第36話「人間に期待なんて」
食事の支度も済み、全員が席に着く。包丁で食べやすい幅に切り分け、皿に盛っていく。野菜がないせいで彩りに欠けるが、とヤオヒメは残念そうだった。
エスタたちにはそんな事など微塵も気にならなかったが。
「ソースがあるからかけて食うんじゃ。美味いぞ」
小皿に分けた真っ黒のどろっとしたソースも彼女の私物だ。小さな異空間を持ち、自分の思い通りに出し入れができる倉庫のようなもので、千年経っても異空間の時間は止まっているため古くなったものはひとつもない。
「ねえねえ、ヤオヒメって料理できるの意外だったんだけど。あんたって人間めちゃくちゃ嫌いじゃなかったっけ?」
「てめえとは違って長生きなんでのう。ガキは黙って食ってろ」
一瞬だけムッとしたルヴィだが、ひと口食べるとそんな苛立ちも口の中の油と一緒に溶けて消えた。甘辛なソースとの相性抜群の味に加えて、ザクザクした食感と、蕩けるような柔らかさの肉に目をきらきらさせる。
「っ……んまい! あんた何これ、最高じゃない!」
「フッ、じゃろう? 味わって食え、今日が最後かもしれんぞ」
「アハハ! アタシたちより強い奴なんていねえーっての!」
鼻で笑うルヴィだったが、本人も含めてフロレント以外は全員が理解している。食卓を囲むのも、笑い合って言葉を交わすのも、いつ終わるか分からない。魔族とはそういう生き方をしていくものだから。
昨日は笑って、今日は嗤って。生かして、殺して。魔界に帰ればなおさらに、強くなりたければ当然のように。手料理を振舞う事もなければ振舞われる事もないのだ。勿体ないと誰もが思いつつ、しかし決して今に縋ろうとはしなかった。
「俺たちも馬鹿になったらしい」
シャクラが、ぽつりと呟く。誰も彼の言葉を聞きはしなかった。独りで、一人で。戦うばかりが生きる目的で、それこそが退屈しない最善で、他に必要ないと思っていたのに。
今が勿体ないと感じて楽しんでいる自分が嫌いになりそうだった。
「ぬう……。うまくいかぬものだな、生きるというのは。こうも美味いものを食っていると、魔界に帰るのが嫌になる。人間界で暮らすのもありかもしれん」
エスタが遠慮なくムシャムシャ食べて、口端のソースを指で拭う。
「だが今は没頭などしておれぬな。契約者よ、そろそろ例の話を進めよう。この食事が終わったら即座に帝都へ向かうのであろう?」
「なんじゃ、もう行くんか。随分と急いでおるのう」
そうは言いながらも、皆が分かっている。ゴグマがいないのだ。
パンをひと齧りしてシャクラはフッと馬鹿らしくて笑いが漏れた。
「そんな事だろうと思っていたが、敵に付いたか」
「封印を解かれてたのよ、他の魔族にね」
千年を超えて封印を解く魔族が現れたのだとしても、なんら不思議な事はない。ゴグマがそうして裏切る可能性も十分にあった話だ。クレールの封印を壊せるほどの魔族が敵である事は想定していなくともすんなり受け入れた。
「じゃあさ~。ちゃっちゃと帝国行っちゃう?」
「そうしたいのは山々なんだけど……先にお願いが」
帝国へ行ってゴグマを含めた魔族を討ち、ゾロモド帝国が健在であるのならそれもまた敵とみなす。だが、その前に必要な事があった。
「シャクラ、あなたに頼めるかしら」
「なんだ? 帝国へ行く以外にやるべき事なのか?」
「ええ。ルバルスまで行って現状を伝えてほしいの」
ルバルスは事情を知るところにある。ゾロモド帝国が既にまともな状況にない事を彼らに伝え、そのついでに彼らと共に同盟国らにも事態の把握をしてもらう必要がある。アドワーズ皇国復興の足掛かりとするために。
「私たちの事を知ってもらうには見てもらう方が早いわ。ハシス陛下なら、きっと私が行くより上手くやってくれるはずよ」
「わかった。ではメシも済んだ、俺は先に行くとしようか」
先に席を立って結界の外へ出る。瞬間的な移動にもそれなりの衝撃が伴う。食事の邪魔をしては、いくら今は仲間といえども喧嘩が起きるのはフロレントのために避けなくてはならなかった。
「退屈な仕事だ。どれくらい掛かると思う?」
「私には分からないわ。話がうまく纏まればいいけど」
「……やれやれ。俺だけ後で合流は退屈だな」
「フフ、でも私のために行ってくれるんでしょう?」
「あの小僧の言う事もきちんと聞くさ。では頑張れよ」
光となって消えたのを、ルヴィが「あいつ丸くなった?」と驚く。誰かの言葉に従ったりなど考えられない姿だった。
「変わるもんじゃのう。この小娘の事がよほど気に入っとるのか」
「貴公にもそのうち分かる。クレールより現実主義的ではあるが、」
最後のひと口を味わい、フロレントを見つめる。
「いまだ曇りなき心が創ろうという未来のために私は力を尽くしたい。おそらくシャクラも、この者の血が何を成すかを見届けたいのだろう」
「下らんのう。……俺様は人間になぞ期待するかよ、馬鹿馬鹿しい」
隣に座るフロレントが腹立たしい。エスタの言葉通り、彼女は黒い感情を持ちながら、それが大きく膨れる瞬間が、兆候がまるでない。驕りもなく、彼女の中には常々未来への期待と不安が渦巻いている。
(多くの力を従えてなお、まるで闇の中に立って光を眺めるか。幸福を足下から全て浚われたから? なんにせよ、欲のない娘だ。憎しみはあっても嫌悪がない。奪われた悲哀はあれど心を焼き尽くす怒りがない。……駄目だ、期待するな。俺様はもう人間など信じないと決めたではないか)
目を逸らし、心の声を聞かないように塞ぎ込む。こんな人間いるはずがない。善人であれどいずれは欲に目がくらんで、手にした力の大きさを知って、必ず裏切る時がくるはずだ、と。
「……少し風に当たってくるとするかのう」
「わかったわ。片付けは私がしておくから任せて」
「アタシもちょっと散歩してもいい?」
「ええ。こっちの用が済んだら呼びに行くから」
とくにあてもなく歩いていくヤオヒメの背中を、ルヴィが追いかけていった。




