ぴったり合った」靴。
どうやら靴で苦労したらしい春日君は、そんな風に言ってテニラケスニーカーを褒めた。そんな靴が欲しいという顔つきだった。
私はなかなか手に入れることのできないものを手に入れていたのだ。
……テニラケスニーカーは、身体に合った靴というだけだろうか?
もうあの靴と夢で会話することはない。そう思うと、胸が苦しくなった。布団の中にいるのに、急に寒くなった。
むくりと布団から抜け出し、急いで着替えて私は再びマンションのゴミ捨て場へと向かった。
東の空が白み始めていたが、まだ日は昇っていなかった。ゴミ捨て場の街灯がついている。
そんな夜明け前にも関わらず、大きなマンションだから、ゴミ捨て場はほぼ満杯だった。
昨夜私が捨てに来たごみ袋は、他のごみ袋に埋もれて見あたらない。
仕方なく私は一つ一つごみ袋を確かめながらゴミ捨て場の入り口に退け、テニラケスニーカーを入れた我が家のごみ袋を探した。
十個くらいごみ袋を退けた時に声が聞こえた。
「何してるんです?」
振り向くと、やや丸顔気味のいかにも人のよさげな男性が立っていた。たぶん黒のダウンジャケットにおそらくグレーのチノパン、スニーカーにリュックを背負ったカジュアルな出で立ちだ。年齢は二十代半ばくらいに見えた。朝帰りらしい。
私は恥ずかしさに一気に顔が熱くなった。
しかしここは下手に言い訳しても始まらない。
「あの、大事なものを誤ってごみ袋に入れて捨てたことに気づいて……」
作業を続けながら、私は答えた。
「その目当てのごみ袋、一目でわかる特徴あります?」
なんでそんなことを訊くのだと思いながら、私は答えた。
「たぶん上の方に、これくらいの大きさの黒いビニール袋が入ってます」
「これくらいの」で、手で大きさを示した。
「それが捨てちゃいけないものだったんですね?」
そういうと、その男性は私がやっていたように、ごみ袋の様子を一つ一つ確認しつつ、入り口へと退けていった。
「あのぉ……」
私は戸惑っていた。
「これだけの量だ。一人では大変ですよ。二人で手分けしたら、半分の時間で済む」
男性は振り向くと、微笑んでそう言った。私は心臓が踊るのを感じた。
なんて優しい素敵な笑顔だろう。
真顔は春日君のようなハンサム顔ではない。けれど、その笑顔には強く惹きつけられる魅力があった。
「ありがたいですけど、お時間いいんですか?」
私は作業を再開しながら、訊ねた。
「思わぬ夜勤から帰ってきたところです。帰って寝るだけだから、大丈夫。そちらこそ、大丈夫ですか?」
そうか、夜勤明けか、夜通し遊んでたわけじゃないんだと思いながら、私は答えた。
「大学はまだ冬休みですから」
「学生さんか~」
羨ましそうな口調だった。
それからは二人で黙々とごみ袋を確認した。時々「これは?」と男性が黒い袋の入ったごみ袋を確認してきた。
その間に三人、ゴミを捨てに来たマンションの住人がいた。
私はダウンのフードを深く被り、顔がばれないようにしていたのだが、三人には「ちょっと探し物してまして……もうすぐ見つかると思うんですが……あ、もちろん入り口に置いたごみ袋は元に戻しますよ」と、気を利かせてか、男性が答えてくれた。
肝心のごみ袋がなかなかな見つからない。
私が置いた記憶のある辺りになかったのだ。
誰かが動かしたか、次々に置かれるごみ袋で場所が変わってしまったらしい。
私は焦り始めた。
「これかな?」
男性の声に期待を込めて私は振り向いた。
男性が手に持つ四十五リットルの袋には見覚えのある黒いビニール袋が入っていた。靴の形を型どって四角い。その周りのゴミにも覚えがある。
「そ、それです!それです!ありがとうございます!!」
私はそのゴミ袋を飛びつくように受け取った。
私の様子にまた男性は笑顔を見せた。そしてゴミ捨て場の外を指差した。
「あっちで大事なものを取り出してください。その間に除けたゴミ袋を戻しておきますから」
男性は言い終える前にもう入り口に置いたごみ袋を再びゴミ捨て場の奥へと積み上げ始めた。
「ありがとうございます。ホントに助かります」
私はペコペコと礼をしてから、我が家のごみ袋を下げてゴミ捨て場の外へ出た。
そこで一つ深呼吸してからごみ袋の口開けに取りかかった。しっかり締めたから、なかなかほどけない。
やっとほどけて中から黒いビニール袋を取り出した時、袋が震えた。そう思ったが、震えたのは私の手だったかもしれない。
ビニール袋の上からあのテニラケスニーカーが入っていることを確かめる。
ビニール袋もしっかりと口を閉じてあるし、手伝ってくれた男性の前で出すのは恥ずかしかった。
それよりもごみ袋を戻すのが先だと、テニラケスニーカーが入った袋は脇に抱え、私は再度口を縛った我が家のごみ袋と入り口に置いたごみ袋一つを下げてゴミ捨て場の奥へと持っていった。
私がテニラケスニーカーを取り出しているうちに、男性はテキパキと除けたごみ袋の大半を元のように積み上げていた。
「あとは私だけでできますから」
入り口にあと数個となったごみ袋のうちの二つを手に取りながら私が言った。
「ここまで来たら、二人でやってしまいましょう。あと六つだ」
ごみ袋を元の状態よりも高く積み上げ終えたところで、私は改めて男性に礼を言った。
「たいしたことじゃありませんよ。命に関わらないことだったし」
男性はまたあの笑顔を見せた。
「……命に関わることに関わってらっしゃるんですか?」
後から考えると変な言い回しである。
「ええ、まぁ……」
「あ、お名前を教えてください。そのうち改めてお礼に伺います」
「改めてお礼されるようなことじゃないですよ。困った時はお互い様。たまたま僕が通りかかったのがあなたの幸運でしたね」
男性は先ほどまでとは違う、茶目っ気を感じる笑顔を見せた。それから「それじゃ」という一言と共に片手を上げ、朝日に向かってマンションへと歩いて行った。
明るくなってみれば、男性が着ていたダウンは確かに黒だったけども、履いていたのはグレーではなくベージュのチノパンだった。
そんな些細な見間違いを気にしている場合ではない。
後をつけて何号室の住人か突き止めるべきか。
しかし、それはあまりに怪しい。
*次回、最終回です。