その五
瑠莉が目配せし、春日君越しに素早く私に耳打ちしてきた。
「春日君、膝と股関節を痛めたのが治らなくてバレーを辞めたの」
そうなんだ……怪我の原因は合わない靴を履いていたからだと思ったのだろうか。
「この靴、たまたま私の足に合ったんだと思う。詳しいことは言いたくないんだけど、貰い物なの。どこで買ったかは知らない。デザインはアレだけど、歩きやすいし、走りやすいし、それでそのぉ……」
そこまで言ったときに救急車が到着した。
連れの二人が病院へ付いていくことで馨子は話をつけていた。
「それで良いでしょ?そもそもはあなたが驚かせたのが原因なんだから。肩であっても女の子に後ろから急に触るもんじゃないわよ」
馨子はきっぱりした口調で言った。
春日君は「良いよ」、「その通りだ」と短く答えた。そのときの諦めきった雰囲気が私は少し気になった。同時に春日君は馨子が好きなのではないかということが、突然頭に閃いた。
私の見るところ、馨子は昔も今も春日君をなんとも思っていない。
あんなにモテる春日君が片思いとは!
世の中、なかなかうまくいかないものである。
脳震盪を起こした可能性があるとあっては、救急隊員も慎重だ。
視界の状況や聴覚を確認されてから、春日君はストレッチャーに乗せられ、救急車内へ運ばれていった。
些細な「良いこと」なんか、大きな悪いことで吹っ飛んでしまう。
三人ともカラオケはもちろん、カメダコーヒーへ行く気も失せていた。
瑠莉が言い出して、三人は神社へ取って返し、今度は春日君のための参拝をした。
私は脳震盪を起こしていないように、だけでなく、彼に合った靴が見つかり、股関節や膝の怪我が治って再びバレーで活躍できることも祈った。
欲張りだったかもしれない。
春日君の容体は連れの一人から馨子に連絡が入る手筈になっていた。
その夜、脳震盪は軽度で済んでいたという馨子からのL○NEがあり、私は心から安堵した。念のため一日か二日入院するという。
短期間だし、そもそもは向こうが悪いのだから見舞いに行く必要はないと馨子からも瑠莉からも言われたが、退院後にでも一言お詫びに行かないといけないと思った。
家に帰ってからも考えれば考えるほど、私はテニラケスニーカーに腹が立ってきた。私がテニラケスニーカーを履いて行かなければ、あんな騒ぎは起こらなかったのだ。
夢でテニラケスニーカーを問い詰めてやると思った。
「春日とかいう中学の同級生のことは気にすることないから」
のっけから、テニラケスニーカーは靴裏を見せた大きな態度でのたまわった。
「気にするな?気にせずにいられないでしょ!幸い軽かったから良かったけど、もしもひどい脳震盪を起こしてたらと思うと、ゾッとするよ!良いことなんかちっともなかった!あんたの言うことを信じた私がバカだった!せっかくのお正月の、楽しみにしていた日だったのに……」
私は夢のなかで涙をこらえた。
「あんたなんか、もう二度と履かない!」
「あんなスケコマシ、あれくらいのめにあってちょうどいいの。これで目が覚めたと思うな~。あいつら、よからぬことを考えてたのよ。だから、あれは当然の酬い。気にすることないのよ。馨子ちゃんがいたから、あたしがいなくてもなんとかくぐり抜けたかもしれないけど、瑠璃ちゃんがスケコマシにほのじだから、危ないと思って防いだの」
スケコマシとは、もともとは幼児向けスニーカーだったとは思えない言葉を吐いたものである。
「なんでそんなことわかるの!」
「あたしはなんでもお見通し」
人だったら、平手打ちしていた。……と思う。
残念ながら、この巨大なスニーカーは、私の平手打ちなんか毛ほども感じないだろう。
私の怒りは気にせず、テニラケスニーカーは自慢げに続けた。
「運命の出会いがあったでしょ。そのお膳立てにもなったんだから」
「は?!」
戯言もほどほどにしろ、である。
「『運命の出会い』じゃなくて、『運命の別れ』でしょ。なに都合の良いこと言ってんの!」
腹が立つ一方である。
「ええ~、あの救急隊員にマジで気がつかなかったの?鈍いなぁ」
「春日君のことが心配で救急隊員なんか覚えてないよ!」
私の堪忍袋の尾が切れる寸前だった。
「春日君よりあんたにずーっとお似合いの人だよ~。自分があんな男前のアスリート系とは合わないって、わかってるでしょ」
あんたに言われたくない!
それがその時の私の気持ちだった。
「今日の救急隊員となんか二度と会わないよ。『運命の出会い』なもんか!」
四人いた救急隊員の一人として顔を覚えていなかった私には、テニラケスニーカーの勝手な思い込みとしか思えない。
「勝手にひとの人生決めないでよね!」
何か言い返してくると思ったのに、テニラケスニーカーは沈黙した。
捨てる。新年最初のゴミの日に捨ててやる!
決意を固めたところで、目が覚めた。
春日君が退院したというL○NEが翌日の午後にあった。大事に至らなくてよかったと、私は心から安堵した。
その夕方、私は翌朝のゴミ収集に出すため、決死の覚悟で三和土に置いたままのテニラケスニーカー捕縛に取りかかった。
意外や、意外。あっさりとテニラケスニーカーを掴むことができた。
まずは黒いビニール袋に入れて口を縛ってから、市の指定ごみ袋に入れた。指定ゴミ袋の口もしっかりと縛った。
ほんの少し心が傷んだが、このときもまだ怒りの方が強かった。
本当は翌朝に出さないといけないのだが、どんな技を隠しているかわからないテニラケスニーカーなので、ゴミ袋から抜け出してきては困ると、私は夜中にマンションのゴミ捨て場へ持っていった。
丸一週間収集がなかったから、どこの家庭もゴミがたまっていたと見え、ゴミ捨て場は早くも半分以上埋まっていた。
これで厄介払いできたという気持ちで私は家に戻った。
ひょっとしたら、怒り狂ったテニラケスニーカーが夢に出てくるかもしれない。
玄関のドアを明けるとき、ようやくそんな可能性に気づいた。しかしもう後戻りしない。
その夜、いつもよりは寝つきが悪かったが、そのうち眠りに落ちていた。
誰かが暗闇の中でしくしくと泣いている。
「これでさよならね。長い間、ありがとう」
テニラケスニーカーの声だけが聞こえた。
ありがとう???
「あたしのこと、すごく大切にしてくれて嬉しかったの。ボロボロになったあたしを、お母さんは捨てようとしたのに、あんたはもう履けないけど大好きな靴だから、もう少しだけ置いておくって、まっさらの紙にくるんで、綺麗な箱に入れて、押入れにしまってくれた。嬉しかった~!!!だから、もしも、もう一度箱から出してもらえた時には、役に立ちたかったの。助けたかったの。だって、あたしもあんたのこと大好きだから……」
またしくしくと圧し殺した鳴き声が聞こえた。
「あんたに嫌われたら、あたしはもうこんな風に夢でも話しかけることはできない。これが最後……あの救急隊員とはまた会えるから。今度はきっと心に何か響くはずよ」
そう言っている間にテニラケスニーカーの声は小さくなっていった。




