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第八話 忍の初恋

二人は肩を並べて玄関を出た。五月以来、当たり前の風景となったこの日常の愛おしさを噛みしめるように、空は大きく伸びをして、秋の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「うーん、なんだか空気がすっかり『秋』って感じだね」

「そうだね。石垣島のしっとりした風とは、全然違うっていうか……」


蜜柑の言葉に、空も昨日の朝まで肌に触れていた南国の熱量を思い出し、高く澄んだ空を見上げる。


「確かに。あ、そういえば帰ってから瑠奈ちゃんにはLINEしたのか?」


少し前、空が予備で持っていたスマホを蜜柑用に設定し直し、彼女に預けていた。初めは機械に不慣れで戸惑っていた蜜柑だったが、最近ではようやく使いこなせるようになり、LINEの友達リストには家族や由希、そして沖縄で命を救い、友人となった瑠奈の名が並んでいる。


「うん。無事着いたよって送ったよ。空港まで見送りに来てくれてありがとう、って」

「そっか。……またいつか、あそこに行きたいよな」


空がしみじみと呟くと、蜜柑は花が咲くような微笑みを返した。


「でも、来月は修学旅行で北海道だよね」

「ああ……。なんでわざわざこんな寒い時期に北海道なんだか。寒いの苦手なんだよなぁ」


不満げにぼやく空を見て、蜜柑は楽しそうに苦笑いを浮かべる。


「でも、クラスのみんなで行ける旅行なんて修学旅行くらいしかないんだし。それに、今の時期なら美味しいものがたくさんあるんじゃない?」

「学校行事の食事で、そんな贅沢ができるとは思えないけどさ……」


どこまでも修学旅行に現実的な(というよりネガティブな)反応を示す空に、蜜柑は「もう、空くんったら」と肩をすくめた。


「でも……そろそろグループ分けとか始まるんだろうけど、どうやって決めるんだろうな」

「うーん、基本は男女別だろうから、空くんとは別のグループになっちゃうよね」


蜜柑が少し寂しそうに呟く。


「まあ、そもそも俺たち、クラス違うしな」


空が苦笑いしながらそう言った時、校門が見えてきた。そこには待ち構えていたかのように、親友の忍が立っていた。


「あ、シンくん。おはよう」

「おはよう」

「はよん、空、蒼井」


忍はひらりと手を挙げると、当然のように空の右側に並び、三人は昇降口へと向かって歩き出した。


「空、お前昨日まで全然電話通じなかったけど、何してたんだよ?」


忍の気軽な問いかけに、空は思い出したかのようにカバンの留め金を開いた。


「ああ、ちょっと旅行に行ってたんだよ。あ、これ……お土産な」


空はカバンの中から、ずっしりと重いソーキそばの入った袋を取り出し、忍に手渡した。忍は袋の中を覗き込み、目を丸くする。


「ソーキそば? お前、沖縄行ってたのかよ。相変わらずお前んちはリッチだよな、家族で南国旅行なんて……」

「あ、いや……家族旅行じゃなくて、蜜柑と……」


何気なくこぼした空の言葉に、忍の動きがピタリと止まった。忍は「は?」と短い声を漏らし、空と蜜柑の顔を交互に、穴が開くほど見つめた。


「……マジで? それって世間じゃ『婚前旅行』って呼ぶやつじゃねーの?」

「「――っ!!」」


忍の容赦ない指摘に、二人の体温が跳ね上がった。蜜柑はボッと火がついたように顔を赤らめ、空は「お前、何言って!」と声を裏返させる。


「ち、違う! そういうやつじゃなくて……!」

「えー? だってよ、親の目も届かないところでカップルがすることなんて、一つしかないだろ?」


忍のニヤニヤとした追及に、蜜柑はついに涙目になり、必死に手を振った。


「忍くん、本当に、本当に違うの! ただシュノーケリングしたり、観光したりしただけで……!」


半泣きの蜜柑に必死に詰め寄られ、忍はさすがに「わかった、悪かったよ二人とも。冗談だって」と、穏やかな表情に戻って手を挙げた。


「あ、ああ……心臓に悪いわ」


空が冷や汗を拭いながら廊下を進んでいると、ふと思い出したように忍に尋ねた。


「……で、電話って何の用だったんだよ?」

「ああ、大したことじゃないんだけどさ。数学の課題、出てただろ? わかんないところあったから教えてもらおうと思ってさ」


その瞬間、空の顔からスッと血の気が引いた。彼は隣を歩く蜜柑に縋るような視線を向ける。


「蜜柑……そんな宿題、出てたか?」

「えっ? うちのクラスは出てないよ」

「お前。他のクラスの蒼井に聞いてどうすんだよ」


数学担当の結城先生は、生徒のメンタルをじわじわ削る嫌味の天才として恐れられている。宿題を忘れた生徒に「忘れたって報告、わざわざしに来たの? そんなの要らないよね」と冷たく微笑む姿が脳裏をよぎり、空は戦慄した。


「シンくん、課題の範囲教えて!」


空は忍の手首を掴み、自分の教室へ向かって駆け出した。


「蜜柑、放課後、昇降口でな!」


走りながら叫ぶ空に、蜜柑は苦笑いを浮かべ、小さく手を振った。

数学の授業は五時限目。それまでの休み時間を使えばなんとかなるはずだ。

教室に入るなり、空は一心不乱にシャーペンを走らせ始めた。忍はその前の席に座り、必死な親友を眺める。


「……にしたって、よく二人きりの旅行なんて許してもらえたよな。あ、そうか。蒼井って、両親いないんだっけ?」

「ああ。それに旅行のチケットくれたの母さんだしな」


問題を解きながら、空は何気なく答えた。忍は呆れたように肩をすくめる。


「お前の親、ぶっ飛んでんな。いくら付き合ってるとはいえ、二人きりでお泊まりなんて……よっぽど信用されてんのかね?」

「つーか、そんなの一緒に住んでるんだから今更だろ……」


その瞬間、忍の思考が完全に停止し、目が点になった。


「……一緒に住んでる?」


ノートの上で、シャーペンの先がポキリと折れた。


(あ、ヤベ……)


蜜柑が早見家に居候していることは、忍にはまだ伏せていたことに今さら気づいた。空が恐る恐る顔を上げると、忍は魂が抜けたような顔で空を見下ろしていた。


「……シンくん?」


その時、ガラガラと教室のドアが開き、担任の羽柴が入ってきた。朝のホームルームが始まり、そのまま社会の高橋先生へと授業が繋がっていく。

数席隣の忍を見ると、彼は未だに惚けた顔で、あらぬ方向を凝視していた。


(こりゃ……休み時間、逃げ場がないな……)


空は冷や汗を感じながら、黒板の文字が全く頭に入ってこない時間を過ごすことになった。

午前中の授業の合間、空は休み時間を削ってなんとか数学の課題を完遂した。五時限目の結城先生の「洗礼」を回避した安堵感から、昼休みの給食は格別の味わいだった。今日の献立は、具だくさんのかやくごはんと、湯気が立ち上る豚汁。そしてデザートには「蜜柑」がついていた。

空は盆の上の果実をじっと見つめながら、今朝の忍とのやり取りを反芻していた。


(さて……シンくんには、どこまで話すべきか……)


蜜柑が早見家に居候していることを伏せていたのは、単に忍の執拗な揶揄いを避けるためだけではない。彼女を襲った「連正会」の影、そして柴田先生がその教団とどう繋がっているのか、全容が見えなかったからだ。蜜柑の居場所を話すことが、彼女を再び危険に晒すことになりかねない――そう判断しての沈黙だった。

しかし、状況は変わりつつある。柴田はすでに学校から姿を消した。校内に潜んでいる教団の関係者が彼女一人だけとは限らないが、親友である忍に事情を打ち明け、そのうえで箝口令を敷くのであれば、今のタイミングなら大丈夫なのかもしれない。


案の定、空が給食を食べ終えるのを待っていたかのように、正気を取り戻した忍は空の腕を掴み、誰もいない音楽室へと連行した。防音の施されたこの部屋は、誰にも聞かれたくない「機密」を話すにはうってつけの場所かもしれない。


「……まぁ、お前が黙っていたのには相応の理由があるんだろうけどさ。何がどうなっているのか話してくれないか」


朝の動揺ぶりとは一転、忍の眼差しには親友としての真剣な光が宿っていた。空は「ふぅー」と大きくため息をつくと、観念して語り始めた。蒼井親子が襲われた凄惨な夜のこと、文藝部の顧問だった柴田が教団のビルへ消えていったこと。そして、そこで死の淵を彷徨う大怪我を負い、長い入院を経て「留学」という建前の裏で蜜柑と共に過酷な訓練に身を投じていたこと――。

話し終えると、忍は魂が抜けたような深い溜息を吐き、椅子に深く背を預けた。


「なんつーか……お前、それでよく生きてたな。普通の奴ならとっくに三途の川を渡ってるだろ……」

「正直、俺も蜜柑も今こうしているのが不思議なくらいだよ。あ、でも一応言っておくけど、蜜柑と同じ家に住んではいるけど、部屋は海姉と同室だからな」

「そうなのか? でもお姉さん、よく弟の彼女と相部屋なんてオッケーしたな」

「まぁ……色々とな……」


空と忍は顔を見合わせ、どちらからともなく微かな笑みを漏らした。だが、忍は少し声のトーンを落とし、どこか遠くを見るような目で話を継いだ。


「それにしても、その歳で好きな子といつも一緒にいられるなんて……正直、羨ましいよ」

「ん? シンくん、好きな人とかいるのか?」


空はこれまで友人との間で異性の事を話題にすることなど殆どなかったが、忍の柄にもない感傷的な言葉につい聞き返した。忍は一瞬言葉を濁し、頬を赤らめながら白状した。


「……三組の、仙水彩乃せんすい あやのって子」

「せんすいあやの?」


空は記憶の海を浚ってみたが、その名前を聞いても顔が全く思い浮かばなかった。三組は移動教室でも重なることが少なく、面識のない生徒は何人もいたので記憶の中から探すのを諦めた。


「……で、どんな子なんだ?」


空が問い返すと、忍は慈しむように窓の外を見つめながら口を開いた。


「最初に出会ったのは、今年の六月。放課後、昇降口を出たところでさ、地面に座り込んで苦しそうにしてる子がいたんだ。周りに誰もいなかったから声をかけて、日陰の涼しい場所まで運んで休ませたんだよ」

「へぇ……なかなかジェントルマンじゃないか」

「そんなんじゃねぇよ」


忍は照れ隠しにプイと顔を逸らしたが、その口調はどこか優しかった。


「……で、その時に少しだけ他愛もない話をしてさ。気分が良くなったみたいだからそこで別れたんだけど。それからかな、中庭とか図書室でよく顔を合わせるようになって……少しずつ仲良くなったんだ」

「そうなんだ。よかったじゃん、いい出会いあって……」


空が率直な感想を口にすると、忍の表情にふっと暗い影が落ちた。


「……まぁ、そうなんだけどさ。彼女、ちょっと体が弱いみたいで、結構学校も休みがちなんだ」

「そっか……それは心配だな」


それから午後の授業の予鈴に会話は中断され、その話題に後ろ髪引かれながらも教室に戻ってきた。

午後の授業の間も、空の頭の片隅には忍が語った「仙水彩乃」という名前が残っていた。放課後、約束通り昇降口で蜜柑と合流すると、空はさりげなくその名前を出してみた。


「蜜柑、三組に仙水彩乃さんって子いるだろ。どんな子か知ってる?」

「仙水さん? 名前は聞いたことあるけど、全然話した事ないかも。その子がどうかしたの?」

「実は――」


空は昼休みに忍から聞いたことを蜜柑に話した。蜜柑は少し悲しげに眉を下げた。


「そうなんだ……。修学旅行も近いのに、体調が良くないなんて可哀想だね」


二人がそんな話をしながら校門へ向かおうとしていると、昇降口から忍が一人で出てくるのが見えた。いつもなら騒がしく駆け寄ってくるはずの彼が、今日はどこか足取りが重い。


「あれシンくん、どうしたんだよ」


空が声をかけると、忍は「ああ、悪い……」と力なく笑った。


「今日、放課後に三組の教室を覗いてみたんだけどさ。仙水さん、今日も早退しちゃったみたいでさ。保健室の先生に聞いたら、最近少し体調が芳しくないらしいんだ」

「……そうか、それは心配だな。

彼女とはメールとかLINEの交換とかしているのか?」


忍はコクリと頷く。


「じゃあ、それで連絡してみたらどうだ?」

「送ったよ。でも返信も既読も付かなくて……」


忍はそう言って肩を落とす。普段の忍からは想像もできないほど、その姿は脆くて危ういものに見えた。

秋の夕暮れ、長く伸びた影が三人を飲み込んでいく。


「……修学旅行、彼女も行けるといいね」


蜜柑の優しい言葉に、忍は「そうだな」とだけ答えた。

空は、忍の抱えている不安の正体をまだ知る由もなかった。ただ、彼がこれほどまでに誰かを想い、不安を感じているという事実に、胸が締め付けられるような思いがした。


「よし、シンくん。今日は寄り道して帰ろう。甘いもんでも食えば、少しは元気がでるだろ」

「……お前、俺の家学校の目の前だぞ。

寄り道も何もねぇだろ?」

「そんな細かいこといいから。

今日は奢ってやるからさ」


空のそんな言葉に忍は苦笑いを浮かべる。

そのやりとりに空の隣の蜜柑は微笑んだ。


「まったく、子供扱いすんなよ。……でも、まぁ、奢りならないいか」


いつもの軽口が戻ってきたことに安堵しながら、三人は秋の冷え込みが深まる街へと歩き出した。校門を出るなり、忍は「ちょっとカバン置いてくる!」と言い残し、道路を軽快に横断して自宅へと駆け込んだ。数分後、彼は制服を脱ぎ捨て、ラフな私服姿に着替えて戻ってきた。


「なんだよ、わざわざ着替えてきたのか?」


空が呆れ顔で尋ねると、忍は「一応な」と苦笑いを浮かべた。


「寄り道は校則違反だろ? 念には念を入れて、変装ってやつだよ」

「……大丈夫だって。これから行くのは、うちの近くの個人経営の喫茶店だ。中学生なんてまず寄り付かないような場所だよ」


空の言葉に、蜜柑が不安そうに首を傾げた。


「空くん、それだと逆に目立っちゃうんじゃないかな?」

「ああ……確かに」


二人の至極まっとうな指摘に、空は宥めるように言葉を重ねた。


「そこ、母さんの知り合いがやってる店なんだ。俺も何度か入ったことあるし、顔馴染みだから問題ないよ」


その言葉にようやく安心したのか、忍と蜜柑は顔を見合わせて小さく微笑み、頷いた。空に導かれるまま歩くこと十分。目的地であるその店は、街の風景に溶け込むようにひっそりと佇んでいた。年季の入った落ち着いた佇まいは、知らなければ見落としてしまいそうなほど控えめだ。

空が重厚な木製のドアを開けると、「カラン」と澄んだベルの音が店内に響いた。アンティークなカウンターの奥には、穏やかな雰囲気を纏った五十代半ばのマスターが立っていた。


「やぁ、空くん。久しぶりだね」


マスターは空の姿を認めるなり、親しげに声をかけてきた。


「ご無沙汰してます、マスター」


空が律儀にお辞儀をすると、後ろの二人もそれに倣ってぺこりと頭を下げる。一言二言、近況を交わした空は、店の一番奥にある四人掛けのボックス席へと二人を案内した。


「ほら、メニュー。好きなの選んで」


空から手渡されたメニューを開いた瞬間、忍が「うおっ」と目を丸くした。


「……どれも結構いい値段するんだな、ここ」


釣られて覗き込んだ蜜柑も、少しだけ表情をこわばらせる。そこに並んでいたのは、中学生が普段目にするファミレスの価格帯より数ランク上の、こだわり抜かれた品々の値段だった。


「本当だ……。空くん、お財布大丈夫? 結構するよ?」


二人の心配そうな視線を受け、空は「全く……」と苦笑いを漏らした。


「大丈夫だって。二人とも忘れてる設定かもしれないけどさ、俺、これでも一応プロの作家なんだぜ? 印税だってそれなりにあるんだから、今日くらい遠慮するなよ」


そこまで言われて、ようやく忍の顔が明るくなった。彼はメニューの一角を指差し、「じゃあ、このフルーツと生クリームが乗ったフレンチトースト!」と即決。蜜柑も「私も同じので……」と控えめに付け加えた。

「飲み物は?」という空の問いに、忍はレモンティー、蜜柑はホットココアをチョイスする。空がマスターに注文を伝え終えると、三人はようやく深いソファに身を沈め、落ち着きを取り戻した。


「空、ここにはよく来るのか?」


店内のクラシックに耳を傾けながら、忍が唐突に尋ねた。


「いや、よくってほどでもないかな。今日来たのも、半年ぶりくらいだし。……それより蜜柑、仙水さんって蜜柑のクラスなんだろ? そんなに学校に来ていないのか?」


空の問いかけに、蜜柑は少しだけ視線を伏せて記憶を辿る。


「うーん……春の頃は私がずっと学校を休んでたし、五月の終わりから夏休み明けまでも、私たち一緒に休んでたでしょ? だから、いまだに同じクラスでも接点がない子の方が多いんだよね」


蜜柑に言われて、空も自分のクラスのことを思い返してみた。確かに、あの事件や訓練、そして逃避行に近い日々を過ごしていたせいで、クラスメイトの顔と名前が一致しない生徒が少なからずいることに今さら気づかされる。


「言われてみればそうか。俺も人のこと言えないな」

「彩乃が学校に来始めたのは六月頃からだし、最近は保健室登校することも多いらしいからさ。蒼井が知らないのも無理ないよ」


忍は納得したように頷き、どこか寂しげな表情を見せた。


「……それで、仙水さんはどこが悪いの?」


蜜柑が心配そうに忍を見つめる。その純粋な問いに、忍は少し言葉を濁した。


「いや、流石に女の子にそこまで踏み込んだことは聞けないっていうか……。ただ、無理はさせたくないんだ」

「そうだよね。ごめん、変なこと聞いちゃって」


そんな会話を交わしていると、厨房の方から甘く香ばしい香りが漂ってきた。マスターが大きな銀のお盆を抱えて、ゆったりとした足取りで三人のテーブルへと近づいてくる。


「お待たせしました。フルーツと生クリームのフレンチトーストです」


テーブルに置かれた瞬間、三人の目が釘付けになった。厚切りのパンは琥珀色に焼き上げられ、その上には溢れんばかりの色鮮やかな苺やキウイ、そして雪のように真っ白な生クリームがこんもりと盛られている。


「うわぁ……! 宝石箱みたい……!」

「すっげ……! これ、マジで食っていいのか?」


蜜柑と忍の歓声が上がる。空は「ほら、冷めないうちに」と促すと、二人は待ちきれない様子でナイフとフォークを手に取った。

蜜柑が慎重に一口分を切り分け、生クリームをたっぷり絡めて口に運ぶ。


「んんっ……! ふわふわで、すごく幸せな味がする……」


頬を緩ませてとろけるような笑顔を見せる蜜柑に、空は自分の胸の奥まで甘くなるような錯覚を覚えた。

隣では忍が、大きな一口を頬張って「あふっ」と声を漏らしている。


「やべぇ……。これまでの人生で食ったものの中で、一番美味いかもしれない……」


口いっぱいにフレンチトーストを詰め込み、夢中でフォークを動かす忍の姿に、ようやくいつもの活気が戻ってきた。


「空、お前も食えよ! ほら、この苺とか最高だぞ」

「わかってるって。……蜜柑、口にクリームついてるぞ」

「えっ、嘘!? ……ふふ、空くん、前にも同じこと言ってたね」


石垣島の太陽の下で食べたアイスと同じように、温かいフレンチトーストが三人の心を優しく解きほぐしていく。

少しだけ重苦しかった空気は、甘いシロップの香りに包まれて、穏やかな放課後のひとときへと変わっていった。


「……彩乃も、いつか連れてきてあげたいな」


忍がぽつりと零したその言葉は、甘いお菓子のような、切実な願いとなって店内に響いた。



数日後の昼休み――。

空がふと廊下に出ると、窓の外をじっと見つめている蜜柑の姿を見つけた。


「あ、蜜柑。何してるんだ?」


声をかけると、蜜柑は慌てて「しーっ!」と人差し指を口に当て、内緒話をするような仕草を見せた。それから再び、視線を眼下の中庭へと戻す。空は不思議に思いながら彼女の隣に並び、一緒に窓の外を覗き込んだ。

そこには、陽だまりのベンチに座る一組の男女の姿があった。

そしてその一人は、間違いなく親友の忍だった。


「もしかして……あの子が、仙水彩乃さんか?」


空が声を潜めて問いかけると、蜜柑は確信を持ったように小さく頷いた。


「多分、そうだと思う……」


忍の隣に座っているのは、ひどく小柄で折れてしまいそうなほど細身の女の子だった。肩まで綺麗に切りそろえられた黒髪と、吸い込まれそうなほど大きく、けれどどこか儚げな瞳。彼女がその目を細めて柔らかく微笑むたびに、まるでそこだけ時間がゆっくり流れているような、不思議な空気が漂っていた。

校舎の二階からでは、二人の会話の内容までは聞き取れない。けれど、忍が身振り手振りで一生懸命に何かを話し、彩乃がそれを楽しそうに聞き入っている様子は、ここからでも十分に伝わってきた。


「……なんだか、二人ともすごく楽しそうだね」


蜜柑が自分のことのように嬉しそうに呟く。


「ああ、そうだな。あんな顔したシンくん、初めて見たよ」


空もまた、親友の意外な表情に目を細めた。そんな二人の視線に気づいたのか、忍がふと顔を上げてこちらを見上げた。彩乃もつられるように、忍の視線の先を追う。

蜜柑が窓越しに優しく手を振ると、忍は心底恥ずかしそうに、大慌てで視線を逸らしてしまった。

予鈴が鳴り、午後の授業のためにそれぞれ教室へ戻る時間になった。

空の教室には、どこか浮ついた足取りの忍が戻ってきたが、蜜柑のクラスに彩乃の姿が現れることはなかった。


(仙水さん、また保健室かな……)


今の学校には各教室にカメラが設置され、教室外からでもオンラインで授業を受けることができる。彩乃もまた、保健室の静かなベッドの上で、端末越しにクラスの授業を受けていた。

賑やかな教室の喧騒からは切り離された、けれど確かに同じ時間を共有するそのシステムが、今の彼女と学校を繋ぐ唯一の細い糸だった。



放課後――。

空は昇降口の脇で、蜜柑が出てくるのを待っていた。

昼間の穏やかな陽気はどこへやら、空はいつの間にか厚い雲に覆われ、降り始めた大粒の雨が校庭の乾いた地面を激しく叩いている。


「とうとう降ってきちゃったか……」


空が右手を外に差し出し、雨の強さを確かめていると、昇降口から忍と彩乃が肩を並べて姿を現した。図らずも至近距離で顔を合わせることになった三人は、同時に足を止める。


「「あっ……」」


空と忍の声が重なった。

すると、二人の背後から「空くん――」と鈴を転がすような声がして、蜜柑が駆け寄ってきた。

昼休みの窓越しの対面に続き、こんなに間近でのエンカウントとなったことに、忍は耳まで赤くして照れくさそうに微笑んだ。蜜柑が空の隣にそっと並ぶと、忍は意を決したように、隣に立つ少女へ二人を紹介した。


「彩乃。こいつが、俺がいつも話してる腐れ縁の空。で、その隣にいるのが、空の彼女の蒼井蜜柑さんだ」

「……はじめまして。仙水彩乃です。忍くんから、いつもお二人の話は伺っています」


彩乃は消え入りそうな、けれど透き通った声でそう言い、丁寧にお辞儀をした。近くで見ると、彼女の肌は陶器のように白く、どこか浮世離れした儚さを纏っている。けれど、その瞳には温かな光が宿っていた。


「はじめまして。仙水さんと同じクラスの蒼井蜜柑です。彩乃さんのことは忍くんから……あ、ええと、素敵なお友達がいるって聞いてました」


蜜柑が慌てて言い直すと、彩乃は「ふふっ」と小さく、花が綻ぶように笑った。


「蒼井さん、とっても素敵な方ですね。忍くんから二人のお話たくさんきかせてもらってます。すっごくお似合いのカップルだって――」

「ちょっと、彩乃! 余計なこと言わなくていいから!」


忍が顔を真っ赤にして騒ぎ立て、空はそんな親友の様子に呆れつつも、どこか誇らしげな気分だった。

雨音は次第に激しさを増し、冷たい風が昇降口に吹き込んでくる。忍は自分のカバンから折りたたみ傘を取り出すと、それを彩乃の方へ差し出した。


「彩乃、今日はこのまま俺が家まで送っていくよ。この雨じゃ、一人で帰るのは危ないし」

「でも、忍くんの家はすぐそこでしょ? 悪いよ……」

「いいんだよ。俺がそうしたいんだから」


忍は少し強引に、けれど壊れ物を扱うような優しさで彩乃を自分の傘の中へ招き入れた。彩乃は少しだけ頬を染め、「……ありがとう」と小さく頷いた。


「じゃあな、空、蒼井。俺たちはこれで!」

「ああ。仙水さん、お大事にね」

「さようなら、彩乃さん。また学校で!」


二人が一つの傘に寄り添い、雨のカーテンの向こうへと消えていく。その少しぎこちない、けれど確かな温もりを感じさせる後ろ姿を、空と蜜柑はいつまでも眺めていた。


「……忍くん、本当に彼女のこと大切にしてるんだね」


蜜柑がポツリと呟いた。


「そうだな。シンくん、仙水さんといつまでも一緒にいられるといいな」


雨の音に紛れて、空は心の中で願った。


それからの日々、空の耳には忍からの「報告」が頻繁に届くようになった。例の喫茶店で新作のケーキを食べたことや、今度公開される映画を観に行く約束をしたこと。報告を重ねるたびに、忍の表情には年相応の少年の瑞々しさが宿り、二人の距離が確実に、そして大切に縮まっているのが見て取れた。

ある日の放課後、四人はいつものように自然と集まり、校庭脇にある木製のベンチに腰を下ろして、とりとめのない会話に花を咲かせていた。


「なぁ、今度この四人でどこか出かけないか? 予報だと、しばらくは秋晴れが続くみたいだしさ」


空が提案すると、蜜柑はパッと花が咲いたような明るい笑顔を浮かべた。


「それ、すごく素敵! お弁当を作って、大きな公園でピクニックなんてどうかな?」


蜜柑の楽しげな提案に、忍は一瞬だけ表情を曇らせ、困ったような苦笑いを浮かべた。


「うーん……。遠出はちょっと、な。この時期は天気が変わりやすいし、移動が長いと準備も後片付けも大変だろ?」


忍の視線は、隣で静かに微笑む彩乃へと向けられていた。その言葉の裏にある、彼女の体調を最優先に考えた深い気遣いを、空と蜜柑は瞬時に察した。彩乃に無理をさせず、けれど四人で楽しめる場所――。


「じゃあさ、うちの庭でバーベキューってのはどうだ? 今、ちょうど庭の紅葉が綺麗なんだ。もし寒くなっても、すぐに家の中に逃げ込めるしさ」


空がそう切り出すと、蜜柑も「名案!」とばかりに言葉を重ねた。


「それなら、二人ともお家から近いもんね」


忍と彩乃は顔を見合わせ、そっと頷き合った。彩乃の瞳には、ささやかな冒険への期待が宿っている。


「それなら……大丈夫、かな。でも空、本当にお前の家でいいのか?」

「ああ、気にするなよ。うちではたまに家族でやるから道具も一式揃ってる。日程が決まったら、俺と蜜柑で食材を買い出しに行っておくから、二人は手ぶらで来いよ」


空の頼もしい言葉に、忍は笑顔を浮かべた。

そうして四人は、スマートフォンのカレンダーを確認しながら日程を調整し、次の土曜日に「早見庭園バーベキュー」を決行することを約束した。夕暮れ時の校庭、長く伸びた四人の影がひとつに重なる。


土曜日、午前十時――。

忍と彩乃は、並んで早見宅の門扉の前に立っていた。彩乃は視界に飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。周囲の住宅の二、三倍はあろうかという重厚な邸宅。手入れの行き届いた庭の木々が、秋の陽光を浴びて輝いている。

忍はインターホンのボタンを押し、「こんにちわ、三宅です」と声をかける。


『あ、いらっしゃい! 今、鍵を開けたよ』


インターホンのスピーカーから、弾んだ蜜柑の声が響く。彩乃は少し緊張した面持ちで、隣の忍にそっと囁きかけた。


「……早見くんのお家、すごいね。もしかして、ものすごくお金持ちなの?」


驚きを隠せない様子の彩乃に、忍はわがことのように誇らしげな笑顔を向けた。


「だよな。まぁ、空のお母さんが有名な予言者だってのもあるけど、あいつもああ見えてプロの作家なんだぜ」


忍の話を聞いて、彩乃の瞳はますます驚愕に丸くなった。そんな会話を交わしながら、二人は玄関へと続く石畳のアプローチを歩んでいく。ふと横の庭に目を向けると、そこにはすでに準備を始めている空の姿があった。

コンロに炭を並べ、慣れた手つきで火を熾している空に、忍が声をかける。


「おーい空、来たぞ!」


空は顔を上げると、灰で少し汚れた手を拭いながら二人を迎えた。


「二人とも、いらっしゃい」


彩乃は空の前で立ち止まり、少しだけ頬を染めて丁寧にお辞儀をした。


「空くん、今日は招待してくれてありがとう。……これ、母から預かってきたの」


そう言って差し出されたのは、地元でも評判の洋菓子店の包装紙に包まれた小箱だった。


「ありがとう、気を使わせてごめんね。あとでみんなで一緒に食べよう。……あ、蜜柑が中で準備してるから、彩乃さんは少し中で休んでて」


空が優しく促すと、彩乃は「ありがとう」と可憐な微笑みを返し、忍にエスコートされるようにして邸内へと一歩を踏み出した。

玄関をくぐり、その広さに圧倒されながらリビングへと通されると、蜜柑は二人をソファへ案内した。


「ゆっくりしててね。私、またキッチンの準備に戻るから」


蜜柑がそう言ってリビングを出ようとすると、忍が慌てて声をかけた。


「あ、蒼井。俺も手伝うよ。男手があった方がいいだろ?」

「でも……彩乃さんを一人にしちゃうし……」


蜜柑の気遣いに対し、彩乃は「私は大丈夫だから、行ってあげて」と優しく背中を押した。その言葉に甘え、二人は賑やかにリビングを後にした。

一人残された彩乃は、緊張を解くように「ふぅ」と小さく吐息をつき、柔らかなソファに身を沈めた。初めて訪れた豪邸の静寂に、どこか落ち着かない様子で窓の外――炭を熾している空の背中を眺めていると、背後で「ガチャリ」とドアが開く音がした。


「あら、いらっしゃい」


不意にかけられた凛とした声に、彩乃が驚いて振り向くと、そこには片手にiPadを抱え、リラックスした部屋着姿の海が立っていた。彩乃が慌てて立ち上がろうとすると、海は「いいのよ、座ったままで」と制し、しなやかな足取りで近づいてきた。


「お邪魔しています。私、空くんの友達で……」

「仙水彩乃さんね。空から話は聞いているわ。もしかして、忍くんの『彼女さん』かしら?」


海の直球な問いかけに、彩乃は瞬時に顔を赤らめ、あわあわと両手を振った。


「い、いえ……まだ、そんな……!」


その初々しい反応に、海は楽しそうに目を細めていたが、ふっと表情を和らげて口を開いた。


「ふふ、ごめんなさい。あまりに可愛らしいから、つい意地悪しちゃった。私は空の姉の海よ。よろしくね、彩乃ちゃん」


海が気さくに微笑むと、彩乃の緊張も少しずつ溶けていった。二人は自己紹介を済ませ、何気ない雑談に花を咲かせ始める。話題はやがて、幼い頃からこの家に頻繁に出入りしていた忍の「黒歴史」へと移り、リビングには海の快活な笑い声が響き渡った。

その楽しげな気配につられ、キッチンから忍が様子を見にやってくると、そこには彩乃と海がすっかり意気投合して笑い合っている姿があった。忍は少し姿勢を正し、海の元へ歩み寄る。


「あ、海先輩。お邪魔してます」


忍が律儀に挨拶をすると、海はわざとらしく眉を寄せて苦笑いを浮かべた。


「もう、忍くん。中学で入れ違いなんだから『先輩』なんて他人行儀な呼び方はやめてって言ってるでしょ。昔みたいに呼んでくれないと寂しいわ」


忍は隣にいる彩乃の視線をチラリと意識し、耳まで真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声で答えた。


「は、はい……海姉ちゃん」


その返答に、海は満開のひまわりのような笑みを向けた。忍はますます顔を赤くし、その動揺を隠すように無理やり話題を切り替える。


「……それで、二人は一体何の話をしてたんですか?」

「ああ、忍くんが昔、庭の池に落ちて大泣きした時の話よ!」

「げぇっ……!」


忍が絶望的な声を上げて彩乃を見ると、彼女は今まで見たこともないほど楽しそうに、クスクスと肩を揺らして微笑んでいた。


「海先輩……!」

「海・姉・ちゃ・ん!」


海にピシャリと言い直され、忍はぐぬぬと詰まりながらも、必死に食い下がる。


「う、海姉ちゃん……一体どこまで話したの……」


動揺を隠すことも忘れ忍は海に問い返すと、


「そんなことより忍くん。いい子と出会えて良かったわね」


そう言って微笑みかけた。

忍は彩乃と顔を見合わせて、顔を赤らめ俯いてしまう。


――と、その時。窓ガラスを外から「コツコツ」と軽く叩く音が響いた。三人が一斉に視線を向けると、そこには炭の熱気で少し顔を火照らせた空が覗き込んでいた。海がサッと窓の鍵を開け、秋の涼やかな風を室内に招き入れる。


「準備、できたよ。そろそろ始めようか」


空が柔らかく声をかけた。


「あ、海姉……海姉も一緒にどう? 肉、結構奮発したんだぜ」

「うふふ、ありがとう。でも私、これから仕事なの。あなたたち四人で楽しみなさい」


海はiPadの画面を軽く振って見せながら、大人の余裕を感じさせる微笑みで答えた。

忍と彩乃が連れ立って庭へ出ると、そこにはすでに網の上では色鮮やかな夏の名残の野菜や、ぷりっとしたイカ、立派なエビなどの魚介類が躍り、食欲をそそる香ばしい匂いが秋の空気に溶け込んでいる。空はちょうど、サシの入った見事な肉をパックから取り出し、網へと並べる準備をしているところだった。


「彩乃さん、忍くん、飲み物は何がいい?」


蜜柑がクーラーボックスを覗き込みながら、弾んだ声で尋ねる。


「じゃあ、俺は烏龍茶で!」

「私は……麦茶をいただけますか?」


全員の手に行き渡ったグラスには、カランと氷が涼しげな音を立てている。空は一度コホンと咳払いをすると、少し照れくさそうに、けれど真摯な眼差しで口を開いた。


「ええと……今日は彩乃さんとこうして友達になれた記念ということで、ささやかながらバーベキューパーティーを始めたいと思います。これからの楽しい日々と――」


そこで言葉を切り、空は忍と彩乃へ悪戯っぽい視線を向けた。


「忍と彩乃さんの仲が、ますます深まることを願って――」


その瞬間、忍は「ブッ」と吹き出しそうになり、彩乃は林檎のように顔を真っ赤にして俯いてしまった。


「かんぱーい!」

「「「かんぱーい!!」」」


澄んだグラスの音が重なり、四人の笑い声が庭いっぱいに広がる。


「ちょっと空! 余計なこと言うなよな!」

「ははっ、本音だろ? ほら、肉焼けたぞ。一番いいやつは彩乃さんに」

「……わぁ、ありがとう。すごく美味しそう!」


焼き立ての肉を頬張った彩乃の顔に、パッと花が咲いたような喜びが広がる。それを見た忍が、自分のことのように嬉しそうに目を細めているのを、空と蜜柑は顔を見合わせて見守った。


「蜜柑、この海老も焼けたよ。熱いから気をつけて」

「ありがとう、空くん。……なんだか、こうしてみんなで食べると、いつもよりずっと美味しく感じるね」

「そうだな」


パチパチとはぜる炭の音。遠くで鳴く秋の虫の声。

そして、絶えることのない四人の賑やかな談笑。

赤く色づき始めた紅葉の下で、四人の絆は、炭火のようにじんわりと、けれど確かに温かく深まっていった。


「それにしても、相変わらず空んちの庭はすげえよな。秋はこうやって紅葉が見れるし、前はここでお花見したこともあったよな」


忍は鮮やかに色づいたもみじの木を眺めながら、グラスの烏龍茶を喉に流し込んだ。


「まあ、父さんが庭の木には拘ってるからな。一応、桜の木もあるし」


空が庭の片隅に立つ立派な桜の木に目を向けると、他の三人もつられるように視線を移した。


「こうして見ると、秋の装いの桜も落ち着いていて綺麗だけど……やっぱり桜は、春のあの華やかな感じがいいよな」

「そうだね。じゃあ、今度はここでお花見をしたいね」


蜜柑は赤や黄色に彩られた桜の葉を見上げながら、春の景色を思い描くように楽しげに呟いた。


「お花見かぁ、いいな! その頃だと春休みでちょうどいい時期だしさ」


忍が身を乗り出すと、彩乃も少し頬を上気させて頷いた。


「私も……皆さんと一緒に、満開の桜を見てみたいです。きっと、すごく綺麗なんでしょうね」


彩乃の控えめながらも真っ直ぐな言葉に、空は力強く頷いた。


「よし、決まりだな。来年の春、桜が咲いたらまたこの四人で集まろう。次はバーベキューじゃなくて、重箱に詰めたお花見弁当を広げてさ」

「わぁ、お弁当なら私、腕によりをかけて作っちゃうよ!」


蜜柑が嬉しそうに拳を握る。庭は一段と賑やかな笑い声に包まれた。

数ヶ月先の春の約束。

まだ少し冷たくなり始めた秋の風の中で、四人は満開の桜の下で笑い合う自分たちの姿を、確かにその目に浮かべていた。


数時間後――。

太陽が地平線の向こうへと落ち、庭には濃い影が落ち始めた。それと同時に、秋の深まりを感じさせる冷気がじわりと肌を刺すようになる。四人のお腹はすっかり満たされ、バーベキューコンロの上では、役目を終えた網が熾火おきびの熱で静かに赤く染まっていた。

キャンピングチェアに深く腰掛け、途切れることのない会話を楽しんでいた四人だったが、ふいに空がブルリと肩を震わせた。


「……さすがに冷えてきたな。蜜柑、彩乃さん、寒くない?」


空が気遣わしげに尋ねると、二人は「大丈夫だよ」と微笑んで答える。けれど、空が辺りを見回すと、自分の席がちょうど風の通り道になっていることに気づいた。少し椅子をずらしてみたものの、一度気になりだした寒さはなかなか体から離れてくれない。


「うーん……暗くなってきたし、そろそろ中に入らないか?」


空の提案に、三人は「そうだね」と同意した。


「蜜柑と彩乃さんは先にリビングに入ってて。……あ、蜜柑、お湯を沸かしておいてもらえるかな?」

「うん、わかった。行こう、彩乃ちゃん」


二人の少女が家の中へと消えていくのを見送ってから、空は親友に向き直った。


「シンくん、悪いけど椅子とテーブルを屋根の下に移動させておいてくれるか。俺は火の始末をしてから行くよ」

「了解。任せとけ」


数分後、後片付けを終えた空と忍がリビングに足を踏み入れると、そこではすでに海も加わった三人が、女子トークの真っ最中だった。


「ふぅ……天国だな、ここは」


忍はそう言いながら、炭の匂いが染み付いたジャンパーを脱ぎ始めた。


「まあ、それだけ外が寒かったってことだろ」


空も上着を脱いで、床の端へと置いた。蜜柑はその様子を見て、甲斐甲斐しく立ち上がる。


「二人とも、お疲れ様。何、飲む?」


ソファ前のテーブルには、すでにココアの入ったマグカップが三つ並んでいる。


「じゃあ、俺もココアにしようかな。シンくんももそれでいいか?」

「ああ、頼むよ」


忍は答えながら、脱いだジャンパーを丁寧にたたみ、ふと思い出したように海へ視線を向けた。


「そういえばさっき、海先輩は仕事って言ってましたけど……」

「海・姉・ちゃん、でしょ?」


海がピシャリと言葉を遮り、いたずらっぽく眉をひそめて忍を覗き込む。


「ははは……そのノリ、まだ続いてたんだ」


忍は乾いた笑いを漏らし、ごくりと喉を鳴らした。


「……で、海姉ちゃんは、何の仕事をしていたの?」


忍が無理やりフランクに言い直すと、空が横から口を挟んだ。


「海姉の仕事っつったら、株か為替(FX)だろ」


その言葉に、海は彩乃を意識して慌てたように手を振った。


「ちょっと……そんな言い方すると、私がお金の亡者みたいじゃない。彩乃ちゃんがいる前でやめてよ」


海が彩乃に目を向けると、彼女は少し驚きつつも、おかしそうに苦笑いを浮かべていた。


「……で、実際のところどうだったんだよ。今日の戦績は」


空がさらに踏み込むと、海は不敵にニヤリと微笑み、手元のiPadの画面を空の前に突き出した。


「げっ、マジかよ……」


そこに映し出されていたのは、空が文庫本を一冊出版した時に手にする印税に匹敵するような利益の数字だった。空は思わず大きなため息をつく。


「なんか、海姉を見てると『仕事』って何だろうって気分になってくるな」


忍も横から画面を覗き込み、目を点にしている。


「……っていうかさ、俺から見れば海姉ちゃんだけじゃなく、お前も十分現実離れした稼ぎ方してるよ。どんな高校や大学に入ったところで、早見姉弟みたいになれる気がしねえ……」


力なく肩を落とす忍に、海は穏やかな、けれどどこか核心を突くような声をかけた。


「世の中、学校では学べないことの方が断然多いからね。だから私は、大学には行くつもりがないのよ」

「それじゃ、空だってこれだけ稼げてるなら、もう学校に行く必要がないってこと?」


忍の問いに、海は静かに首を振った。


「学校で学べないことは多いけど、学校で『しか』学べないこともあるでしょ。中学や高校に行かないってことは、社会に出る上で多くの人が備えている基礎的な経験を得られないってことだから、大学に行かないこととは意味が全く違うのよ」


忍が不思議そうに首を傾げると、海はさらに噛み砕いて説明を続けた。


「簡単に言えば、高校までは『考える基礎』を学ぶところで、大学は『特定の学問』を追求するところ。物事を追求する場所は、必ずしも学校である必要はないでしょ? 例えば、動画配信者が視聴数を伸ばすために世の中のニーズを分析するのだって、立派な学問の追求じゃない。大学に行く時間と費用を天秤にかけて、自分にとってメリットが小さければ、無理に行く必要はない――私は後者を選んだ、ただそれだけのことよ」


彩乃はその話を、じっと海を見つめながら、深く頷いて聞いていた。


「海さんて……すごく自由な生き方をされているのに、決して流されているわけじゃなくて、自分なりの確かな『答え』を持って進んでいる……そんな強さを感じます」


彩乃は膝の上で手を組み、少しだけ声を弾ませて言葉を続けた。


「私は今まで、学校に行けないことが『周りから遅れてしまうこと』だと思って、ずっと不安でした。でも、海さんのお話を聞いていると、どこで何を学ぶか、どう生きるかを選ぶのは自分自身なんだって、少しだけ心が軽くなった気がします。……忍くんや空くんが海さんを慕っている理由が、なんだかわかったような気がします」


彩乃の真っ直ぐな言葉に、海は少し照れたように笑った。


「そんな立派なもんじゃないわよ」


窓の外ではすっかり日が落ち、秋の夜風が庭の木々を揺らしている。けれど、温かなココアの湯気が立ち上るリビングは、四人と一人の未来を優しく照らすような、穏やかな光に満ちていた。


そんなとき、リビングのドアが静かに開き、トレーを抱えた蜜柑が戻ってきた。

空と忍もソファに腰を落ち着けると、蜜柑が差し出したココアのマグカップを手に取り、温かな湯気ごと一口啜った。


「ふぅ……。温かさが内臓の隅々にまで染み渡るな」


空がしみじみと呟くと、カップを口にしていた海がジトっとした目を向けた。


「ちょっと、その表現……せっかくのココアが台無しじゃない。

……って、もうこんな時間? 忍くん、彩乃ちゃん、よかったら夕飯も食べていく?」


海の唐突な提案に、忍と彩乃は顔を見合わせた。


「あ、ありがとうございます。でも、まだお腹がいっぱいで……」

「海姉ちゃん、俺たちついさっきまでバーベキューしてたんだぞ。さすがに入らないって」


二人の返答に、海は「あ、そうだったわね」とケラケラと笑い声を上げた。


「じゃあ、彩乃さんからいただいたお菓子をいただこうか。甘いものは別腹って言うしね」


空はそう言ってソファから立ち上がり、海も「じゃあ私は夕飯の準備に入るわね」とリビングを後にした。


「……それにしても、空くんと海さんって、本当に仲が良くて楽しそうだね」


彩乃は、海の去っていった背中を見送りながらポツリと呟いた。


「ああ。それに海姉ちゃんは昔から面倒見がよくて、昔から色々世話になってるからな。俺、海姉ちゃんには頭が上がらないんだよ」


忍が苦笑いを浮かべて答えると、隣の蜜柑も深く頷いた。


「本当にそう。海さんだけじゃなくて、陸さんっていうお兄さんや、お父様とお母様も本当に素敵な人たちだから……ここで過ごす毎日は、すごく楽しいよ」


その言葉を聞いた瞬間、彩乃は目を丸くした。


「えっ? 蜜柑さん、ここで一緒に暮らしているの?」


蜜柑が「あ……」と声を漏らして忍に目を向けると、忍はなんとも言えない苦笑いを浮かべていた。


「いや、空から他言無用って口止めされてたからさ。彩乃にも言ってなかったんだけど……」


そんな気まずい空気の中、リビングの扉が開いた。ケーキの載ったトレーを手にした空が戻ってくると、そこには妙に縮こまっている三人の姿があった。


「ん? どうしたんだよ、みんなして」


空の問いに、蜜柑は「ごめんなさい」と手を合わせ、忍は気まずそうに頭を掻く。


「いや、その……空の家族の話をしてたらさ、蒼井がポロッと『ここで暮らしてる』って言っちゃって……」


忍が状況を説明すると、空は「あー……」と小さくため息をついた。


「まあ、彩乃さんなら別にいいよ」


空はそう言って、トレーをテーブルに置いた。そこにはケーキの他に、芳醇な香りを漂わせるコーヒーセットも用意されていた。


「ケーキを食べるなら、やっぱりコーヒーの方が合うだろ?」


空は手慣れた手つきで、四つのカップに丁寧にコーヒーを注ぎ始めた。


「そういえば来月は修学旅行だよな。北海道って言ってたけど、具体的にどこをまわるんだっけ?」


忍はカップに満たされていく琥珀色の液体を眺めながら、ふと疑問を口にした。


「たしか、円山動物園とか札幌時計台とかが候補に入っていた気がするわ」


蜜柑は記憶を辿るように、天井を見上げながら答える。


「それから……白い恋人パークでお菓子作り体験も入っていたと思うよ」


彩乃がそう付け加えると、忍は少し複雑そうな苦笑いを浮かべた。


「なんか、そういう『いかにも』なスポットに修学旅行で行くのってどうなんだろうな。相手がいないやつは、寂しくなったりしないか?」

「まあ、シンくんと彩乃さんが同じクラスだったら、一緒に回れたかもしれないのに残念だよな」

「なっ……!」


空の直球な言葉に、忍は吹き出しそうになり、隣の彩乃も耳たぶまで真っ赤にして俯いてしまった。


「お前、さらっと恥ずいこと言うなよ!」


忍が慌てて抗議するが、空は「本音だろ?」と悪戯っぽく笑い、蜜柑もその様子を微笑ましく見守っている。


「でも、自由行動の時間はクラスが違っても合流できるかもしれないよね」


蜜柑の提案に、彩乃が少しだけ顔を上げて、期待に満ちた瞳で忍を盗み見た。


「もし……もし迷惑じゃなかったら、どこか一箇所だけでも、忍くんと一緒に回れたら嬉しいな」


その消え入りそうな、けれど勇気を振り絞った彩乃の言葉に、忍は声を振るわせながらこたえる。


「め、迷惑なわけないだろ! むしろ、俺の方からお願いしたいくらいで……」


忍は顔を真っ赤にしながらも、彩乃の目をみてそう言うと彩乃は嬉しそうに微笑んだ。


――と、その時。彩乃の白っぽいスカートの膝元に、ぽたりと赤い雫が滴り落ちた。


「あっ……!」


彩乃が小さく声を上げ、三人が一斉に視線を向けると、彼女の鼻から一筋の血が流れ落ちている。


「大変、彩乃ちゃん!」


蜜柑はすぐさまポケットからティッシュを取り出し、優しく鼻に当てがった。空は瞬時に状況を判断し、保冷剤を取りに冷蔵庫へと走った。

慌ただしくキッチンに飛び込んできた空の様子に、夕食を作っていた海が手を止める。


「空、そんなに慌ててどうしたの?」

「彩乃さんが鼻血を出したんだ。保冷剤で冷やそうと思って……」


その言葉を聞くや否や、海はコンロの火を消し、予備のボックスティッシュと保冷剤をひったくるようにして空と共にリビングへ引き返した。

そこでは、蜜柑が懸命に彩乃の鼻を抑え、服に付いた汚れを拭き取っていた。忍は、代わってやりたいのにどうしていいか分からないといった様子で、青ざめた顔をして彩乃を凝視している。


「彩乃ちゃん、大丈夫よ。少しだけ前屈みになって、楽にして」


海は冷静に指示を出す。


「空、保冷剤をハンカチで包んで。彩乃ちゃんの首の後ろを冷やしてあげて」


指示通りに空が手際よく動くのを見届け、海は周囲の様子を確認してふぅと一つ息を吐いた。


「……外の冷え込みから、急に暖かい部屋に入ったからかしら。少しのぼせちゃったのかもしれないわね」


空は首筋を冷やす役目を心配そうな忍に交代すると、キッチンから冷たい水を用意してテーブルに置いた。

忍は震える手で保冷剤を受け取ると、壊れ物に触れるような手つきで彩乃の首筋を冷やし始めた。


「ごめんね……みんな。せっかく楽しかったのに……」


ティッシュ越しに、彩乃が申し訳なさそうに、くぐもった声を出す。


「何言ってるんだよ。彩乃が謝ることじゃないだろ」


忍が必死に声をかけると、その必死さが伝わったのか、彩乃は少しだけ瞳を潤ませて小さく頷いた。

幸いにも海の迅速な処置が功を奏し、出血はほどなくして収まった。


「でも、この状態で彩乃ちゃんを歩かせて帰すのは心配ね……」


海は壁に掛けられた時計を仰ぎ見た。


「そろそろお兄ちゃんが帰ってくる頃だから、車で送ってもらいましょ」


海が優しく語りかけると、彩乃は申し訳なさそうに、けれど安心したように「ありがとうございます……」と小さく応えた。

空が少し冷めてしまったコーヒーを口に含みながら、五人で穏やかな談笑を続けていると、やがて玄関の開く音が響いた。間もなくして、リビングに長男の陸が姿を現す。

忍と彩乃は陸に向かって丁寧にお辞儀をした。


「よう、忍。久しぶりだな」

「どうも、陸先輩。ご無沙汰しています」


忍が居住まいを正して挨拶すると、陸は「相変わらずだな」と苦笑いを浮かべた。


「お前は昔から堅苦しいっていうか……。――ところで、そっちの可愛い子は? 忍の彼女か?」


その直球すぎる問いに、忍はコーヒーを吹き出しそうになり、彩乃もまた、止まったばかりの血が再び上ってきそうなほど顔を真っ赤に染め上げた。


「お兄ちゃん! 彩乃ちゃん、やっと鼻血が止まったんだから。興奮させるようなこと言わないでよ」

「おっと、そりゃあ悪かった」


海に嗜められ、陸は苦笑しながら手を上げた。そんなやり取りに、彩乃は慌てて首を振る。


「仙水彩乃です。お邪魔しています……」


彩乃の自己紹介を聞くと、海がさりげなく話を繋いだ。


「そういえば、今日は里絵さんは一緒じゃないの?」

「ああ、里絵は今実家に帰っていてな」


陸が答えると、海は「それなら」と本題を切り出した。


「お兄ちゃん、今彩乃ちゃんの体調が落ち着いたばかりだから、二人を送っていってあげてほしいの。その間に私が夕飯を作っておくから」

「ああ、分かったよ。お安い御用だ」


陸が快諾すると、二人は残ったコーヒーを飲み終え、身支度を整えて玄関へと向かった。


「今日は、本当にいろいろとありがとうございました……」


玄関先で、彩乃は海、空、蜜柑の三人を前に深々とお辞儀をした。


「ううん、気にしないで。またいつでも遊びに来てね」


温かな言葉を交わした後、二人は玄関を出て、門の前に横付けされた陸の車に乗り込んだ。

車内では、陸が気を利かせたつもりか、忍が小さかった頃の微笑ましい失敗談を次々と披露し始めた。彩乃の弾んだ笑い声と、忍の「ちょっと、陸先輩!」という羞恥の叫びを乗せて、車は夜の街を滑るように走り、まずは彩乃の自宅へと彼女を送り届けた。

彩乃を見送った後、車内には少しだけ静寂が訪れた。


「……いい子じゃないか。大切にしろよ、忍」


陸の不意の言葉に、忍は夜の車窓を見つめたまま「分かってますよ」と小さく呟いた。その後、自宅前で車を降りた忍は、去りゆく車のテールランプを見送りながら、今日という一日を反芻していた。鼻血を出した時の動揺、彼女の首筋を冷やした時の手の震え、そして最後に彼女が見せた笑顔。


秋のバーベキューを境に、四人の仲はより一層深まっていった。週末になれば、忍と彩乃が近所の公園で日向ぼっこをしているところに、空と蜜柑が差し入れを持って合流するのがいつもの風景になった。

しかし、その穏やかな日常の端々に、拭い去れない違和感が染み出し始めていた。

ある晴れた午後、四人でショッピングモールへ映画を観に行った時のことだ。チケットを買ってエスカレーターに乗っている最中、不意に隣にいた彩乃がガクンと膝をついた。


「彩乃!」


忍が慌てて支えなければ、そのまま崩れ落ちていただろう。


「ごめんね……ちょっと、立ちくらみがしちゃって」


彩乃は蒼白な顔で微笑んだが、その唇には全く血の気がなかった。映画が始まってからも、彼女はスクリーンを見つめることさえ辛そうで、暗闇の中で何度も何度も、ハンカチを鼻に当てていた。映画が終わる頃には、その白い布地は隠しきれないほどの鮮血で赤く染まっていた。


「最近、よく出るんだよね……」


恥ずかしそうに俯く彼女の言葉を、忍は「乾燥してるからかな」と無理に明るく返した。けれど、その指先がわずかに震えているのを空は見逃さなかった。

別の日、近所の遊歩道を四人で歩いていると、彩乃はわずか数百メートル歩いただけで息を切らし、足が前に出なくなってしまった。


「……ごめんね。今日は少し、体が重いみたい」


結局、忍が彼女を背負って家まで届けることになった。忍の背中で眠るように目を閉じる彩乃の体は、以前にも増して驚くほど軽くなっていた。


やがて、彼女は学校を休む頻度が増えていった。

蜜柑のクラスでも、彩乃の席が空いているのが当たり前のようになっていく。忍は毎日、放課後になると彼女の家へプリントを届けに行ったが、玄関先で彼女の母親から「今は少し熱があって寝ているの」と告げられ、顔を見ることさえ叶わない日が増えていった。

そして冬の足音が聞こえ始めた十一月の末、忍から空の元へ一本の電話が入った。


「空……彩乃が、入院したって」


忍の声は、今にも消え入りそうなほど掠れていた。病名は告げられていないという。ただ、検査の結果が芳しくなく、長期の療養が必要になったということだけを、忍は母親から聞かされた。

週末、空と蜜柑、そして忍の三人は、市立病院の白く長い廊下を歩いていた。消毒液の匂いが鼻を突く。案内された個室のドアをそっと開けると、そこには清潔なシーツに包まれた、透き通るほどに白い彩乃がいた。


「あ……みんな、来てくれたんだ」


彼女の腕には、細い管が繋がっている。窓から差し込む冬の光を透かす彼女の肌には、あちこちに覚えのない紫色の痣が浮かんでいた。それが何を意味するのか、誰も口には出せなかった。


「北海道の修学旅行、もうすぐだよね」


彩乃が無理に声を弾ませる。


「忍くん、私がいなくても……ちゃんと楽しんできてね。時計台の写真、絶対に見せてほしいな」

「何言ってんだよ。彩乃が行けないなら、俺も――」

「ダメだよ」


彩乃は優しく、けれど強く忍の言葉を遮った。


「私のために誰かが悲しむのは、一番つらいの。みんなが笑って、楽しい思い出を話してくれるのが、私には一番の薬なんだから」


忍は堪えるように拳を握りしめ、ただ「……わかった」とだけ答えた。

面会時間が終わり、三人が病室を出ると、廊下の陰で待っていた彼女の母親が深々とお辞儀をした。


「いつも彩乃と仲良くしてくださって、ありがとうございます。あの子……本当はとても怖いはずなのに、皆さんの前では無理をして笑っているんです。どうか、これからも変わらずに接してあげてください」


帰り道、三人は言葉を失ったまま夕暮れの街を歩いた。

空は、かつて海が言っていた「学校でないと学べないこと」という言葉を思い出していた。今、この瞬間に彼らが学んでいるのは、教科書には載っていない「大切な人の喪失」への恐怖だった。


「空くん……」


蜜柑が空のコートの裾をぎゅっと掴んだ。


「仙水さん、また四人でバーベキューできるよね? 春になったら、ここでお花見できるって約束したもんね」


空は蜜柑の手を握り返し、前を歩く忍の背中を見つめた。忍の肩は、冷たい風に打たれて小さく震えているように見えた。


「ああ、もちろんだよ。……約束したんだからな」


空の言葉は、自分自身を言い聞かせるような響きを持っていた。

しかし、現実は彼らの願いをあざ笑うかのように加速していく。

十二月に入り、北海道への修学旅行が目前に迫った頃。忍の元に届く彩乃からのメッセージは、次第に短くなっていった。


「今日は一日中寝てたよ」

「食欲があまりなくて、ごめんね」

「外の雪、綺麗かな?」


そして修学旅行出発の前夜。

忍のスマートフォンに、一枚の写真が送られてきた。

それは、病院のベッドの上で、忍がプレゼントしたマフラーを首に巻き、少しだけ照れくさそうに微笑む彩乃の姿だった。


『北海道、気をつけて行ってきてね。忍くんのことが、大好きだよ』


それが、彼女が自らの指で打ち込んだ、最後の一言になった。忍は、暗い部屋でその画面をいつまでも、いつまでも眺め続けていた。

翌朝、羽田空港に集まったクラスメイトたちの喧騒の中で、忍だけがどこか遠くを見つめていた。空はそっと忍の隣に立ち、その肩に手を置いた。


「シンくん……行こう」

「……ああ」


北海道への旅が始まる。

けれど、四人で交わした「春の約束」は、冷たく凍てつく冬の空の下で、今にも消え入りそうな灯火のように揺れていた。

忍は震える指先で、画面に浮かぶ彩乃の笑顔を見つめていた。「忍くんのことが、大好きだよ」――その一言が、網膜に焼き付いて離れない。彼は溢れそうになる涙をこらえ、祈るような心地で返信を打ち込んだ。


『俺も、彩乃のことが大好きだよ。北海道のお土産、楽しみにしてて』


送信ボタンを押す。しかし、いつもならすぐに付くはずの「既読」の二文字は、一分経っても、十分経っても現れなかった。忍はその夜、スマートフォンの画面を握りしめたまま、一睡もできずに朝を迎えた。

羽田空港の喧騒は、今の忍にとって別世界の出来事のようだった。クラスメイトたちが修学旅行の期待に胸を躍らせ、はしゃぎ回る声が、鼓膜を素通りしていく。空は隣で、何も言わずに忍の肩を抱いていた。その沈黙だけが、今の忍には唯一の救いだった。

北海道の四日間、忍はまるで魂が抜けた抜け殻のようだった。

小樽の運河を歩いても、札幌の時計台を見上げても、彼の脳裏にあるのは病室の白いシーツと、彩乃の透き通るような肌だけだ。自由行動の時間、忍は蜜柑と空に付き添われ、白い恋人パークを訪れた。


「……これ、彩乃が作りたがってたやつだよな」


忍は、お菓子作りの体験コーナーを遠くから見つめ、ぽつりと呟いた。彼は売店で、彩乃が一番好きだと言っていたチョコレートの詰め合わせを、壊れ物を扱うように丁寧に買った。


「これ渡したら、あいつ、またあの顔で笑ってくれるかな」

「……ああ。きっと喜ぶよ」


空の返事には、どこか痛みを堪えるような響きがあった。

しかし、その四日間、彩乃へのメッセージに既読が付くことはなかった。

最終日の千歳空港。帰りの飛行機を待つ間、忍は何度もスマートフォンの電源を入れ直した。電波の状態が悪いわけではない。ただ、向こう側からの反応がない。その沈実が、忍の胸に鉛のような重みを与えていた。


「シンくん、帰ったらすぐ、病院に行こう」


空の言葉に、忍は力なく頷いた。

東京に戻り、羽田に着くなり、忍は解散式もそこそこにタクシーに飛び乗った。空と蜜柑も、黙ってその後に続いた。手に持った北海道の大きな紙袋が、カサカサと虚しい音を立てる。

夜の市立病院。三人は走り抜けるようにして、彩乃の病室へと向かった。


「彩乃! 」


忍が勢いよくドアを開ける。しかし、そこに広がっていたのは、想像を絶する静寂だった。

ベッドの上にはシーツ一枚残っておらず、マットレスの無機質な青い色が剥き出しになっていた。サイドテーブルの花瓶も、彼女が大事にしていたぬいぐるみも、何一つ残っていない。窓が開け放たれ、冬の冷たい風がカーテンを虚しく揺らしているだけだった。


「嘘……だろ」


忍の腕から、お土産の紙袋が滑り落ちた。そこへ通りかかった看護師が、三人の姿を見て痛ましそうに目を伏せた。


「仙水さんは……一昨日の夜、ご自宅へ戻られました」


三人は、何かに突き動かされるように病院を飛び出し、彩乃の自宅へと向かった。

住宅街の角を曲がった瞬間、忍の目に飛び込んできたのは、煌々と明かりがついた仙水家の玄関と、そこに出された「御通夜式」の看板だった。


「……いやだ」


忍はよろめきながら、玄関をくぐった。線香の匂いが立ち込める座敷の奥、白い布に包まれた棺のそばに、彩乃の両親が座っていた。忍の姿を見るなり、母親が声を上げて泣き崩れた。


「忍くん……ごめんなさい。あの日、あなたにメッセージを送った直後、あの子、急に意識を失って……そのまま、眠るように……」


彩乃は、最後の一力を振り絞って忍に「大好き」と伝えたのだ。その直後に深い昏睡に陥り、修学旅行の二日目の夜、忍たちが北海道の雪景色を眺めていたその時刻に、静かに息を引き取ったという。

忍は、祭壇に飾られた彩乃の遺影を見つめた。あの日、早見家の庭で笑っていた、あの輝くような笑顔。


「彩乃……なあ、彩乃! お土産、買ってきたんだよ! 一緒に食べようって言ったじゃないか!」


忍は祭壇の前で膝をつき、子供のように声を上げて泣き崩れた。


「大好きだって、返したんだよ……! なんで読んでくれないんだよ! 彩乃、目を開けてくれよ……!」


畳を叩き、嗚咽を漏らす忍の背中を、空と蜜柑は涙を流しながら支え続けることしかできなかった。

翌日の葬儀には、クラスメイトの多くが参列した。皆、あまりに突然の級友の死に言葉を失い、静かに涙を流していた。出棺の際、忍は彩乃の手の中に、北海道で買ったチョコレートをそっと忍ばせた。


「向こうで、食べてくれよな」


その声は、もう震えていなかった。ただ、深い絶望と、愛おしさが混ざり合った、枯れた響きだった。

火葬場へと向かう霊柩車を見送った後、空、蜜柑、そして忍の三人は、公園のベンチに座っていた。冬の澄んだ空が、どこまでも高く、残酷なまでに青い。


「シンくん……」


空が、忍の肩にそっと手を置いた。


「……空。俺さ、あいつと出会えて、本当によかったと思ってるんだ」


忍は、赤く腫らした目で空を見上げた。


「短かったけど……あいつが教えてくれたんだ。人を好きになることが、こんなに苦しくて、でもこんなに幸せなんだってこと」


蜜柑が、忍の手を優しく包み込んだ。


「忍くん……仙水さんはね、きっと今も忍くんの隣で笑ってるよ。忍くんが悲しんでると、あの子、また困った顔しちゃうから」


忍は、空を仰いだ。


「ああ。わかってる。……春になったらさ、またあいつの家に行って、報告してやるんだ。桜が綺麗に咲いたぞって。……一緒に、花見しようってな」


忍の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。

それは、別れの涙ではなく、彼女と共に生きていくという決意の雫だった。

早見家の庭に植えられた桜の木は、今はまだ固い蕾のまま、静かに冬の寒さに耐えている。その蕾の中に、四人で交わした約束の続きが、大切に守られているような気がした。

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