第六話 お赤飯?
令和元年九月二十三日 水曜日
この日は九月の下旬だというのに強い日差しが降り注ぎ、真夏を思わせる気温を呈していた。
早見宅のリビング――
『カラン』と氷が乾いた音を室内に響いた。
ソファに深く腰掛けた空は、手元のグラスを傾けた。アイスコーヒーの苦味が喉を通り抜ける。
テーブルの上には、もう一つのグラス。
主を待つその一杯は、びっしりと冷たい汗をかいてコースターを濡らしている。
(……蜜柑、遅いな。着替えにそんな時間かかるのかな?)
天井を仰ぎ、そっと溜息を吐き出す。
一緒に下校して、それぞれの部屋へ戻ってからもう随分経つ。
その時だった。
「――ガチャ」
控えめな音がして、リビングのドアが開いた。現れたのは、あからさまに肩を落とした蜜柑。長い睫毛の先に、今にも零れそうな光るものが溜まっている。
「そ、空くん……どうしよう……っ」
消え入りそうな震える声。
迷子の子供みたいに立ち尽くす彼女に、空は慌てて立ち上がった。
「蜜柑!? ど、どうしたんだ?」
「……っ。あのね、その……言うの、すっごく恥ずかしいんだけど……」
空の真っ直ぐな視線に、蜜柑は林檎みたいに顔を赤らめて視線を彷徨わせる。スカートの裾をぎゅっと握りしめて、彼女は意を決したように声を絞り出した。
「わ、私……アレ、きちゃったみたい……」
「……あれ?」
中学二年生。付き合って一ヶ月。
いまだ手をつなぐのにもドキドキする空には、その「代名詞」の正体がすぐには結びつかない。
首を傾げる空の反応に、蜜柑は涙目でさらに顔を伏せた。
「だ、だから……せ、生理……っ」
「――っ!?」
空の脳内に、その言葉が強烈な衝撃波となって突き抜けた。一瞬で頭に血が上り、顔がカッと熱くなる。
まだ「女の子」のデリケートな部分に触れたことなんて一度もない、ピュアすぎる交際期間。
「あ……そ、そう、いう……。ご、ごめん、俺、全然気づかなくて……」
「ううん、空くんが謝ることじゃないんだけど……。でも、どうしよう……」
俯き合う二人。リビングの空気は、アイスコーヒーの氷が溶ける音さえ聞こえるほど、気まずい沈黙に包まれてしまった。
多くの女子はもっと早くに経験することなのかもしれない。けれど、蜜柑にはそれどころではない日々があった。苦しい生活、そして中学に入ってから水泳部で自分を追い込み続けた過酷な練習量……。
そんな背景もあって、中学二年生のこの時期まで、彼女の身体はそっとその時を待っていたのだ。
「……とりあえず、座ろう」
空はぎこちない手付きで、蜜柑をソファへと促した。自分の姉である海が、時折お腹を抱えて丸まっていた姿を思い出す。
(確か、冷やすのは良くないんだよな……?)
そんなおぼつかない知識を頼りに、空はキッチンへ向かった。棚の奥から取り出したのは、ミルクココアの粉末。温めた牛乳を注ぎ、ゆっくりと円を描くように混ぜていく。甘い香りが湯気と共に立ち上り、少しだけ空の緊張を解いてくれた。
「これ、飲みなよ。少しは楽になるかも……しれないし」
差し出されたマグカップを、蜜柑は両手で包み込むように受け取った。
「……ありがとう」
蜜柑は戸惑っていた。
初めての感覚、初めての痛み。そして、それを大好きな男の子に打ち明けた気恥ずかしさ。蜜柑は並んで座りながら、ただ熱いカップの熱を掌に感じていた。
ふー、と小さな吐息をついて、蜜柑がココアを一口啜る。
「でも、どうしよう。
今日お母さん達は仕事で京都に行ってるし、海姉は生徒会で遅くなるようなこと言ってたしなぁ」
「……」
時計の針は午後二時を回ったところ。
海が帰ってくるまで、あと四時間はある。
(……そんなに待てない。でも、俺じゃどうしていいか……)
何もできず、ただ不安そうにココアを啜る蜜柑を見守ることしかできない自分に、空はもどかしさを感じて小さく溜息をついた。
その時だった。
ガチャリ――と玄関の鍵が開く音が静かな部屋に届く。
「海姉……? 今日は遅くなるんじゃなかったのか?」
空が期待を込めて呟いた直後、「ただいまー」という野太い声が聞こえてきた。
「なんだ、陸兄か……」
がっかりと肩を落とす空。ほどなくしてリビングのドアが開き陸が顔を覗かせた。
「お、なんだ空。今日は早かったんだな」
陸が部屋に入ってくると、その後ろからふわりと柔らかな空気が流れ込む。陸の恋人、里絵が顔を見せた。
「空君、蜜柑さん。久しぶりだね」
太陽のようににこやかな里絵の笑顔。それを見た瞬間、空と蜜柑は顔を見合わせ、救われたような思いで小さく微笑んだ。
二人は導かれるように立ち上がり、里絵の元へ歩み寄る。蜜柑はすがるような瞳で、里絵の耳元にそっと秘密を打ち明けた。
「……そっかぁ。それは大変だったね」
里絵はすべてを察したように優しく頷くと、陸に二、三言ささやいた。すると、陸はなんだかバツが悪そうな顔をして、「じゃあ、俺はあっちにいるわ」とリビングを後にする。遠ざかる兄の背中を見送りながら、空はおずおずと里絵に視線を向けた。
「あの……里絵さん。やっぱり、僕もここにいない方がいい、ですよね……?」
デリケートな話だ。男の自分は席を外すべきだろう――。そう考えた空だったが、里絵は穏やかに微笑みながら首を振った。
「空君。君は蜜柑さんとお付き合いしてるんでしょ?」
里絵の真っ直ぐな瞳が、空を射抜く。
「だったら、彼女の身体のことも、ちゃんと知っていてあげて。それが『支える』ってことだと思うよ」
「……うん」
その言葉に、空はハッとして隣の彼女を見た。蜜柑もまた、熱っぽい視線を空へと向ける。けれどすぐに、耐えきれないといった様子で顔を真っ赤に染め、俯いてしまった。
「それで……今はどうしてるの? 」
里絵さんの問いかけに、蜜柑は空の反応をうかがうようにチラリと視線を泳がせてから、蚊の鳴くような声で答えた。
「はい……。あの、ティッシュを重ねて、その……あててます……」
「そっか……」
里絵さんは優しく微笑むと、バッグから可愛らしい刺繍の入ったポシェットを取り出した。その中から一つ、清潔感のあるナプキンの包みを取り出して、そっと蜜柑の手に握らせる。
「とりあえず、これを使おう。使い方も説明するから、一緒においで?」
二人がトイレへ向かう後ろ姿を、空はただ見送るしかなかった。さすがにそこまでついて行くわけにはいかない。空は一人、冷めかけたココアを眺めながらリビングで待機した。
(なんか落ち着かない……)
そんな居心地の悪さを感じること五分。戻ってきた蜜柑の顔からは、さっきまでの泣き出しそうな不安が消え、少しだけ晴れやかな表情になっていた。
「お待たせ。じゃあ二人とも座って」
里絵に促され、三人はソファに腰を下ろした。そこから始まったのは、空にとって初めて聞く「女の子の身体」の講義だった。生理周期のこと、体温の変化、そして生理用品の種類……。里絵は、照れる二人を急かすことなく丁寧に言葉を紡いだ。
一通り説明を終えたところで、里絵はふっと表情を引き締める。
「それでね―― ここからもっと大事な話」
空と蜜柑は、思わず背筋を伸ばしてごくりと唾を飲み込んだ。
「蜜柑さんは、もういつでも『お母さん』になれる準備が整った身体になった、っていうこと。わかる?」
里絵さんの真剣な眼差しに、二人の心臓が跳ねる。
「まだ二人は『そういうこと』はしてないかもしれない。でも、もしその時が来たら……絶対に、ちゃんと避妊してね」
「「!!!」」
リビングの温度が数度上がったかと思うほど、二人の顔がボッと真っ赤に染まる。視線を合わせることもできず、膝の上で手をぎゅっと握りしめる二人。里絵は、そのまま言葉を続けた。
「これは恥ずかしいことじゃなくて、本当に、本当に大事なことなの。望まない妊娠は、あなたたち二人も、そして何より生まれてくる赤ちゃんも不幸にしてしまう。だから――」
里絵はポシェットの奥から、小さな四角い袋を二つ取り出した。そして、それをためらうことなく空の手のひらへと載せる。
「はい。これ……」
「こ、これは……っ」
震える指先で、空はその重みを受け取った。ビニールのカサカサという音が、静かな部屋にやけに大きく響く。蜜柑も空の手の上にあるものから目が離せないでいる。
「正しく付けないと効果がないから、
ちゃんと練習してから使ってね」
空はごくりと唾を飲み込む。
「彼女のことを本当に大事に思うなら、男の子の君がちゃんと責任を持たなきゃ」
里絵はそう言って、最後にいつもの、包み込むような優しい笑顔を見せた。
空の手の中にある「責任」の重みと、隣で顔を上げられない蜜柑の存在。二人の関係が、ただの「好き」から、もっと深い場所へと踏み出した瞬間だった。
里絵はその後、リビングを出て陸の待つ部屋へと向かっていった。リビングに残された二人は未だ冷め上がらない顔を見合わすと、二人はどちらからともなく大きなため息を漏らした。
「はぁ…… 凄い緊張した」
空は過去の出来事がきっかけで里絵を前にするだけでドキドキしてしまう。そんな彼女とこのような話をするのだから、家族とそんな話をする以上の気まずさを感じずにはいられない。
「そうだね。でも里絵さんって自立した大人の女性って感じで素敵。私にあんなお姉さんがいたらなぁ」
蜜柑はそう呟いた。
空は蜜柑の楽しそうな横顔を見ながらも、未だ手の上にある包みにそっと手のひらを重ねる。
「それで、その…… お腹の方はどうなの?」
空がそういうと、蜜柑は少し顔を赤らめながら空へと顔を向ける。
「うん。少し痛いけど大丈夫」
「でも里絵さんの話だと、今日より明日が辛いんだよね」
「……みたいね。あとでナプキン買ってこないと……」
そう言って蜜柑は下腹部に目を向け、釣られるように空もその部分を見つめた。……が、空は自分が目を向けた部分の先にあるものを想像してすぐに顔を上げた。
「まぁ、それは海姉が持っていると思うし、体調悪い時に無理して買いに行くこともないんじゃない?」
「でも……」
「母さんのだってあるはずだし…… それにもし本当になかったら俺が買ってきてあげるから……」
空は少し恥ずかしそうにそういうと、蜜柑もまた恥ずかしそうに微笑んだ。
「それより、ココア冷めちゃったね。
温かいの入れなおすけど、同じのでいい?」
「うん。ありがとう」
テーブルに置かれた、小さな二つの包み。
その存在が放つ独特の緊張感から逃げるように、空はガタッと椅子を引いてキッチンへ向かった。
新しく淹れ直した熱いココアを並んで啜るけれど、蜜柑の視線はどうしてもテーブルの上の「それ」に吸い寄せられてしまう。
「空くん、それ……どうするの?」
「う、うん。里絵さん、いざという時のために『練習して』って言ってたし……その……れ、練習してみるよ、一人で……」
口にしてから、その言葉の響きがあまりに生々しいことに気づく。二人の顔は今日一番の熱を帯び、もはや湯気が立ちそうなほど真っ赤に染まった。
(……ダメだ。今日は朝からドキドキしっぱなしで、心臓がもたない……っ)
空は少し緩くなったココアで無理やり喉を潤すと、必死に「日常」の話題を探り当てた。
「そ、そういえばさ! もうすぐ修学旅行だよね。うちの学校ってどこに行くんだっけ?」
蜜柑は少しホッとしたように、人差し指を口元に当てて首を傾げる。
「ええっと……確か、北海道じゃなかったかな?」
「北海道? そうだっけ。京都とか広島とか、西日本の方だと思ってたけど」
「去年は広島だったもんね。でもうちの学校、金沢、京都、広島、北海道って、毎年ローテーションで変わるらしいよ」
「マジ? なんでそんな面倒なことしてるんだろ……」
「案外、引率する先生たちが飽きないように、だったりして」
「はは、まさか。ずっと二年生担当の先生なんていないだろ?」
他愛のない会話。
窓から差し込む夕陽がリビングを茜色に染め、気がつけば影が長く伸びていた。空が席を立ってカーテンを閉め、部屋の明かりを点すと、日常の風景が戻ってきたような安心感に包まれる。
時計の針は、もうすぐ十八時を指そうとしていた。
――その時だ。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がして、聞き慣れた足音が近づいてくる。
「ただいまぁ……」
リビングのドアが開き、少し疲れた表情の海が姿を見せた。
「「おかえりなさい」」
二人の声を聞くなり、海はフラフラとソファへ歩み寄り、空が飲み残していたココアを当然のように煽った。
「ふぅ……生き返る……」
大きな溜息をついてカップを置こうとした、その時。海の視線が、テーブルの上の「例の袋」を捉えた。
指先でひょい、とその袋をつまみ上げる海。
「……コンドーム? あんたたち、今から『する』の?」
「っ!? ち、違います!!」
「さ、さっき、里絵さんに渡されただけで……!!」
雷に打たれたように飛び起き、全力で否定する二人。空と蜜柑は、顔を真っ赤にしたまま、今日起きたドタバタな顛末を必死になって海に説明し始めるのだった。
「そういう事ね……」
十分に及ぶ弁明の末、ようやく経緯を伝えることができ、二人はホッと息をついた。
「まぁ、ナプキンは部屋にいっぱいあるから自由に使って」
海にそう言われて、蜜柑は「ありがとうございます」とお礼をいう。
「まぁ、それはいいとして……。今日の夕飯だけど、今からじゃお赤飯ってわけにもいかないわよね」
海姉がさらりと発した言葉に、空はジトッとした視線を向けた。
「海姉、いつの時代の人だよ……。今時そんなノンデリなことするひといないって」
「あらそう? 私の時はお母さん、張り切って炊いてくれたわよ」
「それはお母さんがギリ昭和生まれだからだろ。……というか、蜜柑だって嫌だよな?」
突然話を振られ、蜜柑は顔を真っ赤にしたまま「あ、えっと……」と固まってしまう。そんな初々しい反応を眺め、暖かく微笑んだ。
「どっちにしろ、お赤飯は今からじゃ間に合わないわ。それに私も今日は死ぬほど疲れたし……。奮発してお寿司でも取りましょうか」
「おっ、マジで!? やったぁ!」
空が歓声を上げると、海は手慣れた動作でスマホを取り出し、お気に入りの店へ出前の注文を始めた。電話を終えた彼女がキッチンで湯を沸かし始める横で、空は空になった二つのマグカップを流しへと運ぶ。
蛇口から流れる水でカップを洗いながら、空はふと、椅子に深く沈み込んでいる海の背中に声をかけた。
「……で、今日はなんでそんなに疲れたの?」
海は生徒会役員という立場上、帰りが遅くなることには慣れている。だが、今日ばかりは全身からにじみ出る疲労の色が隠せていなかった。
海は大きくため息をついた後重い口調で語りはじめる。
「今年の春頃、あんたの学校で呪いの玉手箱の事件あったでしょ。それと同じようなことがうちの学校でも起きちゃったのよ」
「目安箱な。……ってことは誰かが亡くなったのか?」
「ううん。そんな事になったら生徒会の出る幕じゃないわ。即警察案件でしょ」
空はその言葉にホッとしながらもその続きの話を待っている。
「まぁ、ほっといたら事件になりかねないと思って調べてたんだけどさ……
一年生が図書室で奇妙な箱を見つけたって話が持ち込まれて、聞いた感じがコトリバコと凄く似てたのよ」
「まじ…… そういえばうちの学校であったのもコトリバコを伝えた人の末裔とか言ってたな」
海は黙ってコクリと頷く。
「それが本当のコトリバコなら、女性は近づけないから持ち込んだのは男の先生ってことになるけど…… でも結局見つからなくてその場は見間違いって事にして解散したのよ」
「見間違いって…… そんなハッキリと特徴覚えてるのにそんなのことあるのかな?」
海は「ふぅ」と大きなため息をつく。
「何にしてもアレって東中だけの話ではなくなっているのかもしれないわね」
――ピンポーン
不穏な余韻を振り払うように、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。
「あ、来たわね。私が行ってくるわ」
海は財布を掴んでキッチンを後にする。
リビングに戻った空がふと視線を向けると、蜜柑は神妙な顔つきでテレビのニュース番組を見つめていた。画面には『路上での傷害事件』という物々しいテロップが躍っている。
『――本日午後三時ごろ、新宿の繁華街にて、高校生から現金を奪おうとした疑いのある男二人が重傷を負う事件が発生しました。警察によりますと、男二人はそれぞれ両目を潰され、さらに大腿骨を複雑骨折しており、全治四ヶ月の診断。警察は過剰防衛の可能性も視野に、詳しい経緯を捜査しています……』
二人は画面を見つめたまま、引きつったような苦笑いを浮かべた。
「カツアゲしようとして返り討ちか。自業自得とはいえ、大腿骨をへし折るって、どんな怪力だよ」
「……普通の人の力じゃ、絶対に無理だよね」
蜜柑は先日参加した稽古の光景を思い出していた。人体を「壊す」ことに特化した稽古。蜜柑からみれば誰もが人間離れした人達だった。しかしそれでも大腿骨をへし折るなどとても考えられない。
もしあの場に事件の男が現れたなら――
どう対処するのだろう。
そんなことを考えていた時、リビングのドアが勢いよく開いて海が顔を覗かせた。
「お寿司準備できたわよ!
空、お兄ちゃんたち呼んできて!」
海はそれだけ言うと、すぐに顔を引っ込めた。静まり返ったリビングで、空は深いため息を一つ。
「……しょうがない、行ってくるか」
どことなく足取りの重い空に、蜜柑は不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「どうしたの? お寿司、楽しみじゃないの?」
「いや、お寿司は楽しみなんだけどさ……。ほら、さっきの話があった後だろ? 里絵さんと顔を合わせるのが、なんていうか、猛烈に照れくさいというか……」
空が頬をかきながら視線を逸らすと、蜜柑は「ふふっ」と小さく吹き出した。
「確かに、ちょっと……というか、かなり恥ずかしいかも。……じゃあ、私が行ってくるよ。空くんは先キッチン行ってて」
「あ! ちょっ……ま……」
呼び止める空の声に振り返ることなく、蜜柑は軽やかな足取りでリビングを後にした。残された空は、伸ばした手を所在なげに下ろすと、再び溜息をつく。
「……まぁいっか」
空はテレビのリモコンを手に取り、不穏なニュースをシャットアウトするようにスイッチを切りリビングを出てキッチンへと入ると、そこでは海がお吸い物の準備を整えていた。
「あれ? 蜜柑さんはどうしたの?」
「ああ、陸兄たちを呼びに行ったよ」
そして空が、席に小皿と箸を置いていると、静かにドアの開く音が耳にはいる。振り返ると、そこには戻ってきた蜜柑の姿。だがその顔は、茹で上がったタコのように真っ赤に染まり、視線は完全に足元を彷徨っている。
空と海は顔を見合わせ、直感的に察した。
「……もしかして」
海は同情の混じった苦笑いを浮かべて蜜柑に問いかける。
「お兄ちゃんと里絵さん……『繋がって』た?」
蜜柑の肩がびくんと跳ね、さらに顔を赤くしてコクリコクリと、壊れた人形のように激しく頷いた。
「ドアを、ノックしたら……『はーい』って返事があったから、いいのかなって思って開けたら……っ」
「あーあ、それはなかなか刺激が強いわね。空は絶対にお兄ちゃんの部屋に近づかないから、ノックしたのは私だと思って油断したのね。私は何度かそういう場面にエンカウントしてるから……。向こうも相当驚いたんじゃない?」
「どうしよう……私、これからどんな顔をして二人に会えば……」
蜜柑は今にも泣き出しそうな瞳で海に訴えかける。
「まぁまぁ、これも里絵さんの性教育の一環だと思って、ね?」
「海姉、それフォローになってないから」
空が間髪入れずにツッコミを入れた、その時。
キッチンのドアがゆっくりと開き、バツの悪そうな顔をした陸と、耳まで赤くなった里絵が姿を現した。
「さ、さっきはごめんなさい……っ!」
蜜柑が勢いよく頭を下げる。その腰の低さに、里絵は慌てて手を振った。
「そんな、謝らないで蜜柑さん。私もつい不用意に返事しちゃったわけだし……。ええと、これもさっきの講義の『実践編』ってことで……ね?」
その返答を聞いて、空は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
(里絵さんまでそんなこと言い出すなんて……)
そんなやりとりの中、海は『パンパン』と手を叩いた。
「まぁまぁ…… せっかく美味しいお寿司取ったんだから、早くみんなで食べましょ。
あっ、お兄ちゃんと里絵さん、ビール飲むんでしょ?」
そう言って、海は冷蔵庫からビールを取り出してテーブルにおいた。四人は顔を見合わせて小さく微笑むと、海に促されるままテーブルについた。
目の前には色とりどりの寿司がテーブルいっぱいに並べられ、海は一人一人の前に蛤のお吸い物の椀を置いていく。
「うわぁーっ、すっごくおいしそう!」
目を輝かせる蜜柑を海は嬉しそうに眺める。
「いっぱい食べてね」
海はそういうと、自分も席について手を合わせた。
「「「いただきます」」」
そういうと陸はビールを開け、一気に喉に流し込む。他は思い思いに寿司へ箸を向けた。
「うわぁ、すっごくおいしい!」
目を輝かせ感動する蜜柑。
里絵もまた、その美味しさに頷き箸をすすめる。
「でしょう。私のお気に入りのお寿司屋さんだからね」
海は嬉しそうに寿司を頬張った。
夕食を済ませ、シャワーで一日の汚れを洗い流した空は、自分の部屋へと戻ってきた。ドライヤーをかけるのももどかしく、タオルで乱暴に髪を拭きながらスマホを手に取ると、液晶には21:00という数字が並んでいる。
(まだ九時か……。宿題は自習時間に片付けたし、少し仕事を進めるか)
空は仕事用のデスクに向かい、愛用のノートPCを開いた。
今書いているのは、春に学園を騒がせた「呪いの目安箱」の一件から着想を得たミステリーだ。連載は佳境に入り、物語は最大の山場を迎えようとしている。しかし、複雑に絡み合わせた伏線をどう回収し、読者が息を呑むような結末に落とし込むか――。納得のいく解答がどうしても見つからず、ここ数日は枝葉のエピソードでお茶を濁す日々が続いていた。
「うーん……。そろそろ物語の核心に踏み込まないと、読者に見放されるよな……」
独り言をこぼしてみるが、モニターを見つめる視線はどこか泳いでいる。キーボードの上に置いた指先は、まるで凍りついたように一文字も綴ることができない。
「……ダメだ。全然、頭に入ってこない」
空は重たい溜息を吐き出すと、逃げるようにノートPCのモニターを叩きつけるように閉じた。椅子から立ち上がる足取りはおぼつかなく、吸い寄せられるようにベッドの端へ腰を下ろす。そのまま抗うことをやめ、仰向けに体を布団の上へと投げ出した。
天井を見つめていた瞼を閉じる。しかし、瞼の裏側の暗闇には、今日一日繰り返された「あの光景」が、鮮明すぎる残像となって鮮やかに浮かび上がってきた。
蜜柑の口から語られた、女子特有の体の変化に戸惑う姿。
里絵からの「特別すぎる授業」。
そして、陸と里絵の生々しい営みを目の当たりにしてしまった際、蜜柑が見せた――あの爆発しそうなほど赤く染まった恥じらいの表情。
それらすべてが頭の中で混ざり合い、空の心拍数を跳ね上げる。さらに追い打ちをかけるように、ベッド脇のサイドテーブルには、里絵から手渡された「あの小袋」が、静かな存在感を放ちながら鎮座していた。
空は布団のシーツを掴む手に力がこもる。
思い出すだけで、首筋から耳の裏まで一気に熱が駆け上がる。心臓は喉元で鳴っているのではないかと思うほど激しく脈打ち、下腹部には、ずっしりと重く、それでいてジリジリと焼けつくような熱が溜まっていく。
思春期という、制御不能な爆弾を抱えた男子にとって、それはあまりに暴力的なまでに抗いがたい生理現象だった。
「あああああ、もうっ……!」
空はたまらずベッドの上でのたうち回り、枕に顔を埋めて、外に漏らせない叫びを無理やり押し殺した。
(……今、蜜柑は風呂に入ってる時間だよな)
ふと冷静な部分が、蜜柑がこの部屋に突撃してくる可能性がないことを弾き出す。すると空は、吸い寄せられるように右手を伸ばし、サイドテーブルの上の小袋を指先でつまみ上げた。
「……里絵さんは、いざって時に焦らないように『練習』してから使えって言ってたし」
誰に対しての言い訳かもわからない言葉を、自分に言い聞かせるように熱っぽい声で呟く。指先でギザギザの切り口を引き裂くと、中からヌルリとした感触と共に、独特な光沢を放つ円盤状の中身が姿を現した。
漫画やネットの画像で何度も見てきたディテール。けれど、実際に自分の指先で触れるそれは、驚くほど柔らかく、しなやかだった。ラテックスの表面にまとわりつく滑らかな潤滑液。本来は至極衛生的で機能的な「道具」であるはずなのに、今の空の脳内フィルターを通すと、それは淫靡な何かを連想させる液体にしか見えなかった。空はゴクリと、喉を鳴らして唾を飲み込む。
「そう……練習! これは予行演習なんだ」
好奇心という名の猛獣に完全に手綱を握られた空は、ベッドから立ち上がると震える手でズボンを膝のあたりまで一気に引き下ろした。火照った空気の中に晒された自身の熱は、先ほどまでの煩悶を証明するように、痛いほどに猛り狂っていた。
空は手に持った円盤をピタリとのせると、ひんやりとした感触が伝わる。突起した部分を摘みながら丸まった部分をスルスルと根元まで手繰り寄せる。装着が完了したソレを空は見下ろすように眺めた。
(こ、これを……あの蜜柑の中に……ッ!)
そのあまりに具体的で、生々しい妄想が脳内を駆け巡った瞬間、右手には自然と力がこもる。
と、その時――。
「空、ちょっといい?」
無慈悲なノックの音と同時に、ドアノブがガチャリと回転した。突然の出来事に空は声を発することもできない。開かれた扉から顔を覗かせたのは、あろうことか海と蜜柑の二人だった。
最悪のタイミング。
最悪のフォーメーション。
そして、極限まで高まっていた空の「熱」は、最愛の彼女の登場という強烈すぎる視覚的刺激にトドメを刺され、理性を無視して激しく脈打った。
「…………あっ」
「…………」
「…………」
時が止まった。
部屋を支配したのは、宇宙の誕生前夜のような、あるいは処刑場のような深い静寂。空の手の中で「放出」されたものが、ラテックスの袋の中で無慈悲に、そして無機質に白く広がっていく。
三人は互いの瞳を見つめ合ったまま、魂の抜けた石像のようにフリーズした。
先に我に返ったのは、少しだけ人生経験豊富な姉・海だった。彼女は聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、音もなくドアを閉めた。
パタン、という乾いた音が、空の心臓の鼓動よりも大きく響く。
直後、ドアの向こうから漏れ聞こえてきたのは、二人の話し声だった。蜜柑の声は、あまりの衝撃からか、消え入るような内緒話のトーンで内容は判別できない。だが、それを受け止める海の返答は、残酷なまでにクリアにドアを透過してきた。
「蜜柑ちゃん。空くらいの年頃の男の子はね、毎日片手だけが異常に忙しいものなの。だから今は……そっとしておいてあげて」
その言葉だけで、蜜柑が何を心配し、海がどう結論づけたのかが痛いほど分かってしまう。空は重力に抗う気力を失い、膝から崩れ落ちて冷たいフローリングへと座り込んだ。
(読者の皆さん……あるいは、どこかで見守ってくれている視聴者の皆さん。
一人で『いたしている』姿を、実の姉と、最愛の恋人……一体どちらに見られる方が地獄だと思いますか? ちなみに私は、本日、その両方から同時に見られるという奇跡を果たしました。……もし、この哀れな作家に一筋の同情を禁じ得ないという方は、高評価とチャンネル登録、お願いします。それではご視聴ありがとうございました)
そんな虚無の独白が脳内を駆け巡る中、重量を持ったゴム風船は力なく萎んだ空のソレから脱落し、ピチャリと音を立て床におちた。そして溢れ出る白濁した液体は床を汚した。
皆さんは遠足の時に先生から「遠足は無事に家に着くまでが遠足です」と言われた記憶があるでしょう。
今回の練習―― 里絵先生は言うだろう。
「装着だけが練習ではない。出して、取り外して、こぼさずゴミ箱に捨てるまでが練習」だよ……と。
初めての練習。里絵が評価を付けるのなら明らかに落第点(赤点)だっただろう。
はい――。ここからはしばらくの間、空の姉である私、海の視点でお送りさせていただきますね。
時計の針が今から一時間ほど前を指していた頃のことです。私は机に向かい、学校の課題に集中して取り組んでいました。テーブルでは熱心に宿題に向き合っていた蜜柑ちゃんが、「ふぅ」と小さくため息を漏らすと、広げていたテキストとノートをパタリと閉じました。
「海さん、私、先にお風呂に入ってきますね」
蜜柑ちゃんはそう言って、着替えの下着やパジャマを丁寧にバスタオルの中に包み込みました。その際、彼女がタオルの中に、里絵さんから手渡されたであろうナプキンをそっと忍ばせるのが見えたのです。
「あっ、蜜柑ちゃん。ちょっと待って――」
私は部屋を出ようとする彼女を呼び止め、ウォークインクローゼットへと案内しました。その片隅にあるプラキャビネットには、私の生理用品のストックがぎっしりと詰まっています。
「蜜柑ちゃん。ここにあるものは自由に使っていいからね。今持っているのは昼用でしょ? 明日は二日目なんだから、こっちの大きいのを使った方が安心よ」
私が夜用の38センチタイプを手渡すと、蜜柑ちゃんは少し頬を染めて「ありがとうございます」とはにかみながら受け取ってくれました。
「それから、この引き出しにはタンポンも入っているから。プールに入る時や、湯船に浸かりたい時には便利よ」
「それって、中にいれるタイプですよね。部活の時は、みんな使っていたみたいですけど……」
「そうね。水泳部や新体操部の子たちには必須アイテムかもしれないわね」
そんなレクチャーを終えると、蜜柑ちゃんは「今日はシャワーだけにするので」とナプキンを手に、軽やかな足取りで部屋を後にしました。
それから十五分ほどして、お風呂から戻ってきた彼女は、以前私が教えた通りにパタパタと手際よく化粧水を肌に馴染ませていました。その姿は、見ていて本当に微笑ましく、可愛らしいものです。
友人たちに「弟の彼女と同じ部屋で寝起きしている」と話すと、決まって「信じられない!」と驚かれますが、私にとっては全くストレスなどありません。むしろ、可愛い妹ができたようで毎日が楽しいくらいです。
周りからは「ブラコン」だなんて揶揄されることもありますが、姉弟ならこの程度の仲の良さは普通だと思っています。でも、もし蜜柑ちゃんが本当の妹だったら……私はきっと、重度のシスコンになっていたかもしれませんね。
蜜柑ちゃんがスキンケアを終え、明日の登校準備を整えたのを見計らって、私は声をかけました。
「ねぇ、準備が終わったら少しお茶にしない? 友達から美味しい柚子湯をいただいたの」
「はい、じゃあ……空くんも誘ってもいいですか?」
そうして私たちは、仲良く二人で空の部屋へと向かったのです。空の部屋の前に辿り着いた私たちは、何の疑いもなくドアをノックしました。
「空、ちょっといい?」
返事を待たずにドアを開けた瞬間、私たちが目にしたのは……あまりにも無防備で、あまりにも絶望的な弟の姿でした。
空の右手には、里絵さんから贈られた防具が装着されたソレが握られ。それがまさにその役割を果たした直後であったことは、一目瞭然でした。
「…………」
蜜柑ちゃんが凍りついたように固まり、その顔が熟したトマトのように赤くなっていくのが隣で分かりました。空の方はといえば、魂が口から抜け出たような顔で、ズボンを下げたままこちらを凝視しています。
私は咄嗟に、姉としての、そして一人の人間としての判断を下しました。
ここで騒いでは、弟の尊厳が消滅するだけでなく、蜜柑ちゃんの純粋な心に深い傷が残ってしまいます。私はあえて聖母のような微笑みを浮かべ、音を立てずに静かにドアを閉めました。
「……海さん。今の……空くん、何をして……」
震える声で尋ねる蜜柑ちゃんを、私は優しく、けれど断固とした足取りでリビングへと誘導しました。
「蜜柑ちゃん。あれはね、男の子が大人へと脱皮するための、避けては通れない神聖な……いえ、ちょっとマヌケな儀式なの」
私はわざと、ドア越しの空にも聞こえるような声で続けました。
「空くらいの男の子はね、毎日片手だけが異常に忙しい生き物なのよ。だから今は……そっとしておいてあげましょうね。今日は私たちだけで柚子湯を楽しみましょう」
リビングのソファに蜜柑ちゃんを座らせ、私は熱い柚子湯を淹れました。蜜柑ちゃんは湯気をじっと見つめながら、「空くん……練習してたのかな……」とポツリと独り言を漏らしています。
「ええ、そうね。彼は彼なりに、蜜柑ちゃんを大切にしたいからこそ、あんなに一生懸命……あらぬ方向に努力してしまったのよ」
私は心の中で、床に転がっているであろう弟に深く同情しました。
さて、彼がいつ、どんな顔をしてリビングに現れるのか。姉としては、それが楽しみで仕方がありません。
こんばんは。蜜柑です。
ここからは、私、蜜柑の視点でお話しさせていただきますね。
それは、海さんが「お赤飯の代わり」にと振る舞ってくださった豪華なお寿司をいただいた後のことでした。美味しいお寿司をお腹いっぱい食べて幸せな気持ちになったせいか、学校の課題に取り組もうと机に向かった途端、とてつもない眠気に襲われてしまったんです。
隣では海さんが、真剣な眼差しでパソコンとノートを見比べながら、難しそうな課題に向き合っていました。私はその邪魔にならないようにと、必死に目を見開きながら数学の問題を解こうとしていました。
ところが、ふと気がつくと、テキストの余白には居眠りの跡であろう幾何学的な模様がいくつも描かれていて……。勉強を始めて三十分も経つのに、結局一問しか解けていないことに気づいて愕然としました。
そういえば以前、海さんが「生理中はとてつもなく眠くなることがある」と言っていたのを思い出しました。……ということは、今のこの、抗いようのないまどろみも生理のせいなのかもしれません。
そこで私は、一度シャワーを浴びてスッキリ目を覚まそうと考え、テキストを閉じることにしました。
着替えとバスタオル、そして里絵さんにいただいたナプキンを手に浴室に向かおうと、海さんに声をかけた時です。
「あっ、蜜柑ちゃん。ちょっと待って――」
海さんに呼び止められた私は、お部屋の中にあるウォークインクローゼットへと案内されました。そこは以前私が住んでいたアパートのお部屋が丸ごと入ってしまうのではないかと思うほど広くて、色とりどりの素敵な服が並んでいました。
思わず見惚れていると、海さんはお部屋の隅にあるプラスチックのキャビネットを指差しました。
「さっき言っていた生理用品は、ここにあるから自由に使っていいわよ」
そう言って、海さんはキャビネットに並んだ様々な種類の生理用品について丁寧に説明してくださいました。これから量が多くなる時期だからと、夜用の大きなサイズのナプキンも勧めてくださったんです。
「タンポンを使えば、湯船にも浸かれるよ」とも教えていただきましたが、まだ体の中に何かを入れるのは怖いですし、お風呂に浸かると余計に眠くなってしまいそうだったので、今夜はシャワーだけで済ませることにしました。
浴室に入り、扉を閉めて独りになります。
鏡の前でゆっくりと服を脱ぎ始めましたが、その時、服や腕が胸にふわりと触れるたびに、ちりちりとした小さな痛みが走りました。上半身を覆っていたものをすべて脱ぎ去った私は、洗面台の鏡の前に立ちました。
(……あれ? いつもより、少し大きいかも)
そう思いながら、そっと両手を胸に添えて確かめてみます。すると、私の小さな胸はいつもより少し硬くなっていて、先端に指先が触れるたびにピリッとした刺激がありました。お腹の下の方にも、鉛を置かれたようなズンとした重い痛みがあります。
続いてズボンを脱ぎ、下着を下ろすと、ほんの数時間前に付けたばかりのナプキンは、すでに鮮やかな赤色に染まっていました。私はそのナプキンを丁寧に剥がし、里絵さんに教わった通りにくるくると丸めました。そして、血が床に落ちてしまわないように細心の注意を払いながら、浴室へと足を踏み入れます。
全身に温かいシャワーを浴び、髪や体を洗っている間も、私の意思とは関係なく体から血がひとしずく、またひとしずくとこぼれ落ちて、タイルの床を赤く染めていきました。
(これから何十年も、ずっとこれがやってくるんだ……)
そう思うと、少しだけ憂鬱な気分になってしまいます。でも、いつまでも落ち込んではいられません。体を洗い終えて浴室を出ると、真っ先に下着を手に取って足を通し、海さんにいただいた大きなナプキンの包みを開きました。
「……っ、でかっ!」
思わず、独り言が口から飛び出してしまいました。広げてみたそれは、今日里絵さんにいただいたものの倍くらい、お尻をすっぽりと包み込むような安心感のある大きさです。
驚いてばかりもいられないので、すぐに下着に装着してぐいっと引き上げました。パジャマに着替えた私は、汚れたナプキンを先ほどのビニールに包んでトイレのゴミ箱へ捨てると、海さんの待つお部屋へと戻りました。
保湿をしてから、宿題の続きを再開して、それが終わると明日の学校の準備を済ませました。すると海さんが「柚子湯でお茶にしない?」と誘ってくださったんです。
「はい! じゃあ、空くんも誘ってきますね」
私はワクワクしながら海さんと一緒に空くんのお部屋へ向かいました。空くんもきっとお勉強を頑張っているだろうから、一緒に休憩できたら嬉しいな、なんて思いながら。
海さんが「空、ちょっといい?」とノックして、ドアを開けたその瞬間でした。
「…………えっ?」
目の前に飛び込んできた光景に、私の思考は真っ白になりました。
そこにはズボンを下げたままの空くんが立っていて……その、手にはあの「ゴム」がついたソレが握ららていました。
その先がどうなっていたか、私の口からはとても恥ずかしくて言えません。でも、空くんの手の中にあるそれが、生き物みたいに脈打ったのはハッキリと見えてしまいました。
「…………っ!」
顔から火が出るどころか、全身が沸騰してしまいそうでした。空くんと目が合ったけれど、どうしていいか分からなくて、ただ心臓がバクバク鳴るばかりです。
海さんが静かにドアを閉めてくれた後、私は廊下で立ち尽くしてしまいました。
「海さん……今の、空くん、何を……」
「蜜柑ちゃん。空は今、自分と戦っていただけだから。……男の子はね、ときどき自分を磨かなきゃいけない時があるのよ」
海さんの言葉は優しかったけれど、私は知っています。あれはきっと、里絵さんに言われた「練習」だったんだって。
リビングで柚子湯を飲みながらも、私の頭の中にはさっきの空くんの絶望したような、でも必死だったような顔がこびりついて離れません。
申し訳ないのと、恥ずかしいのと、なんだか愛おしいような変な気持ちが混ざり合って、柚子湯の味があまりしませんでした。
空くん、リビングに来るのかな……。
来たら、私はなんて声をかければいいんでしょう?
それじゃ、視点を作者さんに返します。
昨晩の、あの人生最大とも言える「事故」から、空は一睡もできぬまま悶々と夜を明かした。這いずるような足取りでキッチンに姿を現したのは、時計の針が午前七時半を指そうとしている頃だった。
「……おはよう」
ドアを開けると、そこには母の紗季と海、そして蜜柑の三人が揃って朝食を囲んでいた。
蜜柑は空の顔を見るなり、消え入りそうな声で「おはよう」と呟いたが、すぐに視線を手元のスープへと落としてしまった。気まずさもあるだろうが、それ以上に顔色が優れない。皿に盛られた朝食も、ほとんど手付かずのまま残されている。
空は胸の奥で蜜柑を案じながら、そっと彼女の隣の席に腰を下ろした。
「空、なんだか元気ないわね。もしかしてあんたも生理?」
紗季がコーヒーを啜りながら冗談めかして言ったが、今の空にそれを笑い飛ばす余裕など微塵もなかった。
「ふふ、まあ、ある意味で空のも似たようなものかもしれないわね。蜜柑ちゃんの方は、さっき鎮痛剤を飲んだから、もう少しすれば楽になってくると思うわよ」
海が意味深な苦笑いを浮かべてフォローすると、蜜柑は力なく「はい……」と頷いた。
「それより……母さんがこんな時間に起きてるなんて珍しいな。父さんはどうしたんだ?」
これ以上「昨夜の件」や「生理の話題」に触れられることに耐えられなくなった空は、強引に話題を紗季へと振った。
「私もお父さんも朝の四時頃に帰ってきたんだけど、お父さんはシャワーだけ浴びてすぐに次の仕事へ出かけちゃったわよ。今頃、新幹線の中で泥のように眠っているんじゃないかしら」
紗季は壁の時計を見上げ、少し眠たげな目でそう言った。
「お母さんは、今日は休みなの?」
「うーん、朝ごはんを食べ終えたらお昼までひと眠りして、夕方にお父さんと合流する予定かな」
海の問いに答え、紗季は力なくも微笑みを浮かべた。
「相変わらず、二人ともハードワークだな……」
「お母様もお父様も、どうかお体を壊さないでくださいね」
空と蜜柑が心配そうに視線を送ると、紗季は頼もしく胸を張ってみせた。
「まあ、大丈夫よ。私だってまだまだ若いし、それに五十歳になる前にFire(早期リタイア)して遊んで暮らすのが目標なんだから。これくらい、無理のうちに入らないわよ」
紗季は快活に笑ってみせる。
「それより三人とも、そろそろ学校へ行く時間よ。海、ついでにお兄ちゃんと里絵ちゃんを起こしてきて。ご飯を食べさせちゃいたいから」
紗季のその言葉を合図に、空と蜜柑は急いで残りの朝食を口へと運んだ。期せずして同時に席を立った二人は、昨夜の余韻と今朝の重苦しい空気の中、言葉を交わさぬまま、けれど互いの存在を痛いほど意識しながらキッチンを後にした。
それから十分後。身支度を整えた空と蜜柑は、揃って玄関の扉を開けた。
一晩経っても相変わらず顔色の優れない蜜柑を見て、空はたまらず心配そうな声をかけた。
「蜜柑……やっぱり顔色が悪いよ。本当に学校、大丈夫か? 今日くらい無理しないで、家で休んでたほうがいいんじゃないか?」
空の真っ直ぐな気遣いに、蜜柑は少しだけ目元を緩め、力なく微笑んだ。
「心配してくれてありがとう、空くん。でも、テストも近いし……。それに、他の女の子たちだって、これくらいで学校を休んだりしていないもの。もしどうしても我慢できなくなったら、その時は保健室に駆け込むから大丈夫だよ」
健気に振る舞うその姿に、空は改めて衝撃を受けていた。
家の中であれば、海がソファの上でお腹を押さえてうずくまっていたり、生理用品を手にトイレへ駆け込む姿は日常の光景だ。けれど、一歩外に出れば、学校でそんな素振りを見せる女子など一人も見たことがない。
単純に計算しても、女子の五人に一人は生理中であるはずなのに。彼女たちがどれほど細やかに、男子に悟られないよう気を配りながら日常生活を送っているのかを、空は今さらながらに思い知らされた。
「……女子って、本当に凄いよな」
思わず口を突いて出た空の独白に、蜜柑は一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべた。けれど、過酷な女子の社会に足を踏み入れたばかりの彼女は、自分自身の体調の重さと重ね合わせるように、「そうだね……」と小さく零した。




