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第二話 蒼井家と早見家の事情

令和元年五月八日 水曜日

 朝——

 空は、掛け布団の上でまどろみから意識を引き戻した。部屋の灯りは、昨夜からひとりでに時を照らし続けていたらしい。


(……いつの間に眠ったんだ?)


 ぼんやりとした頭の奥で記憶を手繰る。風呂から上がったあと、掛け布団の上に倒れ込み、全身の力が抜けていく感覚に身を委ねた——そこで意識が途切れていた。

 五月初旬。昼間の温もりが嘘のように、朝の空気は身を刺すほど冷たい。空は寒さに肩を震わせながら布団の隙間へ潜り込み、壁の時計を細い視界に収めた。


(まだ五時…… もう少し眠れそうだな。)


 潜った直後は冷たかった布団も、五分も経てば体温を吸い込んで柔らかく包み込んでくる。そのぬくもりに頭まで沈め、二度寝という甘い誘惑に身を委ねようとしたとき——

 昨夜、ベッド脇のテーブルに放置したままのスマホの存在が、不自然な重みのように意識の端で揺れた。空は布団から腕だけを伸ばし、手探りでそれをつかむと、ぬくもりの洞窟へ引きずり込んだ。

 だが、画面は吐息で曇ってしまい、文字がにじんで見えない。拭き取りながら目を凝らすと、ラインの未読がいくつも灯っている。アプリを開くと、最上段に見慣れた名前が浮かび上がった。


「あ……シンくんだ」


 忍からのメッセージには、昨日の事故で命を落とした女子生徒のことが簡潔に記されていた。


「……保科恵?」


 水泳部の二年生、保科恵。名前は、どこかで見た記憶がある。だが、顔は霧の奥に隠れてしまったかのように思い出せない。


(蜜柑さんにも知らせたいけど……携帯、持ってなさそうなんだよな)


 空の脳裏に、昨日訪れた蒼井の古びたアパートがよぎる。

 忍のメッセージを最後まで読み終えると、空はスマホを枕元に置き、目を閉じた。しかし、読み取ったはずの文字列がまるで囁きのように何度も脳裏を巡り、眠りの淵へ引き戻しては離していく。

 もやもやした感覚を抱えたまま寝返りを繰り返しているうちに、七時のアラームが突き刺さるように鳴り響き、空は反射的に停止ボタンを押した。


(……仕方ない。起きるか)


 重たい体を引きずるようにベッドから降り、いつもの習慣で時間割を確認する。そして部屋着のまま廊下へ向かってドアを開けた。その瞬間、二つ隣の部屋のドアも同じように開き、薄明かりの中からひとりの女性が姿を現した。


「あら、空くん。おはよう」

「お、おはようございます」


部屋から出てきたのは里絵。空は少しどもり気味で挨拶を返す。


「これから大学ですか?」


空はすでに身支度を整えた里絵の姿を見て聞いてみた。


「うん。私だけね……

 お兄さんは午後からだって。空くんは今から学校?」

「はい」


部屋の前で話していると、里絵が出てきた部屋から陸が寝巻きのままで出てきた。


「空。学校か? 昨日は遅かったみたいだな」

「うん、忍の家に寄って来たから……」


三人は喋りながら階段を降りてキッチンにやってきた。そこでは部屋着にエプロンをつけて朝食を作る海の姿があった。


「海さん、おはようございます。何か手伝いますか?」


里絵は海を見るなりそう申し出た。とはいえ、テーブルにはすでに殆どの食事は準備されていて、ご飯や味噌汁を盛り付けるだけとなっている。


「ううん。大丈夫ですよ。里絵さんはご飯とパンどちらがいいですか?」


そう言いながら朝食の準備をテキパキとこなし、里絵が手を出す前に食べられる状態になった。


「相変わらず手際いいですね。お料理も上手ですし……」


里絵はそんな事を言いながら他の二人と共にテーブルに着いた。


「そんな事……」


海は少し照れながら謙遜している。みんなにパンやご飯が行き渡ると海もテーブルに着いた。


「母さんたちはまだ寝てるのか?」


陸は海にいうと、海はコーヒーに手をかけながら答える。


「お母さんたち帰ってきたの三時頃だったから…… 多分昼くらいまで寝てるんじゃない」

「海さん、そんな遅くまで起きていたんですか?」


里絵は驚いたように言った。


「そういえば昨日、仕事って言ってたよね。……うまくいったの?」


 空が何気なく口にした問いに、里絵も続くように海へ視線を向けた。海は、その視線を受け止めると、迷いのない笑みをみせた。


「もちろん。一晩で半年分くらい稼げたわ。税引きで二千五百万の利益よ」

「うおっ……相変わらず海姉は化け物じみてんな」


 二人のやりとりを耳にした里絵は、呆然としながら目を丸くした。そして隣でパンを軽くかじりながらコーヒーを啜る陸へ、そっと声を潜らせるように問いかける。


「ねぇ、陸……海さんって、何者なの? 可愛くて、頭が良くて、家事も完璧で……それでお金までそんなに?」

「んー……兄弟の中で海は一番稼ぐからな」


 淡々と告げる陸の声が、逆に里絵の混乱を深める。

 三兄弟は学生でありながら、それぞれが独自の収入源を持っていた。両親の方針で、幼い頃から“生き抜くための術”――格闘技と、金を生む技術――を叩き込まれてきたのだ。

空は小説の印税があり、陸は地下格闘技で収入を得ている。その中でも、海は飛び抜けて成果を挙げた存在だった。


「すごい……ほんとにウルトラ女子高生ね。男の子なんて選び放題じゃない? 海さんの彼氏って、どんな人なの?」


 里絵は好奇心を隠しきれず、声を弾ませて尋ねた。


「私、彼氏いませんよ。というか……今まで一度も付き合ったことないです」

「えぇ!?」


 里絵は思わず身を乗り出す。


「まぁな。海が男と付き合うとこなんて想像つかねぇし。見た目のわりに面倒くさがりだしな」


 陸がにやけながら茶々を入れると、海はすかさず睨み返した。


「失礼ね。私なりの計画はちゃんとあるの」

「えっ……海さん、彼氏作る気ないの?」


 気まずい空気を和らげるように、里絵は優しく問い直した。


「ないですね。そもそも将来、結婚したいとも思いませんし」

「そう……なの? でも……一生ひとりって、寂しくない?」


 里絵の言葉は、どこか怯えのような色を帯びていた。


「いえ、彼氏も旦那さんもいりません。でも……高校を卒業して早い段階で子どもは作るつもりです。大学には行かないので」


 あまりに自然な口調で語られた“矛盾”に、里絵は言葉を失った。


「え……子ども? でも……彼氏作らないって……」


 里絵の頭上に、いくつもの疑問符がゆらゆらと揺れる。


「はい。だから—— お兄ちゃんか空と作ろうかなって」


 その瞬間、里絵と空は、飲みかけの飲み物を盛大に吹き出しそうになる。


「うっ、海姉……なっ、なっ、何言って……!?」

「きょ、兄妹で……? それって……」


 海は二人の動揺など気にも留めず、言葉を続けた。


「兄妹なら後々、面倒なこともないと思うんですよ。それに、お兄ちゃんも空も身体は超丈夫だし、頭もそこそこ良いじゃない。遺伝子的には完璧だと思うの。……その時だけ、お兄ちゃんを借りられれば…… あ、里絵さんが嫌なら空に頼むので……」


 淡々と、しかしどこか異様に整った論理で語られるその未来予想図に、空気が一瞬、静止した。

海の悪気のない受け答えに空は頭を抱えている。


「遺伝子的にって……それ、良くないんじゃないんですか? 血が濃くなると奇形が生まれるとか、身体が弱くなるって聞いたことありますけど」

「確かに、よく言われていますよね。

でもお馬の世界ではインブリードってよく用いられる技術なんですよ。それに……ほら、身近にいい例もいるじゃないですか」


海はそう言いながら、そっと陸と空に視線を送った。里絵は何のことかわからず、その視線を追ってから再び海に目を戻す。海は微笑みながら自分を指差した。

その瞬間、里絵の表情が一気に驚愕へ変わった。


「えっ……! 本当に?」


海は、今度は声をひそめて真面目な表情を見せる。


「はい、本当です。お父さんとお母さんは実の兄妹なんです。でも——これは里絵さんだから話すんです。絶対内緒ですよ?」


里絵が息を呑むと、海はゆっくりと言葉を続けた。


「二人は小さい頃、両親からひどい虐待を受けていたそうなんです。お母さんはまだ幼い頃にその両親を亡くして、身寄りがなくなってしまった。でも、親戚は誰も助けてくれなかった。そんな中で、お母さんに“未来を見る力”があることが分かって……お父さんがマネージャーみたいになってメディアに出るようになったんです。そこで得たお金で、この家を建てて、ようやく二人で生きていけるようになった」


海は少し息をつぎ、言葉を締めくくる。


「でも、そうなった途端、今まで何もしてくれなかった親戚が私たちを引き取ろうとしてきたらしいんです。それで……人を信じられなくなったみたいで……」


話が終わると、里絵は静かに俯く。


「そんなことが……あったんだね」


そう声をこぼしたのは空だった。


「ん? 空、もしかして知らなかった?」


海が目を丸くする


「え、いや……父さんと母さんが兄妹なのは知ってたけど、虐待の話は初めて聞いた。海姉が彼氏作らないのって、他人が信用できないから?」


そう尋ねると、海はあっさりと首を振った。


「違うよ。私、人を見る目はあるつもりだから、下心ぐらいはすぐ分かるよ。単に面倒なだけ」


胸を張って言い切る海。陸と空は苦笑しながらも、その自信にどこか安心したような表情を浮かべていた。すると、里絵が目を輝かせて海に歩み寄り、勢いよくその手を握った。


「海さん、本当にすごい! とても年下とは思えないわ! もし、お兄さんとの子供を作りたくなったら言ってね。私、全力でサポートするから!!」

「えっ!? あ、ええ……」


あまりの熱量に、海は思わず後ずさって苦笑いを浮かべる。陸はそのやりとりを落ち着いて聞き流していたが、空だけは“子作り”という言葉に動揺を隠しきれなかった。


「ねぇ、陸兄。海姉となんてできる?」


空は陸にそう問いかける。


「なんだ空。お前できないのか? 客観的に見ても海は可愛いしスタイルも良いだろ」

「いや、そうだけど…… 姉弟だよ! 近親相姦だよ!」

「何ビビってんだよ。だいたい近親相姦を罰する法律なんてないんだぜ。お前がいっつもティッシュに出しているものを海の中に出すだけだろ」


陸がそういうと海と里絵の視線が空に向いた。


「馬鹿、里絵さんの前でなんてことを!」


そんな空に里絵は優しく微笑むが、空は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

そんな時、海は壁にかけられた時計に目を向けると針は七時五十分を指していた。


「空! 時間!! もうすぐ八時だよ」

「あっ! ヤバっ!」


海のその声に焦りながらも、居心地の悪くなったその場から離れる口実ができ、空は急いでキッチンを出て自分の部屋に駆け上がった。そして五分もしないうちに階段を降りる音がして、キッチンの前で「いってきます!」と叫び家を飛び出した。


 今日はのんびり朝食を取ってしまい、いつもよりも十分程家を出るのが遅れた。空は所々駆け足で歩き十分ほどで校門を潜る。今日は流石にパトカーは来ていないようだが、昇降口から見える屋内プールの入り口には黄色いテープが貼ってあり、生徒が入れないようになっているようだ。もうすぐ始業時間だというのに空はその場で足を止めてその様子を眺めていた。そんな時、空は後ろから肩をポンと叩かれる。振り向くとそこには昨日文藝部に入った蒼井の姿があった。


「おはよう、早見くん。何してるの? 授業始まっちゃうよ」

「ああ、蒼井さん。お、おはよう……」


空は少し驚き、どぎまぎしながら挨拶を返した。二人は昇降口で上履きに履き替え、二年生の教室がある二階へ向かう。


「昨日、蒼井さんを送った帰りに学校の前を通ったんだけどさ……救急車とパトカーが学校に停まってたんだよ」

「えっ、そうだったの? 遠くからサイレンが聞こえるとは思ってたけど、学校に来てたんだ」


蒼井は驚いたように空の顔を覗き込む。


「うん、でさ。友達から聞いた話なんだけど——」


空が続けようとした瞬間、蒼井は通りかかった教室の方に視線を向けた。


「ねぇ、なんか今日すごく騒がしくない?」


言われてみれば、どの教室からもざわめきが廊下へ溢れ出している。


「……ああ、そうだね」


空は原因を知りながらも話すタイミングを逃し、生返事を返した。そして二年一組の前で二人は分かれ、空は教室へ入る。


「おはよう」


その声は、教室の喧噪にあっさりかき消された。しかし、クラスメイトと話していた忍は空の姿を見つけると、すぐに集団を抜け出して駆け寄ってくる。


「おい、空! ちょっと来い、ちょっと!」

「あ、シンくん。昨日はごちそうさ——」


言い終える前に、忍は空の手首をつかみ、半ば強引に教室の外へ連れ出した。向かった先は理科室だった。


「な、なんだよ急に。授業始まっちゃうって」

「いや、それどころじゃない。すごい話、聞いたんだよ」


忍は興奮した様子でぐっと空に顔を寄せる。


「昨日亡くなった保科恵だけどさ、蒼井と結構仲よかったらしい」

「へぇ。まぁ同じ水泳部だったしね。みんながみんな蒼井さんを嫌ってたわけじゃないだろ」


わざわざ引っぱり出してまで話すことか……と空は内心がっかりしつつ答える。


「でもな、越谷先輩や櫻井先輩があれだけ嫌がらせしてた中で、後輩の保科が蒼井と仲良くするって相当だぞ」

「まさか……蒼井さんと仲よくしてたから、“事故”に見せかけて殺された、とでも言いたいのか?」


空はあり得ないという口調で言い返すが、忍は慌てて手を振った。


「違う違う。第一、蒼井はもう水泳部辞めてるだろ。それに、そんなことしたら警察が動いて即年少送りだ」

「じゃあ何が言いたいんだよ……」


忍は言いたくて仕方ないのを堪えるように、わざと焦らすような口調になる。空もそれを察しつつ続きを待った。しかし、肝心なところで始業のチャイムが鳴ってしまう。廊下のざわめきも次第に静かになっていく。


「やっべ。戻らないと……!」


空は走り出し、忍も慌てて追いかけた。


「ほらシンくん、もたもた話してるから!」


空が走りながら振り返る。


「悪かったな! でもお前がもっと早く来れば全部話せてたんだよ!」


そんなやり取りをしつつ二年一組の教室に飛び込むと、クラスメイトはすでに全員着席しており、教壇には担任の羽柴と教頭が険しい顔で立っていた。


「すみません、遅れました」


二人が入口で頭を下げると、教頭が冷たい声で返す。


「わかったから、早く座りなさい」


空と忍が席についた瞬間、教室は水を打ったように静まった。他の教室からも物音ひとつ聞こえない。そんな張りつめた空気の中、教頭は教壇に立ち、堰を切ったように話し始めた。同じような声が、他の教室からも波のように響いてくる。


「皆さんもすでに聞いていると思いますが、昨日、二年二組の保科恵さんが水泳の練習中の事故で亡くなりました。いろいろな噂が流れており、先生方の耳にも届いています。無責任な噂に惑わされないようにしてください。また、保護者の方には学年集会を開いて説明しますので、この件を校外の人に話すことは絶対にしないように。以上です」


そう言うと教頭はすぐに教室を出て行った。

その途端、教室はざわめき始める。


「今の何?」

「保科さんへの弔いの言葉もなし?」

「事故の説明もないってどういうことだよ」


空も心の中で同じ怒りを抱いていた。

学校が事実を隠し、体裁だけを整えようとしているようにしか見えない。だが、担任はそれを補足することもなく淡々と一時間目の国語へ入った。


——主人公の気持ちを考えましょう。


この状況で“人の心情”など語られても、空の胸には全く入ってこない。集中できないまま午前の授業が終わり、昼休みとなった。

空は給食をさっと平らげると、忍が食べ終わるのを遠くから確認し、皿を片づけたタイミングで立ち上がった。


「シンくん、来て!」


半ば強引に手首をつかむと、そのまま教室を飛び出す。向かった先は、文藝部の部室として使われている図書準備室だった。中へ入ると、まず空は深く息を吐いて気持ちを整える。


「……よし。ここなら誰にも邪魔されない」


一方、忍はきょろきょろと周囲を見回していた。剣道部の彼にとって、この部屋はほとんど足を踏み入れたことのない場所だ。


「ここ、文藝部の部室なんだな。初めて来たよ」

「まあ、生徒はほぼ立ち入り禁止だしな」


空が普段通り椅子に腰を下ろすと、忍も少し落ち着かない様子で向かいの椅子に座る。そして空が「で?」と促すと、忍はようやく本題を切り出した。


「ああ、今朝の続きなんだけどさ……。これは運動部の中での噂だから、全部本気にはしないでくれよ?」

「わかったから、早く言えよ。昼休みだって長くないんだからさ」


空に急かされ、忍は渋々と口を開いた。


「昨日亡くなった保科。蒼井と仲が良かったっていっただろ?」


空は頷く。


「でもそれは表向きでな。水泳部の友達から聞いた話だと、保科は女子の集まりがあるたびに蒼井の悪口を言ってたそうだ」

「……なんで?」


忍は腕を組みながら続ける。


「保科は競泳経験者で、別の地区からこの学校に通ってたんだと。実力は蒼井とほぼ互角なのに、蒼井はレギュラー入り。保科は補欠にもなれなかったらしい。それに保科は櫻井先輩が好きだったらしく、蒼井が告白された時、嫉妬で相当荒れてたそうだ」

「表面上仲良くしてたのはなんでなんだ?」

「そこが解せないんだよな。普通、そういう“表面上の仲良し”って、クラスの派閥とか上下関係が絡むだろ? でも蒼井は、そういうタイプじゃない」


空は昨日の蒼井の姿を思い出しながら、小さく頷いた。


「でな、保科はあるとき“例の箱”を見つけたんだ」

「呪いの玉手箱?」

「目安箱だよ! なんでわざと間違えるんだよ」

「……あ、悪い」


空は自分でも妙にしっくりきて、つい口にしてしまったことに苦笑する。

忍は続けた。


「その箱に、保科は蒼井の名前を書いた紙を投函したらしい。しかも、数人の女子部員の前で……」

「マジかよ」


その瞬間、バタンと準備室の扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、顔面蒼白の蒼井だった。虚ろな目をしたまま、ふらふらと忍へと歩み寄ってくる。


「……その話、どこで聞いたの?」


震える声と揺れる瞳。忍は一瞬で怯み、言葉を失う。視線だけで空に助けを求めてきた。


「蒼井さん、落ち着いて……」


空が促すと、蒼井はゆっくりと空に顔を向けた。


「……私、小学校でずっといじめられてたんだ。中学でもまたそうなると思ってた時、声をかけてくれたのが恵だった。水泳部に誘ってくれて……嬉しかった。だから、少しでも恵に近づきたくて、必死に練習したのに……」


蒼井の肩は震え、涙が今にも零れそうだった。忍は先ほどまで興味本位で噂話を聞いてきた自分を恥じたのか、目を逸らして黙り込む。


その時、背後から厳しい声が飛んだ。


「何をしている! この部屋は立ち入り禁止のはずだぞ」


振り向くと、文藝部顧問の柴田が扉の前に立っていた。


「なんだ、早見か。だが今は授業時間中だ。三人とも早く戻りなさい」


促されて部屋を出ようとした時、蒼井は涙を拭きながら歩き出す——


「ああ、蒼井さん。少し話があるんだが…… 五時間目の先生には私から伝えておくから」

「……はい」


そう柴田に呼び止められ蒼井は教室とは逆方向へと消えていった。その背を見送りながら、空と忍は首を傾げ合う。


「なぁ、さっきの蒼井の話……どう思う?」


忍が呟くように聞いた。


「保科が最初から悪意を持って蒼井に近づいたとは思えない。でも……目安箱に投書したのは本当なんだろ?」

「らしいな。しかも、保科は蒼井が事故で入院した時、かなり落ち込んでたって。部の女子も徐々に保科を避けるようになって……最後の方は一人でいたって話だ」

「でもなんか保科のやってる事矛盾してるよな」


その時、スピーカーからノイズが走り、予鈴のチャイムが鳴った。忍は窓から目を離し、廊下へ向き直る。


「多分だけど……保科、投函したこと後悔してたんじゃないか?」

「……そうかもな」


二人は教室へ戻り、午後の授業に入った。

だが空の頭の中では、保科の“投函”の理由だけが引っかかり続けていた。


(本気で嫌っていたなら、誰もいない時にこっそりやるはずだ……。なら——誰かに唆された? それとも……目安箱の噂を信じていなかった?)


空は深くため息をつき、板書を写しながら考える。


(……でももう、保科は亡くなった。これ以上のことは、もう知りようがないか)


授業が終わると、担任から簡単な連絡のあとすぐに解散となった。忍は部活へ行き、空はひとり昇降口に向かう。

ふと、保健室の前で足が止まった。

昨日まで置かれていた木箱——目安箱は、跡形もなく消えていた。


(蒼井さんの言う通り、あの箱がいつも置いてあるわけじゃないのか……)


そんなことを思いながら空は歩き出し、下駄箱で外履きに履き替えると昇降口を抜けて校門へ向かった。まだ十四時過ぎだというのに、曇り空のせいで外はまるで夕方のように薄暗い。胸の奥にわずかな重さを抱えたまま歩いていると、数十メートル先に俯き加減で誰かを待っている女子生徒の姿が目に入った。


(……あれ、蒼井さん?)


空は思わず早足で近づく。


「蒼井さん、待ち合わせ?」


声をかけると、蒼井はゆっくり首を横に振った。


「早見くんを待ってた……」

「俺を?」


蒼井は小さく頷き、制服の袖をぎゅっと握った。


「少し話したいことがあるんだけど……いいかな?」

「うん、今日は予定ないし大丈夫だよ。どこで話す?」


空が迷っていると、蒼井が控えめに空の腕を指先でつついた。


「もし良かったら……早見くんの家でもいい?」

「……え? 別にいいけど、いいの? 家と逆方向だよ?」


そう言うと蒼井は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。空は一瞬ためらった。知り合って間もない女子を自分の部屋に連れて行くのはどうなのか——と。それでも、ほかに落ち着いて話せる場所も思い浮かばず、そのまま家へ向かうことにした。


(……部屋、片付いてたよな? 変なもの出しっぱなしじゃないよな?)


そんな不安を抱えながら歩いていると、蒼井が口を開いた。


「早見くん。今日、ご家族の方は……?」


二人きりになるのを気にしているのだろう。空はできるだけ安心させるように答えた。


「姉貴はそろそろ帰ってくると思う。兄貴は夕方くらいかな。親は仕事で北海道に行ってるらしいけど……」

「そっか……よかった」


蒼井の表情がふっとやわらぎ、空も少し肩の力が抜けた。


「私、プロの作家さんの部屋に入るの初めてだから……ちょっと楽しみ」

「別にそんな大したもんじゃないって」


その後、保科や目安箱の話題には触れないまま、ほんのり他愛のない会話を続け、やがて空の家が見えてきた。


「ここだよ」


門の先に広がる手入れされた庭、周囲の家より二、三倍は大きい現代的な家。蒼井はしばらく言葉を失った。


「これ……本当に早見くんの家?」


表札の「月詠」の文字を見つめ、首を傾げる。


「ツキヨミ……?」


「ああ、それ『つくよみ』って読むんだ。母さんが月詠有栖っていう予言者でさ。昔はテレビにも出てたらしいけど、今は相談業務が多いんだ」


そう説明しながら空が門の鍵を開けると、蒼井は感心したように小さく息をのんだ。長いアプローチを通り玄関を開けると、まっすぐに伸びた白い廊下が視界に広がる。


「……なんか別世界だね。予言者ってそんなに稼げるの?」

「どうなんだろ。でも、小さい頃から家の方針で“お金の稼ぎ方”を教え込まれてるからさ、なんだかんだみんなそれなりに収入はあるんだよ。特に姉貴はえげつないほど稼いでいるけどね」

「へぇ……お金持ちなのに、早見くんがボンボンっぽくない理由がなんとなくわかったよ」


二人は玄関を上がり、キッチン横の階段を登る。二階にも扉がずらりと並んでいた。


「この並びが兄弟の部屋ね。右奥が俺、真ん中が姉貴、その隣が兄貴。反対側の並びがトイレとシャワーと物置」


空が説明すると、蒼井は目を丸くしたまま声を漏らした。


「……すごすぎて、何て言えばいいのか……」

「そんな大したことないって。それより部屋入ろうか」


空が自室の扉を開ける。

十二畳の部屋には、大きな机と本棚が二つずつ並び、窓際には小さな冷蔵庫。反対側にはセミダブルのベッド。そして中央には丸いテーブルにカーペット。蒼井はぐるりと見渡し、感嘆の声を漏らす。


「広い……。うちなんてこの半分もないよ。それにすごく綺麗。机が二つあるのは仕事用?」


空は制服の上着をハンガーにかけながら答えた。


「うん。パソコンがある方が執筆用。資料を広げること多いから、勉強机とは分けてる。まあ、とりあえず座って。コーヒー淹れてくる」


部屋を出ると、蒼井はテーブルの前で落ち着かない様子で周りを観察していた。数分後、空が戻ってきても、その視線はあちこち泳いでいる。


「……何か面白いものでもあった?」


心当たりを探るように聞くと、蒼井は首を振った。


「ううん。そうじゃなくて……ただ、色々すごいなって」


意味が掴めず首をかしげながら、空はコーヒーと菓子皿をテーブルに置く。


「で、蒼井さん。昼間、柴田先生に呼ばれてたけど……あれって保科さんの件だよね?」


空が向かいに座ると、蒼井はゆっくり頷いた。


「うん。でも……私、水泳部をやめてから恵とは全然会ってなかったし……先生に話せることなんて何もなかった」


蒼井はミルクとガムシロップを入れ、そっとカップを口に運ぶ。ようやく少し落ち着いたように肩の力が抜けた。


「さっきシンくんと話してて——」

「……シンくん?」


聞き慣れない名前に蒼井が首を傾げる。


「ああ、三宅忍。さっき準備室にいたやつ。小学校からの友達。剣道部だから、今回の件で運動部に流れてる噂を聞いててさ。文化部の俺にはなかなか入ってこない情報なんだよ」

「でも噂なんでしょ? 本当かどうかわかんないじゃない」


疑わしげに蒼井は言った。


「まあね。でも多少なりとも情報がなきゃ推測もできないし。事実じゃなくても、何かの手がかりってことはある」

「……そう、なんだ」


そのとき、コンコン、とドアを叩く音。空が返事をすると、海がひょいと顔を出した。


「ただいま……って、お客さん?」


制服姿のまま部屋に入ると、蒼井は慌てて頭を下げた。


「あ、あの……はじめまして。文藝部の蒼井蜜柑です」

「初めまして。私は空の姉の海。よろしくね」


海は優しく微笑むと、わざと軽い口調で空に向き直った。


「ねえ、まさかとは思うけど……この可愛い子、空の彼女じゃないわよね?」

「違うって! 昨日入部して知り合ったばっかり!」

「え? じゃあ一年生?」

「いやもう……それも違う。去年までは水泳部で、転部して文藝部に来たの」


海はそこでようやく事情を察したようだが、それを悟られまいと変わらない調子で続けた。


「そっか。蒼井さん、こんな頼りない弟だけどよろしくね。じゃ、ごゆっくり~」


そう言って出ていこうとした海は、思い出したように振り返る。


「あ、そうだ蒼井さん。雨降ってきたから、お兄ちゃん帰ってきたら車で送ってもらいなよ。帰ってくるの夕方だから、夕飯も食べていって」

「はい。ありがとうございます」


蒼井が丁寧に返事をすると、海は満足そうに笑って部屋を出ていった。蒼井は少しだけ天井を見上げ、何かを確かめるように息をつく。空は窓辺へ行き、レースカーテンをそっと開いた——。


「あっ、本当だ。雨降ってるよ」


空は蒼井に見せるように窓をあけた。


「海姉の言う通り、夕飯食べてから兄貴に乗せて行ってもらおうよ」

「うん。でもいいのかな?」

「いいよ、いいよ」


そう言って空はポケットからスマホを取り出し蒼井に渡した。


「今のうちに家に電話入れておいた方がいいよ」

「うん、ありがとう。早見くん携帯持ってるんだね。これどうやって使うの? 私スマートフォンて使ったことなくて……」


蒼井は恥ずかしそうに聞いてきた。空は電話番号を入力する画面を表示させると、蒼井は後ろを向いて家に電話をかけはじめた。電話が終わると慣れない手つきで電話を切り、スマホの画面をハンカチで拭いて空に返した。


「早見くん、ありがとう。それにしても空くんのお姉さん優しいし綺麗だし素敵な人だよね。それにあの制服ってあの名門のお嬢様高校でしょ。早見くんちってなんか私の理想のずっと上をいってるって感じ。兄弟も仲良さそうだし…… 私気の置けない兄弟がいるって憧れなんだ」

「へぇ。そういえば昨日もそんな事言ってたね。蒼井さんの家族って両親と三人暮らしなの?」


蒼井は、ふっと表情を曇らせて口を開いた。


「うちは…… お母さんと二人暮らしだよ。お父さんとは、私が物心つく前に別れちゃったみたいで。しかも、ほとんど家出みたいに飛び出してきたらしいの」

「そ、そうなんだ……。ごめんね、思い出したくないこと聞いちゃって」


蒼井は静かに首を振った。その仕草が余計に空の胸に重さを残す。何も知らず、軽い気持ちで質問したことが気恥ずかしく思えて、空はコーヒーを一口だけ含んだ。どう話題を変えればいいのか、頭の中でゆっくりと言葉を探す。

気まずい沈黙が流れる中、それを破ったのは蒼井の方だった。


「それで……目安箱のことなんだけど」


その声には“話したい”というより、“この空気を変えたい”という気持ちが透けていた。空もそれを感じ取り、すぐに乗ることにする。


「ああ、呪いの玉手箱ね」


またしても三度目のネタ。ダメ元で口にしてみたら、意外にも蒼井は「ぷっ」と吹き出し、両手で口を押さえて笑い始めた。


「早見くん、それ……目安箱でしょ」


その反応に、空はテーブルの下で小さくガッツポーズ。空気が少し柔らかくなったところで、本題を切り出す。


「昨日、部活が終わって家まで送ったでしょ。そのあと学校の前でシンくんに会って、水泳部のことや蒼井さんの噂を聞いたんだ」


空は忍から聞いた水泳部内でのトラブル──櫻井先輩や越谷先輩の話、そして蒼井の事故について順番に確認していった。


「蒼井さん、本当にごめん。噂を本人に確かめるなんてことして……」

「ううん。今日はその話をしようと思って、早見くんを待ってたんだよ」


蒼井はカップを口元に運び、落ち着いた声で続ける。


「忍くんの話は、ほとんど本当だよ。元々あの水泳部って、レギュラー争いがすごくて……『選手の方が偉い』みたいな空気がずっとあったの。選手じゃない子を見下したり、逆に選手に嫌がらせしたりなんて日常茶飯事だった。

櫻井先輩は全中に出るくらいの人だから、学校では人気だけど……自己中な性格で、部内では嫌ってる人が多かったんだよ。まぁ、部活では本当に好き勝手に振る舞ってたから当然だけど。

それに……うちのクラスに、櫻井先輩と付き合ってた子がいるんだけど、ひどい別れ方をしたらしくて。数股をかけられた上に妊娠させられて、親がお金で解決したって……。私が耳にするくらいだから、先生の耳にも入ってたと思う。でも、全中の選手がそんな不祥事起こしたなんて広まったら大問題だよね。たぶん学校は体裁を守るために、わざと見て見ぬふりしてたんじゃないかな」

「うわ……なんか、高校野球の強豪校にある闇みたいな話だな」


空はあきれながらも、どうにも抑えきれない苛立ちがこみ上げてくる。


「私、もともと櫻井先輩が苦手で、ほとんど話したこともなかったの。それなのに急に告白されて……しかも、すごく上から目線だったんだよ。それで断ったら責めるように言い寄られて……。その頃から、部の空気はさらに悪化して、人間関係は本当に最悪だった。そんな時に、あの事故が起きたの」


蒼井は、ゆっくり視線をテーブルに落とした。


「警察は、部の人間関係を調べて事件性を疑ってたみたい。でも……あれは誰かにやられたわけじゃない。泳いでいる途中で、突然体が動かなくなって、息継ぎもできなくて……気がついたら病院だったの。昨日、ケガで水泳ができなくなったって言ったけど、あれは……身体じゃなくて心の方。水が怖くて、プールに入れなくなっちゃったの。海やお風呂は平気なんだけど、プールには……もう近づくこともできない」


その声は震えてはいないのに、どこか痛々しい。

確かに、そんな体験をしたらトラウマにもなるだろう──


「昨日シンくんとの話で人為的に溺れさせる事もできるんじゃないかってなったんだけどさ、それについてはどう思う?」


蒼井は俯いて唸りながら考える。


「確かにやろうと思えばできるんじゃないかな。でも私が溺れた時はそういう感じじゃなかったよ」


空はそれを聞いて天井を見上げてため息をついた。


「そっか…… だとやっぱり人為的なものじゃ無いのかなぁ」

「人為的かぁ。……というか早見くんは目安箱のせいとは考えないんだね」


この質問に空は蒼井がどう考えているかを察した。


「んー、オカルトを全否定するつもりはないけどさ、そんな木箱に紙入れただけで人が死ぬなんてあるのかなって思うんだよ。蒼井さん、あの目安箱っていつできたか知ってる?」

「昔からって聞いたけど、いつかは……」

「昨日の海姉に聞いたんだけどさ、あれは兄貴の同級生が技術家庭の時間に作ったものらしいんだよ。あの箱の裏には作った人の名前が書かれているって。だからせいぜい五、六年前ってところかな。姉貴の頃はさエンジェルポストなんて呼ばれていたんだって」

「エンジェルポスト?」


蒼井も今の学校で知られている名前とあまりに違う印象に違和感を感じ聞き返した。


「うん。好きな異性の名前を書いて投函すると想いが叶うとか言ってたよ」

「なんだか可愛らしい話ね」


蒼井がクスリと笑うと、もう一つの話を蒼井に説明した。


「でもね。同性の名前を書いて投函すると書かれた人は非業の最後を遂げるって。確かに柿崎先輩も普通じゃない死に方したみたいだけど——」


蒼井はその現場を想像して顔を顰める。


「それこそ人為的にそんな事を起こすことなんてできないんじゃない? それでも早見くんが目安箱のせいって思えないのはどうしてなの?」

「何でかかぁ…… なんでなんだろうね。

でも原因がわからないからって、安直に目安箱のせいにするというのも短絡的すぎるというか……」


空自身何故目安箱のせいだと思えないのかわからないだけに、その事をどう蒼井に伝えたら良いのかが分からず曖昧に答えてしまう。


「それにさ、ほんの数年前に作られた箱がそんなオカルトチックな力を持って信じられないんだよね。昨日からその箱を作った人の事を兄貴に聞こうと思ってるんだけど、なかなか話をする機会が無くてさ。今のところ呪いについても半信半疑っていうか、どちらかというと疑に傾いている感じかな」


力一杯そう答えるも、結局どちらも「根拠は無い」という事実を遠回しに言っているだけと気がつき自然と蒼井の方から視線を逸らしてしまった。


「それより蒼井さんは何でその目安箱のせいだと思っているの? 蒼井さんが具体的に知っているのって柿崎先輩の件だけだったんだよね?」

「……」


蒼井は空の問いかけに口を閉ざしてしまった。そして暫く経って静かに言葉を発し始めた。


「恵がどういう風に死んでたかってきいた?」

「シンくんの話だとプールに浮かんでるのを発見されたって……」


蒼井は黙ってうなづいた。


「それって私が一年生に見つけてもらったのと同じ状態って事でしょ。本当ならそうやって私が死ぬはずだったんだけど、それが実現しなかった。だから同じ形で恵が死んだのかなって……」

「確かにそんな話は聞いたことあるな。呪術ってのは少なからずかけた人にも戻る逆凪ってのがあって、術師はそれを受け流すための術を持っているとか。今回みたいに名前を書いた紙を入れるだけで想いが叶うとか相手を呪えるって、お手軽な方法ではあるけど術式を簡略化させたものとも考えられるよね。だから逆凪…… 術の反動が起こったと……」


そういうと蒼井は驚きの表情を浮かべた。


「早見くん凄い。何でそんな事知っているの?」

「うちの母さん、予言者なんて仕事してるでしょ。だから宗教や呪術の話って小さな頃からよく聞いていたんだよ」

「そうなんだ。早見くんて学校の成績上位者でもよく名前見かけるし、何でも知ってそうだもんね」

「何でもは知らないよ。知っていることだけ…… それに学校の成績なんて要領だからね。それより蒼井さんが術の事を知っている方が驚きだよ」


蒼井はわずかに顔を曇らせた。その様子を横目に、空は菓子皿のクッキーをつまみ、ぽいと口に放り込む。


「私ね、今回みたいなこと実は初めてじゃなくて……。小学校五年生のとき、狐狗狸こっくりさんが流行ったことがあったの。早見くん、知ってる?」

「うん、名前だけは。低級霊を呼び寄せる占いとか言われてるやつだよね。でも実際は集団催眠みたいなもので、母さん達の時代はほとんどの学校で禁止されてたって聞いたよ」


そう言いながら、空は蒼井のカップが空になっていることに気づき、コーヒーを注ぎ足した。

ついでに、ソーサーの隣へ小さなお菓子を数個そっと置く。


「お菓子も、遠慮しないで食べてね」


勧めると、蒼井は小さく「ありがとう」と言い、チョコクッキーをつまんでコーヒーを口にした。


「その狐狗狸さんが流行ってたときね、クラスにそれにすごくハマってた子がいたの。色んなおまじないや呪術を、教室で試してて……。しかもその子の占いがやたら当たるって評判になって、他の学年からも人が来るくらいだった。

ある日、その子が“ブードゥ”っていう魔術を調べてきて、クラスメイトと話してたの。私は当時いじめられて孤立してたのもあって…… その子が私に呪いをかける、みたいな話が聞こえてきたの」


空は、思わず眉をひそめた。


「ひどいな、それ。迷信でも、本人に聞こえるところでそんなこと言うなんて、正気じゃないよ」

「うん……まぁ、そうなんだけどね」


蒼井はその部分はそれほど重要ではない、といった表情で続ける。


「それから少しして、私、交通事故に遭いかけたの。幸い、かすり傷と軽い捻挫だけで済んだんだけど……。その直後、その“呪いの儀式”をやった子が交通事故に遭って、全身を大怪我して数ヶ月入院することになったの。

これって、今回の話と似てると思わない?」

「いや……まぁ、似てるけど……うーん……」


空は二つの出来事に共通点を感じつつも、未だ信じられないといった様子だ。


「じゃあ、もう一つ。幼稚園の頃、大きな地震があったんだけど……私、その日にひどい熱を出しちゃって。かかりつけのお医者さんじゃ手に負えないからって、少し離れた内陸の病院に行ったらしいの。その間に大地震が起きて、津波が来た。私が通っていた幼稚園の子ども達も先生も、家も……全部流された。幼稚園に行ってても、家で休んでても、かかりつけのお医者さんに行ってても……ちょっとでも時間がずれてたら、私はここにいなかった」

「……つまり、蜜柑さんは呪いにしろ自然災害にしろ、結果的に“生き延びている”ってこと?」


自然災害や事故は、多くの要素が絡み合う“偶然”の塊だ。飛行機事故だって、たまたま搭乗を遅らせたことで助かった人の話は珍しくない。まして十万人単位の命が交錯する大災害なら、“奇跡的な幸運”は一定数必ず存在する。

空は「呪い」と「自然災害」が同列に語られていることに違和感を覚えつつも、蒼井の言いたいことは何となく読めた。


「でもさ、目安箱の話もクラスメイトのブードゥも、どっちも“呪いが発動した”前提で話してるけど……呪いで大怪我させたり死なせたりなんてできると思う? そんなお手軽に人を殺せるなら、誰も自分の手を汚す必要なんてなくなるよ」

「確かにそんな人は滅多にいないと思う。

でも……これまでに“そういうことができる人”を何人か見たことあるし、呪物は実在している」


にわかには信じがたい話だ。しかし蒼井の目を見れば、嘘をついているようには見えない。

空は深く息を吐いた。


「……もしそれが本当ならさ。近いうちに、また誰かが死ぬかもしれないね」

「え……?」


蒼井は小さく首を傾げる。


「昨日、保健室の前であの箱を見つけたでしょ。あの中に紙が入ってたんだよ。これまでの話からして、誰かが“エンジェルポストのつもりで”入れたとは思えない」


蒼井の顔色が、すっと青ざめた。


「早見くん……どうしよう……?」

「うーん……まぁ、本当に目安箱のせいかもわからないし、とりあえずは様子を見て……」


空が腕を組んで答えかけた、そのとき。

部屋の扉をノックする音が響き、ドアがゆっくり開いた。そこから、海が顔をのぞかせた。


「空、蒼井さん。ご飯できたから下に来て」

「あ、うん…… わかった。蒼井さん。とりあえず夕飯食べてから考えようか」


そういうと蒼井は頷いて立ち上がり、二人は海を追うように部屋を出た。ドアを開けるとご飯の炊けた匂いが鼻をくすぐる。


「海姉、陸兄帰ってきたの?」

「ううん。でもさっき学校出たってライン入っていたからそろそろ帰ってくるんじゃないかな。お兄ちゃんに何か用なの?」

「いや、あの目安箱の話聞きたくてさ……」


海はちょっと考えてこたえる。


「そう…… でも里絵さんもいるからそういう話は夕食の後の方がいいね。食事時にする話でもないでしょ」

「わかったよ、海姉」


三人は一階に降りてキッチンに入ると同時に玄関を開ける音と「ただいま」という陸の声が聞こえた。海が玄関に行くと傘を下駄箱の取手にかけて上着を脱ぐ陸と里絵の姿があった。


「お兄ちゃん、里絵さんおかえりなさい」

「海さん。連日お邪魔しちゃってごめんなさい」


里絵が海とそんな言葉を交わしていると、陸は玄関にある見慣れない靴に目を止めた。


「なぁ海、お客さん来ているのか?」

「うん、空の友達の蒼井蜜柑さん。可愛い女の子だよ。今日は人数多いからお鍋にしたから着替えたら早くキッチンに来てね」


そう言って海は軽やかな足取りでキッチンの中に戻っていった。玄関の二人は二階に上がっていき、五分程でキッチンに姿を見せた。すると蒼井は二人にお辞儀をした。


「こんばんわ。空くんと同じ文藝部の蒼井蜜柑です。えーっと…… 空くんのお兄さんと…… えっと……」


蒼井がそう言葉に詰まっていると、隣にいた空が里絵を紹介する。


「こちらは里絵さん。陸兄の彼女だよ」


すると里絵はペコリとお辞儀をした。


「こんばんは蒼井さん。私は陸…… いえ、空くんのお兄さんと同じ大学の大内里絵(おおうちりえ)です。よろしくね」


そういうと里絵はすぐに空に目を向ける。


「もしかして蒼井さんて空くんの彼女?」


またもそのような事を言われ、空はむせかえる。


「えっ、里絵さんまで? さっき海姉にもそんな事言われたんだけど……」

「だって空が家に女の子連れてくるなんて小学校の低学年以来じゃない? あんまり珍しいからねぇ……」


海はそういうと里絵と顔を見合わせて頷いている。蒼井はなんとなく気恥ずかしい様子で二人の様子を眺めていた。空はそんな蒼井に気づくと小さくため息をついた。


「海姉、里絵さん。蒼井さん困っているよ」

「あっ、ご、ごめなさい」

「うん、私もごめんね…… さ、さぁみんな揃ったしご飯食べようよ。みんな座って……」


海がそういうとテーブルを囲んで皆んなが席についた。テーブルの中央にはカセットコンロにすき焼き鍋が乗せてある。海はコンロに火をつけると牛脂乗せて油を行き渡らせ、具材を手際よく投入して目の前ですき焼きを完成させた。その間に空はみんなにご飯をよそおって配った。


「海、今日はいつもより良い肉だな」


鍋の中で煮える牛肉を覗き込んで陸はそう言った。


「うん、久しぶりのお鍋だしね。A5ランクのお肉だよ。沢山買ってきたからいっぱい食べてね」


蒼井はこの慣れない雰囲気にまだ少し緊張した面持ちで席に座っている。そして海は鍋を椀に取り分けて蒼井に手渡した。


「どうぞ蒼井さん。あとは好きなの取って食べてね」

「はい、ありがとうございます。いただいます」


蒼井は椀を一旦テーブルに置くと、玉子をお椀に落としすき焼きを口に運んだ。


「すごい…… 何コレ。こんな美味しいお鍋初めて」


驚きの表情を浮かべ料理を味わう蒼井。そんな蒼井を見て海は微笑んでいる。


「うん、確かにうまいね」


空はそう言ってすき焼きの肉と春菊をどんぶりご飯に乗せて口の中に掻き込んでいる。


「あーあ…… 空は何を食べさせてもおんなじね」


海は呆れ顔で呟いた。空は最初の数口で丼のご飯の三分のニを胃におさめると、少し落ち着いた調子で話し出した。


「そういえば陸兄。あとで蒼井さんをうちまで乗せて行ってよ。雨降ってるし、暗い中だと危ないからさ……」

「おう、わかった。弟の彼女に風邪ひかせるわけにもいかないしな」

「いや、違うから!」


空は丼に残ったご飯の上に再びすき焼きを載せると、今度はそこに玉子を落としてまたも掻き込んだ。そしてあっという間に大きな丼を空にすると、二杯目をよそおうために席を立った。


「蒼井さん、おかわりは?」

「ありがとう。いただきます」


空は茶碗を受け取ると茶碗いっぱいにこんもりと盛りつけて蒼井に手渡す。


「蒼井さん、お肉もまだまだたくさんあるからいっぱい食べてね」


そう言って海は鍋に肉と春菊を投入した。春菊は空の好物なので普通のすき焼きに比べるとやけに春菊の割合が多い。


「そういえば蒼井さんて文藝部でどんなの書いているの? やっぱり恋愛ものとか?」


里絵は興味深げに聞いてきた。


「いえまだ昨日入ったばかりでまだ何もしていないんです。学園ミステリーとか描いてみたいなと思ってるんですけど……」

「へーっ、いいね。俺、ミステリー小説好きなんだよ。京極夏彦とか赤川次郎、古いとこだとアガサクリスティーとかいいよね」


ミステリーと聞いて陸が食いつく。


「そうですね。私も小学生の頃クリスティーは読みました。でも私全然小説って書いた事無くて。それになかなかネタというかイメージが湧かないんです……」


蒼井がそういうと、陸は意外そうな顔で言った。


「えっ? そう? あの学校の生徒ならその手のネタには事欠かないんじゃない? 色んな話聞こえてくるでしょ?」

「えっ、マジ? それ聞きたい!」


陸の言葉に空は反応した。そんな反応を予期しなかった陸は驚いたように聞いてきた。


「お前その手の話好きだっけ? 前は心霊特集とかクッションに隠れて見てなかったか?」

「いっ、いつの話だよ。それに今度俺もミステリー書こうと思っていたからそういう話集めてんだよ」


陸は二人の興味深げな顔を見て言った。


「まぁ、いいけど後でな。里絵はそういう話苦手だから……」


空たちは意外そうな目で里絵をみると恥ずかしそうに笑った。五人は食事を続け、食後にはみんなでコーヒーを飲んで一息つく。空は壁にかけられた時計をチラリとみた。


「陸兄、そろそろ蒼井さん送ってくれないか。明日も学校だし……」

「ああ。…… 里絵、空と一緒に送って来るから海と留守番しててくれないか」


陸がそういうと里絵は頷き、陸は車を出すために部屋を出て行った。その後、蒼井は上着を羽織ると海と里絵に挨拶をして空と一緒に部屋を出る。玄関を出ると辺りはすっかり暗く雨はさっきよりも激しさを増していた。玄関前の屋根がかかっているところに立っているにもかかわらず弾け飛ぶ雨の雫が足元を濡らした。空は傘を広げて蒼井に差し掛けると、二人は並んで門の外へと出る。


「まだ結構寒いな。蒼井さん大丈夫?」


空がそう言って蒼井の顔を見ると、彼女は「うん」と短く返すだけで、どこか寂しげに微笑んだ。


「早見くん、今日は本当にありがとう。夕飯までご馳走になって……あんなに楽しい食卓、はじめてだったよ。お兄さんもお姉さんも優しくて、ああいうあったかい家庭って、本当にあるんだなって思っちゃった」

「そう? でも、うちも全員そろうことって滅多にないんだよ。今日だって父さんも母さんもいなかったし、兄貴も仕事で遅かったり、里絵さんのところに泊まってくることも多いしさ」


空が軽く言っても、蒼井の表情は晴れないままだった。


「私さ、お母さんと家を飛び出して東京に来たって話したでしょ。小さい頃のことはあまり覚えてないけど……こっちに来てから、お母さんも私もいろんなことで苦労したみたいなんだ。他所者扱いで幼稚園になかなか入れてもらえなかったり、お母さんも全然仕事が見つからなかったりして。一応、国の援助があったから生活はできてたけど、仕事に就くまでずいぶん時間がかかったみたい。しかも仕事に就いてからも、幼稚園でも職場でも差別みたいなこと言われて……ようやくそういう噂がおさまってきた頃には、今度は私が学校でいじめられてさ。お母さん、きっと気が休まる時なんてなかったんだと思う。

 そのせいか、いつも怯えてるみたいで……。そんなお母さんを見るのが辛くて、家に帰りたくなくて、学校帰りによく公園で時間つぶしてた。私のせいで悩んでるのに、私、逃げてばっかりで……酷いよね」


力なく笑う蒼井に、空は首を横に振るだけだった。


「でもね、半年くらい前かな。お母さんが駅で誘われたとかで、ある宗教の集会に行くようになったの。お金がけっこう必要で、生活は前より苦しくなったけど……お母さんの表情が、少し穏やかになったんだ。私、宗教っていいイメージなかったから最初は嫌だったけど……お母さんには必要だったのかもしれないなって思えるようになって。でも、最初は週に2回くらいだった集まりが、だんだん増えて、最近じゃほとんど毎日行ってる。しかも帰りが夜遅いの。本当に、このままで大丈夫なのかなって……ずっと不安で」


空は、夕方に蒼井へ携帯を貸して電話させたことを思い出した。


「じゃあ、さっきの電話って……」


問うと、蒼井は俯きがちに小さく答えた。


「ごめんなさい……お母さん、携帯持ってないし。家に電話しても、やっぱりいなくて……」


空は胸が苦しくなりながら聞いた。


「その……お母さんが通ってる宗教の名前って、わかる?」

「確か……連正会れんせいかい、って言ってたと思う。でも、どうして?」

「いや、うちの両親さ、仕事柄なのか宗教に詳しいんだよ。ちょっと聞いてみようかなって」


空は蒼井の言った名前を、ポケットの中で指先でなぞるように反芻していた。そのとき、二人が立つ校門の前に黒塗りの大きなBMWが止まり、窓が下りる。


「悪ぃ、待ったか?」

「いや。じゃあ、頼むよ」


空はそう言って後部ドアを開け、蒼井を乗せると、自分は助手席に乗り込んだ。車内は外観以上に広く、応接室のように落ち着いた空間だ。蒼井は後部の革張りシートに小さく座り込む。

空は外へ出していた傘をたたみ込んでドアを閉めると、車は静かに走り出した。陸は蒼井のアパートまでのナビを設定する空を横目に見ている。


「……で、陸兄。さっき言ってた、うちの学校の噂の話、教えてくれよ」


空が切り出すと、陸は「ああ」と軽くうなづく。


「とは言っても、半分はどこにでもある学校の怪談みたいなもんでさ。そんな大げさに話すほどのもんでもないぞ」


そう前置きし、陸は校庭の桜の下に白い腕が生える話や、校舎マップにない教室の噂など、どこかで聞いたような怪談をいくつか語った。空も蒼井も初耳だったので、思わず聞き入ってしまう。だが——肝心の「目安箱」の話は出てこない。


「陸兄。呪いの目安箱の話って出てこなかったけど……陸兄のときは、そういう噂なかった?」


空はついに我慢できず問う。


「呪いの目安箱?」

「海姉のときはさ、エンジェルポストって呼ばれてたみたいなんだけど」


陸は眉を寄せ、記憶を探るように首をかしげた。


「えっと……これくらいの木の箱だよ。海姉から聞いたんだけど、陸兄の同級生が技術の時間に作ったって……」


空は手で大きさを示しつつ、昨日今日に海や忍や蒼井から聞いた話を伝えた。リアシートの蒼井も、こくこく頷いている。そして、その瞬間——陸の表情が、はっきりと険しくなった。


「ああ……あれか」


陸は低く言ったまま、しばらく黙って運転を続けた。そして突然、ウィンカーを上げ、通りかかったコンビニへ車を滑り込ませ、そのまま駐車場に車を止めた。


「少し時間大丈夫かな?」


陸は突然振り向いて蒼井にそう聞いた。


「は、はい。大丈夫ですけど……」


そう答えると、陸は空にコンビニでコーヒーを買ってくるように言った。車のドアを開けると外を車が走る音、雨が地面を叩く音、店の前で騒ぐ若い男達の声などが車内に流れ込んできた。空は車を降りると急いでコーヒーを三つ買って車へと戻ってきた。「ダムゥッ!」という音を立て車のドアを閉める。重厚なドアに閉ざされたこの車内は外界の騒音が遮断されルーフとフロントガラスに打ち込まれる雨音だけが聞こえる空間となっている。空は二人にコーヒーを手渡すと陸は溜息をついて思い出すように話を始めた。


「まさか未だにそんなものが残っているとはな……」


そう呟き、手渡されたコーヒーをひと口飲む。空はドアウィンドウの外へ視線を向けた。

つい先ほどまでコンビニの看板下にたむろしていたガラの悪い高校生たちは、威圧感のある黒塗りのBMWに気圧されたらしく、いつの間にか距離を取っている。

陸はその様子を目で追い、大きくため息をついた。空と蒼井は、黙ったまま陸の横顔を見つめていた。


「最初に言っとくけど……あんまり面白い話じゃないぞ。それに他のやつらにはあまり言わないでくれよ」


いつになく長い前置きに、空は緊張で喉がつまるような感覚を覚え、溜めていた唾を飲み込む。リアシートの蒼井も同じ空気に飲まれたのか、コーヒーに手をつけられず、紙コップを両手で包んで温めているだけだった。


「アレはな。海が言った通り、俺の同級生——というかダチだった、水城彰みなしろ あきらが技術の授業で作った物だよ」


その名前を聞いた瞬間、空は陸から視線をそらし、斜め上を見ながら呟く。


「みなしろ……? 珍しい苗字だな。この辺の人じゃないのか?」


空たちの住む地域は都内とはいえ昔ながらの住宅地で、一戸建てが多い。田舎に近い濃い近所付き合いも残っており、蒼井のようなアパート暮らしはむしろ少数派だ。


「まぁ、そうだな。彰は別の地区から電車で通ってた。入学したばかりの頃、俺の席の前で誰とも話さずポツンとしてたから、声かけて仲良くなったんだ」

「へぇ……じゃあ、水泳部だったのか?」


空は昨日の話を思い出して、ふとそんな言葉が漏れる。


「いや、水泳部じゃない。お前と同じ文藝部。……まあ、作家志望でも本好きでもないよくいる、名前だけの部員だ」

「じゃあなんでまた、わざわざ遠くの学校なんか……」


市立中学に電車通学してくる理由が思いつかず、空は首を傾げた。陸は言いづらそうに口を閉ざす。


「もしかして……地元で何かあったんですか?」


沈黙を破ったのは蒼井だった。


「んー、まぁ……ありていに言えば、そうだ。彰は小学校の時、同級生に酷いいじめを受けてたらしい。ただ、母親と二人暮らしだったこともあって、言い出せずに学校に通い続けていたというんだ」


陸は淡々と続けるが、その声の奥に苛立ちがにじんでいた。


「で、六年の時に大きな問題が起きて、ようやく親に知られた。私立なんて行ける家じゃなかったから、地元から離れてこの東中に来たんだ。……でも、ここでもいじめられた。いじめるやつを庇う気はないけど、彰には……そうさせる“雰囲気”みたいなものがあったのかもしれない」

「ふーん……でも、よく陸兄のダチをいじめようなんて思えたな」


空がそう言うと、蒼井が小さく首をかしげる。


「まぁ、俺といる時は誰も手出ししなかったよ。いや、最初の頃はいたな。俺がフルボッコにしてからはいなくなったけどな」


その物騒な言い方に、蒼井は乾いた笑いを漏らす。空も呆れたように陸を見る。


「……で、一年の間は同じクラスだったから、いじめはなかったんだ。でも二年でクラスが別れてから、また始まった。あの木箱は、その二年の技術の授業で作った“自由工作”だよ。彰はお母さんに頼まれて、郵便受けを作ったそうだ。凄くいい出来でな、文化祭でお母さんに見せるのを楽しみにしていたらしいんだが……展示直前に何者かが持ち出して、消えちまった」


陸の声が低くなる。


「教師もろくに捜さねぇし、犯人探しもしないまま文化祭に突入だ。その後もいろいろあった。……学校は、彰へのいじめを見て見ぬふりし続けた。それを見かねた生徒が教頭に相談したらしいが、一蹴され、逆に卒業まで教師に目をつけられたらしい」


空は朝の教頭の顔を思い出し、眉をひそめる。


「……なんか、そういうの今も変わってねぇよな。今朝の保科の件だって、弔いの言葉ひとつなかったし、それどころか口止めしてた」


苛立ちを含んだ声でそう言い、空は紙コップを勢いよくあおる。


「教師といっても所詮職業の一つだからな。皆ができた人間じゃないだろ。むしろ学校という特殊な場所で生きてきて、外の世界を知らないまま大人になってるのが多い。……だからタチが悪いのも大勢いる。自分らが職員室で同僚いじめてるのに、生徒のいじめをなくせるわけがねぇよ」


そう聞いて空はますます苛立ちを募らせた。


「で? そのあとどうなったんだよ」


語尾が荒くなり、空はぶっきらぼうに問いかけた。


「ん……ああ。三年になって、また俺と彰は同じクラスになった。担任のささやかな計らいだった。俺や他のダチとつるむことが多くなって、一見いじめは落ち着いたように見えた。……でも後で聞いた話だと、彰は一人になると校外で金を取られたり殴られたりしてたらしい。

まったく……俺に言ってくれりゃ、殲滅してやったのによ」


悔しそうに奥歯を噛む陸を、空は冷ややかに見ている。蒼井はただ気まずそうに微笑むばかりだ。


「そして、その年の文化祭初日に事件が起きた」


陸は一拍置き、続けた。


「その日、学年ごとの合唱発表があってな。俺たちのクラスの番がもうすぐってところで、彰が“トイレ行ってくる”と言って列を離れたんだ。……だけど、いつまで経っても戻らない。胸騒ぎがして、俺は近くのトイレから順に見て回った。……でもいない。焦って探しまわって、気づけば自分の教室の前に来てたんだ」


陸の指が、空の紙コップを握り潰す音と同調する。


「息を切らしながら教室をのぞくと——彰の机の上に、あの木箱が置いてあった」

「一年ぶりに……戻ってきたってことか?」

「そういうことだな。不思議に思いながらもその時は、彰の方が気になってそれを気に留めてる余裕なんかなかった。合唱が終わってから担任に報告して、クラス全員で彰を探した。校舎を隅々まで見てもいない。担任が家に電話しても繋がらねぇ。母親が仕事でいないんだろうって何度もかけ続けたらしいが……結局連絡はつかなかった。

 次の日になっても彰は登校せず、担任は校長や教頭の制止を振り切って警察に連絡した。大規模な捜索が始まった。同時に警察と担任が彰の家に向かった。街中のアパートの一室だ。大家に鍵を開けてもらって中に入ると——」


陸は空になった紙コップを口に運び、何も入っていないことに気付くと、そのまま手の中でぐしゃりと握り潰した。


「……そこはガランとした空き部屋だった。」


陸は静かにそう言った。


「そして彰も見つかってはいない。

結局は水城母息子の失踪とあっさりそう片付けられてしまった。……で、その少しあとからだ。あの木箱が校内で目撃されるようになったのは」


空はシートにもたれかかり、フロントガラス越しに夜の空をぼんやり眺めていた。しばらくして、ふと気づいたように口を開く。


「でもさ…… その箱に“呪い”だの“願いが叶う”だのって噂、誰が言いはじめたんだ?」


“呪い”はまだしも、“願いが叶う”という話につながる要素は今のところ全く見えない。


「さあな。俺の時はそういうの無かったからな。でも誰かがそう思い込み、信じる者が増えれば“信仰”が生まれても不思議はない」

「うむぅ……」


空は納得できたようなできないような声を漏らす。蒼井はじっと前を見つめたまま、何か考え込んでいる。


「ところで、二人は“呪い・祟り・障り”の違いってわかるか?」


唐突な質問に空と蒼井は顔を見合わせ、そろって首をかしげた。


「……いや、わかんない」


空が正直に答えると、蒼井も小さくうなずいた。


「まあ、誰かが勝手に定義しただけだから曖昧な場合もあるんだが……」


そう前置きして、陸は説明を始める。


呪い・祟り・障り──

似ているようで、実は別物だ。


『呪い』:生きている人間が、特定の相手に呪術を使って害を与えること。

『祟り』:死者や動物の霊が、人に災いを及ぼすこと。

『障り』:土地・建物・物に宿った霊的な力に触れたことで起こる現象。


「……まあ、だいたいこんな感じだ」

「へぇ……」


空と蒼井は、陸がなぜこんな解説をしたのか分からず、曖昧な相槌を打つ。

陸は続けた。


「今回の木箱の件は、現象だけを見れば祟りとも障りとも言える。だが“呪い”とは言い難い。……なのに、どうして呪いなんて呼ばれてるんだ?」


空は肩をすくめる。


「そりゃあ、まあ、彰先輩が死んでるとしても、経緯なんて誰も知らないんだろうし。そもそも呪いと祟りの違いなんて普通の人は気にしないってだけじゃないか?」


曖昧な回答に、蒼井が静かに口を開いた。


「でも、早見くん。“箱に投函する側”から見れば呪いともいえるんじゃない?」


その言葉に陸は微笑む。


「まあ確かにそうとも言えるな。……じゃあ質問を変える。呪いって、どうやってかける?」


再び空と蒼井は顔を見合わせる。


「えっと…… 丑の刻参りとか、犬神とか?」

「じゃあ、それは具体的にどうやる?」


空は記憶をたぐり寄せながら答える。


「丑の刻参りは…… 確か夜中の二時に、誰もいない神社とかで藁人形を五寸釘で打ちつけるんだよな。犬神は…… 可愛がっていた犬の首を落として、人通りの多い場所に埋める、とか……?」


蒼井が目を丸くする。

陸は軽くうなずきながら、言葉を続けた。


「だいたい合ってる。けど一つ、曖昧になってることがある。……わかるか?」

「曖昧?」


空は完全にお手上げの顔をした。


「呪いってのはな──絶対に、誰にも知られてはいけない。もし知られたら、その呪いは“かけた本人”に返ってくる。強力な呪いなら相手にも少しは影響するかもしれないが…… 呪いを仕掛けた本人に殆どが返ってくるんだ」


陸は声を落とし、過去の話を語った。


「中学を卒業した後に聞いたんだが…… 一つ下の女子生徒が友達とあの木箱を見つけてな。自分が好きな男と付き合ってた女の名前を書いて投函したそうだ。そしたら数日後、そいつは学校の階段から落ちて、持ってた傘が胸に刺さって死んだ」

「それ海姉にも聞いた……。目安箱が原因とは言ってなかったけど」


空は眉を寄せる。

生徒数四百人弱の小さな学校で、数年のうちに二人──そして柿崎を含めれば三人が死んだ。しかもあまりにも説明のつかない形で。偶然にしては、あまりにも“出来すぎている”。

やはり──あの目安箱と、三人の死はつながっているのではないか。そう思いはじめた時、沈黙の中、蒼井がぽつりと口を開く。


「……陸さんは、どう思ってるんですか。

目安箱と三人の死のこと」


彼女の声は落ち着いているのに、どこか震えていた。

陸は即答しなかった。深く息を吸い、吐き出し、それから低く言う。


「彰が作った“あの箱”が原因で死んだ──そこまではその通りだと思ってる」


空と蒼井の背筋が同時にこわばった。

陸は続ける。


「でもな三年のときに再び教室で見つけた箱は、一年前とは“別物”だった。見た瞬間、体温が下がるっていうか……禍々しさを纏っていたんだよ」


蒼井が息をのむ音が、暗い車内に小さく響く。空は喉がひりつくような感覚を覚えながら言った。


「……先輩の恨み、じゃないのか? 彰先輩はいじめられてたわけだし……その“怨念”とか」


しかし陸は、迷いなく首を横に振った。


「いや、その箱を見つけた数十分前に彰は体育館にいたんだぜ。仮にいなくなってすぐに死んだとしてもそんなすぐに呪いが生まれるとは思えない。

だいたい死んだ三人は、彰とは何の関係もない。彰の恨みがそいつらに向く理由がないんだよ」


空は口を閉じた。蒼井はシートの隙間から陸を見つめ、いつの間にか前のめりになっている。陸の声は淡々としているのに、妙に耳に残る。


「それに……普通の奴がどんなに人を憎んだところであんな箱に憎悪を閉じ込められる訳がない。見ただけで吐き気がするような……あの異様な気配は、別格だった。何かが、彰の念を飲み込んで、肥え太っていったみたいな……そんな感じがした」


空と蒼井は思わず息を止めた。

昼間の暑さが嘘のように、車内の空気が冷えていく。空は腕を組み、ゆっくりと目を閉じながら考えをまとめはじめた。


「だとすると……だよ。もっと強力な“何か”が、彰先輩の念を増幅させたってこと……? 怪談なら、そういう展開もあるよな」


自分で言いながら、背中にじわりと汗がにじむ。しかし陸は、あっさりと言い放った。


「……そんなオカルト、考えられねぇよ」


その瞬間、空と蒼井は同時に肩を落とした。


「はぁ? ここまで怖がらせておいて、それかよ!」

「いや違ぇって! ただな元々そういった能力を持った人が、ちゃんとした呪法の元に作ったとしたらどうだ?触ったものに死をもたらすって……

実際にそういった話ってあるだろ?」

「それってネット怪談だろ!」


漫才のようなやりとりに、蒼井が思わず吹き出した。その笑い声に、陸も空もつられて口を閉ざす。


「……まあいい。結局のところ、あの木箱がなければ呪いは発動しない。だったら、箱を見つけて処分すりゃいいだけだ」


陸が言うと、空も大きく頷いた。


「そうだな。明日、放課後に探してみようぜ。早くしないと、また誰かが死ぬかもしれないし」


蒼井が不安げに口を開く。


「もし…… 見つかったら、その…… どうするの?」

「普通に、信頼できる神社とかお寺に持っていって、お焚き上げしてもらえばいいんじゃないか?」

「それで…… 本当に大丈夫かな?」


空は蒼井が宗教を苦手だと言っていたことを思い出し、優しく言った。


「平気だよ。神社やお寺って本来そういう場所だし。……蜜柑さんの気持ちはわかるけど、今回は頼らせてもらおう」


蒼井は小さくうなずいた。

その様子を見守っていた陸が、ふっと笑い、エンジンをかけた。


「よし。そろそろ行くか」


一時間近く停めていたコンビニを出る頃には、雨はすっかり止んでいた。空は昨日歩いた道を思い出しながら、蒼井のアパートへのルートを案内しはじめる。


「この道をまっすぐ…… あ、ちょっとゆっくり……。あっ! 今、車が入っていったあたりだと思う」


陸がフロントガラス越しに目を凝らす。


「……あの赤く光ってる場所か?」


「そうそう。……ん? 光ってる、ところ?」


空は陸の言葉を聞き返して、フロントガラスに乗り出す様にして目を凝らした。蒼井も空が座るシートにつかまり顔を前の席に乗り出し陸がいう赤い光の方に注目する。


「事故かな?」


蒼井は呟く。そうしているうちに車はアパートのすぐ近くまで来ていた。

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