8/28 やっぱりサウナはいい
8/28 月曜日 PM4:20
木のいい香りが漂う室内に座る全裸の男が5人。
一番奥の最上段に座っている中年男性には見覚えがある。ということは、彼は二年以上前からここに通っているのだろう。一番熱くなるあの席に慣れた様子で座っていることも踏まえて考えても、彼がトッププロサウナーであることは明白だった。
入口に近いあたりの一段目に腰かけている大学生くらいの二人組は、やっべ、まじやっべ、と連呼しているが……ああ、もう出るのか。あれはサウナーではないな。体験入門だ。
で、残りの二人。つまり俺と修はその空間のちょうど真ん中あたりの二段目で汗を流している。まあ、セミプロの域には達しているんじゃないかと思う。
ちなみにサウナーっていうのは、サウナを愛し楽しむ人たちの俗称である。
「ふう……」
「はあ……」
五分ほどは粘りたい。サウナ室は十分に体を温めて、粘度のないサラサラの汗が出た段階ででるのが一番なのだ。
それにしてもあのオッサン、俺たちより前から入ってるよな。すげぇ。とか思ってたら彼は立ち上がりサウナ室をあとにした。あの貫禄からすると、流れるように水風呂に直行するのだろう。
「そういえばさ」
サウナ室の中に二人しかいなくなったからか、修が口を開いた。
「あん?」
「この前のあれ、どうだった? 映画観に行ったんでしょ」
ああ、あれな。サウナ内では時々こうした無駄話で時間を潰すことがある。俺は顔の汗を拭いながら答えた。
あちぃな。
「なかなか意外性があったっていうか、変わった女みたいだぜ」
引継ぎに書いてあったことを話す。そのあと小説の描写に活かしていて、わりと筆が乗っていることもあわせて。
あちぃ、そろそろキツイ。
「ふーん。たしかに、ちょっと面白い子だね」
「おう。お前は? フィンランド人の彼女とはどうなんだ?」
「あー。それ、もう引継ぎに書いてあったのか。まあ順調だよ。明日も会う予定あるし」
「どっか行くのか?」
「東北。っていっても学会があるからだけどね」
修は俺の知らない間に、いや違うか、俺は忘れてしまったけど、最近気になる女が出来て、無事その女と付き合うことになったらしい。留学で日本に来ているフィンランド人なのだそうだ。
それにしても熱いな。
俺はそのフィンランド人を写真でみたことはあるらしい。金髪で儚げで天使のような美女だったと、ほかならぬ俺自身が書いていた。
それにしてもコイツ、本人が優男系のイケメンで科学者でスポーツも出来て、服のセンスとかもいいらしく、おまけにそんな彼女がいるとかなんだそれは。どこに向かってんだよ神にでもなるつもりかよ。
おっと。落ち着け。深呼吸だ。
すう、はあ。修の学会の予定を耳で聞きながら、呼吸器官には熱風が吹き込んでいくのがわかる。体内すらも熱い。室内に充満する木の香りとハーブのアロマは心地よいが、熱い。暑いっていうか熱い。
修のほうにちらりと視線を向けてみる。モデルのようにスラリとした体形に甘いマスク。濡れている髪は汗のはずなのに、水も滴るなんたら、っていう慣用句が頭に浮かんでしまった。
しかし腹筋は俺の方が割れてる。そうとも、とりあえずそれで。
「……ちょっと話戻るけどさ、アキラ」
「なんだよ」
「アキラはその子、えっと、翼ちゃんのことが好きなんじゃないの?」
「はあ?」
何言ってんだコイツ。そんなわけないだろ。そう思ったのでそのまま答える。
「そんなわけないだろ」
「なんで?」
「俺はその女の顔を今思い出せもしないんだぜ。仮にこのスーパー銭湯の休憩室で偶然出くわしたとしても、気づきもしないかもしれない」
『引継ぎ』と彼女をモデルにしたらしい小説の描写のおかげで、大体の特徴や俺との距離感はなんとなく把握しているが、それだけだ。そんな女にどうやって惚れられるというのか。
「毎回初対面だぜ。俺が一目惚れとかすると思うか?」
「いや、アキラはしないだろうね」
「だろ」
修は俺の過去における女性遍歴を知っている。と言っても、それほどたいした話ではない。
大学生のとき、俺は二人の女性と付き合ったことがある。どっちも、相手の方から好意を持ってくれて、まあ付き合い、それなりの進展があり、しかし相手の方から別れを切り出された。
俺は人並みにスケベ野郎だが、女の子自体は好きではないのかもしれない。と気づいたのもそのときくらいだ。性欲はあるが、恋愛欲求はない、とでもいえばいいだろうか。
女と話してもあまり面白くないし、やたらとこちらのリードが期待されるし、理屈が通じず、牛丼屋に行ったら不満を持たれ、趣味が合うこともほぼない。そしてメシを食うのが遅く、買い物は長く、女心とやらを理解する必要もあり、要するに一緒に行動すると面倒くさいのだ。
女を見て可愛いとか美人だとか思うことはあるが、実際問題親しくなりたいかと言われるとちょっと微妙。
理想を言えば、特定の恋人がいるよりも、その都度遊べた方がいい。
うん。いい感じに最低である。だから女性の描写が下手なんだ、多分。
もっと言えば、依頼主のミステリアスな美女の命を救ったことで惚れられて、短くも激しいロマンスが週替わりに展開されるのが理想だ。もっとも、俺は60年代のアメリカの私立探偵でもなければ、90年代に新宿に住んでいたもっこり自慢のスイーパーでもないので、無理な話だ。
そんなわけで、俺はそもそも恋愛というものが苦手だ。そんな俺が、こんな状態で一目惚れなどするわけがない。
しかし、修はまたしても妙なことを言った。
「いや、だからさ。一目惚れじゃないんじゃない? 実際は何回か会ってるわけだし」
「覚えてねぇのに?」
「それは脳だけの話だろ?」
修は腕の筋を伸ばすストレッチをしつつ呟いた。表情を見るに、冗談や適当を言っているわけではないらしい。
「そりゃ脳だけの話だと思うけどそれがなんだよ」
「んー。例えばさ、臓器移植を受けた人の趣味や嗜好が変わったって話、聞いたことない?」
なんか急に話が飛んだ。そして一瞬ついていけなかった。これは俺も熱さで限界が近いようだ。
しかし、少し考えてみると修の言わんとしていることがわかった。
何かで読んだが、こういうことが世の中にはあるらしい。
ある男が臓器移植を受けた。もともとその男はベジタリアンだったが、臓器移植後はフライドチキンが大好きになった。あとから分かったことだが、この男に臓器を提供した人物の好物はフライドチキンだった。
つまり、臓器が記憶していた。というような話だ。これを踏まえて修の言いたいことを先取りしてみる。
「ああ。あるよ。もしかして、脳は覚えてなくても、心臓は恋を覚えてる、的な話か?」
「さすが作家。よくそんなキザなフレーズを即座に思いつくね」
「うるせぇ」
「はは。まあ、心臓なのかどうかはわからないけど、本人が意識できない部分で何かを覚えてるってことはありえなくはないと俺は思うよ」
「それはないんじゃねぇの」
「例えばさ、今のアキラに『毎日、酒を飲もうとするたびに電流を流し続ける』っていう実験を繰り返したら、電流を覚えてなくても酒見たら震えるようになったりするんじゃないかな」
「さすがは科学者。よくそんな残酷な実験を即座に思いつくぜ」
「ははは」
「ところで修」
「うん」
「お先に」
「いや俺も出るよ」
俺と修は、ローストされた体と湯豆腐のようにグラつく頭に限界を覚え、サウナ室のドアを開けた。
ここのスーパー銭湯のサウナは露天エリアにあるため、サウナ室を一歩出ると外気がダイレクトに体に当たる。
これが超気持ちい。超。
「あー……」
思わず爺さんみたいな声を上げてしまった。湯気が立つ体にあたる風は心地よく、なんでもない空気のはずなのに、まるで高原のそれのように爽やかに感じる。
間髪入れずに冷水のシャワーを浴びて汗を流すと水風呂に突入。
「おー……」
ここの水風呂は14℃。肩まで浸かってバシャバシャと顔も洗う。ヒンヤリと冷たい感触が火照りきった体に染みわたっていく。急に思考がクリアになり、悟りでも得られてしまいそうな閃きが……。
「あ」
思いついたかもしれん。
「ふう。やっぱり水風呂はいいよねー……。あれ、アキラ? どうかした?」
「待て。なんか浮かびそうな気配が」
「おっ。小説の?」
「……」
悪いけどちょっと無視。修は俺が時々そういうことがあるやつなのをわかっているので、俺に話しかけるのはやめて、ただ水風呂を楽しんでいた。
あれだ。まずはあれをこうするだろ。そしたら最初らへんで書いたあそこが伏線になるだろ。で、こうするだろ。そうすると今までの描写が全部ひっくり返るだろ。そこでアイツにこういう台詞言わせるだろ。二章前のあそこのところで読者はこう思いこんでるから、気づかないだろ。そんで……。
いいかもしれない。執筆中のあの小説のクライマックス。トリックを仕掛けた大どんでん返しを入れようと思っていたあそこ。イマイチ驚きが足りない、もっとインパクトのある仕掛けをかましたい、熊川さんには言われており、俺もそうしたいと思いながらも悩んでいたあそこ。
そこを突破するとっかかりが掴めた気がする。まだアイディアと呼べるほどはっきりしたものではない小さな火花に過ぎない思い付き。でも、これを火種として練り上げれば、大きな炎になるかもしれない。
「いけそうだ……!」
「へぇ、良かったじゃん」
やっぱりサウナはよい。一種のトランス状態に入れるという説があるだけのことはある。
よし、もう二三回サウナと水風呂往復して、少し考えを整理したら、いつも持ち歩いている手帳に書き留めて、家に帰ったらPCにも保存しておくとしよう。
それにしても、たった一日で前向性健忘を受け入れ、そのうえこれを思いつくとは俺結構すごくねぇか。これ読んだ明日の俺は、多分驚くぜ。




