7/6 ギムレットには早すぎるからハイボールにしとけ
7/6 木曜日 PM9:57
行きつけのバー、『ボーディーズ』。そこのマスターである田中さんは30歳と若いが、実は三代目のマスターであり、この店自体は老舗だ。たしか35年前からやっていると聞いたことがある。
オーセンティックな雰囲気の店内はカウンターが7席とソファのボックス席が二つ。俺がいつも座るのはカウンターだけど、今日はボックス席にいた。何故かと言うと同行者が二人いるからだ。
「おお……、なんか大人の店って感じじゃん。お兄」
「いいよね。ここ。俺も久しぶりに来たけど、田中さん変わってないなぁ」
同行者、日向と修は店内を軽く見渡し、楽しそうにしていた。今日は木曜日なので日向が来ており、バーに行ってみたいとうるさかった。ちょうど同じタイミングで修からも連絡が来たので、こうして三人でやってきたというわけだ。
「にしても、修さんってやっぱりカッコいいですよね。それにオシャレだし。お兄も見習ったら?」
「ありがとう。日向ちゃんは大人っぽくなったね」
日向は久しぶりに会った修の爽やかイケメンっぷりにはしゃいでいた。そして修はイケメンと呼ばれてもサラリとお礼を言えるのがマジすごい。
ちなみに二人が会うのは俺の記憶によると二年ぶり、だから実際には四年ぶりだ。
大学の夏休みに俺の地元に修が遊びに来た時以来だと思う。
「うるせぇよ日向。それに俺はオシャレだ。このショートブーツとダメージジーンズがいくらすると思ってんだよ」
「もう夏だよ。年がら年中同じような恰好してるし古臭いよ」
「バカ言うな。涼しくなったらライダース羽織るし、さらに寒くなったらストールも巻くぞ。ライダース以外のレザージャケットも結構持ってるし、あんまり着ないけどトレンチコートも四着持ってるわ」
ちなみにポロシャツとセーターは一枚も持っていない。
「そういうとこだよ。なに? お兄は特撮ヒーローなの? 変身できるの? それともカウボーイなの? アメリカの私立探偵なの?」
口が達者になりやがって。と俺は舌打ちをした。たしかに俺のファッションには一定の傾向があり、それは趣味によるものであるが、一応ちゃんと現代的にしているのがわからんのか。
「ははは。日向ちゃん。アキラは拘りの男なんだよ」
「中二病ですよ、ただの」
「いいんだよ。俺の中二病はクリエイティブなヤツだから」
「それなら俺も中二病かなぁ。物理学はあれ、中二病の塊なんだよ、実は」
他愛のないことを一通り話したあとは、オーダーに入る。
「田中さん、スパークリングワインあります?」
「あいよ。たしか修はカヴァが好きだったよな」
カバというのはヒポポタマスのことではなく、どっか忘れたけどどっかの国のスパークリングワインのことだ。しかし俺でさえうろ覚えなのに、田中さんよく修の好みとか覚えてんな。
「俺はー……。パスティスのソーダ割」
暑くなってくると飲みたくなるのがパスティスのソーダ割だ。薄めた歯磨き粉みたいだと言う人もいるが、俺は好きだ。薬草臭さが炭酸に意外に会うし、乳白色に染まるグラスも良い。
「パスティスは品切れだ。ペルノでいいか?」
「じゃあそれで」
パスティス、アブサン、ペルノは実際には味が違うのだろうが、俺の中では同じである。
「え、えっとー……」
修と俺がさっさと注文したので、日向は少し慌てた。この店にはメニューがないのだ。客は棚に並ぶボトルから頼むか、田中さんに任せるか、知っている酒を頼むか、本棚にあるカクテルブックを読んで注文するかしかない。そういうバーは結構あるが、日向は未経験なようだった。そういうところはやっぱり年下だし、多少見た感じが変わっても妹だな、と妙なところで安心できた。
「あ! じゃあ私はあれで! あの、ギムレット? とかいうのをください!」
頬を両手で挟み、迷った末に日向はそう口にした。コイツ、単に名前知ってるカクテルを頼んできたな、というのが丸わかりだ。そして頼んだのがよりによってギムレット。
ナイスだ。絶妙なパスだ。よし、今こそ俺はあのセリフを言うぜ。
「やめとけよ。お前には……『ギムレットは早すぎる』」
決まった。まさか人生で自然にこれを言えるシチュエーションがくるとは思っていなかった。見ていてくださいましたかチャンドラー先生。
そんな俺の内心に気づいたのか、修は苦笑していた。ギムレットには早すぎる。これは深い男の友情と別れの切なさが込められたハードボイルドすぎる言葉なのだ。
が、日向の反応はバッサリだった。
「は? なにそれキモ。っていうか使い方違くない?」
目が冷たい。もー、最近の若い子はなんなの。と思ったが日向が言った言葉が気になった。
「……正しい使い方、知ってんのか?」
「ロング・グッバイでしょ」
あっさりそう答えたので、俺は心底驚き、しばしフリーズしてしまった。あれ、こいつ、いつの間に?
「……あっ! ……ち、違うから。ただ受験終わって暇だったから、お兄の本棚から借りただけだし! 別に興味なかったけど、ひひ暇だったから!!」
なに慌ててんだコイツ。
「お、おお。そうか。でも、面白かっただろ」
「……うん」
俺の記憶にある二年以上前の日向は俺の趣味嗜好にケチをつけることが多かった。なにかに夢中になっている俺を詰まらなさそうに見て、俺がそれを勧めると何故かムキになって「いい!」と断るのだ。それが……。
大人になったのだな。と俺は判断した。ちょっと嬉しい。あの小説の読者が一人増えたのは、素晴らしいことである。なので、俺は少し優しくしてやることにした。
「そりゃよかった。まあでも、真面目にギムレットはわりと強いからやめとけ」
日向がどれくらい酒が強いのかは知らないけど、ハタチの大学生だ。それに、いくら俺の妹とはいえ、体質が似ているってことはないので、ショートカクテルを飲むのはやめた方がいいように思う。ビールみたいな勢いで飲んで酔っ払うからな。
「そっか。んー。じゃあ、お兄のおススメでいいよ」
俺がわりと優しく接したためか、日向の方も素直だった。そして修はそんな俺たちを微笑ましそうに見ている。なんだよいいやつかよお前。ああ、良いやつだったなお前。知ってた。
「ハイボールにしとけ」
「えー? 居酒屋でも飲めるじゃん!」
「ちゃんとしたハイボールはその辺のハイボールとは違うんだ。飲めばわかる」
これは本当のことだ。コンビニで売られている缶入りのハイボールも、居酒屋のバイトさんが作るハイボールも嫌いではないが、バーで、バーテンダーが作ったハイボールは別物である。
炭酸にあう好みのウィスキーを選び、バランスよくソーダを注ぎ、氷を傷つけないようにステアしたハイボールは、旨い。いつも飲んでいるハイボールだからこそ、その違いがハッキリ分かって面白いと思う。なので、日向に薦めたのは本当におススメだからだ。
田中さんのフルーツカッティングの技術は凄いので、そういう系のカクテルも考えたがそれは二杯目でいいだろう。
「そ、そうなんだ。じゃあ、それで。やっとお兄が好きなお酒飲める!」
なにやら日向も嬉しそうにしていた。
「あいよ。妹ちゃん、あー日向ちゃん、か。ライムかレモンは入れようか?」
また、田中さんはこのようにして客の好みやその日の気分を重視する。ハイボールが注文された場合は、よほどの常連で答えがわかりきっているとき以外はピールする果物を聞いてくれるのだ。
と、まあそんなわけで俺たちのグラスがやってきて、雑で適当な乾杯を済ませた。
「修さんて、科学者なんですよね?」
「そうだよ。でもなんかそういうとちょっと偉そうだね。ただ好きなことしてるだけだし」
「すごいですよね。理系の男の人ってなんかカッコいいです」
はっはっは。ここに文系オブ文系がいるぜ!
「日向ちゃんは、大学で何専攻するとか決めてるの?」
「んー。考え中ですけど。就職に有利なのがいいかと! お兄みたいに就活失敗したくないし」
「あはは。そうだね。俺もそのほうがいいと思うな」
「言っとくけど、俺は就活に失敗したわけじゃねぇぞ。ただ、ちょっと兼業作家になりたかったけどどこの会社にも入れなかったから専業作家になっただけだ」
「それは失敗じゃん」
「違うわい。税金だってちゃんと払ってるし、確定申告とか超やってるから社会人だ」
「私は嫌だなー。安定がない仕事って。売れなくなったらどうするわけ?」
「うっ……」
俺も正直そう思ってるけど言うなよ。今俺は結構デリケートな状態なんだぞ。
「……で、でも作家は結構いいんだぞ。この飲み代だって領収書貰っとけば確定申告で経費計上できるんだぜ」
「脱税じゃん」
「ちげぇよ。お前は俺の小説読んでないから知らないだろうけど、ストーリーを深くする小道具としてよく酒が出てくるんだよ。だからこれは執筆に必要な経費だ」
「あれ? 日向ちゃん、アキラの小説読んだことないの?」
「え、ええっと。……読んだことないですよ?」
「そうなんだ。俺は結構好きだよ。いかにもアキラが書いてるって感じで」
「へ、へー。そうなんですか。でも別に興味ないですし……」
オニかよコイツは。最近の『引継ぎ』によれば俺は新作に行き詰っていて、悩んでいるらしかった。そりゃそうだ。こんな状態だし、それでもいろんな都合から傑作を書こうと苦心している兄に対して……。
とも思うけど、以前と変わらずポンポン言ってくるところがありがたくもある。妹にあまり気を使わせるのも嫌だしな。
「っていうか読めよ!! 買え! そして大学の友達とかに薦めろ! 俺の印税のために」
「嫌ですー。どうせ男らしいぜ俺は的なキャラばっかり出てきてキザな台詞ばっか出てくるんでしょ?」
「ぐ……」
読んでないのになんでわりと正確に当ててくるんだよ。けどそれが俺の作風っていうか売りなんだよ。超たまに来てたファンレターとかにもそう書いてあるんだっての。
「そんなことより修さん、私の友達がイケメン紹介してほしいって言ってるんですけどー」
おいそこ。髪を指でくるくるしつつ女っぽさだしてんじゃねぇよ。
「うん? 誰か友達紹介しようか? 研究室男ばっかりだからきっと喜ばれるよ。っていうかアキラでいいんじゃない?」
「お、お兄はダメですよ!」
力一杯否定しやがったぜ。
「なんでだよ」
「え、もしかして自分でイケメンだとでも思ってるの? 引くー」
なんて、わりとひどいことを言われつつ、二杯目を頼み。またバカなことを話して次を頼む。 俺はわりと楽しんでいた。気を使わない友達や家族と飲むと明るい気持ちになる。
「で、日向。お前大学はどうなんだよ。油断してるとマジですぐに卒業になるから、色々やっとけよ」
「色々ってなにさ」
「彼氏作るとか、資格とるとかあんだろ。あと普通にキャンパスライフ楽しんどけ」
「言われなくても大学楽しいよ。お兄、オッサンみたい」
感覚的には久しぶりにあう日向、知らないうちに酒が飲める年になっていた妹にカクテルをおごるのは、不思議な気持ちだけど、実はやってみたかったことでもある。
俺は、今日のことを覚えていたい。もしかしたら毎日思っているのかもしれないけど、今夜はきっと、いつもより強くそう願った。
この回のライムとレモンのくだり