8/5 きっと、それだけだ
8/5 土曜日 PM10:15
帰宅した俺はシャワーを浴びて酔いを醒ますとPCを立ち上げた。今日は焼き鳥が旨かったのにも関わらず、酒を控えめにしたのはこの作業のためだ。
「さて……と」
カタカタ、と書き始める。『引継ぎ』には今日のデート? のことを簡潔にまとめ、次に原稿のファイルを開く。
今日書くのは、クオリティを上げる必要がある女性キャラクターのシーンだ。
俺はこのキャラクターのモデルとして、翼さんを使うことに決めていた。まんま書くわけではなく、ニュアンスとして香る、という程度だけど。
こうするメリットは二つある。一つは、実在の女性である翼さんの仕草や言動をとりいれることでキャラにリアリティをもたらすこと。
そしてもう一つは、明日以降の俺が彼女をモデルとしたキャラクターの描写を読むことで、翼さんの個性や雰囲気、俺との距離感などをなんとなく理解できるようになる、ということ。
小説が好きな人ならわかるかもしれないが、登場人物には親近感がわくものだ。まるで実在するように、その人物の人間性がわかる。好きになったり、嫌いになったりできる。たいして長くもないただの文書の羅列なのに、息遣いや匂いまで感じるような気がする。
俺の小説にそこまでの描写力があるのかどうかはわからないけど、なにしろ読むのは俺なので、ある程度補正されて感じることが出来るはずだ。
これが、昨日までの俺から出されていた宿題。
前向性健忘を患って後に知り合った人物である翼さんとは、修や日向のようには付き合えない。毎回初対面で、概要のような情報しか引き継がれていない人物と普通に会話をするのはかなり難しいからだ。
だから、小説に書く。眠れば彼女のことを忘れてしまうから、目覚めた朝にこれを読む。再会したときには、描写から感じられた彼女のイメージを頼りにする。彼女と接したときに『前回』との差からおかしな反応をされるかもしれない、という問題はこれでリスクが軽減されるはずだ。
編集の熊川さんから指摘されていた女性キャラクターの描写力改善と合わせ、一石二鳥のプランと言えるだろう。過去の俺は、よく考えている。
カタカタ。カタカタ。
無言で、ただ書き続ける。今日一緒に過ごした彼女のことを思い出し、書く。
一番に思い浮かぶのは笑っている顔。くしゃっとしたり、ケラケラしたり、ニコニコしたり。こんなに思い出せるってことは、多分、翼さんが浮かべている表情で一番多いのは、笑顔なんだろう。
レバーが苦手なくせに、何故か俺から一口だけもらってやっぱり泣きそうになった瞳。
コモドオオトカゲに目を輝かせていた横顔。
その辺からもインスピレーションをもらい、参考にして、書く。
カタカタ。カタカタ。
別れ際には、また遊ぼうねー、ばいばーい、と子供みたいに手を振っていた。
カタカタ。カタカタ。
それにしても、意外と変な女だったな。カフェで働いてる美人だし、パティシエールなんて横文字な仕事を志しているオシャレなパスタ民かと思ったのに、あれはないよな。
思い出すと笑えて来る。カフェではわりと洗練された物腰とのことで、デザート作りの腕もいいらしいけど、親しくなってくるとおかしなところが見えてくる。
今日初めて見たときは、俺とは遠いタイプが来たと思ったし、きっと最初に会った時もそう思ったと思う。けど。
カタカタ。
俺からすれば初対面だけど、彼女からすれば何回か会っている俺。
彼女は、俺が今日の記憶を失ってしまうことを知らない。
カタカタ。カタカタ、カタカタ。
「眠いな……」
ぼやきつつも、俺は手を止めなかった。もうすぐ俺は眠って、今日を忘れてしまう。
だから、書きたかった。不思議と筆が進み、スラスラと書ける。眠いけど、まだ眠りたくない。
なんでだろう?
いや、わかってる。それはきっと、今日得た経験を忘れてしまう前に最大に活かすべきだという作家としての使命感。そして前向性健忘患者としての、焦燥感。
きっと、それだけだ。きっと。