その四
「うわっ」と思わず色気も嗜みもない声が出た。
私はとっさに背もたれを掴み、なんとか通路に倒れこむのを防いだ。
冷や汗が全身から出た。
この前、アスファルトに一瞬貼り付いたように、今度は靴裏がレストランの床にぺったりと張り付いている。
よりによって、こんなときに……
馨子にも瑠莉にも、春日君にも、春日君の二人の連れにも、なにやってるんだろうと思われたに違いない。顔が熱くなった。頭が真っ白になってしまい、言い訳が思いつかない。
「ごめん、先に行ってて」
なんとか声を絞り出した。
この前と違って、靴はなかなか床から離れない。
テニラケスニーカーめ~、よくも~っ!
「貧血?」
隣に座っていた馨子が心配そうな顔で訊いてきた。ということは、私が動かないと彼女も動けないが、そんな戸惑いや苛立ちは全く見えなかった。
ああ!持つべき者は友だ!幼馴染みだ!
馨子の気遣いと思い付いてくれた原因に私は泣きそうになったくらい感謝した。
「……かもしれない。少しじっとしてたら治るから」
「食べた直後に貧血?」
瑠莉が怪訝そうに言う。
「食べた直後は胃の周辺に血液が集まるから、体調によっては急に立ち上がった時に起こったりするよ」
さすが馨子だ。ありがとう!
本当は全然違うけど、そういうことにしておいてもらおう。
私は恥ずかしさと貧血を装うため、テーブルに突っ伏した。
「瑠莉、会計済ませてきてくれる?あとで割り勘しよう。春日君達は先にカラオケ行ってて。合流できそうなら、する」
馨子は瑠璃に指示して、見事に春日君達も追っ払った。
その間、私はそっと足を動かして靴の貼り付き具合をみていた。春日君達が出入口へ向かって間もなく、靴は床からペロリと剥がれた。
テニラケスニーカーめ……わかりやすい……
突っ伏していたテーブルから顔をあげると、馨子がやはり心配そうに私を見ていた。
「大丈夫?」
「ありがと。治ったみたい。ごめんね、心配かけて……」
「よかった」
ほっとした顔を見せたあとに馨子は笑顔になった。
「私の方も礼を言わないといけないかも」
「えっ?」
「あの連中と一緒に行かなくてよくなったから」
やはり馨子はあの連中とカラオケに行くのは嫌だったのだ。瑠璃は反対に怒ってるんじゃなかろうか……
そこへ会計を済ませた瑠莉が戻ってきた。
私は瑠莉を観察した。機嫌を損ねている風はない。
「治ったの?もう大丈夫?」
うんと私は頷き、瑠莉にも心配かけたねと謝った。
「気にしない、気にしない」
馨子は私にそう言ってから、瑠璃に向いた。
「瑠莉はあの連中と一緒に行きたかったみたいだけど、私は確信してる。絶対、嫌な目にあうって。連れの二人の目つきが悪すぎるよ」
瑠莉は馨子の言葉に肩を落とした。
「わかってる。わかってたよ。春日君、なんであんな人達とつるんでるんだろ」
私は連れの二人の目つきがそんなに悪いとは気がついていなかった。なんとなく気が合いそうにない気はしたが。
テニラケスニーカーは、連れの二人に反応したのだろうか?
「これからどうする?ボンカラは春日君達がいるよ?」
「ボンカラ以外にもカラオケはあるじゃない。喫茶店へ行っても良いし」
「え?!また食べるの?」
「喫茶店いこーるケーキセットなんだなぁ、瑠莉は」
「飲み物だけだともったいない気がするもん」
二人の後腐れのない会話に私は安心した。
再び立ち上がった時には、もちろんテニラケスニーカーはちゃんと床を離れて足についてきた。
……良いことあるからって、どこが?
落胆しながら、私は馨子、瑠莉に続いてレストランを出た。直後に馨子が立ち止まり、瑠莉も立ち止まったから、私は二人にぶつかってしまった。
「どうしたの?」
二人の間から前を見たら、そこに春日君達三人が立っていた。
なるほど、春日君の二人の連れの目つきは嫌な感じだ。
「そんなに時間かからないんじゃないかと思って待ってたんだ」
チッという馨子の舌打ちが聞こえた。……気がした。
「待ってもらってて悪いけど、私たち、ボンカラじゃなくて、カメダコーヒーへ行くことにしたの。じゃね」
とりつくしまのない雰囲気で馨子が言った。
「カメダかぁ」
春日君の口調はいかにも残念そうだった。さすがに一緒にカメダへ行くとは言わなかった。
カメダコーヒーとボンカラではレストランの前で道が分かれる。
じゃね、とあっさりした別れの挨拶で馨子はレストランから南へと歩き始めた。
瑠莉は少し未練を残し、最後に春日君を見つめての「またね」で歩き始め、私はさらりと三人の顔色を伺いながら軽く会釈して馨子、瑠莉の後について歩き始めた。
すると、数歩あるいたところで後ろから右肩を掴まれた。
ぎょっとして振り向くと春日君がすぐ後ろにいた。
顔だけでなく、身体全体を後ろに向けようとしたら、靴がまた動かなかった!!!
そのため私は春日君にもたれかかった……なら良かったのだが、私の頭頂部が春日君の顎にヒットしてしまった!
見事に顎を横から殴った格好だった。
私の石頭がかなり痛かった。
春日君が殴られたように半身で倒れるのが横目で見えた。いや、実際私の頭で顎を殴られたのだ。
私はというと、直後に靴が道路から離れただけでなく勝手に動いたので、道に倒れこむことはなかった。……が、混乱した頭で靴が動くままに動かした後で、置いた足の下の異常を認識した。
柔らかい。変だ。アスファルトではない。
足元を見ると、テニラケスニーカーを履いた右足が春日君のお腹の上にあった。
「ぎょえ~っ」と、またしても色気も嗜みもない声をあげて私はテニラケスニーカーを春日君のお腹から退けた。
一瞬のことだが、一瞬のことだったと思うが、おもいっきり体重をかけていた。
「春日君、大丈夫?」
私はしゃがんで春日君に触れた。つい揺さぶろうとしたのを、横から手が延びてきて止めた。馨子の手だった。
「揺すってはダメ。道に倒れた時にかなり強く頭打ちつけたから、脳震盪起こしたかも。救急車を呼ぼう。脳震盪は怖いから……」
どうして馨子はいつも冷静で的確な対応をとれるんだろう?
私は半泣きだった。
テニラケスニーカーめ~!!!
恐る恐る瑠莉の顔を見上げると、口許を両手で覆い、涙ぐんでいた。春日君に駆け寄りたかったろうが、おそらく馨子が止めたのだ。
春日君の二人の連れも思わぬ展開に顔色が青白い。
馨子はスマホを取り出して119にかけると、的確な説明をして電話を切った。
救急車が到着するまでの間、私はただ気を失った春日君の傍に跪いていた。
瑠莉も反対側に座り込んで心配そうに春日君を見ていた。
馨子と春日君の二人の連れは、野次馬を遠ざける交通整理をしていた。もちろん馨子の指図である。
「ごめん。ごめんね、瑠莉」
私は瑠莉に謝らずにいられなかった。
「謝る相手が違うよ。あたしじゃなく春日君に謝って」
私は頷いた。
「意識が戻ったら、謝る」
ちっとも良いことないじゃないか!!!
私はテニラケスニーカーの「良いことあるから」を信じたことを悔やんだ。
テニラケスニーカーを脱いで踏み潰し、ゴミ箱に捨てたい気分だった。
しばらくして春日君が目を開けた。
私はほっとしたが、「春日君、気がついた」という瑠莉の声に、馨子がすぐに声をかけてきた。
「そのままじっとしてるように言って。もうすぐ救急車が来るから」
「大袈裟だよ」
春日君が起き上がろうとするのを私と瑠莉が止めた。
「脳震盪起こしたかもしれないって」
春日君の目は焦点が合ってないように見えた。
「ごめんね。まさかこんなことになるなんて……」
私は深く頭を下げて謝った。
「いや、こっちこそ驚かせてごめん。具合悪くなってたのが、ちょっと気になってさ。靴と……」
えっ?!靴が気になった?!
私の全身が強張った。
「シンプルでなんの変哲もなさげなスニーカーだけど、歩き始めたのを見たら、まっすぐに足が動いてて、驚いたんだ。靴が足をまっすぐに支えている。膝や股関節に負担がかからない歩きで、靴がこれ以上ないくらい合ってるからだと思った。それで、そんな靴、どこで手に入れたのかなって……たまたま合っただけかもしれないけど……」
私はテニラケスニーカーの高笑いを聞いた気がした。
「良いことある」って、テニラケスニーカー自身にとって、だったのか?!