第一話 学校の怪談
文藝部。
高校では放送部や美術部と並ぶ“定番の文化部”として知られ、文学や創作に興味のある生徒が集まり、詩や小説を書いたり、読書会を開いたり、作品を通してそれぞれの感性を表現して文化部の花形とも言える。
だが、中学校となると話は別だ。
運動部や吹奏楽部のような華やかさはなく、むしろ“部活として存在しているのか”と思われるほど影が薄い。東京都内にある市立東中学校も例外ではなく、文藝部は「どうしても運動をしたくない人」「身体的に運動が難しい人」がなんとなく入る部活として定着していた。
現在の部員は二名——
一人は、今年の春に入学した一年生の女子・伊藤晴海。外部で演劇活動をしており、校則で「必ずどこかの部活動に所属すること」と決められているため、便宜上この文藝部に籍を置いている。
そしてもう一人は、二年生で部長の 早見空。中学の文藝部には珍しい“本気の作家志望”の生徒だ。小学生の頃から小説を書きはじめ、各種コンテストで入賞。昨年は、ライトノベル作家への登竜門ともいわれるコンテストで優勝し、すでにプロとして歩き出している。
実質、創作活動をしているのは空だけ。顧問は名目上いるものの、部室に顔を見せることはほとんどない。そのため、薄暗い図書準備室――文藝部の部室となっているその場所で、空はいつもひとり静かに創作に没頭している。
ゴールデンウィーク明けの活動日。
この日も空は、この部屋で、キーボードを叩く音を響かせながら黙々と執筆を続けていた。
令和元年五月七日 火曜日
十六時三十分。
西陽が差し込み、廊下の影を長く伸ばす校舎三階の図書室。その奥にある、小さな図書準備室では、空が無言でキーボードを叩いていた。
窓の外では野球部とソフトボール部が声を張り上げている。賑やかな音を横に聞きながら、空はひとり、自前のノートパソコンに向かう。一か月後の締め切りに追われ、荒原稿と格闘中だった。
次は学園ミステリーを書くと決めている。だが、中学一年の短い経験だけでは、肝心の“ネタ”がどうにも浮かばない。テレビドラマや他人の小説から着想を得ることもあるが、今回は自分の学校からキャラクターを拾い上げたい。
そう思うほどに、文字を打ってはバックスペースを叩く指は迷走していた。
何度目かわからない削除キーのあと、空は深い溜息をもらし、椅子の背にもたれて天井を仰ぐ。
「ダメだ…… サッパリ思いつかない……」
ぶらりと床へ垂れた両手。
半年ほど、空はずっとこうしてひとりで活動している。しかし彼は孤独を愛しているわけではない。去年の夏までは二人の三年生の先輩がいて、同じこの部屋で賑やかに作品を語り合っていた。
彼らが引退してからは、ただ淡々と文章を書く日々。
「家でやるのと変わらない……」
そんな思いもあったが、“部活動”という大義名分に縋り、今日もここにいる。
空が沈んだ思考の中にいると、準備室のドアがコツ、コツと控えめにノックされた。一呼吸置いてドアが開く。
「空。ちょっと良いか?」
現れたのは顧問の柴田真紀先生。
ぼさぼさの髪に白衣──昔のマッドサイエンティストを彷彿させる風貌。白衣のポケットに手を突っ込んで校内を闊歩する姿は、女性教師のイメージから見事に逸脱している。だが、空はこの飾らない先生が好きだった。
これまでコンテストの応募手続きや添削をしてくれたのはいつも柴田だ。理科教師ながら文章にも長けた、頼れる顧問。
だが空がプロになってからは世話になる機会も減り、部活中に会うのも一か月ぶりだった。そんな柴田の後ろに、スラリとした短髪の女生徒が続いて入ってくる。
「この子、知ってるよな」
「はぁ……一年の時、同じクラスだったので。三組の……えっと……蒼井さんですよね」
「知ってるなら話は早い。この子、今日から文藝部に転部だ。よろしく頼むわ」
──まさかこの時期に同級生が入部してくるとは。
空が蒼井を見ると、彼女は小さく会釈し、落ち着いた声で自己紹介を始めた。
「蒼井蜜柑です。一年生の時は水泳部だったのですが、怪我で続けられなくて……転部しました。よろしくお願いします」
やはり “仕方なく” の転部、というところだろう。
「そうなんだ。でも文藝部もけっこう楽しいよ。蒼井さんはどんな本読むの?」
「……あまり読まないけど、恋愛ものとか、ミステリーとか?」
空はその “あまり” の幅に少し不安を覚えつつ、活動内容を説明した。すると蒼井は何か考えたあと、ぽつりと言った。
「ちょっとイメージがつかめないから……早見くんが書いたの、見せてもらっていい?」
その時、柴田がふっと笑いを浮かべ、口を挟む。
「蒼井さん。空のはあまり参考にならないと思うよ。こう見えてプロだからね」
「ええっ!? プロの作家さん!?」
蒼井が目を丸くし、空は照れたように肩をすくめる。
「そんな大したことじゃないよ。中高生のラノベ作家って結構いるし……僕はまだ駆け出しだから」
そう言いながら単行本を差し出す。蒼井は表紙をじっと見つめ──ふいに顔を上げた。
「秋乃そら? これ、早見くんのペンネーム?」
「う、うん……耳に入りやすい音がいいかなって……」
蒼井は気にする様子もなく、すぐにページをめくり始めた。横顔に見入る空。緊張が隠せない。
「おいおい……プロの作家さんが何をそんなに緊張してるんだ」
柴田は呆れたように笑う。
「先生、恥ずかしいですよ。見方とか考え方とか……いろいろ晒す感じがして」
「いつも担当には見せてるだろうが」
「担当さんはプロですから……同級生の前でズボン脱ぐのと、医者の前で脱ぐのは違うでしょ?」
柴田は深々と溜息をついた。
「……君は例えが生々しいんだよ」
蒼井はそんな二人をよそに、すっかり読み込んでいる様子で、ふと顔を上げた。
「すごい……これを同級生が書いたなんて信じられない」
そして続ける。
「ねぇ、これ借りていい?」
「うん。……でも大丈夫? ちょっとエグい表現とかあるよ」
「大丈夫。早見くんって、バトルもの専門なの?」
「今のところはね。クラウマガって格闘技を習ってたから、動きのイメージがしやすくて。でも次は別のジャンルに挑戦しようと思ってる」
そう言うと蒼井は紙切れをしおりにして本を鞄へしまった。
「蒼井さんは書きたいのあるの?」
「……ミステリーかな。殺人事件っていうより、学園ものの……」
空は思わず蒼井を指差した。
「それ! 僕も次回作は学園ミステリー書こうとしてるんだけど、ネタが全然出なくてさ!」
そんな熱量の二人を横目に、柴田は時計を見た。六時半が迫っている。
「ほら、完全下校。空、蒼井さんのこと頼んだぞ」
柴田が去り、準備室には二人だけが残った。
片づけを終え、薄暗い廊下へ出る。活動している部活は少なく、校舎は昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
「……なんか、誰もいない学校って怖いね」
蒼井の声が心細げに響く。
「そう? 僕はいつもだから。蒼井さんだって水泳部なら結構遅くまで残ってたでしょ」
「うん。でもプールは電気ついてるし……それにみんなもいたから」
昇降口に近づくと職員室の明かりが見え、蒼井の肩からようやく力が抜けた。
「そんなに怖かった?」
「うん。暗いと……学校の七不思議とか、そういうの思い出しちゃって」
空はこの学校の怪談を思い出そうとするが、これといって浮かばない。
「この学校にそんな話あったっけ?」
「違うよ。一般的な……赤マントとか、花子さんとか……」
空は心の中で “古典的だな” と呟きながら昇降口へ向かう。
その時だった。
「あれ……?」
蒼井が急に立ち止まり、廊下の先を凝視したかと思うと、走り出した。空は驚いて後を追う。
「蒼井さん? どうしたの?」
「あっ、ごめん。……これが目に入って」
蒼井が指したのは、保健室前の机。
その上に、四角い木箱が置かれていた。
「これ?」
頷く蒼井。
空は何度もこの前を通っているが、こんな物は見たことがない。木箱に顔を近づけて観察する。大小さまざまな木片を組んだ直方体。上部に細長い投入口。その箱を振ると、何かが中に入っているような音がする。
「……何これ?」
その瞬間、蒼井が低く呟いた。
「これって……アレじゃない?」
「アレ?」
蒼井は息を飲み、囁くように言った。
「……呪いの目安箱」
「呪い?」
空は半信半疑で蒼井を見る。
だが蒼井は木箱から目を離さない。
その表情は、恐怖に引きつっていた。
職員室のドアが勢いよく開いた。
「おーい! お前ら何してるんだ! 下校時間過ぎてるぞ!」
体育の中野先生の怒鳴り声に、空は肩を跳ねさせた。
「す、すみませーん!!」
空は中野に向かって叫んだ。蒼井は小箱をずっと見たままだ。
「蒼井さん……帰ろう」
「……うん」
校門までの道のり、蒼井は何かを考え続けているように黙り込んだ。別れ際、空が手を挙げようとしたとき──
「待って!」
蒼井が空の制服の裾を掴んだ。
「お願い……うちまで送ってくれない……かな?」
怯えた声。揺れる瞳。
空は思わず目を逸らした。
「……うん。わかった」
蒼井は安堵の息を零し、手を離した。
街灯の少ない道を歩きながら、蒼井がぽつりと口を開く。
「あの箱……水泳部で噂になったことあるんだよ」
「噂?」
蒼井は前を向いたまま続ける。
「去年卒業した、柿崎先輩って知ってる?」
「名前だけな。万引きだの暴力だの……いろいろヤバい先輩だったってやつだろ? 卒業後も学校に現れてはカツアゲとかしてたらしいな」
「うん。水泳部の先輩でもお金取られたって人がいたみたい。去年の春にその先輩がいなくなって学校が平和になるってみんな喜んでいたらしいんだけど卒業してからもよくこの日学校に来ては生徒にお金をせびっていたんだって」
「ふーん。高校ではでかい顔出来なくて母校にきたってか。ショボい奴だな」
そういう空を見て苦笑いを浮かべた。蒼井は再び正面に顔を戻すと、再び険しい表情で話し出す。
「ところがね、去年の夏頃になって急にその先輩が学校に姿を見せなくなったんだって」
「へぇ、よかったじゃん」
空の言葉に蒼井は浮かない顔で「うん」とだけ答える。
「でも来なくなったのはね、その先輩が亡くなったからなの……」
「えっ? 死んだ?」
十代で死ぬなんて病気を患っていたか自殺でもしない限りそうそうある事ではない。それにそんなヤンチャな男ならそのどちらとも考えにくいと空は考えた。
「それって事故か何かで?」
「事故…… なのかな……?」
「???」
空は蒼井の煮え切らない曖昧な返答に首を傾げる。
「これも先輩に聞いた話なんだけど、柿崎先輩が来なくなるちょっと前にね、さっきの…… あの目安箱が現れたんだって。それで今の三年生の誰ががそこに投書したらしいの。柿崎先輩を消してくださいって……」
空はゴクリと口に溜まった唾を飲み込む。
「……たまたまだろ?」
蒼井は首を横に振る。
「電車にはねられたんだよ。遺体は……誰かわからないほどぐちゃぐちゃで。線路脇に落ちていた学生証で先輩だってわかってんだって」
空は少しだけ声を落とす。
「……偶然にも思えるけど」
そういう空に蒼井は続ける。
「早見くん、あの箱学校や生徒会が設置したものだと思ってない?」
「えっ? だってそうでしょ?」
その言葉に蒼井はぶるんぶるんと顔を振った。
「生徒会も学校も、あんな箱置いてないって。告知もなかったし。それに……あれは、昔から不定期にいろんな場所に現れるって……」
「昔から……?」
蒼井は小さく頷いた。
「柿崎先輩の前にも、あの箱で亡くなった人がいるって……。都市伝説みたいで、どこまで本当かわからないけど……でも、実際に柿崎先輩は……」
空は小さく息を吐いた。
「……じゃあ帰ったら兄貴と姉貴に聞いてみるよ」
「えっ、早見くん兄弟いるの?」
「大学生と高校生。二人ともこの中学校だったからさ」
蒼井はほっとしたように微笑んだ。
「だったら……きっと知ってるね。目安箱のこと」
空は静かに頷いた。
「でもいいなぁ。私、一人っ子だからさ。兄弟がいるって、やっぱりちょっと憧れるんだ」
さっきまで怯えたような表情をしていた蒼井だったが、その言葉を口にした時には少しだけ胸の奥が緩んだような、羨ましげな笑みを浮かべていた。そして、歩みを止めた先には古いアパートが立っている。
「あ、ここ……うちなんだ。送ってくれてありがとう」
「ん? ああ、ここが……」
空は彼女が指した方へ目を向ける。
古びた外階段は錆で茶色く変色し、外壁もくすんでいる。築五十年は確実に超えているだろうその建物は、蒼井蜜柑という彼女の印象からかけ離れて見えたが、本人は気にする様子もなく振り向いてくる。
「それでね、早見くん。……お願いがあるんだけど」
「何?」
蒼井は一度息を整え、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「さっき保健室の前で、あの箱を見たこと……誰にも言わないでほしいの」
「ん? まぁ別にいいけど……兄貴たちにも?」
蒼井はすぐに首を横に振る。
「学校の生徒とか先生に……
それとさっきの話、私から聞いたって言わないでほしい」
前者は理解できたが、後者は不可解だった。だが、むやみに人に話す内容でもない。空はその申し出を静かに受け入れた。
蒼井が手を振りながらアパートに消えていくのを見届け、空は来た道を引き返す。歩きながら、蒼井の話が頭の中で何度も反芻された。
――投書された相手が “非業の死” を遂げる呪いの箱。
そんなもの、存在するのだろうか。
そもそも「都市伝説」を騙った殺人ではないのか?再現しようと思えば、決して不可能ではない。だが、そこまでして柿崎の死を演出する理由が見当たらない。
蒼井は「昔からある」と言っていた。
それなら、兄や姉に聞くのが手っ取り早い。
そんなことを考えていると、いつの間にか空の体は学校の近くまで戻ってきていた。
「ん? 何だ、あれ……」
つい先ほど出てきた校門の方角で赤い光が揺れている。空の足は自然と早まり、やがて小走りになった。
校門前には野次馬が群がり、騒然とした空気が漂っていた。暗がりに身を寄せ合った人たちが校内を覗き込んでいる。空も顔を近づけるが、人垣でよく見えない。
そんなとき、見慣れた横顔を見つけた。
「なぁ、シンくん……!」
突然名前を呼ばれた三宅忍は肩をビクリと揺らした。
「うわっ!? ……なんだ空か。びっくりさせんなよ」
「普通に声かけただけだろ…… それより、学校で何かあったのか?」
忍は顎に指を添え、校舎の方を視線で示した。
「俺もよくわかんねぇけど、部屋にいたら救急車とパトカーが入っていく音が聞こえてさ。気になって見に来たんだよ」
忍の家は校門の真正面にある。忘れ物をしてもすぐ取りに行ける立地を、空はいつも羨ましく思っていた。
校内を見れば、昇降口付近で警官が慌ただしく動き回っているのが確認できた。
忍が尋ねる。
「で、お前はこんな時間に何してんだよ。部活はとっくに終わってるだろ?」
「ちょっと部員の子を家まで送ってきたんだ」
「一年の伊藤だっけ? あの子って活動してないんじゃなかったか?」
「晴海ちゃんじゃねぇよ。三組の蒼井蜜柑って子だよ。そ――」
言いかけたところ
「蒼井蜜柑って……あの、水泳部のか?」
忍はそう言って空の方へ視線を向けた。そして忍の表情に影が落ちる。
「シンくん、蒼井さんを知ってるの?」
「知ってるってほどじゃない。ただ……運動部の間じゃ、ちょっと噂になってたんだよ」
そこまで言うと、忍は落ち着かない様子で周囲に視線を走らせ、突然口をつぐんだ。
「ん? どんな噂なんだ?」
空が問い返すと、忍は急に空の腕をつかみ、人だかりの外へと引っ張り出した。
その慌ただしい様子に、空は眉をひそめる。
「なぁ空。今、時間あるなら……うち、寄ってかないか? コーヒーくらい出すぜ」
「え……ああ、まぁ別にいいけど」
二人は野次馬の群れを離れ、車の途切れを待って道路を渡った。忍の家の玄関はきしむような音を立てて開き、空はその後に続く。
「こんばんは、お邪魔します」
空の声に応じるように、忍の母が台所からひょっこりと顔を出した。
「あら空くん、久しぶりね。部活帰り?」
「はい……お邪魔します」
空は靴を脱ぎながら、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
「空、先に部屋行っててくれ。コーヒー淹れてくるから」
「ああ」
階段を上がり、忍の部屋に入る。
窓辺に寄ると、道路越しの校舎が見えた。
昇降口付近の警察車両の赤い点滅がまるで呼吸するように明滅している。
空がそのざわついた光景を見つめていると、部屋のドアが軋み、忍がコーヒーの載った盆を手に入ってきた。
「何か見えたか?」
忍は空の隣に立ち、同じ視線で学校の方を眺めた。
「いや……ここからじゃ、何が起きてるのか全然わかんねぇ」
「だから俺も外に出たんだよ」
忍はテーブルに戻り、コーヒーを置く。
「夕飯まだだろ? なんか持ってこようか?」
「いいよ。帰ってから食べるし」
空はクッキーをつまみながらテーブルについた。
「それよりさ……さっきの話」
空はサラダ煎餅を口に運びつつ言う。
「ああ、蒼井蜜柑のことな」
忍は深く息を吐いた。その顔色には、単なる噂話では収まらない何かが滲んでいる。
「これは……あくまで噂だ。どこまで本当かわからない。そのつもりで聞いてくれ」
空は黙って頷いた。
「うちの学校の水泳部が都内最強ってのは知ってるだろ」
「ああ。」
忍は続ける。
「強豪校でしかも整った設備目当てで、市立中なのに都内中の小学校から経験者が集まってくる」
「市立の中学に他所から入れるのか?」
「その辺はよくわからんが、現に結構な生徒が来ているからな」
空は腕を組みなおす。
「そんなに水泳したいならクラブチームにでも入ったらいいんじゃないか?」
「クラブチームじゃ中学の大会に出られないからな。……つか今はそこが問題じゃない」
忍は面倒くさそうに言うと、コーヒーを一口含んだ。
「問題は――蒼井蜜柑は競泳未経験でありながら、その強豪校の中で活躍してるってことなんだ」
空は目を細める。
「普通なら、三年間補欠にもなれない。それが……あいつは一年の冬にはレギュラー入りしてた。三年でも外された奴がいるのに……」
忍の声がじっとりと湿ってくる。
「だと—— 何が起こる?」
「イジメか……」
空の胸に鈍いものが沈んだ。
「それだけでも十分疎まれるだろうけど、さらに四月の初め蒼井は三年の櫻井先輩に告白されたそうだ」
「櫻井って……全中行った先輩か?」
「ああ」
忍はテーブルの端を無意識に指で叩いていた。
「ところが、その櫻井先輩のことを好きだった越谷先輩というのがいて……」
「イジメ、さらに悪化したってわけか」
先を読んだ空に、忍は悔しそうに口を閉じる。
「まぁな…… でもその告白、蒼井は断ったんだ」
忍は声を潜めた。
「それなのに越谷先輩は執拗に嫌がらせを続けた。櫻井先輩も振られた腹いせなのか、有る事無い事悪い噂をばら撒いたらしい」
「よくある話っちゃ、ある話だな」
空が淡々と言うと、忍はさらに不満げに黙り込んだ。
「……で、先月の終わり頃だ。コーチも顧問もいない時に、事故が起きた」
忍はコーヒーカップを握る指に力を入れた。
「蒼井が……溺れてプールに浮かんでいるところを一年が見つけたんだ。運ばれた時には呼吸もしてなかったそうだ」
空はテーブルからわずかに身体を起こした。
「応急処置は?」
「……しなかった。発見した一年が先生を呼びに行っただけだ」
「水泳部が、溺れた奴の処置もできないって……?」
「できなかったのか、しなかったのかはわからん。でも、あと数分遅れてたら……助かってなかったらしい」
空はコーヒーを啜り、思考を巡らせた。
「……おかしくないか? 屋内プールだろ。溺れたら音だって響く。気づかないなんてことあるか?」
「その辺は警察も調べただろうし、その時いた全員に聞き込みもしたそうだ。
でも結局は事故として処理された」
忍は天井を仰ぐ空の横顔を眺める。
「犯人がいるとしたら――櫻井先輩か越谷先輩か……」
ポツリと空は呟いた。
「まぁそう考えるのが自然だけど、でも事件の日、二人とも強化合宿で学校にいなかった」
「……マジか」
空の表情がこわばる。
「じゃあ……」
「仮に櫻井か越谷に指示されたとしても、そんなのに誰も従わないだろ」
「捕まんの目に見えてるもんな」
二人の間に、しんとした沈黙が落ちた。
忍はようやく口を開いた。
「まぁ……仮にそれが事件だったにしろ、犯人なんているかってことだ」
「……どういう意味だよ」
空が問うと、忍はそっと視線を逸らし、掌の中のコーヒーカップをいじり始めた。言いたい何かがあるのに、言葉を飲み込んでいる。その沈黙は、夜気よりも重く、どこか不吉だった。忍はコーヒーをいじりながら、空に目を向ける。
「お前さ……霊とか呪いって、信じる方?」
突然の問いに空は心臓を跳ねさせた。
「……呪いの目安箱……」
無意識にその言葉が漏れる。
忍は安堵したように頷いた。
「知ってたのか。じゃあ話が早いな」
忍は続ける。
「俺は実物見たことねぇんだけど、あの箱に“呪いたい相手”の名前を書いた紙を入れるとさ、その相手が悲惨な最期を迎えるって話だ。俺らの三つ上の柿崎先輩の件が有名だろ?」
「知ってるよ。ってか、それしか知らない。他にもあるのか?」
「まぁ……あるにはあるけど、全部が本当かはわからん」
「で? 蒼井さんの事故がそのせいだって言いたいのか? 飛躍しすぎだろ」
空がチョコ菓子を口に放り込む。
忍が言葉を探しながら話す。
「でもさ、蒼井本人が言うには、誰にも何もされてないらしいんだ。気づいたら溺れてたって」
「……は?」
「息継ぎに失敗したんじゃないかって説もあるけど…… 仮にもうちのレギュラー選手がそんな事をあると思うか?」
空は言葉を失う。
「人為的って線なら色々考えられるけどさ。中学生の偽装工作なんてすぐにバレるし、そんな事誰もやるとは思えないよな」
忍は両膝を叩き、気持ちを切り替えるように言った。
「まぁ、もし先輩の嫌がらせだったとしても、これからは蒼井に手出しするやつなんかいねぇだろう」
「は? 何でだよ」
忍はニヤついた。
「お前一年の時、三年の先輩五人に囲まれて、一人で全員ボコったことあったじゃん。今でも運動部で語り継がれてるぞ。“文藝部のアンタッチャブル”ってな」
そんな事を聞かされ、空はブスッとした顔で忍を見返した。
「何にもしてない後輩に因縁つける奴なんか、何をしても許されるんだよ」
「まぁな。どうせ何処からかお前がプロ作家だって聞いて、脅せばすぐ金出すとでも思ったんじゃね?」
「ふん! 俺もそう思ったからボコってやったんだ」
そう言いながら空はますますイライラを募らせた。
「だいたい誰だよ。そんな恥ずい二つ名つけたの」
「言わねーよ。言ったら俺がやられる」
そんなやり取りをした後、空はふと時計を見上げた。
「……もう九時か。明日も学校だし帰るわ」
そう言って忍の部屋出て階段を降りると、茶の間から忍の母が慌てた様子で現れた。
「空くん、忍! さっきの学校の事故……生徒が亡くなったんだって!」
二人は同時に固まった。
「女子水泳部の子がプールで浮いてるのを見つけられたらしいの」
「「……!」」
予想以上の展開に、空の背筋が冷たくなる。
「まじ? なんか……とんでもないことになったな」
忍が低く呟くと、空も思わず肩をすくめた。
「ああ。明日の学校は騒がしくなるだろうな……」
そう答え、空は忍の母へ丁寧に挨拶をして家を後にした。
校門前に押し寄せていた野次馬たちは、さすがにもう影も形もなかったが——それでも、学校の前にはパトカーが一台、夜の闇に沈み込むように停まり続けていた。赤い回転灯の残光だけが、まだ何かが終わっていないことを告げている。
空はその光景を横目で拾いながら、胸の奥に落ちた不安の種を踏みつけるように、歩幅を少しだけ速めた。
十五分ほどして、自宅の門の前に辿り着く。黒い鉄格子の門に手をかけ重い鍵を外すと、ゆっくりと軋むように開いた。敷地の奥、十数メートル先に静かに佇む玄関までのアプローチを進み、空はドアノブをひねる。空の家は近所の家と比べると格段に大きく庭も広い。空は俗にいう上流家庭と言われる家庭に生まれたのだが、常々この家は家族五人で暮らすにしては広すぎると感じていた。
「ただいまー」
風呂場から出てきた姉・海がタオルで髪を拭きながら顔を出した。
「あ、空。おかえり。今日は遅かったのね」
「部活の後、友達ん家寄ってた」
「夕飯は?」
「まだ。母さんたちは?」
「仕事よ。クライアントと会食だって」
空はため息をついた。
「相変わらず忙しそうだな」
空がそう言うと海は苦笑いした。
「空。夕飯食べるでしょ。あっためてあげるから早く着替えてきなさい」
海は髪を拭いていたバスタオルをたたみながらキッチンへと入っていく。空は肩にかけていた鞄を手に持ち替えて二階にある自室へと向かった。そして部屋に荷物を置いて部屋着に着替えるとすぐに海のいるキッチンへと降りてきた。そこでは鍋のカレーを温めながら、海はテーブルに皿を出していた。空は冷蔵庫を開けてジュースを探すが、望んでいたものご見つからず、一通り見渡した後にその扉を閉じた。
「はい、カレー温まったわよ。食べる分だけご飯盛りなさい」
海は自分の椅子に座ると冷蔵庫前の空にそう言った。空はテーブルの皿を手に取り炊飯器からご飯をよそおう。
「なぁ、海姉。今日学校で事故があって水泳部の女の子亡くなったんだって」
それを聞いた海は空が想像した以上のリアクションで驚きを見せた。
「えっ?! また?」
「また? またって前にもあったのか?」
そう言うと海は難しい顔をして話すのを渋っていたが、重い口調で話を始めた。
それは海が中一の時、授業が終わって部活に行こうとしていた女子生徒が階段を踏み外し、持っていた傘が胸に突き刺さって亡くなったと言うのだ。発見された時、その生徒の周りは血に染められていたという。
「それまた随分とエグい話だな」
「あんな小説書いているあんたが、よくそんな事言えるわね」
海は呆れたように言う。
「それでさ……今回のに関係あるのかわからないけど、海姉の時って“呪いの目安箱”って噂、なかった?」
「呪いの目安箱?」
空はさらに詳しく説明する。
だが、海は首を傾げた。
「それ……“エンジェルポスト”のこと?」
「エンジェル……ポスト?」
可愛らしすぎる名前に空は困惑する。
海いわく、それは「好きな人の名前を書くと願いが叶う」という噂の箱。ただし、同性の名前を書いた場合は不幸が起きるとも囁かれていたという。
空は皿を前に固まったまま考え続ける。
海は話を続けた。
「でも同性の名前を書いた場合は不幸が起こるって言われていたからさ、もしかしたらその名前になったのかもね」
「ふーん……」
もしそれが噂通りでこの一件が目安箱によるものだとするなら、投書したのは女性ということになる。櫻井は今回の件に関係無いのかもしれないと空は思い始めた。
「ちょっと空。せっかくカレー温めたんだからさ、早く食べなよ」
さっきから動きが止まった空に海はたまらずカレーを食べるように促した。
「あ、ごめん」
空は鍋からお玉でカレーを三杯分盛り付けると、テーブルについてかき込むように食べ始めた。海は空の向かいでペットボトルのお茶をコップに注いで飲み始めた。
「……で、その呪いの玉手箱だっけ? それがどうしたの?」
「玉手箱じゃないよ、目安箱!」
空は今日学校で見た木箱のこと、蒼井や忍に聞いたことを海に話した。その間海はコップのお茶を見ながら黙って聞いていた。
「海姉、どう思う?」
そう聞かれてからもしばらく黙ったままでいた海だったが、静かに顔を上げるとそれまでの話を整理するかのように語り出した。
「四、五年の間に学校の関係者が三人も亡くなっているというのは確かに普通じゃないよね。しかもどれも事故死だなんて…… だからこそ空も目安箱の話が気になったんだろうけど、そのせいかと言われるとなんとも言えないな。空のいう目安箱と私が言ったエンジェルポストが同じものだとして、それっていつからあるものだと思う?」
「ええっ? 蒼井さんは昔からって言ってたから数十年前とか?」
空がそういうと黙って首を横に振った。
「聞いた話だとアレはね、お兄ちゃんの同級生が技術家庭の時間に作ったものなんだよ。箱の裏には黒のマジックで作った人の名前が書いてあるって話だよ」
「えっ? そうなの?」
「…… モノが作られたのはね。でもいつからエンジェルポストや呪いの目安箱なんて呼ばれ始めたかはわからない。ファンタジー小説なら人の信仰を集めているうちに、それが力を持つというのは定番だけど、本当にそんな事が起こるのかは疑問だよね。しかもこんな短期間に……」
空はカレーを食べ進めながら海の話を聞き入ってる。
「でもとりあえず陸兄に聞けば作った人やその時の事はわかるか…… 今、陸兄っているの?」
「いるけど…… 里絵さん来てるよ」
「えっ、そうなの」
「うん。さっき一緒にカレー食べた」
里絵は空の兄である早見陸が高校の時から付き合っている恋人。しょっ中早見家に遊びにきている。空は食べていたスプーンの手を止めて微妙な顔をして考え出した。
「じゃ、じゃあ明日でいいかな……」
「はは…… その方がいいかもね。里絵さんは気にしてないようだけど……」
海は力なく笑った。
何年か前、空は里絵が来ている事を知らずに陸の部屋のドアを開けたところ、霰のない姿の里絵と直面してしまったことがあった。それがトラウマになり里絵がいるときは極力陸の部屋には近づかないようにしている。
「じゃ、風呂入って寝るわ。海姉は?」
海は不敵な笑みを浮かべ、拳を握った。
「仕事…… 今晩はドルが動くはずだから」
海は趣味と実益を兼ねてFXをしている。中学生の頃、両親からもらった小遣いを元手に独学で外貨トレードを学び、わずか一年ほどでサラリーマンの年収をはるかに上回る利益を出せるようになった。
さらに独自の相場分析を動画で紹介したことでフォロワー数三百万人を超える人気ユーチューバーとなり、その収入は“予言者・月詠有栖”として活躍する母親に迫るほどだ。
そんな海は、飲みかけのペットボトルを片手に意気揚々と自室へ戻っていった。一方、空は軽くシャワーを浴びて自室に戻ると、ベッドに倒れ込むようにして布団へ顔を埋めた。




