10/29 うん、約束
10/29 日曜日 PM4:11
冷えで目が覚めた。そしてどこか残念ながら、ここはどこ? 私は誰? とも思わない。ここはさっき来た砂浜で、俺は25歳無職の岸本アキラだ。睡眠が浅かったせいか、前回記憶を失ってから時間が経っていないからか、なんにせよ俺は俺のままだった。
バカバカしい。帰るか。そう、思った時だった。
「おにいさん、なにしてるの?」
不意に、芝居かかった声をかけられた。振り返ってみると、そこにはブーツを履いたニットワンピースの女がいた。冬、いや秋服か。なんだか新鮮に思えた。新鮮? なんでそう思う?
ショートカットの彼女は、穏やかな表情のまま後ろに手を組んで、砂浜を降りてきた。
「……別に何もしてないです。休憩?」
「二時間も?」
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。なんで俺が二時間前からここにいたことを……ああ、そうか。『まるで記憶にはないけど』この人が、翼さんか。あのメッセージのやりとりからわざわざここまで来るとはなんなんだろう。もしかして俺のこと好きだったりするのか?
「いいだろ別に。俺はこうして天下国家のことを思案してるんだよ。見えない釣り針をたらしてんだよ」
驚くほどスムーズに言葉が出た。しかも俺は初対面の女性にこういう風にぞんざいな口を利くタイプでもないのに。
「あはは、なにそれ?」
「太公望だよ。中国の古典は面白いぜ」
「ふーん」
変わらず軽口を叩く俺に彼女は小さく相槌を打った。そして俺のすぐ後ろまでくると、よっと、とかいって砂浜にしゃがんだ。ニットワンピは丈が短めで、それで膝を抱えてしゃがみ込んでいる。俺はそのすぐ前で寝転がっているため……
「パンツ見えそうだけど」
「ほほう。私のパンツ、みたいの?」
「当たり前だろ」
俺のストレートな発言に、翼さんは、子どもみたいにへへへ、と笑った。冗談だとでも思っているのかもしれない。なわけねぇだろ。こっちは大人の欲望全開での発言だぞ。あともしよかったら本当にみせてくれ。
「はい。あげる」
そう言って翼さんが差し出したのはもちろんパンツではなく、缶入りのホットティーだった。冷たくなっていた俺の頬に、ぴたりとくっつけてくる。
「あちっ、あちーよ」
いやマジで熱いから。
「今日はバイクなんだね」
「暇だったもんで」
それだけの会話が終わると、お互いに黙って紅茶を飲んだ。いやなんなのこれ。どうすればいいわけ?
「……田中さんから聞いたよ。アキラくん、小説やめちゃうの?」
彼女は俺のほうではなく、海のほうを向いて問いかけてきた。寒いせいか、少し声が震えている。
ああ、それか。この人は見た感じ良い人そうだけど、本当にいい人なんだろうな、と思えた。わざわざ心配してきてくれたってわけか。ここは冷静に答えるとしよう。
「まあね。そろそろ潮時かと思って。厳しい世界だし、いつまでも続けられるようなことじゃないからな。俺まだ若いし。なんか仕事探すよ。公務員とか、リーマンとか」
そんな仕事が俺に出来るわけがないが、翼さんは俺の障害について知らない。だからこれで十分だろう。
「そっか」
小さな声だった。どこか悲しげで、でもとても優しい響きだ。
「おう」
それだけ。そしてまた少し沈黙。
「ちょっと前に、締切が近くて頑張ってるって言ってたよね。あれは?」
その話は、したくなかった。
「書き終わったよ。でもダメになった」
俺がポツリと呟くと、彼女は海の方から俺へと顔を向けた。とても真剣な顔をしているけど、それがどういう感情によるものか、俺にはわからなかった。
「アキラくんは、その小説読んだの?」
「当たり前だろ。書いたの俺だぜ。書きながら何回も読み直してるよ」
俺は嘘をついた。小説本文どころか、無駄な苦労を重ねて作ったらしいプロットにさえ目を通していない。どんな話なのかも知らない。
「そうじゃなくて。書き終わった後、最初から最後まで、全部、ちゃんと読んだ?」
この人は何が言いたいんだろう。何故そんな泣きそうな目をしているんだろう。
「……いや」
「ダメだよ」
きっぱりした言葉だった。口調は穏やかだし、責めるようなニュアンスもない柔らかな声だ。でも強い意志が込められている気がした。
「わたし、アキラくんが本当に頑張ってたこと、知ってるよ。ずっと、すごいなぁ、って、わたしも頑張らないとなぁ、って思ってた。だから、ちゃんと読んであげなきゃ。そうじゃないと……」
彼女は言葉を詰まらせた。膝を抱えたままで俯いている。なにを言いたいのかわからない。なにを言ったらいいのかわからない。
少し待って、風と波の音が数回聞いたあとで、翼さんは囁くように呟いた。
「そうじゃないと……可哀そうだよ」
膝は抱えたまま、でも顔だけはあげて俺の目を見つめていた。大きな彼女の瞳は濡れたようで。目をそらしたくなったが、何故だかそらすことができない。
意味が分からない。可哀想とはどういうことだ? 誰が? なにが? 書いたやつが? それは君の目の前にいる俺で、俺がそれでいいと思っているのに?
でも、俺は彼女の言葉を否定できなかった。初対面の女の、わけのわからない願い。なのにその願いはまるで透明な雫のようで。。
「……わかった。とりあえず、読むだけは読んでみる」
気が付けば、俺はそう口にしていた。
困惑したままで答えた俺だったが、彼女はそんな俺に言葉に微笑んでくれた。何度も頷く翼さんの、泣いているようなその微笑みは俺のなかにある柔らかい部分を疼かせる。
「うん。約束」
「……あいよ」
「私、待ってるから」
「あいよ」
俺は田中さんの口癖を真似た。誰かを真似たり下手なジョークを飛ばしたりするのは、自分の感情を隠したい時の俺のクセだ。ハードボイルドが聞いてあきれる。
でも約束は守ろうと思う。いろんなものを失って、もうこの先になにもない俺だけど、こんな女の子との約束くらい、守れる男でありたいと思うから。




