第七話 思いがけないプレゼント
令和元年十月一日 火曜日 朝
つい数日前までは、まだ夏が居座っているかのような蒸し暑さに辟易し、秋の訪れを今か今かと待ちわびていた。
……けれど、カレンダーがめくられた途端に、手のひらを返したように肌寒さを感じてしまうのだから、人間の感覚というのはつくづく現金なものに思える。あるいは、日付という記号に意識が誘導される一種のプラシーボ効果なのかもしれない。
一ヶ月前、今年初めて袖を通した夏服を片付け、空はクローゼットの奥から冬服を引っ張り出していた。
学生という身分なら、誰もが一度は身に覚えがあるのではないだろうか。クリーニングのタグをうっかり付けたまま登校してしまい、クラスメイトに指摘されて顔を真っ赤にする……なんていう、あのちょっとした「衣替えの悲劇」を……
そんな悲劇を二度と繰り返さないために。空はビニールを剥がした制服を検品するかのような目つきで念入りにチェックし、タグの切り忘れや、型崩れ防止の「しつけ糸」が残っていないかを確認していく。
ようやく準備を整え、冬服に身を包んだ空は自室のドアを威勢よく飛び出した。すると、まるで測ったかのようなタイミングで隣の部屋のドアが開き、同じく冬服に着替えた蜜柑が姿を現した。
「あ、空くん。おはよう」
「おはよう、蜜柑」
朝一番に顔を合わせ、自然とこぼれる柔らかな微笑み。二人は足並みを揃えて階段を降り、賑やかな香りが漂うキッチンへと向かった。そこには、いつものように朝食の準備に精を出す海の背中があった。
「海さん、おはようございます」
「海姉、おはよう」
背後からの声に、海がひらりと振り返る。
「おはよう、二人とも」
空は鼻歌交じりでフライパンをふりながら、次々にテーブルの皿にスクランブルエッグとウィンナーを乗せていく。
今日陸は里絵のアパートに泊まっていて、両親もまた朝早くに仕事に出掛けてしまい三人だけの朝食となっている。空は三人分のコーヒーカップを用意して、コーヒーを注ぎ入れる。また蜜柑は冷蔵庫から海お手製のカスピ海ヨーグルトを器に入れ、ブルーベリージャムを添えている。
いつの間にか朝の分担がきまり、それぞれの作業を終えた三人はテーブルについた。
「「「いただきます」」」
三人は揃って食卓を囲み、朝の穏やかな時間を過ごし始める。空は香ばしく焼けたトーストにスクランブルエッグを乗せ、それを口に運びながら、ふとテーブルの隅に置かれた見慣れない封筒に目を留めた。
「ん? なんだこれ」
空は好奇心に駆られて封筒を指でつまみ上げると、キッチンの照明にかざして中身を透かし見ようとする。その仕草を見た海が、思い出したように口を開いた。
「ああ、それ…… お母さんから空と蜜柑さんへのプレゼントだって」
「プレゼント……?」
意外な言葉に、空だけでなく蜜柑まで不思議そうに首を傾げた。空が丁寧に封筒の封を切ると、中から滑り出してきたのは石垣島への航空券と、リゾートホテルの宿泊チケットだった。
「え、沖縄旅行!?」
「……みたいだね」
予想外の豪華な内容に、空と蜜柑は顔を見合わせた。
「お母さんのクライアントさんから頂いたんだって。お兄ちゃんと里絵さんはしょっちゅうあちこち出かけてるから、今回は空と蜜柑さんにあげることにしたんだってさ」
「へぇ……。でも、海姉は行かなくていいのか?」
「私、今は生徒会の仕事とかで結構忙しいのよね。それに――」
海はニヤリといたずらっぽく口角を上げると、二人を冷やかすように言葉を継いだ。
「せっかくの二人の仲を邪魔するのも野暮でしょ。水入らずで楽しんできなさいな」
「そういうことなら……」と、二人は顔を赤らめつつもその好意を受け取り、再び朝食の手を動かし始めた。
朝食を終えた二人は、冬服の感触を確かめるように肩を並べて玄関を出た。秋の澄んだ空気を吸い込みながら、学校へと向かって歩き出す。
「ねぇ、空くん。さっきの旅行って、いつ行くことになってたの?」
「来週の三連休だよ。二泊三日だから、土曜の朝に出発して月曜の午後に帰ってくる予定だね」
空が答えると、蜜柑の表情がぱっと花が咲いたように明るくなった。
「そうなんだ……。旅行なんて初めてだから、すごく楽しみ」
「えっ、初めて? でも、小学校の修学旅行とかあったでしょ?」
何気ない問いかけに、蜜柑はふっと視線を落とし、頬をかすかに赤らめた。
「実は私、行ってないんだ。小学校の時も、ほら……色々あったからさ」
その言葉に、空はハッとして口を閉ざした。彼女が抱えてきた蒼井家の波乱に満ちた事情――それを思えば、学校行事どころではなかったはずだ。
(それにしても、付き合い始めたばかりの中学生カップルにお泊まり旅行をプレゼントするうちの親って、一体……)
家庭環境のギャップに頭を抱えそうになったが、隣で子供のように目を輝かせている蜜柑を見ていると、そんな悩みもどうでもよくなってくる。
「じゃあさ、今週末に旅行の買い物に行こう。蜜柑、キャリーケースとか持ってないだろ? それに沖縄なら、その……水着も必要だし……」
「水着」という単語を口にした瞬間、空はあのプールの事件を思い出して言葉を詰まらせた。だが、蜜柑はそんな空の気遣いを察したように、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「プールじゃなければ大丈夫だよ。せっかく沖縄に行くんだもん、一緒に泳ごうよ、空くん」
弾んだ彼女の声に背中を押され、空は照れ隠しに短く「……うん」とだけ答えた。
そして迎えた日曜日の午後――
二人は駅前の巨大なショッピングモールへと繰り出した。
「よし、まずはキャリーケースだな! まぁ、荷物が入れば何でも……」
空がそう言いかけた時、蜜柑の弾んだ声に遮られる。
「空くん、見て! この猫の耳がついてるケース、可愛い!」
「うーん。確かに可愛いけどさ、それ引っ張ってたら完全に『猫の散歩』してるみたいにならないか?」
「そう?猫耳ケースひいてる空くん見たい気がするけど」
蜜柑は残念そうに声をあげた。
「いやいや…… 俺のキャリーケースはあるから、買うのは蜜柑のだけだよ。
それに今度の修学旅行でも使うからあんまり奇抜なのは……」
そんな感じで空は商品棚を見回す。
「うん。これいいんじゃない?」
そう言って手にしたのはオレンジ色のキャリーケース。
「うん。それも可愛い」
「それにこの色、蜜柑の名前にピッタリでしょ」
そう言われて、蜜柑は少し顔を赤らめながら頷いている。
「次は着替えかな」
「あ、服は海さんにたくさんもらったから大丈夫なんだけど、し、下着はあんまり持っていなくて……その……」
消え入るような声で視線を泳がせる蜜柑。その様子に、空の顔面も一瞬で沸騰した。
「そ、そっか……。海姉に、ついてきてもらえば良かったかな」
空はあらぬ方向を見つめ、自分の動揺を知られまいと必死になる。
――と、その時。
「あれ? 蜜柑ちゃん?」
明るい声と共に、こちらへ手を振りながら近づいてくる女子の姿があった。
「空くんも久しぶりー!」
そこにいたのは、無差別格闘流・極道会の師範の娘、齋藤由希だった。
「あ、由希さん。ご無沙汰してます」
蜜柑がぺこりと頭を下げると、空も慌ててお辞儀をする。
「道場の外で会うなんて初めてだねー。もしかして、デート中?」
「あ、いや……今度、旅行に行くことになって。その買い物に来てたんです」
空は『デート』という直球のワードに、喉を鳴らしながらしどろもどろな返答を返した。
「それ、世間一般では『デート』って呼ぶんだよ?」
由希のニマニマとした笑みを浮かべたツッコミに、空と蜜柑は顔を見合わせ、真っ赤な顔で苦笑いするしかなかった。
「ほんと、相変わらず二人とも仲良いわね」
「……というか、由希さんこそ、こんなところで何してるんですか?」
空が話題を逸らそうと問いかけると、由希は露骨に視線を泳がせ、所在なさげに頬を掻いた。
「有馬病院の卓也先生、知ってるでしょ? その息子さんで、往人くんっていう高一の子がいるんだけどさ。なんか……映画と食事に誘われちゃって」
あの勝気な由希が、借りてきた猫のように頬を染めてもじもじしている。
「それこそ……完全にデートじゃないですか!」
ここぞとばかりに空が指を指すと、由希は「うっ」と喉を詰まらせた。
「い、いや、これはその、なんていうか……戦場視察的な? 相手の出方を伺うというか……」
「映画館とレストランでどんな戦術を練るつもりなんですか」
完全にペースを奪われ、逃げ場をなくした由希は、「そんなことより!」と強引に話題の軌道を修正した。
「さっき、あなたたち困り果てた顔してたじゃない。何かあったの?」
その言葉に、二人は救い主を見つけたかのように由希へと一歩踏み出した。
「すみません由希さん。ちょっと……お願いがあるんです」
二人が事情を説明すると、由希は「なるほどね」と深く頷いた。
「確かに、中学生カップルが二人で下着売り場に突撃するのは、なかなかにハードルが高いわよね」
納得したように腕を組んだ由希だったが、腕時計を確認した次の瞬間、パッと花が咲いたような満面の笑みを二人に向けた。
「いいわ、任せて。 私が最高に素敵な一着を見繕ってあげる!」
「えっ、あ、ちょっと!」と言う間もなく、由希は蜜柑の手をがっちりと掴み、ランジェリーショップがひしめくフロアへと颯爽と歩き始めた。空はひとまずの解決にホッとしつつも、妙にテンションの上がった由希の背中に言い知れぬ不安を感じずにはいられなかった。
エスカレーターを昇ったその先は、まさに「禁域」。眩しいほどの照明に照らされ、色とりどりのレースやシルクがこれでもかとディスプレイされている。女子であるはずの蜜柑ですら、その華やかすぎる光景に顔を赤らめて固まってしまうほどだ。
しかし、由希は一切の躊躇なく蜜柑を引き連れ、フリルとリボンの迷宮の奥深くへと消えていった。
空はその入り口に張られた見えない「結界」に弾き返され、しばらく呆然と立ち尽くしていた。だが、ようやく我に返ると、エスカレーター脇のベンチに腰を下ろした。
ふと見渡せば、そこには自分と同じように「置いてけぼり」を食らったと思われる男性たちが数人、魂が抜けたような顔で座っている。空の口から、今日一番の深いため息が漏れ出した。
三十分ほどして大きな紙袋を携えた蜜柑と由希が戻ってきた。蜜柑は恥ずかしそうに紙袋を抱き抱えている。
その脇では満足そうに由希が微笑んでいた。
「由希さん、ありがとうございます。じゃあ品物代を……」
と、空が財布を取り出そうとした時――
由希は腕時計に目をやり慌てたようにエスカレーターに飛び乗った。
「それ、私から蜜柑ちゃんへのプレゼントにするわ。それじゃ二人ともまたね。」
由希は蜜柑の方を向いたまま、手をブンブンふっている。
「蜜柑ちゃん! 帰ってきたらお土産話聞かせてね」
由希はウィンクをしながら満足げな笑みを浮かべ、嵐の去り際のように下の階へと消えていった。ようやく静寂が戻り、空は深いため息とともにがっくりと肩を落とした。
「由希さん、台風みたいに去っていったね」
蜜柑が苦笑いを浮かべながら、そっと空の顔を覗き込む。
「……ホント。よし、じゃあ――気を取り直して、水着を買いに行こうか」
「水着選び」も中学生カップルにとってはなかなかに高いハードルのはずだが、先ほどの「ランジェリーの迷宮」に比べれば、今の空には公園の散歩に等しい難易度に感じられた。
二人はスポーツ用品店へ入り、そのまま水着売り場へと直行した。だが、さすがに十月ともなればシーズンオフ。棚に並んでいるのはストイックな競泳用が大半で、レジャー用の華やかな水着は数えるほどしか残っていなかった。
「やっぱりこの時期だと種類が少ないな。どう? 気に入ったの見つかりそう?」
空が問いかけると、蜜柑は「うーん……」と小さく唸りながら、二つのハンガーを手に取って真剣に悩み始めた。
「ねぇ、空くん……どっちがいいかな?」
蜜柑が差し出したのは、淡いピンクにフリルをあしらった「直球の可愛い系」と、もう一方は少し大人びた印象を与える、白黒ドット柄のセパレートタイプだった。
「うーん……こっち、かな」
空が指差したのは、白黒のビキニだった。
「へぇ……男の子って、こういう方が好きなんだ?」
上目遣いでじっと顔を覗き込む蜜柑の視線に耐えきれず、空はあからさまに顔を逸らした。
「ピンクのも似合うと思うけど、蜜柑ならこっちの方が……その、大人っぽくていいかなって」
「ふふっ、じゃあこれにするね。空くん、顔が真っ赤だよ?」
買い物袋が増えるたびに空の精神力は目減りしていき、対照的に蜜柑のテンションは最高潮に達していく。
その後、日焼け止めや細々とした旅の必需品を買い揃える頃には、空の両手はちぎれんばかりの袋で埋め尽くされていた。
「あー、楽しかった! 空くん、荷物重そうだね。半分持つよ?」
「だ、大丈夫だって……。それより、あそこで少し休憩しないか?」
空が指差した先には、お馴染みのマクドナルドの看板。飲食スペースの椅子に荷物をドサリと下ろすと、空はスマホを取り出し、モバイルオーダーの画面を開いた。
「蜜柑、何飲む?」
「じゃあ―― ストロベリーシェイク、お願い」
「オッケー。俺はアイスコーヒー。食べ物はポテトでいいよな?」
数分後、受け取りカウンターから運んできたアイスコーヒーを、空は席に着くなり一気に喉へと流し込んだ。
「ああっ……生き返った……」
外の冷え込みを警戒して厚着をしてきた二人だったが、暖房の効いたモール内を荷物満載で歩き回った空の体温は限界まで上昇し、薄っすらと汗をかくほどだった。空は二口でカップを空にすると、残った氷をガリガリと噛み砕く。
「だから、私も持つって言ったのに……」
「いや、マジで大丈夫だから……」
蜜柑に頼るのは格好悪い――そんな幼いプライドが邪魔をして、結局最後まで荷物を渡す気にはなれなかった。空はポテトを数本まとめて口に放り込む。程よい塩気が、疲弊した体に心地よく染み渡っていく。
「まぁ、とりあえず買い物はこんな感じだよな。足りないものがあっても、最悪現地で買えばいいわけだし」
スマホのメモをスワイプしながら確認する空。その横で、蜜柑は少し硬めのシェイクを一生懸命に吸い込みながら、満足げに何度も頷いていた。
買い物から帰った後の数日間、学校での二人はどこか浮き足立っていた。休み時間のたびに「石垣島の天気予報」をチェックし、ガイドブックを広げては「ここに行きたい」「これが食べたい」と計画を練る。それは、数ヶ月前まで「呪いの目安箱」や「連正会」の影に怯えていた二人からは想像もつかないほど、ありふれた、そして幸せな中学生の日常だった。
令和元年十月十二日 土曜日
早朝の空気は、冬服の生地を通り抜けて肌を刺すように冷たかった。
駅のホーム、始発に近い電車を待つ空と蜜柑の周りには、大きなキャリーケースが二つ。吐き出す息がわずかに白く混じり、季節の移り変わりを実感させる。
「空くん、チケット……持ったよね? お財布は? 忘れ物、ないかな」
隣に立つ蜜柑は、さっきから何度も自分のリュックの中身を確認している。その指先はわずかに震えていて、緊張がこちらまで伝わってくるようだった。
「大丈夫だよ、蜜柑。チケットは俺が預かってるし、忘れ物したって現地で買えばいいんだから。そんなにガチガチにならなくていいって」
空は努めて冷静に、少しだけ「お兄さん」ぶった口調で言った。
実は空自身、親の仕事の関係で小さい頃から飛行機には何度も乗っている。手続きの流れも、羽田空港の構造も頭に入っている。……けれど、隣に「初めての飛行機」に目を白黒させている女の子がいる状況で、その緊張は空にも伝染してきている。ポケットの中でチケットを握りしめる空の手も、実は少しだけ汗ばんでいた。
羽田空港に到着すると、蜜柑の「初めて」は加速した。自動チェックイン機の前に立てば「これ、何が出てくるの?」と驚き、保安検査場の金属探知機を見ては「私、鳴らないかな……大丈夫かな」と不安そうに空の服の裾を掴む。
「大丈夫だって。ほら、スマホとか鍵はカゴに入れただろ? そのまま歩けばいいんだよ」
ぎこちなくリードしながら検査場を抜けると、目の前には巨大な窓から見える飛行機の群れがあらわれた。
「わぁ……大きい……! 空くん、あれに乗るの?」
「ああ。石垣島まで三時間くらいかな。空飛んじゃえば、あっという間だよ」
搭乗ゲート前の椅子に座り、出発を待つ。空は旅行慣れしているフリをして、手元のガイドブックを広げて見せた。
「えっと、空港着いたらバスでホテル向かって、それから……」
「空くん、逆さまだよ。本」
「えっ、あ、本当だ。……ちょっと目が疲れててさ」
必死にリードしようとして空回りする空を見て、蜜柑が「ふふっ」と小さく笑った。その笑顔を見て、ようやく空の肩の力も少しだけ抜けた。
機内に入ると、空は当然のように蜜柑を窓側の席に譲った。
「初めてなんだから、外見てなよ。離陸の時、地面がどんどん遠くなるの、結構面白いから」
「ありがとう、空くん……」
やがて飛行機が動き出し、エンジン音がひときわ大きく響き渡る。滑走路を猛スピードで走り始めた瞬間、蜜柑は「ひゃうっ」と短い声を上げて、隣の空の腕をギュッと抱きしめた。
「そ、空くん! 速い! 浮いてる! 浮いてるよね!?」
「落ち着けって、蜜柑。大丈夫、これが普通だから。ほら、もうすぐ雲の上に出るよ」
腕に伝わる蜜柑の体温と、柔らかい感触。空の心臓は、飛行機のエンジン音よりも激しく脈打ち始めた。前を向いたまま、顔が赤くなるのを隠すように天井の読書灯を見つめる。
「……窓の外、見てみなよ」
空に促され、おずおずと窓の外を覗き込んだ蜜柑が、感嘆の声を上げた。
「すごぉい……! 雲が綿あめみたい。あんなに遠くに街が見える……ねぇ空くん、見て、綺麗だよ!」
興奮して空の顔を覗き込む蜜柑。その距離は、学校の教室では決してありえないほど近い。蜜柑の瞳には、窓の外の青い空と、困ったように笑う空の姿が映っていた。
「……本当だな。綺麗だ」
空が見つめていたのは、窓の外の景色ではなく、輝くような笑顔を見せる蜜柑の横顔だった。
三時間のフライト。
最初は興奮していた蜜柑も、やがて一定のエンジン音に誘われるようにウトウトとし始めた。いつの間にか空の肩にコトン、と彼女の頭が乗る。
空は石のように固まった。
(うっ、可愛い……)
耳元に聞こえる蜜柑の静かな寝息に聞き耳を立てていると、空の意識も深いところに落ちていく。そして空もまた蜜柑の頭に顔を預け寝息を立てるのだった。
「……まもなく、石垣空港に着陸いたします」
機内アナウンスで目を覚ました蜜柑は、二人が頭を寄せ合って寝ていたことに気づき、真っ赤になって飛び起きた。
「ご、ごめん空くん! 重かったよね!?」
「全然。……俺もごめん。蜜柑の頭を枕にしてた」
そんなやり取りをしている間に、窓の外の景色は一変していた。どこまでも透明な、エメラルドグリーンの海。珊瑚礁が描く不思議な模様。
「南国……だ」
飛行機のドアが開いた瞬間、流れ込んできたのは、東京の冷たい空気とは正反対の、湿り気を帯びた花の香りと、包み込むような生ぬるい風だった。
タラップを降り、石垣空港のロビーへ足を踏み出す。
「めんそーれ」と書かれた看板を見て、二人はようやく実感を噛み締めた。
「着いたな、沖縄」
「うん……! 暑いくらいだね、空くん」
二人は上着を脱ぎ、腕に抱えた。
キャリーケースを引きながら歩き出す二人の間には、まだ十センチほどの絶妙な距離がある。けれど、歩くたびに二人の手が、指先が、偶然を装うようにかすかに触れ合った。
「さぁ、行こうか。最初の目的地は……えっと、アイス食べられるお店、近くにあるみたいだし」
「賛成! 南国の味、食べてみたい!」
ぎこちなく、けれどしっかりと蜜柑をエスコートしようとする空。その後ろを、こぼれんばかりの笑顔でついていく蜜柑。青い空の下、二人の特別な二泊三日が、今静かに幕を開けた。
空港を出た二人は、南国特有の湿り気を含んだ風に包まれながら、宿泊先へと向かう路線バスに乗り込んだ。
動き出したバスの車窓から見えるのは、東京の無機質なビル群とは対照的な、生命力にあふれた緑の風景だった。どこか懐かしさを覚えるのどかな平屋の家々、そして木々の合間から不意に姿を現す、エメラルドグリーンの遠浅な海岸線。その鮮やかさに、蜜柑は「うわぁ……!」と思わず窓に張り付くようにして歓声を上げた。
「見て、空くん! 海が透き通ってるよ!」
「うん。……あんな色の海、テレビでしか見たことなかったよ」
バスに揺られること数十分、たどり着いたホテルのエントランスでは、一対の立派なシーサーが二人を待ち構えていた。空はふと思いついたように、阿形のシーサーの大きく開いた口に自分の腕を差し込み、大げさに顔を歪めて見せる。
「うわっ! 噛まれた……! 」
そんなベタな冗談を仕掛ける空を眺め、蜜柑は一瞬きょとんとした後、おかしそうに肩を揺らして笑った。
「もう、空くん。中学生にもなってそんなことするんだね」
「いや、なんか……その、一応しないといけない気がして……」
照れ隠しに腕を引き抜くと、二人は自動ドアの向こうにある開放的なロビーへと足を踏み入れた。吹き抜けの天井からは明るい日差しが差し込み、どこからか三線のゆったりとした音色が流れてくる。
フロントでチェックインを済ませる間、空はさりげなく蜜柑の横顔を伺った。不慣れな旅への不安よりも、期待に瞳を輝かせている彼女の姿を見て、まずは胸をなでおろす。
「……はい、お待たせいたしました。カードキーは二枚お渡ししますね。係の者がお部屋までご案内いたします」
手渡されたカードキーを手に、スタッフの後を追って部屋へとたどり着いた二人。ドアが開かれた瞬間、正面の大きな窓から飛び込んできたのは、視界を埋め尽くさんばかりの白砂のビーチと、水平線までどこまでも続くエメラルドグリーンの海だった。
二人は吸い寄せられるように窓際へと歩み寄り、部屋に流れ込む柔らかな潮風を全身に受ける。
「気持ちいい風……」
蜜柑はそっと目を閉じ、南国の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空はその美しい横顔を眺めて微笑んでいたが、ふと室内に目を向けた瞬間、全身の血が逆流するような衝撃を受けた。
そこには、大きなダブルベッドが中央に一つ、鎮座しているだけだったからだ。
(まじか……)
同じ部屋とはいえベッドは別々だと思い込んでいた。突きつけられた予想外の事実に、空の心臓はうるさいほどに脈打ち、顔が一気に熱くなる。
「……あ、あのさ、蜜柑」
「ん? なあに?」
振り返った蜜柑の表情は、あまりに無垢だった。
この反応……まだ気づいていないのか? それとも、最初から分かっていたのか?
空の脳内で、答えの出ない問答が激しく火花を散らす。
「……いや、なんでもない。部屋、すごい綺麗だね」
結局、空の口から出たのは、それとなく室内に意識を向けさせるための精一杯の言葉だった。ぎこちなく視線を泳がせた空に誘われるように、蜜柑が改めて部屋の中を見回す。
その直後――
「えっ!?」
蜜柑の動きが止まり、指がベッドを指したまま固まった。そのまま、おずおずと空の顔を覗き込む。二人は視線をぶつけ合い、どうしようもない気まずさに苦笑いを浮かべるしかなかった。
これまで蜜柑は早見家で寝泊まりしているが、そこはあくまで海姉の部屋だ。同じ部屋で夜を明かしたのは、あの凄惨な、蜜柑の母親が亡くなった晩の蒼井のアパートでしかなかったのだから。
「……そ、その、どうしようか。フロントに言えば、変えてもらえるかな……?」
空が震える声で提案した。せっかくの旅行で、蜜柑に嫌な思いをさせるわけにはいかない。中学生の自分たちが同じベッドで寝るなんて、やっぱり無理があるのではないか。そんな弱気が頭をもたげる。
すると、蜜柑は赤くなった顔を伏せたまま、しばらく沈黙した。
そして蚊の鳴くような声で呟いた。
「……変えなくて、いいよ」
「えっ?」
「あの……空くん……隣に、いてほしいし」
その言葉は、空の耳の奥まで熱く溶け込んできた。彼女の瞳には、恥ずかしさの中にも、空への揺るぎない信頼が宿っている。
「……そう。分かった」
空は、弾けそうになる心臓を抑えながら、短く答えた。
彼女が自分を信じてくれている。その事実が、何よりも嬉しかった。ようやく張り詰めていた肩の力が抜け、空は安堵のため息を漏らす。
「じゃ、じゃあ決まりだな。……夜、俺が蹴飛ばしたりしたら、遠慮なく叩き起こしてくれよ」
「ふふっ、空くん、寝相悪いんだ?」
「……多分。昔海姉によく怒られた」
冗談めかしたやり取りに、部屋を支配していた緊張が少しずつ解けていく。
窓の外では、波が穏やかに砂浜を洗っている。
「まずは……荷物片付けて、海でも見に行こうか」
「うん!」
蜜柑との距離が一歩縮まったような、空はそんな気がした。
二人は荷物を解くと、さっそくホテルを飛び出し、事前にスマホの「じゃらん」で目をつけておいた南国アイスの有名店へと向かった。
ホテルから歩いて数分という絶好の立地もあり、二人は道すがら、南国の花やどこか不思議な形をした木を見つけるたびに足を止め、お互いの姿を写真に収めながらのんびりと進んでいった。
たどり着いたその店は、ガイドブックで見た通りの鮮やかな佇まいで、店内は多くの観光客で賑わいを見せていた。
「ははっ……さすがは有名店だな。行列ができてる。蜜柑、どれにするか決めた?」
「うーん……もうすぐ夕飯の時間だし、あまりお腹に溜まらない、小さめのがいいな。じゃあ、私はマンゴーフローズンにするね」
「オッケー。じゃあ、俺はこっちのロールアイスクリームにしようかな」
数分後、色鮮やかなアイスを手にした二人は、店の外にあるテラス席に腰を下ろした。
「わぁ、マンゴーがすごく濃い……! 空くん、食べてみる?」
蜜柑がスプーンですくった黄金色のフローズンを、空の口元へと差し出す。
「えっ、あ、ああ。……いただきます」
空は不意を突かれて一瞬たじろいだが、断る理由などどこにもない。少し照れながら身を乗り出し、その一口をパクリと口に含んだ。
「……っ、うまっ! 本当にマンゴーそのものだな、これ」
「でしょ? 空くんのも、一口ちょうだい」
今度は蜜柑が、空の持つロールアイスを期待に満ちた目で見つめる。空は「……はいよ」と、これまたぎこちない手つきでアイスをすくい、彼女の口元へ。
蜜柑は小動物のように口をあけ、幸せそうにそれを頬張った。
「んんっ、ミルクが濃厚で美味しい……! フローズンと全然違うね」
「……だよな」
空は短く答え、自分のアイスの残りを口に運んだ。
さっき蜜柑が使ったのと同じスプーン。その事実に気づいた瞬間、冷たいアイスを食べているはずなのに、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
「あのさ、蜜柑」
「ん?」
蜜柑の唇の端に、ほんの少しだけ白いクリームがついている。空はそれを教えようとして指を伸ばしかけたが、結局恥ずかしさが勝ってしまい、自分の頬を指さして「……ついてるぞ」と教えるに留まった。
「えっ、どこ? ここ?」
慌てて指で拭う蜜柑の仕草さえ、今の空には眩しくて仕方がなかった。
十月の石垣島は、まだ夏の余韻をたっぷりと残している。溶けかけたアイスの甘い香りと、隣で笑う少女。空は、南国特有の幸福な時間の流れに身を任せていた。
「さ、食べ終わったら……ちょっとだけ砂浜、歩いてみるか」
「うん、行こう!」
二人はホテルへ戻りがてら、海岸線へと足を向けた。
空は、低くなり始めた太陽が海面を黄金色に染め上げる様子を横目で見る。水平線に落ちようとする光は、まるで万華鏡を回した時のように、波に反射して複雑な色彩を放っていた。足元に広がる真っ白な砂浜には、白く乾いた珊瑚のかけらが打ち上げられており、見慣れた関東のビーチとはまるで違う異世界の景色に、空は自分が遠くまで来たことを改めて実感した。
不意に、空は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「……蜜柑」
呼びかけながら、空は震える手で隣を歩く蜜柑の指先に触れ、そのままぎゅっと手を握りしめた。
「……っ」
蜜柑が驚いたように肩を揺らしたが、すぐにその熱を認めるように、柔らかく握り返してくる。
二人は足を止め、海の中に消えゆく太陽をじっと見つめた。空が茜色から深い藍色へと溶け込み、最後の一片が水平線の向こうへ沈みきった瞬間、二人は自然と顔を見合わせた。
すると、蜜柑の大きな瞳には、今にも溢れ出しそうな大粒の涙が溜まっていた。
「……蜜柑!? どうしたの?」
空は慌てて彼女の肩を掴んだ。
しかし、蜜柑は首を振ると、零れ落ちた涙を服の袖で拭いながら、はにかむように笑った。
「ううん、違うの。……ただ、こんなに綺麗な景色を空くんと一緒に見られたのが、なんだか信じられなくて。……私、本当に幸せだなって」
その言葉に、空は言葉を失った。
彼女がこれまでに背負ってきた、あの暗く重い日々。そして命を落としかねなかった先日のあの事件。それらを経て、今、この穏やかな波音の中に二人で立っている。
空は、握った手にさらに力を込めた。
「……これからずっと、二人で色んな景色見ような」
「……うん」
少しだけ鼻声を混じらせながら頷く蜜柑。
ロマンチックな雰囲気に耐えきれなくなった空が、「よし、お腹空いたし戻るか!」と照れ隠しに声を上げると、蜜柑も「そうだね、ご飯!」と明るい声を返した。
ホテルのレストランは、開放的なテラス席だった。テーブルの上にはキャンドルが揺れ、遠くからは潮騒が聞こえてくる。運ばれてきたのは、色鮮やかな沖縄料理と南国らしい色とりどりのフルーツ。
「わぁ、これ何? お肉がすごくプルプルしてる!」
「ラフテーだな。……ほら、蜜柑も食べてみなよ。めちゃくちゃ柔らかいよ」
普段の家庭料理とは違う、少し背伸びしたディナー。「美味しいね」と言い合いながら笑う時間は空の胸を満たしていった。
夕食を終え、時計の針は二十時を回っていた。
二人はどちらからともなく、昼間のサンセットの名残を追いかけるように、再び手を繋いで夜のビーチへと足を向けた。
夜の帳が下りた砂浜は、月の光を吸い込んで銀色に凪いでいる。波打ち際から少し離れた、緩やかな傾斜の砂浜に二人は寄り添うように腰を下ろした。
「……あーあ。もう、一日が終わっちゃうんだね」
蜜柑がぽつりと零した独り言が、夜風に溶けていく。
いつもの喧騒に満ちた日々とは違う、贅沢なほどにゆったりとした時間の流れ。けれど、ふと振り返れば、そのすべてが瞬き一つの間に消えてしまう幻のように思えてしまう。
「うん。本当に、あっという間だったな。……でも、まだあと一日半あるから。明日はもっと、二人でたくさん思い出作ろうよ」
まっすぐに夜の水平線を見つめながら答える空。すると、彼の肩にことりと、柔らかな重みが預けられた。蜜柑がその細い肩を預けてきたのだ。
「ねぇ、空くん。なんだか今が、全部夢みたいだよ」
耳元で震える声が響く。空が驚いて隣を向くと、そこには月明かりをその瞳に湛え、今にも溢れ出しそうな涙を浮かべた蜜柑の横顔があった。
「ううん、今だけじゃないの……。空くんのお家に来てから、ずっと。優しいお兄さんとお姉さんがいて、温かいお父さんとお母さんがいて……そして、隣には空くんがいてくれる。悲しいことも、怖いこともたくさんあったけど、それでも今の私は、人生で一番幸せなの」
蜜柑の言葉のひとつひとつが、空の胸の奥を熱く締め付ける。彼は愛おしさを堪えきれず、蜜柑の頭にそっと自分の頬を寄せた。
「……俺だって、蜜柑と一緒にいられて幸せだよ」
蜜柑はクスリと微笑むとすぐにその表情を曇らせた。
「でもね……」
蜜柑の声が、一段と低く、脆く響いた。
「こんなに幸せな毎日を過ごしているのに……時々、怖くてたまらなくなる。ふっと目が覚めたら、またあの真っ暗な毎日に戻っているんじゃないかって。独りぼっちで、誰の声もしない冷たい部屋で、たった一人でご飯を食べている自分に戻ってしまうんじゃないかって……。そんな不安に、押しつぶされそうになることがあるの」
蜜柑の肩が、微かに震えていた。
空は、自分の中に熱い感情が込み上げてくるのを止められなかった。震える手で彼女の細い肩を強く抱き寄せる。
「……蜜柑が文藝部の部室に現れたあの日から、俺は毎日学校に行くのが楽しみで仕方がなくなったんだ。蜜柑の笑顔を見るたびに、胸の奥がじんわりと温かくなって……。いつの間にか、自分でも気づかないうちに蜜柑のことが大好きになってた」
空は蜜柑の耳元で、誓うように言葉を紡ぐ。
「俺だって、今の幸せを夢のように思うよ。だからこそ、俺は絶対にどこへも行かない。蜜柑を一人にはさせない。何があっても、どんなことが起きても、俺が君を、蜜柑のことを守り抜くから」
空の腕の中で、蜜柑は言葉にならない声を飲み込むようにして頷いた。そして、溢れ出した涙を隠すように、空の胸の中に深く、その顔を沈めた。
遠くで響く潮騒だけが、二人の静かな誓いを見守るように、いつまでも優しく繰り返されていた。
「ありがとう……」
蜜柑は空の胸からゆっくり顔を上げると、潤んだ瞳を空に向けながら唇を近づける。空も吸い寄せられるように顔を近づけていたとき、視界の端に黒い影が入った。
空は突然我に返ったように顔を上げあたりを見回す。突然の空の様子に蜜柑は不思議そうな顔を向けた。
「空くん。どうしたの?」
問いかける蜜柑に、「いや……」と短く応じ、空は神経を研ぎ澄ませて夜の闇を射抜いた。百メートルほど先、月明かりの届かない境界に、蠢くようないくつかの黒い人影を捉えたのだ。蜜柑も空の視線の先を追い、不安げに目を凝らす。
「なんだろう……喧嘩、かな?」
蜜柑の呟きを耳にしながら、空は確信した。二人の男が、抵抗する一人の女性を無理やり引きずっている。その異様な光景に、空の瞳に冷たい光が宿った。
「蜜柑、女の人が連れ去られようとしてる。すぐ警察に連絡して!」
弾かれたように指示を出すと、空は夜の砂浜を音もなく、しかし爆発的な速度で駆け出した。波打ち際へ近づくにつれ、停泊した一隻のボートのシルエットが浮き上がる。男たちは彼女をそこへ放り込もうとしていた。
空は無言で疾走し男達に近づくと、そのうちの一人の膝にローキックを叩き込み、倒れた男の顔面に踏み砕きを入れると、「グシャ」という嫌な音が響いた。
残ったもう一人の男は、掴んでいた女性をゴミのように砂浜へ叩きつけると、「くそっ!」と吐き捨ててボートへと飛び乗った。空は逃がすまいとその背を追い、エンジンを始動させようとする男の後頭部を殴打する。
「がっ……!」
男はよろめきながらも懐からナイフを抜き放ち、ぎらつく刃を空に向けた。だが、空の顔を見上げた瞬間、男の表情が驚愕に染まる。
「お、お前はっ……!?」
その言葉に、空の思考が一瞬止まる。海面に反射した月の光が、男の卑屈な面構えを露わにした。
「お前は……連正会の……」
目の前にいるのは、かつて蜜柑のアパートを監視し、執拗に付きまとっていたあの男の片割れだった。男は憎悪を剥き出しにし、歯ぎしりをしながら空を睨みつける。
「何なんだお前は! 何度も何度も、俺たちの邪魔をしやがって!」
逆上した叫びと共に、ナイフが空の喉元をめがけて振り下ろされた。
だが、空の1ミリの同様も見せずその刃筋を紙一重で見切ってかわすと、流れるような動作で男の手首を掴み取る。そのまま抵抗を許さず、男自身の自重を利用して、その太ももへと深く刃先を突き立てた。
「うぎゃああああっ!」
夜の海に絶叫が木霊する。だが、空の追撃は終わらない。刺さったナイフを無造作に引き抜くと、男のもう一方の掌を船体の縁へと力任せに押し付け、そこへ一気にナイフを突き立て、縫い止めた。
男はのたうち回るが、動くたびに掌から鮮血が吹き出し、残された手でナイフを引き抜こうとしても力が入らない。
「お前、このボートで逃げたかったんだろ?」
空は冷徹な笑みを浮かべ、男の目の前でボートのエンジンを始動させた。船首を遥か沖へと向け、アクセルを全開の状態で固定する。
「あ……待て、やめろ……!」
男の懇願を無視し、空は桟橋を蹴ってボートから飛び降りた。無人のボートは狂ったような爆音を上げ、血に染まった男を乗せたまま、あっという間に夜の水平線の彼方へと消えていった。
「ふぅ……」
一つ、深い溜息を吐き出して、空は砂浜で倒れている女性の元へ駆け寄った。
見れば小麦色の肌と黒髪の、自分たちと同じくらいの年齢の少女だった。意識を失っているものの、外傷はなさそうだ。空は安堵し、着ていた上着を脱いで彼女の震える肩にそっと掛けた。そして、ポケットから常備しているインシュロックを取り出すと、最初に気絶させた男の親指同士を背後で結束し、身動きを封じた。
……その時、遠くからパトライトの光と、警察官を引き連れた蜜柑が走ってくるのが見えた。
「空くん!」
蜜柑の呼び声に、空はいつもの穏やかな表情を取り戻して手を上げた。
警察への事情説明は一時間に及んだ。襲っていたもう一人はボートで逃走したと告げ、運よく確保できた一人はパトカーに押し込まれた。病院へ運ばれていく少女を見送り、ようやく解放された二人がホテルの部屋に戻ったのは、夜の静寂がさらに深まった頃だった。
「なんだか……すごく疲れちゃったね」
南国特有の蔓を編んだエキゾチックな椅子に深く腰を下ろし、蜜柑は吐息を漏らすようにそう呟いた。
「まったくだな。せっかくの旅行なのに……」
空は窓の外、静まり返った夜の海を見つめながら言葉を継いだ。
「……それで、さっき警察には言わなかったんだけどさ。ボートで逃げたあの男……蜜柑のアパートの隣に住んでた奴らの片割れだった。たぶん、お母さんを襲った犯人の一人だ」
その言葉を聞いた瞬間、蜜柑の顔から血の気が引き、驚愕に目を見開いた。
「えっ!? ……どうして、そんな人がこんなところに?」
「わからない。単なる偶然か、それとも……」
不安に身を震わせ、蜜柑はすがるような視線を空に向ける。その瞳に宿る恐怖を消し去るように、空はあえて余裕を見せるように口元を緩めた。
「でも、もう大丈夫だよ。あいつが蜜柑の前に現れることは、もう二度とないから」
空の脳裏には、漆黒の沖合へと全速力で消えていったあのボートの光景が浮かんでいた。掌を刺し貫かれ、操縦不能な状態で大海原へ放り出された男に、生還の目など万に一つもないだろう。蜜柑はその言葉の真意を計りかねて首を傾げたが、空はそれ以上、残酷な事実は口にしなかった。
「それより蜜柑、先にお風呂に入ってきなよ。夜の砂浜をあんなに走ったんだ、汗もかいただろ」
気遣うように促したが、蜜柑はふるふると首を振った。
「ううん、空くんが先に入って。さっき海に入ったんでしょ? 服もびしょ濡れだし、このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
言われて自分のシャツやズボンに触れると、手のひらにじっとりと重い不快感があった。
「じゃあ……お言葉に甘えて、先に入ってくるよ」
空はキャリーケースから着替えを引っ張り出すとバスルームへと滑り込んだ。いつも通り、手早く髪と体を洗い流す。家では海から「烏の行水」と揶揄されるが、幼い頃から「汚れさえ落ちればいい」と考える空にとって、湯船に浸かってのんびりする習慣などないのだ。
数分後、湯気を纏ってリビングに戻った空を見て、蜜柑は目を丸くした。
「空くん、早すぎない……? ちゃんと温まったの?」
「大丈夫だって。ほら、蜜柑も入っておいでよ」
空がバスタオルで無造作に髪を拭きながら促すと、蜜柑は少しだけ頬を染め、逃げるようにトートバッグを抱え直した。
「うん。じゃあ……行ってくるね」
どこか落ち着かない様子で、蜜柑は軽い足取りで浴室のドアの向こうへと消えていった。
それから三十分ほどが経っただろうか。静まり返った室内で、空がベッドの端に腰掛けて手持ち無沙汰にテレビを眺めていると、ガチャリと浴室のドアが開く音がした。湯気と共にリビングへ戻ってきた蜜柑は、お風呂上がりの熱気のせいか、顔を林檎のように真っ赤に染めていた。
「あ、おかえり……」
何気なく声をかけ、顔を上げた空の思考が、その瞬間にフリーズした。
そこにいたのは、いつもの可愛らしいパジャマ姿の蜜柑ではなかった。薄いピンクのレースがあしらわれ、滑らかなシルクのような生地が体のラインをしなやかに辿る、それはパジャマというより、限りなくベビードールに近い代物だった。薄い生地の向こう側に下着が透けて見えそうなほどで、空の視線はやり場を失って激しく泳いだ。
「蜜柑……? それ、って……」
唖然とする空を前に、蜜柑はトートバッグを胸元でぎゅっと抱きしめ、溢れ出しそうな羞恥に耐えるように目を強く閉じている。十数秒の沈黙の後、ようやく顔を上げた蜜柑は、潤んだ瞳で空をじっと見つめ返した。そのあまりの破壊力に、空の心臓は防波堤を叩く高波のように激しく打ち鳴らされた。
「この前、由希さんに下着を選んでもらった時、『せっかくだから、とっておきのパジャマもプレゼントしてあげる』って言われて……」
そういうと蜜柑を瞬きもしないで凝視する空。
「変、かな……?」
蜜柑がおずおずと尋ねる。
「変じゃない!凄く可愛い!!
可愛い……けど、刺激が強すぎるというか……」
空は由が別れ際に見せた笑顔と言葉が頭をよぎった。
(アレはこういう意味だったのか……
由希さん、ありがとうございます)
蜜柑はトートバッグをキャリーケースの近くに置くと空の隣に座る。
石鹸の柔らかな香りが漂ってくる。
「空くん、私、嫌じゃないよ」
蜜柑の小さな声が、すぐそばで聞こえた。
「……え?」
「空くんに、可愛いって思ってもらえるなら……私、恥ずかしくない。だから……ちゃんと見てほしいな」
その健気な言葉に、空は観念して体を起こした。隣に座る彼女の肩は小さく震えている。空はそっと手を伸ばし、彼女の細い肩に自分の大きなバスタオルを掛けた。
「……うん。めちゃくちゃ、可愛いよ。でも、これ以上見てたら俺の理性がニライカナイに逝っちゃいそうだから、今日はもう寝よう」
空の精一杯の冗談に、蜜柑は「ふふっ」とようやく緊張を解いて笑った。
二人は一つのダブルベッドに、吸い込まれるように潜り込んだ。中央に目に見えない境界線があるかのように、少しだけ距離を置いて横になる。
電気を消すと、カーテンの隙間から差し込む月明かりが、部屋の中を淡い青色に染めた。
「空くん、起きてる?」
「……うん」
暗闇の中で交わされる、密やかな囁き。
「手、繋いでもいい?」
蜜柑の問いに、空は無言で手を伸ばした。シーツの上で指先が触れ合い、やがてしっかりと絡み合う。彼女の手は少し冷たくて、けれど繋いだ場所から熱が全身に伝わっていく。
「おやすみ、空くん」
「おやすみ、蜜柑」
波音を子守唄に、二人は静かに目を閉じた。ドキドキと高鳴る鼓動が、繋いだ手を通じてシンクロしていく。
南国の夜は、二人にとって一生忘れられない、甘く切ない熱を帯びたまま更けていった。
朝七時――。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、空の瞼を優しく叩いてまどろみの外へと連れ出そうとする。
(……もう、朝か)
重い身体を無理に起こす代わりに、空は布団の中から右手を這い出し、顔の上にそっと乗せた。昨夜の夜更かしが指先にまで気だるい余熱を残している。
あと数分、このまま微睡みに沈んでいたい。そう願いながら昨日の出来事をなぞるように思い出していると、左腕に柔らかく、そして確かな温もりの塊を感じた。
(そうだ……昨日は、蜜柑と手をつないで……)
吸い寄せられるように視線を左へ向けると、そこには空の左腕を「宝物」でも守るかのように、ぎゅっと両手で抱きしめて眠る蜜柑の姿があった。
蜜柑は空の腕に頬をうずめ、まるで幸せな夢の真っ只中にいるかのように、小さく鼻を鳴らして安らかな寝息を立てている。緩んだ口元からは規則正しい吐息が漏れ、空の肌をくすぐる。そのあどけない表情は、普段の彼女からは想像もつかないほど無防備だ。
ふと見れば、寝返りの拍子にパジャマが大きくはだけ、下着の間から白皙の肌が露わになっている。それどころか、その奥の危うい境界線まで見えてしまいそうだ。
「っ……!」
一瞬、思考が真っ白になり視線が釘付けになりかけるが、空は慌てて首を振って己を律した。高鳴る鼓動を抑えながら、彼は蜜柑を起こさないよう細心の注意を払い、そっと掛け布団を彼女の肩まで引き上げた。その微かな空気の動きが、蜜柑を夢の世界から呼び戻し、蜜柑はゆっくりと瞼を開く。
「空くん?」
「蜜柑、おはよう」
空が至近距離で覗き込むと、蜜柑は弾かれたように跳ね起きた。
「ふぇっ!? そ、空くん……お、おはよう……っ!」
真っ赤になった蜜柑は、慌てて空の腕を解放した。肩からずり落ちたブラのストラップを急いで直し、はだけたパジャマのボタンを留め直す。その指先は目に見えて震えていた。
「空くん、ごめん……腕、痺れてない? 寝づらくなかったかな……」
「ううん、全然。……あったかくて、気持ちよかったよ」
空が優しく微笑むと、蜜柑の顔面はさらに温度を増し、熟れたトマトのようになってしまった。
ふとスマホに目をやると、時刻は七時四十分。
「そろそろ起きなきゃ。十時からシュノーケリングの予約を入れてるから、朝ごはんを食べて準備しないと」
空の言葉に、二人は名残惜し気に布団から抜け出した。蜜柑は空に背を向けて手早く着替えを済ませると、テーブルの上の案内チラシを手に取った。
「見て、朝食バイキングもう始まってるみたい。どんなメニューがあるのかな?」
パッと表情を輝かせる蜜柑に、空は思わず吹き出した。
「あんまり食べすぎると、船酔いして潜る前に気持ち悪くなるよ?」
「あはは、そうだよね。……それに、お腹ぽっこりしてるのを水着で見られるのも、ちょっと恥ずかしいし……」
蜜柑は照れくさそうに笑いながら、朝食チケットを手に空の準備を待っていた。
会場には、香ばしい焼き魚や定番の卵料理に加え、島豆腐や色とりどりのチャンプルーが並び、南国特有の香りが食欲をそそった。
空はいつものペースを崩さず、トーストとスクランブルエッグ、そしてヨーグルトを盆に乗せた。対照的に、蜜柑の盆は数種類のチャンプルーに島豆腐、山盛りのフルーツが綺麗に並んでいる。
「蜜柑……それ、本当に全部食べられるのか?」
「大丈夫だよ! せっかく沖縄にいるんだもん、地のものをたっぷり味わいたいじゃない?」
さらにトロピカルジュースまで追加する彼女に、空は小さく吐息をつきながらも、その楽しげな様子を温かく見守った。
「「いただきます」」
手を合わせるなり、蜜柑は幸せそうにチャンプルーの食べ比べを始めた。頬をリスのように膨らませて咀嚼する姿に、空が思わず呟く。
「なんだか、『もぐもぐさくら』さんを見てるみたいだね」
「えっ? ……むぐ?」
不思議そうに首を傾げる蜜柑に、空は「いや、なんでもないよ」と笑って、自分の『いつものスタイル』であるトーストを口に運んだ。
朝食を終えた二人は、部屋に戻って準備を整えた。
「準備万端!」と気合を入れる蜜柑のTシャツの下には、既に先日空と買いにいった水着が仕込まれている。空もラッシュガードを羽織り、二人は期待に胸を膨らませて港へと向かった。
ボートに揺られて十数分。ポイントに到着すると、そこには透き通るようなコバルトブルーの世界が広がっていた。
「わあぁ……! 空くん、見て! 下まで丸見えだよ!」
二人はシュノーケルを装着し、ゆっくりと海へ滑り込んだ。
水の中は、地上とは別世界。色とりどりの熱帯魚が指先をかすめるように泳ぎ、蜜柑はそのたびに「ぷはっ!」と顔を上げては「空くん、今の見た!?」とはしゃいでいる。
空もまた、隣で夢中になって海中を覗き込む蜜柑の手をしっかりと握った。波に揺られながら、二人は青い迷宮の散歩を心ゆくまで楽しんだ。
正午を回る頃、心地よい疲れと共に二人は宿へと戻ってきた。すぐにシャワーで海水を洗い流したが、潮風に吹かれた髪はまだ少しゴワついている。
二人は満足げな笑みを浮かべながらベットの縁に座り、上半身をベットの上に投げ出した。
「楽しかったねぇ、空くん。お魚、いっぱいいたね」
「ああ。でもちょっと疲れた……」
「うん、ちょっと眠いかも……」
適度な運動と昼下がりの暖かな日差しのせいで、蜜柑の瞼がゆっくりと落ちていく。
――と、その時。テーブルに置かれた空のスマホが、静かな室内にバイブレーションの音を響かせた。
「ん? 誰だろう……」
画面に表示された見覚えのない番号に、空はわずかな警戒心を抱きながらも通話ボタンをタップした。耳元に当て、数秒の沈黙を置いてから短く応じる。
「はい……」
『あ、もしもし。こちら早見空さんの携帯でお間違いありませんか? 私、八重山警察署の宮里と申します』
「ああ、警察の……。昨日はお世話になりました」
空が社交辞令的な挨拶を返すと、受話器の向こうの宮里は少し声を弾ませて本題に入った。
『実はですね、昨日早見さんが助けた方から、ぜひ直接お礼を伝えたいと連絡がありまして』
「お礼だなんて……そんな、気になさらないでくださいと伝えていただけますか」
目立つことを好まない空は、少し困ったように言葉を濁す。しかし、宮里も引かなかった。
『そう仰ると思いましたが、お相手の方はどうしても、と。ほんの短い時間で構いませんので、会っていただけませんか?』
「はぁ……。まぁ、そういうことでしたら」
押し切られる形で承諾した空は、三十分後にホテルのロビーで合流することを約束して電話を切った。大きなため息をつく空に、隣の蜜柑が不思議そうに首を傾げる。
「空くん、誰からだったの?」
「警察署。昨日助けた子が、どうしてもお礼をしたいって言ってるみたいで……。これからロビーで会うことになっちゃった」
苦笑いする空に、蜜柑もつられるように柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふっ、いいじゃない。旅の出会いは一期一会って言うし、これも素敵な思い出になるよ、きっと」
約束の時間になりロビーへ向かうと、そこには昨日ビーチで救い出した中学生くらいの少女と、母親らしき女性が待っていた。二人は空たちの姿を認めるなり、弾かれたように深く、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。早見空です。で、こちらが……」
「蒼井蜜柑です」
二人が自己紹介を終えると、少女が少し緊張した面持ちで一歩前に出た。
「……昨日は、本当にありがとうございました。私は知念瑠奈です。昨日はお二人がいなかったら、私、今頃どうなっていたか……」
「無事でよかったです。瑠奈さん」
空が穏やかに返すと、隣の母親が「せめてものお礼に」と、近くにある自宅で昼食を振る舞いたいと申し出てきた。空は遠慮しようとしたが、「ぜひ、島の家庭料理を食べていってください」という熱心な誘いと、蜜柑の「せっかくだからお邪魔しようよ!」という輝く瞳に負け、二人は知念家を訪ねることになった。
知念家は、赤瓦の屋根にシーサーが鎮座する、古き良き沖縄の風情を残した家だった。
中に入ると、潮風の香りに混じって、食欲をそそる出汁の匂いが漂ってくる。
「お婆ちゃん、お客様が来たよ!」
瑠奈の声に呼ばれるようにして、奥の部屋から一人の老婦人が現れた。
ゆったりとした琉球絣を纏い、背筋をぴんと伸ばしたその女性は、深く刻まれた皴の中に、すべてを見透かすような鋭くも慈愛に満ちた瞳を宿していた。
「……よく来たねぇ。お前さんが、瑠奈を救ってくれた恩人かい」
その声には、不思議な重みがあった。
空が一歩足を踏み入れた瞬間、お婆さんの視線がじっと空の顔に、そして隣の蜜柑に注がれる。
「お婆ちゃん、この人たち内地から観光にきたんだって」
瑠奈が紹介するが、お婆さんはただ静かに微笑み、意味深な言葉を漏らした。
「ただの観光客……かねぇ。この島に呼ばれたのには、ちゃんと理由があるもんさ。私はカメ。この家で、古くからユタの端くれをやってるよ」
「ユタ……?」
聞き慣れない言葉に空が首を傾げると、蜜柑が「沖縄の霊媒師さんのことだよ」と耳打ちした。
お婆さん――カメは、空の纏う空気の揺らぎを感じ取ったのか、ふっと目を細める。
「あんたさん、珍しい色の綺麗な魂をしているね」
初対面とは思えないその言葉に、空は思わず言葉を失う。
カメは空への言葉を一度区切ると、今度は射抜くような、けれどどこか慈しむような眼差しを蜜柑へと向けた。
「……ほう、あんたさん。そっちのお嬢さんも、ただ者じゃないねぇ」
「えっ、私……ですか?」
唐突に話を振られ、蜜柑は目を丸くして自分の胸元を指差した。
カメはゆっくりと椅子に腰を下ろすと、傍らに立つ孫の瑠奈と、目の前の蜜柑を交互に見つめる。その瞳は、肉体という器の奥にある「本質」を覗き込んでいるかのようだった。
「瑠奈と同じだ。……この子もね、生まれ持った『弾く力』が強いのさ」
「弾く力……? それって、どういう意味ですか?」
空が問い返すと、カメは深く刻まれたシワを震わせて小さく笑った。
「沖縄じゃあ、こういうのを『マブイ(魂)が強い』とも言うがね。あんたさんたちは、普通の人間なら引き寄せてしまうような、淀んだ悪い気……『災い』を、無意識のうちに跳ね除けてしまう性質を持っているんだよ」
カメの言葉に、瑠奈が驚いたように蜜柑の顔を覗き込んだ。
「私と同じ……? 確かに、蜜柑さんと会ったとき、なんだか波長が合うっていうか、すごく安心する感じがしたんです」
「そうさね。類は友を呼ぶ、と言うだろう? 瑠奈が昨日助かったのも、空さんの勇気だけじゃない。このお嬢さんがそばにいて、災いを寄せ付けない『陽の気』を放っていたからこそ、運命が引き寄せられたんだ」
蜜柑は少し照れくさそうに、けれど不思議な感覚に包まれたように自分の両手を見つめた。
「私……そんなすごい力があるなんて、考えたこともなかったです」
「自覚がないのが、一番の強みさ。
ただ―」
カメはそう言った後、少し表情を曇らせる。
「あんたらさんみたいに、ちゅらかーぎー(美しい)で強いマブイ(魂)を持ってる人間を、横から欲しがる悪いムヌ(魔物)もおるわけさ。
お嬢さんも、この先目をつけられて狙われるかもしれん。……ゆたしく(しっかり)気をつけておきなさいよ」
カメはそこまで言って、その表情に明るさが戻る。そして満足げに頷くと、テーブルに並んだ料理を指差した。
「さあ、難しい話はここまでだ。冷めないうちに食べなさい。災いを弾くには、まず腹を満たして、命を養うのが一番だからね」
カメの不思議な言葉に、空と蜜柑は顔を見合わせた。沖縄の古き知恵を持つユタの言葉は、二人の絆がただの偶然ではないことを物語っているようで、温かなスープの湯気の向こうに、新たな旅の深まりを感じさせるのだった。
「それじゃ空さん、蜜柑さん、たくさん食べてください。これ、私が手伝ったフーチャンプルーです!」
出汁の染みたお麩の香りが食欲をそそる。空と蜜柑が顔を見合わせ、ワンテンポ遅れて「「いただきます」」と声を揃えた。その、どこかぎこちなくも一生懸命に歩幅を合わせようとする二人の様子に、瑠奈の目がキラリと光った。
「もしかして、お二人って恋人同士ですか?」
「っ!? な、なんで……」
『恋人』という響きにまだ慣れてない二人。空は麦茶を飲む手が止まり、蜜柑は耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
瑠奈の鋭い観察眼に、空は観念したように小さく笑った。
「……まだ、付き合ってそんなに経ってなくてさ。二人での旅行も今回が初めてなんだ」
蜜柑が恥ずかしそうに空の服の裾を握った。触れ合う指先がまだ少しだけ遠慮がちで、けれど離れがたい――そんな二人の甘酸っぱい空気に、瑠奈は「わぁ、最高にキュンキュンとします!」と身を乗り出した。
そこから三人の距離は一気に縮まった。同世代ということもあり、話題は尽きない。特に蜜柑と瑠奈は、いつの間にか女子トークに没頭していた。
「告白はどっちからだったんですか?」「東京のデートって、どこに行くの?」
質問攻めに遭う蜜柑は、空をチラチラと意識しながらも、嬉しそうに恋の始まりを語っている。空はそれを少し離れた席で聞きながら、居心地の悪そうな、でもどこか幸せそうな顔でコーラを啜っていた。
食後、瑠奈は「二人には、絶対ここを見てほしい」と、とっておきの場所へ案内してくれた。
それは観光客はまず行かない、秘密の小さな道。辿り着いた先には、水平線が丸く見えるほどの広大な蒼の世界が広がっていた。
「……綺麗だね」
「うん」
夕陽に照らされた蜜柑の横顔があまりに綺麗で、空は思わず彼女の手を握った。蜜柑も、少し驚いたように、でも愛おしそうにその手を握り返す。まだ恋人という関係に慣れきっていない二人の鼓動が、繋いだ手のひらから伝わってくるようだった。
「私、東京に行ったら、また会ってくれますか?」
別れ際、夕暮れの潮風の中で瑠奈が少し寂しげに、けれど期待を込めてスマホを取り出した。
「もちろん。今度は私が瑠奈ちゃんを案内してあげる」
「あとうちにも遊びにおいでよ」
三人はLINEを交換し、夕闇が降りてくる港で再会を誓い合った。
翌日、瑠奈は二人を見送りに空港まで来てくれた。
「じゃあ、今度は東京で……」
そう言って三人は握手を交わす。
カメの言った「導き」は、始まったばかりの二人の恋を強く結びつけてくれたようだった。
三日間の沖縄旅行を終え、住み慣れた自宅へと帰ってきた空と蜜柑。
大量のお土産を仕分けし家族へ配り、砂の混じった洗濯物やキャリーケースを片付け終える頃には、空の体力は限界を迎えていた。自室に戻るなり、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。
隣の海の部屋からは、海と蜜柑の楽しげな笑い声が壁越しに響いてくる。
「それでね、空くんが……」
自分の名前が会話の断片として耳に届くが、心地よい疲労感には抗えない。空は聞き耳を立てる余裕もないまま、意識を深い闇の底へと沈めていった。
次に目が覚めたとき、昨日までの南国の湿った熱気はどこにもなかった。布団からはみ出した足先は、刺すような冬の冷気にさらされて硬直している。カーテンの隙間から覗く外の景色はまだ薄暗い鉛色で、現実の寒さを物語っていた。空はモゾモゾと布団を手繰り寄せ、はみ出した足に暖かな掛け布団を纏わせた。
(寒い、眠い……)
二度寝という甘美な誘惑に身を任せ、再び瞼を閉じる。
「空くん。起きて、学校遅れちゃうよ……」
どれくらいの時間が経ったのだろう。
耳元で響いた柔らかな鈴の音のような声に、空が重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには既に制服に着替えた蜜柑が立っていた。
「あ……蜜柑。おはよう」
微睡の余韻を引きずったまま、空はぼんやりと応じる。そしてのたりと布団の中から抜け出た。
「早くご飯食べないと、学校に遅れちゃうよ」
少し焦りを含んだ表情で、蜜柑が急かすように告げる。
「……んー、うん」
空はまだ重い瞼をこすりながら大きなあくびを一つ。壁のハンガーに掛かったままの制服へと、ようやく手を伸ばした。その様子を見届けると、蜜柑は「じゃあ、先にキッチンに行ってるね」と言い残し、軽やかな足取りで部屋を後にした。
たった三日間、けれどあまりに濃密だった非日常。その余韻を無理やり断ち切って、分刻みの日常へとギアを切り替えるのは、今の空には少しだけ酷な作業だった。
……とはいえ、今日は登校日。
溜息を飲み込みながら時間割を確認し、親友の忍のために買った石垣島のお土産をカバンに放り込むと、空は重い腰を上げてキッチンへと向かった。
キッチンでは、すでに朝食を終えた蜜柑が、海姉と楽しそうに談笑しながらコーヒーを啜っていた。
「あ、空、おはよう。ほら、ぼさっとしてないで早く食べないと遅刻するわよ」
海にピシャリと急かされ、空は「……うん」と短く応じて席に着く。今朝も食卓に両親や陸の姿はなく、いつもの顔ぶれだけが揃っていた。
空は皿から香ばしいトーストを手に取ると、その上にカリカリに焼かれたベーコンと半熟の目玉焼きを豪快に乗せ、一気に口へと運んだ。
日常の味が、旅の終わりの寂しさを少しずつ塗り替えていく。




