第十五話 オカルトと科学
令和三年六月――
ビル群のガラス窓が、沈みゆく夕陽を反射して燃えるようなオレンジ色に染まり、長く伸びた影がアスファルトを浸食していく。視線を下ろせば、仕事の重圧を背負ったままのサラリーマンたちが、どこか虚ろで疲弊した表情を浮かべ、家路を急ぐ群れとなって駅へと吸い込まれていった。駅前の喧騒と、遠くで鳴り響く工事の音、そして家々の夕食の匂いが混じり合う、そんな独特な湿り気を帯びた夕暮れ時。
出版社で担当者との打ち合わせを終えた空は、雑踏の熱気に背中を押されるようにして、帰宅の途についていた。
手元の資料には、次回作のテーマや連載期間といった大まかな骨子が記されている。空は、ぼんやりとすれ違う人波を眺めながら、その断片的な指示を頭の中でこね回し、新しい物語の構想を練っていた。
(やっぱり学園ラブコメって難しいよな。こうなったらいっそバトルシーンを入れてみるのも……)
迷想の海に沈みながら、残光が消えかかる街をぼんやりと歩いていると、五十メートルほど先の薄暗い路地裏へ、いかにもガラの悪そうな男たちが吸い込まれていくのが見えた。歓楽街の片隅では掃いて捨てるほどある光景だ。空は特に気にとめる風もなく歩を進めていたが、一分ほどしてその路地の入り口に差し掛かったとき、ふと違和感を覚えて足を止めた。
何気なく路地の奥を覗き込むと、空が通う来栖川高校の制服を纏った一人の生徒が、先ほどの男たち三人に囲まれている真っ最中だった。
ガタイの良い男三人に対し、相手は華奢な高校生が一人。あまりに安易で、先の読める展開。空は小さく溜息を吐くと、厄介事に首を突っ込む自覚を持ちながら、その裏路地へと足を踏み入れた。
距離を詰めると、男たちはナイフの銀光をちらつかせ、使い古されたテンプレートのような脅し文句を吐きながら恐喝に及んでいた。
だが、その異様な状況にあっても、囲まれた男子生徒は怯える素振りを微塵も見せない。自分に向けられたナイフの切っ先から一瞬たりとも目を逸らさず、冷徹なまでの静寂を保っている。
(へぇ……あいつ、肝が据わってるな。俺が出る幕もないか?)
空が足を止め、その様子を観察しようとした瞬間だった。
突如、三人の男のうち一人の頭部が、撥ねられたように真上を向いて後ろへと吹き飛んだ。何が起きたのか呆気にとられる残りの二人が攻撃に転じようとするが、生徒は一気に間合いを詰めると、一人には容赦ない股間への蹴り上げを、もう一人には顔面を砕くような苛烈な膝蹴りを見舞った。
わずか数秒。男たちが地面をのたうち回る中、生徒は股間を破壊され絶叫を上げる男に歩み寄ると、その頭部に踏み砕きの足を振り上げた。
「――おい、もう決着はついてるだろ。それ以上やれば死ぬぞ」
空がたまらず制止の声をかけると、その生徒は機械が停止するようにピタリと動きを止めた。
「こいつらが因縁をつけてきたんだ。僕は正当に、自分の身を守っただけだろう?」
悪びれる様子など微塵もない。冷え切った声が空に返ってくる。
「正当防衛にしてはやりすぎだ。一人は腰の骨が砕けてるし、他の二人も首がいかれてる。これ以上は過剰防衛どころじゃ済まなくなるぜ」
空の忠告を聞くと、その男は口角を歪め、獲物を見つけた獣のように歩み寄ってきた。
「だからだろ。僕はこんなゴミみたいな連中に、人生を狂わされるわけにはいかないからな!」
叫びと同時に、男は弾かれたように空へと肉薄し、その頭部を正確に狙った鋭い蹴りを放ってきた。空は反射的に左腕でそれを受け流すと、がら空きになった脇腹へ右フックを叩き込む。男はそれを右腕でガードしたが、空の拳は鈍い音を立ててその腕に深くめり込んだ。
衝撃で間合いの外へと吹き飛ばされた男は、折れた腕を庇う素振りも見せながら、そのまま裏路地の闇を抜けて雑踏の中へと姿を消した。
空は蹴りを受け止めた左腕の痺れを堪えながら、地面に散らばった打ち合わせ資料を拾い上げ、脇に挟み直した。そして、痛む腕を押さえながらポケットからスマホを取り出し、静かに警察へと通報を入れた。
数分後にパトライトを光らせて現れた警察官に事の経緯を説明し、地面に転がったままの三人は、さらにその数分後に到着した救急車へと収容され、病院へと搬送された。
空の左腕が不自然に垂れ下がっているのを見た救急隊員から、一緒に搬送されるよう強く勧められたが、それを丁重に断った。現場での一時間近い実況見分の末、ようやく解放されて帰宅の途についた。
「……ただいま」
夜の冷気に当てられ、ひどく重くなった体を引きずるようにして玄関の扉を開ける。するとキッチンから、海と蜜柑が弾かれたように飛び出してきた。
「空! 連絡もしないで今まで何してたの!?」
「携帯も繋がらないし、みんなですごく心配して……あ、その腕……っ!」
海の叱咤を遮るように、蜜柑が悲鳴に近い声を上げた。空が庇うように押さえている左腕の袖口からは、どす黒く変色し始めた痣が覗いている。
「……ちょっと厄介なことに巻き込まれてさ。警察の事情聴取を受けてたんだ」
「「警察!?」」と二人の声が重なった。海が血相を変えて空の肩を掴み、リビングの方へと半ば強引に連れて行く。
リビングのソファに腰を下ろさせると、蜜柑がすぐさま保冷剤とタオルを持って駆け寄った。空は痛む腕を冷やしてもらいながら、帰り道の路地裏で目撃した凄惨な光景、そして正体不明の男子生徒と拳を交えた一部始終を、ぽつりぽつりと話し始めた。
「そいつ……『ゴミに人生を狂わされるわけにはいかない』って言って、本当にトドメを刺そうとしてたんだ。それを止めようとしたら、いきなり俺にまで襲いかかってきてさ」
空の言葉を聞くにつれ、二人の表情は驚愕から次第に青ざめていく。
「あんたんとこの制服を着て、そんな容赦ない暴力を……? 相当ヤバい奴じゃない」
「空くんがそんな怪我をするなんて。でも、空くんが止めてなかったら、その人は取り返しのつかないことをしてたのよね……」
蜜柑は震える手で、必死に空の腕を冷やし続けていた。空はそんな彼女を安心させるように右手をそっと伸ばし、保冷剤を当てる彼女の小さな手に、自分の掌を重ねた。
「……でも、あいつ、強かったのは確かなんだけど、どこか戦い慣れしていないというか。スピードとパワーに任せに戦ってた感じだった。俺のパンチをまともに腕で受けてたしさ」
「それって……どういうこと?」
空の言葉に、蜜柑は不思議そうに小首を傾げる。
「つまり、稽古や訓練で身につけた力じゃない、ってこと?」
「そう。技術がないままスピードとパワーだけがある不自然にアンバランスな状態だな」
夜の静寂が広がるリビングで、空の脳裏には闇に消えていった男の背中が蘇っていた。日常を侵食する非日常の暴力。蜜柑は黙り込み、その視線はどこかリビングの宙空を彷徨っている。その異変に気づいた空が、静かに声をかけた。
「蜜柑? どうかしたのか?」
ハッと我に返った蜜柑は、躊躇いながらも重い口を開いた。
「前にもさ……こんな事件、なかったかな?」
「こんな事件?」
「……うん」
蜜柑が記憶を辿るように目を細める。空は空いた右手でスマホを取り出すと、いくつかのキーワードを打ち込んで検索をかけた。
「……これか?」
空がスマホの画面を提示すると、海も蜜柑の隣から画面を覗き込んだ。
「高校生から金品を奪おうとした男が、目を潰された事件……」
海が画面の文字を追いながら、事件の概要を低く読み上げる。
「そう、それ! 確か一昨年の秋頃だよね」
蜜柑は思い出したように目を見開いて声を上げた。
「言われてみれば、そんなニュースを見た気がするな。確か大腿骨も砕かれたんだよな……どんな怪力だよって、その時も話した気がする」
「この事件で、目を潰したのは自分を特定させないため……とも取れるわね。冷酷だけど合理的だわ」
空の言葉を引き継ぐように、海が鋭く分析した。
「まあ、何にせよ……空。あんたの左腕、多分折れてるわよ。ちゃんとお医者様に診てもらいなさい」
海はいつもの倍ほどに赤黒く腫れ上がった空の腕を見つめ、溜息混じりに断言した。彼女は迷うことなく自分のスマホを手に取ると、夜間診療の手配をすべく、どこかへ電話をかけ始めた。
「もうすぐタクシーが来るわ。有馬先生のところへ行きましょう」
その言葉から数分後、三人は到着したタクシーに乗り込み、夜の街を縫うようにして有馬病院へと走り出した。海が助手席に陣取り、後部座席には空と蜜柑が並んで座る。蜜柑は今もなお、心配そうに保冷剤を空の腕に当て続けていた。
「なあ、海姉。近くにも病院はあるのに、なんでわざわざ遠い有馬病院なんだ?」
空が抱いた素朴な疑問をぶつけると、海は助手席から振り返り笑みを浮かべた。
「有馬先生が優秀なのはもちろんだけど、前の事件も今回の件も、現場は有馬病院の近辺でしょ。先生なら、何か情報を持っているかと思ってね」
「……ああ、そういうことか」
空は納得したように頷き、タクシーの車窓から流れる夜の景色を眺めながら小さく呟いた。
三十分後――
病院に到着した三人は、夜間救急の受付を済ませ、待合室の長椅子に腰を下ろした。辺りを見回すと、額に冷却シートを貼った子供や、顔色の悪い老人、それらに付き添う人々が、自分たちの番が呼ばれるのを重苦しい空気の中で待っていた。
「……結構、混んでいるわね」
海がうんざりしたように独り言を漏らす。
「これだけ待っている人がいるんだ。しばらくは呼ばれないよ。二人とも、まだ夕飯を食べていないだろ? 外で何か食べてきたら?」
空は蜜柑の手から保冷剤を受け取り、二人に視線を向けた。
「そうね……。じゃあ、あんたの分も何か買ってくるわ。蜜柑ちゃん、行きましょう」
「空くん、一人で大丈夫……?」
不安げな瞳を向ける蜜柑に、空は安心させるような苦笑いを浮かべてみせた。
「ちっちゃな子供じゃないんだから。そんな事気にしないでゆっくり食べてきなよ」
空の言葉に促され、蜜柑は少しだけ微笑みを返すと、海と共に待合室を後にした。
空はしばらくの間、待合室の掲示板に貼られたポスターを眺めて暇を潰していたが、急に催した尿意に耐えかね、席を立った。自動ドアを抜け、案内に従ってトイレへと向かう廊下を歩いていると、突如として激しい喧騒に包まれた。
救急搬送の現場に遭遇したのだ。
ストレッチャーで運ばれてきたのは、いかにもガラの悪そうな、岩のように大柄な男だった。男は頭部から大量の鮮血を流しながらベッドの上で狂ったように喚き、激しく手足をバタつかせている。空は、その男の腕が手首から先、無残に欠損しているのをその目に焼き付けた。
(……ヤクザの抗争か何かか?)
不穏な光景を間近にし、空の背筋を冷たい戦慄が駆け抜ける。彼は身体を一度大きく震わせると、催していた尿意を思い出したようにトイレへ駆け込み、用を足した。
待合室に戻ると、人の数は先ほどよりも増え、空気はいっそう淀んでいるように感じられた。空は壁に背を預け、手持ち無沙汰にスマホを開く。
夕方の編集担当者との打ち合わせを反芻しながら、次回作となる連載小説のプロットを練り始めた。一時間ほど没頭していただろうか。不意に近づく気配に顔を上げると、そこには戻ってきた海と蜜柑の姿があった。
「あ、蜜柑。海姉も――」
空が声をかけると、海は手に提げたコンビニのビニール袋を差し出してきた。
「まだ呼ばれてないの?」
「ああ。さっき救急搬送されてきた人がいたから、まだしばらくかかるんじゃないかな」
そう言って何気なく診察室の方へ視線を向けると、ちょうどドアが開き、ナース服に身を包んだ看護師が顔を出した。
「早見さーん。早見空さーん」
予期せぬタイミングに、三人は顔を見合わせる。
「……でもなかったみたいだな」
空は軽く微笑むと、二人をその場に残して診察室の中へと足を踏み入れた。デスクに座っていたのは、二十代前半に見える極めて若い女性医師だった。
(随分と若いな……)
医師免許を手にするには医学部で最低六年の研鑽を積む必要があるはずだ。しかし、目の前の彼女は二十四歳という年齢にすら届いていないように見え、陸の恋人である里絵よりもさらに幼い印象さえ与える。
空は、彼女の白衣の胸元に揺れるネームカードに目を走らせた。
(仙道由羅先生か――)
ぼんやりと観察を続けている空に、由羅は不思議そうな視線を向けた。
「早見さん?」
その鈴の音のような声にハッと我に返った空は、「すみません」と短く謝罪し、指示された丸椅子に腰を下ろした。一通りの問診を終え、レントゲン撮影を経て、空は別室のベッドに横たわった。由羅はモニターに映し出されたレントゲン写真を確認しながら簡潔に怪我の状況を説明すると、迷いのない手つきで処置を開始した。
(なんなんだ、この先生……?)
その外見からは想像もつかないほどの手際の良さで処置を完璧に済ませると、彼女は次の患者を診るために、風のように診察室へと戻っていった。
空は炎症を抑えるための点滴を受けながらしばらく安静にしていたが、薬液が残り少なくなった頃、見覚えのある長身の男性医師が歩み寄ってきた。
「有馬先生。ご無沙汰しています」
空は首だけを動かし、親愛の情を込めて声をかけた。
「空くん。久しぶりだね。……わざわざ患者として会いに来てくれなくてもいいんだよ」
有馬卓也はそう言って、瞳を細めて苦笑いを浮かべた。そして彼は空の腕に繋がった点滴の残量を確認する。
「もうそろそろだね。これが終わったら、少し場所を移して話そうか」
それから数分後、看護師が点滴の針を抜き終えると、二人は処置室の外にある一室の前へとやってきた。卓也はドアのプレートを「会議中」に裏返し、静かに室内へと足を踏み入れる。そこは十席ほどの椅子が並ぶ、こぢんまりとした会議室だった。
卓也は空を席に座るよう促し、自らもその対面へと腰を下ろした。
「有馬先生。さっき僕の処置をしてくださった仙道由羅先生ですけど……すごく若そうですが、新しく入られた先生なんですか?」
空は、先ほどから拭いきれずにいた疑問を投げかけてみた。
「ああ、彼女は今年大学を卒業してドクターになったばかりなんだ。聞けば、東大理IIIを首席で卒業したらしいよ」
「東大理IIIを首席で……。それは、とんでもないエリートですね」
卓也の答えに相槌を打ちつつも、空の胸中に渦巻く違和感は消えない。
「でも、こんなことを言うのも変かもしれませんが、全然新人らしくないというか。迷いが一切なく、あまりに淡々と処置をしているように見えて。単に優秀だと言ってしまえばそれまでなんでしょうけど……」
空の率直な感想に、卓也はクスリと頬を緩めた。
「彼女が特別に優秀であることは確かだ。まあ、色々と事情があって詳しくは話せないが……いずれ彼女の名前は、嫌でも誰もが耳にすることになると思うよ」
卓也はどこか誇らしげな視線をドアの方へと向け、静かに語った。
――とその時。
二人がいる部屋のドアを、コツコツと控えめに叩く音が響いた。静かに扉が開くと、そこには海と蜜柑の姿があった。「失礼します」と断りを入れながら室内に入ると、二人は卓也に対して丁寧に一礼した。卓也に促されるまま、二人は空の隣へと並んで席に着いた。
「有馬先生、ご無沙汰しております」
海が挨拶を述べると、卓也は柔らかな微笑を浮かべて口を開いた。
「さっき空くんにも言ったんだけど、わざわざ患者として顔を見せに来なくていいんだからね。普通に遊びに来てくれた方が、私としても嬉しいんだ……」
軽口を叩かれた海は苦笑いを浮かべたが、不意に真剣な面持ちで卓也を見据えた。
「それで先生。空の怪我についてなのですが……」
海はそう言って、隣に座る空へと視線を向けた。彼女に促される形で、空はこの怪我を負うことになった路地裏での経緯を語り始めた。そして、話の締めくくりに海が言葉を添える。
「一昨年の秋頃、半グレの男二人が、男子高校生に眼球を潰され大腿骨を折られた事件がありましたよね。今回の空の件とあまりにも似通っている気がして……。先生なら何か、私たちが知らない情報をご存知ではないかと思い、ここへ来たんです」
海の鋭い指摘を耳にした瞬間、卓也は重苦しく、深く長い息を吐き出した。
「確かに、似たような負傷を負った患者は、ここ一年くらいで何度か運ばれてきているよ。そして、そのどれもが決まって半グレや暴力団関係者だ。彼らが一般人に因縁をつけ、返り討ちにあっている。多くの場合、自分たちの不手際が表に出るのを嫌うため、警察沙汰にならず世間ではほとんど認知されていないのが現状だ」
「確かに。ヤクザが子供相手に負けたなんて知られたら、面目丸潰れで仕事にならなくなりますもんね」
空は苦笑いを浮かべた。
「一昨年の事件は、二人とも両目を潰されて動けなくなっていたところを通報されたから表沙汰になっただけだ。そうでなければ、あの凄惨な事件さえ闇に葬られていただろう」
黙って話を聞いていた海が、静かに、けれど確信を突くように口を開く。
「でも先生、そういった人たちは相手の強さを見るプロですよね。自分たちが到底敵わないような相手をわざわざ狙うとは思えないんです。なぜ、彼らはそんな真似を?」
「それは、相手がどこからどう見ても『普通の人』だったからだよ。……空くん、君は実際にその相手と対峙したんだろう? どんな風に見えた?」
卓也の問いかけに、空は中空を眺めて記憶を掘り起こし、再び卓也へと視線を戻した。
「うちの…… 来栖川高校の制服を着ていました。来栖川は裕福な家の生徒が多いですから、格好の標的だと思ってカツアゲでもしていたんだと思います。まさか、あんな化け物だとは思いもしなかったでしょうね」
空の言葉を聞き、卓也はまた一つ、深い溜息を落とした。
「そう。だから何の警戒もなしに手を出し、無残な返り討ちにあっている。しかも、眼球の破壊や複雑骨折といった、再起不能に近い致命的なダメージを負わされてね」
卓也は三人の顔を交互に見つめ、諭すように言葉を続けた。
「空くんや海さんなら、たとえ喧嘩になっても、そこまで徹底的に相手を破壊することはないだろう?」
空と海は顔を見合わせ、どちらからともなく頷いた。
「まあ、そうですね。そこまでする必要がないというか……」
「それは君たちに技術と自信があるからだ。同時に、これ以上やれば相手が壊れてしまうという『加減』を、無意識にでも理解しているからだろう」
三人は納得したように頷く。
「だが、今回の相手にはその加減が全く見られない。そして何より、彼らがその異常な力を常に所有しているわけではないのではないか、と私は考えている」
「……」
海が落としていた視線を上げた。
「……それは、ドーピングのような何か、ということですか?」
「その可能性は高い。ただ、一般に知られているステロイドの類では、普通の人間が使ったところで大腿骨を粉砕するほどの瞬発的な破壊力は得られない。もっと未知の、もっと危険な何かだろう」
「確かに、人間の太ももの骨を折るなんて、相当な衝撃ですからね」
卓也と海の会話を黙って聞いていた空は、ギプスで固定された自分の左腕をじっと見つめ、静かに口を開いた。
「まだ犯人は捕まっていないんですよね。どんな薬か知らないけど、そんな異常な力を引き出すものを使い続けたら、本人の命だって危ないんじゃないでしょうか」
空の慈悲を含んだ言葉に、卓也は意外そうに目を丸くした。
「空くん。君は、今回の一連の事件を……たった一人の人間による仕業だと思っているのかい?」
「えっ? それって……」
今度は空の目が丸くなる。
「これまでの患者たちから、相手がどんな風体だったかを聞いてきたんだが、その特徴はバラバラだ。さらに、やられ方もね。一昨年の事件や今日の空くんの件は素手によるものみたいだが、さっき運ばれてきた患者は、刃物で手首を綺麗に断たれていた」
(ああ、さっき廊下ですれ違ったあの人か……)
空は、ストレッチャーで運ばれていったあの凄惨な情景を思い出していた。
「手首を切り落とすといったら、空くんはどんな武器を想像するかな?」
「うーん、日本刀とか、そういった類のものですか?」
「普通はそう思うよね」
卓也はそう言って、ニヤリと不敵に口元を緩める。その様子に、三人の顔には疑問符が浮かんだ。
「相手が使ったのは、カッターナイフだよ」
「カッターナイフ!? 皮膚や肉ならともかく、そんなもので骨まで断てるんですか?」
空は目を見開き、震える声で問い返した。
「普通ならちょっと考えられないね。でも、空くんも体験しただろう?」
そう言われて、空は自分の腕に視線を落とした。
「確かに、受け流してさえ腕がこんなになるなんて、普通じゃありえない。まともに受けていたら、砕けるどころじゃ済まなかったかもしれない」
「もしその手にカッターナイフが握られていたとしたら、腕を落とすことなど造作もないことだと思わないか?」
卓也の仮説を聞き、海と蜜柑も空の負傷した腕を凝視して、ゴクリと喉を鳴らした。
「でもまあ、そう考えると、そいつらが戦い慣れていないっていうのが唯一の救いだな」
唐突に零した空の言葉に、海と蜜柑が彼の顔を覗き込んだ。
「どういうこと?」
蜜柑が首を傾げて問いかける。
「そいつらは、単に異常なまでの力とスピードを『手に入れてしまった』だけってことだよ」
その言葉に、蜜柑はさらに頭上に疑問符を浮かべた。
「つまり、技術が伴っていない単調な攻撃なら、いくら威力があっても対処のしようがあるってことよ。空、説明が回りくどいわよ」
海が言葉を要約すると、蜜柑は合点がいったように頷いた。
「現にさ、あいつは俺のフックをまともに腕で受けていた。おそらくあいつの腕も折れているはずだぜ」
空がそう指摘すると、海はハッとしたように顔を上げた。
「だったら、その人も今どこかの病院にかかって治療を受けているんじゃないの? 制服を着ていたんなら、かなり絞り込めるというか、特定できるわよね?」
卓也は指を顎に当て、しばらく床に視線を落として考え込んだ。
「確かにそうだな。それにうちの学校なら探せばすぐに見つかると思うし……」
その後、卓也に付近の病院で扱った同様の負傷患者の情報を集めてもらう約束を取り付け、三人は帰宅の途につくこととなった。
家に着くと、時計の針はすでに二十二時を指していた。
「ああ……疲れた。結局、夕飯もまだ食えてないし……」
空は海から手渡されたコンビニの袋を持ち上げ、力なく呟いた。空は遅い夕食を取ったあと怪我した腕を庇いながらシャワーを済ませ、自室のベッドへと潜り込んだ。
「ドーピングか…… 」
(そんなモノが出回っているとしたら、誰がそんなモノをばら撒いているかだよな……)
ベッドに横たわりながらボーっとそのような事を考えていると、その意識は眠りの世界に落ちていった。
翌朝、どんよりとした低濁色の雲から漏れる光が、空の部屋へと弱々しく差し込んだ。
左腕の芯から響くようなズキズキとした拍動に眉を寄せ、空は重い瞼を開けた。不自由な手つきで難儀しながら制服に袖を通し、リビングへ向かうと、そこには昨夜の凍り付くような緊張感の余韻を纏ったまま、すでに準備を整えた海と蜜柑の姿があった。
「空、腕の具合はどう?」
「……まあ、昨日よりはマシかな。ズキズキする感じは残ってるけど」
海への返事もどこか上の空で、空は隣に立つ蜜柑に視線を投げた。彼女は壊れ物に触れるような痛々しい眼差しで、空のぎこちない所作をじっと見守っている。三人は言葉少なく朝食を済ませると、空と蜜柑は足早に家を出た。
通学路の風景はいつもと変わらないはずなのに、凄惨な現場を目撃した今となっては、すれ違う生徒たちの日常さえも、薄氷の上に成り立つ危うい虚像のように思えてならなかった。
校門をくぐれば、当然のように空の無骨なギプス姿は好奇の的となった。
「お、早見! どうしたんだその腕、派手にやったな」
「いや、ちょっと階段で足を踏み外してさ……」
クラスメイトたちの無邪気な問いに、用意していた偽りの言葉を並べて苦笑いを浮かべる。
一組教室前で蜜柑と別れる。空は自分の三組教室に入り、片手でカバンを机に引っかけようとしていると、高校でできた友人、和磨が顔をしかめて近づいてきた。
「おい、その腕……どうしたんだよ」
和磨の真剣なトーンに、空は周囲を警戒するように声を潜めた。
「実は昨日さ……少し厄介なことに巻き込まれて」
出来事をかいつまんで話すと、和磨は深いシワを眉間に刻み、腕を組んで黙り込んだ。
「空。お前、二年の青山一輝先輩って知ってるか?」
「青山? ……ああ、生徒会やってる人だっけか」
「ああ」
和磨は頷き、重苦しい息を吐き出した。
「名前は聞いたことあるけど、全く面識はないよ。進学校の役員なんて、よっぽど真面目で優秀な人なんだろ?」
空の言葉に、和磨はさらに声を落として続けた。
「実はな、その先輩……先週、他校の不良に絡まれていたうちの女子生徒を、一人で助けたって話題になってるんだ。一種のヒーロー扱いだよ」
「へぇ……うちの学校にもそんな骨のある奴がいるんだな」
意外そうに漏らす空に、和磨は射抜くような視線を向けた。
「けどその先輩……おとなしそうで、どう見ても武闘派には見えないんだよ。それこそ、ペンより重いものは持てないってツラしてる」
「いや、おとなしい奴ほどキレると手に負えないもんだろ。俺だって、その気になればヤンキーの五、六人は余裕で……」
「お前は『おとなしそう』の枠には一ミリも入ってねぇよ」
和磨のジト目に、空は口を噤んだ。
「見かけによらず強い」こと自体は、空にとって驚きではない。空手の大会で無敗の姉や、今や数人を男を蹴散らすことができる蜜柑を間近で見ているからだ。
「……で、俺が何に引っかかってるかって言うとさ。お前の腕を壊したその『男』……もしかして青山先輩なんじゃないかと思ってな」
「まあ、顔を知らないから何とも言えないけど……」
もし青山が、話題の男のように敵の急所を容赦なく破壊する苛烈な狂気を孕んでいたなら、即座にその関心を向けただろう。だが「女子生徒を救った武勇伝」という爽やかな噂だけでは、あの夜の怪物と結びつけるには至らなかった。
だが一限目の授業中。ギプスの中で疼く腕をさすりながら、空の思考は和磨の話を反芻し続けていた。
(青山先輩、か……)
オリエンテーションでの司会ぶりは、いかにも賢そうな優等生そのものだったと聞く。そんな男が、果たして数人の暴徒を相手に立ち回れるものだろうか。空は、あの夜対峙した、冷徹な暴力の化身を思い出していた。
「……会ってみるか」
漠然とした決意を胸に、シャープペンの尻で頬を掻く。
昼休み、空は海の手作り弁当を早々に胃に収めると、二年生の棟へと向かった。渡り廊下を抜け、初めて踏み入る上級生のフロア。心なしか空気は落ち着きを払っており、空は左腕に怪我を負った形跡のある生徒を探しながら廊下を進んだ。
だが、目当ての人物は見当たらない。空は意を決して、教室の入り口近くで静かに本を捲っていた女子生徒に声をかけた。
「あの……俺、一年の早見と言いますけど、青山先輩は何組かご存じですか?」
不意の問いかけに彼女が顔を上げた。一瞬の空白。
「青山くんならこのクラスだけど……今日は休みよ」
「そうですか……」
肩透かしを食らった空は、所在なげに教室の窓外へと視線を逃がした。ぼんやりと景色を眺めていると、「ねえ」という鋭い声が鼓膜を叩いた。
視線を落とすと、先ほどの少女が、空のギプスを見つめていた。
「あなた、青山くんに何の用なの?」
そう言って少女は不審な目で空の顔を見上げる。その一言に、反射的に体が強張るのを抑え、平静を装って彼女を見下ろした。
「用というか、その……」
姿を確かめることしか考えていなかったため、言葉に詰まる。
「青山先輩が他校の連中からうちの生徒を助けたって聞いて、どんな凄い人なのか興味があって……」
「……」
少女は瞬きもせず空の言葉を咀嚼すると、読んでいた本をパタンと乾いた音を立てて閉じた。そして、小さく息を吐く。
「あなた、ライトノベル作家の『あきのそら』くん……でしょ?」
「えっ……あ、ああ、そうだけど。何でそれを?」
「蒼井蜜柑さんの、彼氏さんよね?
蒼井さんとあなたが二人で帰っているのを何度か見かけた事あったし……」
空は目を見開き目の前の少女の顔を、改めて凝視する。
「もしかして、文芸部の……」
「ええ。文芸部副部長の獅童光留。あなたの噂は、蒼井さんからよく聞いているわ」
蜜柑は高校に入り、文芸部へと入部した。空は執筆の相談を受けている中で、仲良くなった部活の先輩の話を耳にしたことがあったのだ。そして光留もまた先ほどまでの警戒を解き、空に微かな微笑を向けた。
「はは……そうでしたか。蜜柑が一体どんな話を……」
「中学時代は『文芸部のアンタッチャブル』と呼ばれて……」
「わ、わわわっ!!!」
空は顔を真っ赤にしながら、慌てて光留の話を遮る。すっかり忘れていた、かつての二つ名。空は顔を赤く染め、引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
「蜜柑のやつ、余計なことを……」
照れ隠しに呟く空を見て、光留はクスリと口元を緩めた。
「それで、早見くん。青山くんの何を、知りたかったのかな?」
その問いに、空は深く大きなため息をつき、腹を括った。
「実は昨日……うちの生徒が半グレみたいな連中に絡まれている場面に出くわしたんです。……で、助けに入ろうかと思ったら、そいつはあっという間に全員を半殺しにして……それだけならまだしも、トドメを刺そうとしたんで俺が止めたんです。そしたら、今度は矛先が俺に向いて……」
そう言って、空はギプスで固定された不自由な左腕を、重々しく掲げてみせた。
「最近そういう話よく聞くんですよ。全てが昨日見たうちの生徒だとは思ってませんが、友達にそんな話聞いたので見ておきたいと思ったんです」
空がそういうと光留は顔を曇らせてため息を吐いた。
「早見くん、ちょっと場所変えていいかしら?」
「はい。大丈夫ですけど……」
そう言って、光留につれられて屋上へとやってきた。そこはどんよりとした雲が広がり、昼間だというのに薄暗く、今にも雨粒が落ちそうな空をしていた。
光留は校庭が見える手すりの部分まで行くと、手すりを背にして空の方に向き直った。
「先輩。こんなところまで来て、どんな話を……」
そういうと、光留は再び大きなため息を吐いた。
「実はね。他校の不良から助けてもらった生徒というのは私なのよ」
「!!!」
空は驚きで目を丸めた。
「それじゃあ……」
「私の目の前で不良達をやっつける青山くんを見たわ」
光留は向き直り校庭の方へ目を向けたので、空は隣に並んだ。
「噂で青山くんはヒーローみたいな言われ方をしているけど、私の印象はまったく違うの。不良達は怖かった…… けど、そんな彼らを目を見開いて楽しそうに痛めつける青山くんは、教室での姿からは想像がつかないほど狂気に溢れてて怖かった。
今でもあれば夢だったんじゃないかって思えて仕方がないわ」
光留はそう言って、重く垂れ込めた灰色の雲が支配する空を仰ぎ見た。その横顔には、単なる後輩への忠告以上の、拭いきれない不安が滲んでいる。
「それで、獅童先輩。青山先輩はその後、学校には来ていたんですか?」
「ええ、その翌日も何事もなかったかのように登校して、昨日まで涼しい顔で授業を受けていたわ」
光留は重苦しいため息を吐き、視線を足元へと落とした。
「早見くんが何を調べているのか、あるいは何をしようとしているのかは知らないけれど……あの彼には、これ以上関わらない方がいいと思うわ。あれは、私たちの理屈が通じる相手じゃない」
その時、校庭に向けられたスピーカーから「ジジジ……」と耳障りなノイズが響き、予鈴のチャイムが校舎を震わせた。光留は「とにかく、気をつけて」と短く言い残すと、空の横をすり抜けるようにして教室の中へと消えていった。
空もまた、鈍く疼く左腕を庇いながら屋上へと続くドアへ向かって歩き出したが、不意に鼻先を冷たい感触が叩いた。足を止め、再び天を仰ぐ。
(雨……か。)
教室に戻った空は、斜めに窓ガラスを叩き始めた雨粒の軌跡をぼんやりと眺めながら、午後の授業を受けていた。教壇に立つ教師の熱心な解説も、今の彼には遠い異国の言語のように響く。
和磨の話、そして獅童光留の怯えを含んだ忠告。それらがあの夜の男の、氷のように冷徹な暴力と重なり合い、頭の中で渦を巻いていた。
「青山一輝……か」
ギプスの中で、折れた骨が天気の変化を敏感に感じ取って疼く。左手を失いかけたあの瞬間の、骨が軋む不快な音を思い出し、空は無意識に右手に力を込めた。
ようやく終業のチャイムが鳴り響くと、教室は解放感に包まれた。だが、外は依然としてしとしとと雨が降り続いている。空が不自由な手つきでカバンを整理していると、ドアの向こうで教室の様子を伺う女子生徒の姿があった。
「早見、愛しの彼女がお待ちだぞ」
「早く行ってやれよ」
クラスメイトの冷やかしを受けながら、ドアの方に視線を向けると折りたたみ傘を掲げる蜜柑が立っていた。彼女の視線は一直線に空を捉えている。
空はカバンを肩にかけると小走りに蜜柑の元に駆け寄った。
「あれ? 蜜柑、部活は?」
「うん。今日は休みみたい」
蜜柑はそういうと空の無骨なギプスを見ながは切ない表情を浮かべた。
「腕、大丈夫だった?」
そんな心配そうな声に、空は苦笑いを浮かべながら右手でさすって見せる。
「授業はともかく、片手で弁当は食べにくかったな」
蜜柑はクスリと顔を緩めながら「何それ」と微笑んだ。そんな蜜柑との会話にに、空は張り詰めていた心がふっと解けるのを感じた。
校門を出ると、一本の折りたたみ傘を二人で分け合い、駅へと続く坂道を歩き出した。雨の音が周囲の雑音をかき消し、二人の間にだけ静かな時間が流れる。
「昼休み、文芸部の副部長さん…… 獅童先輩に会ったよ」
「えっ?! 何で空くんが光留先輩に?」
空が静かに告げると、蜜柑を包む空気が微かに、けれど明確に強張った。
雨音に紛れさせるように、空は和磨から聞いた噂、そして青山を探しに行った先で偶然出会った、助けられた当事者である獅童光留との会話の内容を語った。
「私も今日、その噂を耳にしたんだけど、助けられた女子生徒って先輩だったんだ……。……で、その青山先輩には会えたの?」
「いや、今日は休みだったみたいで……」
空が言葉を濁した、その時だった。
前方、雨に煙る視界の先に、音もなく立ちはだかる数人の人影が傘の縁越しに見えた。空は無意識に傘を上げ、目の前の人物らを確認する。
「お前ら、来栖川の生徒だな」
投げかけられた声は、お世辞にも友好的とは言えなかった。
「ああ、そうだけど……何か?」
空が短く答えると同時に、背後にも気配を感じた。振り返れば、退路を断つように男たちが立っている。
逃げ場はない。空と蜜柑は、総勢十人ほどの男たちに包囲され、人気のない薄暗い路地裏へと強引に連れ込まれた。
雨脚が強まる中、男たちの一人が、威圧するように空へ詰め寄ってくる。
「おい、来栖川に青山っていう奴がいるだろ。……今すぐ、そいつをココに連れて来い」
青山…… その名を聞いた瞬間、空と蜜柑は一瞬だけ顔を見合わせ、微かに頷き合った。
「悪いけど、俺はその人を知らないんだ。……その人が、何かしたのか?」
空の問いかけに、男はあからさまな苛立ちを隠そうともせず、舌打ちをした。
「あァ?! つべこべ言わずに連れて来いって言ってんだよ!それまで、その女は俺たちが預かっておいてやるからよ」
卑劣な笑みを浮かべ、男が蜜柑の肩へと手を伸ばした。
――その、瞬間だった。
蜜柑の瞳が鋭く据わる。伸ばされた男の手首を掴み取ると、逆手に取って一気に引き込む。男が体勢を崩した刹那、蜜柑は無駄のない動作で腰を落とし、男の身体を背負うようにして路地裏の濡れたコンクリートへと叩きつけた。
「ガハッ……!」
男が呻き声を上げるのと同時に、周囲の男たちに戦慄が走った。だが、多勢に無勢。彼らは一斉に、得物を手に空と蜜柑へ襲いかかった。
「蜜柑、後ろ!」
空が叫ぶのとほぼ同時に、蜜柑は背後から迫る男の回し蹴りを、最小限の動きで紙一重に回避する。すれ違いざま、男の軸足を狙い澄ました前蹴りで払うと、男は地面に這いつくばった。
空もまた、不自由な左腕を庇いながら、右腕一本で襲い来る攻撃を捌いていく。向かってきた男の手首を掴み、その勢いを利用して壁へと叩きつけ、怯んだ隙に鳩尾へ強烈な膝蹴りを見舞う。
二人は舞うように襲い来る男たちの攻撃を、流れるような体捌きで受け流し攻撃を加えた。
さらに、横から殴りかかってきた男の拳を掌底で弾き、体勢を崩したところへ、容赦のないハイキックを一閃。男は白目を剥いて崩れ落ちた。
わずか数分の出来事だった。
路地裏には、十人の男たちが、呻き声を上げながら地面に転がっていた。
空と蜜柑は、息一つ切らすことなく、最初に詰め寄ってきた、未だ地面で這いつくばる男の元へと歩み寄った。
男は恐怖に顔を歪ませ、ガチガチと歯を鳴らしながら、二人に向かって叫び出した。
「な、何なんだよ、お前ら……! 来栖川は、おとなしいシャバ僧の学校じゃなかったのかよ……!」
恐怖と悔しさが入り混じった、無様な敗者の顔。空と蜜柑は、顔を見合わせ、心底呆れたように首を傾げた。
「シャバ僧って……。お前ら、いつの時代の人間だよ。
……で、その人が、どうしたっていうの」
空の冷ややかな問いに、男は怯えながら白状した。
先週、獅童が絡まれた時、助けに入った男に対して、彼女が「青山くん」と声をかけたのを、鮮明に覚えていたのだという。
(……青山、くん?)
空は大きく、重いため息を吐き出した。
「……ってか、あんたら。もし本当にその人に会ってたら、マジで、この程度じゃ済まなかったぞ」
空の言葉に、男は意味がわからず、ただ恐怖に身を震わせるだけだった。
空と蜜柑は、地面に転がった傘を拾い上げ、泥を払うと、空は蜜柑へと傘をさしかけた。
「行こう、蜜柑」
「うん……」
二人が路地裏から表通りに出ようとした、その時だった。
雨の中、空と同じように、左手を無骨なギプスで固めた私服姿の男が、一本の傘を差して静かに立っていた。
空は傘を上げ、その男の姿へと視線を向けると目が合った。
「君は昨日の……。
そしてその制服は……」
傘を差した男――青山は、雨の音に混じって低く、静かに呟いた。
「また会うとはな……」
空もまた、運命の皮肉を噛み締めるようにポツリと漏らした。隣に立つ蜜柑の手に、自分の傘の持ち手をそっと握らせる。
「青山一輝……先輩……ですよね?」
問いかけながら、空は自ら雨の中へと踏み出した。右手を首筋に伸ばし、左腕のギプスを吊っていた三角巾を迷いなく外す。
「そうだけど、君は……」
「一年三組、早見空。さっき先輩に会いに二年の教室まで行ってきたんですよ」
雨に打たれ、制服が肌に張り付く。空は挑戦的な光を宿した瞳で青山を射抜いた。
「僕に何か用でもあったのかい?」
空は口角を上げ、不敵に「フッ」と笑った。
「片腕が使えない者同士、少しだけここで立ち会ってみませんか?」
その言葉に、青山は薄っすらと、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「僕が君と戦って、一体何の意味があると言うんだ……」
言い終えるより早く、空は爆発的な踏み込みで正面から青山の懐へと滑り込んだ。最速の右ローキックが唸りを上げて放たれる。青山は反射的にバックステップで直撃を回避したが、空の攻勢は止まらない。軸足の入れ替えと同時に、左足で鮮やかな上段後ろ回し蹴りを放った。
空気を切り裂く一撃が青山の顎をかすめる。その衝撃に、青山の端正な顔が歪み、上体がぐらりと大きく揺らいだ。
「やっぱりそうだ。先輩は常人離れしたスピードとパワーを持っている。だけど、実戦の駆け引きをまるで知らない。戦い慣れていないんだ」
青山はよろめきながらも、壁に手をついて強引に体制を整えた。
「だから……それが何だっていうんだ!」
逆上した青山が空に向けて飛び込んできた。空は咄嗟に防御の構えを取るが、青山の狙いは空ではなかった。男は地面に転がる敗者たちに向き直ると、無防備な彼らの四肢を次々に蹴り、踏み砕いていく。
鈍い骨折音が雨音を突き抜けて響く。最後の一人の頭部へ容赦のない一撃を振り下ろそうとした青山の前に、空は割って入り、渾身の前蹴りでその巨体を突き放した。
「あんた、自分が何をしてるのか分かってるのか?」
「……害虫の駆除だよ。君こそ分かっているのか? こいつらが普段、どれほどの人間を奈落に突き落としているのかを」
空の足元で震える男を除き、他の男たちは青山によって「処理」され、完全に物言わぬ肉塊と化していた。唯一残った一人は、目の前の光景に失禁し、歯の根も合わぬほどに震えている。
「俺だって、こんな奴らを庇うほどお人好しじゃない。だが、あんたのやってることは正義じゃない。ただの凶行だ」
空の糾弾に、青山は狂気を孕んだ笑みを深めた。
「世の中を正す。そのために、僕は犯罪者にでも、悪魔にでもなる。でもまだ捕まるわけにはいかないんだ。警察が来るなら、僕はそいつらも同じ目に遭わせるだけだよ」
青山はポケットからスパウトパウチを取り出すと、中の怪しげな液体を一気に喉の奥へ流し込んだ。
「それで翼でも授けてもらうつもりか?」
「そんなところだ。……これで僕は、もっと高く飛べる」
刹那、青山は驚異的な跳躍で路地裏の濡れた壁を駆け上がった。数メートルの高さから、重力を味方につけた猛烈な勢いで空へと突進してくる。
「空中からの攻撃なんて、避けてくれと言ってるようなもんだろ」
空は冷徹に青山の軌道を読み、バックステップで間合いを外した。
しかし、着地した青山は止まらない。あろうことか、足元に転がっていた最後の男の身体を、サッカーボールでも蹴るかのように空に向けて蹴り飛ばしたのだ。
七十キロはある生きた肉塊が、猛烈な質量兵器となって空の視界を塞いだ。
空が咄嗟にサイドステップで巨大を避けると、待ち構えていたように拳を放ってきた。その拳が空を捉えようとした時、伸び切った右腕に上から踵が振り下ろされ鈍い音を立てて拳は重力にしたがってダラリと垂れ下がる。そしてその踵の主を青山が捉えようとした時、蜜柑の右肘が顔面の中心を捉え血飛沫が舞った。悲痛の叫び声を上げる青山。棒立ちになった瞬間空は地面に振り下ろすようにローキックを青山の膝に叩き込んだ。
両腕と利き足の自由を奪われた青山はその場に崩れ落ちた。
空は冷たい湿気を帯びた空気を大きく吸い込み、雨の中に立ち尽くしていた。すぐ隣には、激しい立ち回りで肩を揺らし、雨に滴る髪を拭いもせずに呼吸を整える蜜柑の姿がある。
「助かったよ。蜜柑がいなきゃ危なかった」
「ううん。……何とか、勝てたね」
足元には、もはや呻き声すら上げない十数人の男たちが折り重なるように転がっている。凄惨な光景の中、二人は泥を被った互いの姿を見て、安堵から小さく微笑み合った。
「……さて、これ、どうしようか。トドメを刺したのは間違いなく青山先輩だけど、最初に叩き伏せたのは俺たちだしな」
「そうだね。このまま放置するわけにもいかないし……」
途方に暮れる二人の耳に、泥水を啜るような鈍い音が届いた。最後に青山によって質量兵器として蹴り飛ばされた男が、焦点の定まらない瞳を必死に持ち上げたのだ。
「あ、その人、意識が戻ったみたい」
蜜柑の言葉に、空はゆっくりと男の元へ歩み寄った。雨を含んだ靴音が、男の耳元で死神の足音のように響く。
「……なあ、あんた。今回の件、警察には黙っておいてやる。だから、そこに転がってるあんたの仲間たちをさっさと連れて消えてくれないか?」
空の静かな、しかし有無を言わせぬ響きを含んだ提案に、男は震えながらも虚勢を張った。
「何が、黙っておいてやるだ……! 警察を呼ばれて困るのは、これだけの怪我をさせたお前らの方だろうが……!」
喉を鳴らして強がる男に対し、空は冷徹に目を細める。
「そもそも、先に仕掛けてきたのはあんたたちだ。正当防衛を主張されて困るのはどっだ?」
「だからって……ここまでしてタダで済むと思ってるのか……!」
年下の少年になめられてなるものかと、男は必死に食い下がる。空はやれやれと首を振り、重いため息を吐き出すと、次の瞬間、男の顔の真横に容赦のない踏み砕きを見舞った。
「……理屈が通じないなら、いっそ完全に潰して、海にでも沈めてやろうか?」
感情の消えた、氷のような瞳で見下ろされ、男のプライドは瞬時に瓦解した。
「ひっ……! 待ってくれ、わかった! 言う通りにするから!」
男は手のひらを返して命乞いを始めると、何とか立ち上がった数人の仲間を叱咤し、這うようにして路地裏の闇へと消えていった。
「……とりあえず、片付いたね」
蜜柑がようやく落ちたように呟く。
「ああ。あとは、この青山先輩をどうにかしないとな」
空は、泥水に顔を埋めて動かない青山の姿に目をやった。その指先、少し離れた場所に、先ほど彼が飲み干したスパウトパウチが虚しく転がっている。空はそれを拾い上げ、雨に透かして中身を確かめた。
「……どう見ても、レッドブルじゃないよな、これ」
「そりゃそうでしょ。あんな動き、人間ができるものじゃないわ……」
蜜柑の乾いた笑いが雨音に溶ける。
「……まあ、これを含めて、青山先輩のことは有馬先生に丸投げしよう」
「いい意味の丸投げね」
蜜柑は皮肉込めてそんな言葉を発した。
空は右手を制服のポケットに突っ込み、スマホを取り出すと、迷わずある番号をコールした。
三十分後――。
静まり返った路地裏に、雨の帳を切り裂いて白いロングハイエースが滑り込んできた。強烈なヘッドライトが二人の影を長く路面に伸ばす中、車から降りてきたのは、有馬卓也と、白衣を纏った病院関係者と思われる寡黙な男たちだった。
「空くん、それに蒼井さん。何だか最近、顔を合わせる頻度が尋常じゃないねぇ」
卓也は、呆れを通り越して感心したような苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「連日、お騒がせしてすみません……」
空は申し訳なさに、ギプスのない方の手で気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「……で、そこに倒れているのが、昨日僕を襲ってきた『青山』という男で――」
空は、今日この路地裏で起きた出来事の一部始終を卓也に伝えた。そして、先ほど拾い上げた、まだ雨に濡れたままのスパウトパウチを差し出す。
「これが、直前に彼が口にしていたものです。恐らく、身体機能を一時的に引き上げる即効性のドーピング剤の類だと思うのですが……」
空がそう伝えると、卓也は手袋をはめた手で慎重にそれを受け取った。
「わかった。これは預かっておくよ。後で由羅に渡して、成分を詳しく調べてもらうことにする」
そう言って、卓也はそれを手慣れた手つきでポケットに収めた。
「ユラ……?」
蜜柑が、聞き慣れない響きの名前に小さな疑問符を浮かべる。その怪訝そうな横顔を見て、空が補足するように言葉を添えた。
「仙道由羅先生のことだよ。すごく若くて綺麗な先生なんだけど、恐ろしいほど優秀な人なんだ。なんでも、東大医学部を首席で卒業したっていう話だよ」
それでも蜜柑の腑に落ちない様子は消えず、さらに問いを重ねる。
「でも、その仙道先生ってお医者様よね? 薬学のことまで、そんなに詳しくわかるものなの?」
その素朴な疑問に、卓也は愉快そうに鼻を鳴らした。
「彼女はただの医者じゃない。ITや遺伝子工学、そして薬剤の分野においても超一流だよ。もっとも、この世界ではまだ薬剤師免許を持っていないから、仕事の合間に資格を取るため大学に通っているところなんだけどね」
卓也は自分のことのように誇らしげに笑ってみせた。しかし、空と蜜柑は顔を見合わせ、その言葉の端々に引っかかるものを感じて首を傾げた。
「仙道先生が超人なのは分かりましたけど……『この世界では』って、どういう意味ですか?」
「まあ、それはおいおいってことで……。それより君たち、びしょ濡れじゃないか。家まで送るから、風邪を引く前に風呂に入って体を温めなさい」
卓也の促しに従い、意識を失ったままの青山は担架に乗せられ、ハイエースの広大な荷台へと運び込まれた。車内には救急車さながらの高度な医療設備が整えられており、白衣の男たちが手際よく処置を開始する。空と蜜柑がリアシートに収まると、卓也は運転席に乗り込み、静かにアクセルを踏んだ。
一度病院を経由し、青山と白衣の男たちが降ろされるのを見届けると、車は再び早見宅を目指して夜の街を走り出した。車内がようやく気心の知れた者たちだけになり、卓也はハンドルを握りながら、リラックスした表情で会話を再開した。
「蒼井さん、あの後身体の方は大丈夫だったかい?」
卓也は思い出したように蜜柑に問いかけた。
「あ、はい。二日くらい吐き気と出血がありましたけど、その後は……」
蜜柑は少し恥ずかしがりながらそう答えた。
「行為のあとすぐなら、ほぼ確実に妊娠を避けられるけど、百パーセントじゃないし、身体にも負担がかかるから気をつけてね」
そんな優しい言葉に、二人は顔を赤らめながら「「はい」」と答えた。
「それにしても、その青山くんって人、怪我をしてるのに街に出てそんな事しているなんて、一体何がしたいんだろうね」
卓也は正面を見ながらそんな事を呟いた。
「青山先輩は、世の中の為の駆除って言ってました」
「駆除ねぇ…… 」
卓也はそう呟いて暫く黙っていた。そして思い出したように深いため息を吐くと、重く口を開いた。
「過激な新興宗教だと『世の中を変える』といってテロ行為を行うことあるけど、そういうのを想起させるな」
「宗教……ですか。でも言われてみれば青山先輩は『僕たちは』とか言ってましたし、先輩が単独でやっていることではないのかもしれませんね」
そう聞いて卓也は大きなため息をついた。
「まぁ、あの件が報道されてから街で暴力や恐喝事件は減っているのは確かだし、平和になる事は嬉しいけど…… そうやって暴力を暴力で押さえつけてるってのはちょっと複雑だね」
そんな話をしていると車は早見宅の玄関前まで来ていた。
「卓也先生、上がってお茶でも飲んで行きませんか?」
「ありがとう。でもまだ仕事中だからね、また今度お邪魔するよ」
そう言って卓也は家を後にした。
「「ただいま」」
二人は玄関をあがると、「おかえり」といいながら海がキッチンから顔を見せた。そして全身ずぶ濡れになり泥で汚れた制服の二人を見て目を丸くした。
「二人とも傘持っていかなかったの?」
そう尋ねる海に二人は苦笑いを浮かべる。
「一応蜜柑が傘持ってたんだけどさぁ……」
空は今日起こった出来事の断片を、整理しきれない感情とともにざっくりと語った。
「それは大変だったわね。とりあえずご飯はできてるから、二人ともまずはお風呂に入っておいで」
帰宅して早々、海に促され、二人は重いカバンを各々の部屋に置くと、吸い込まれるように浴室へと向かった。もはや日常の一部となった二人での入浴。熱い湯が雨に打たれて冷え切った身体と、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
風呂から上がり、温かな湯気に包まれたままキッチンへ戻ると、テーブルの上には食欲をそそる香りを漂わせた二人分のドライカレーが並んでいた。海はちょうど、コンロの鍋から琥珀色のオニオンスープを器によそっているところだった。
二人が席に着くのを見届けてから、海も自分のスープを手に取り、向かいの席へと腰を下ろした。
「あれ? 海姉はもうご飯食べたの?」
海の前にスープカップしかない不自然さに、空はスプーンを止めて問いかけた。
「ううん。なんだか、今あんまり食欲がなくて……」
「海さん、どこか具合が悪いんですか?」
蜜柑が心配そうに身を乗り出すと、海は困ったような、それでいてどこか遠くを見つめるような力ない微笑を浮かべた。
「体調が悪いわけじゃないんだけど……」
海は一呼吸置き、伏せていた睫毛を震わせながら、絞り出すように言葉を紡いだ。
「実はね。ずっと生理が遅れていて……今日、昼間に検査薬を試してみたの。そしたら……デキてたみたいで……」
言い終えると同時に、海の頬は林檎のように赤く染まり、視線は所在なげに泳いだ。
「「えええええ――っ!!!」」
空と蜜柑の絶叫が夜のダイニングに響き渡り、二人は言葉を失って目を丸くした。空の脳裏には、あの紅魔館の静寂の中で交わした、あまりにも濃厚で生々しい海の熱情が鮮烈な映像としてフラッシュバックし、顔が爆発しそうなほど熱くなる。
「そ、それって……空くんとの赤ちゃん、ですよね?」
蜜柑が、現実を一つずつ確認するように震える声で尋ねた。
「うん。……あ、でも大丈夫よ。この子は最初から、私一人で育てるつもりだから。空にはその……種を提供してもらっただけで……」
海は愛おしむように、まだ平坦な自分の下腹部を両手でそっと包み込んだ。蜜柑はそんな聖母のような海の姿を呆然と見つめていたが、やがて誘われるように自分自身の腹部へと手を這わせた。
「私も、いつか……空くんとの赤ちゃんを……」
蜜柑の無意識の呟きに、空はもはや限界を超えて顔を真っ赤にし、逃げるように視線を落として俯いた。
「まあ、そういうことだから。今年の冬には家族がもう一人増えるはずよ。よろしくね」
海は茶目っ気のある笑みを少しだけ覗かせ、温かなスープを一口含んだ。
夕食を済ませた後、二人は空の部屋のテーブルに並び、宿題に取り掛かっていた。カツカツと小気味よい音を立ててシャープペンを走らせる空の隣で、蜜柑はノートを広げたまま、中空を眺めて動きを止めている。
「海さん……すごく嬉しそうだったね」
「……ああ。海姉、高校を卒業したらすぐにでも子供を産みたいって言ってたからな」
空はペンを置き、窓の外で降り続く雨の音を聞きながら、新しく芽吹いた命という、未だ実感の伴わない大きな運命に思いを馳せていた。
翌朝――。
空と蜜柑が校舎へ足を踏み入れると、昇降口の雑踏の中に凛とした佇まいの女子生徒の姿があった。二人は顔を見合わせると、吸い寄せられるように彼女のもとへ駆け寄った。
「獅童先輩、おはようございます!」
蜜柑が弾んだ声で呼びかけると、光留はゆっくりと二人の方を振り向いた。
「あら、蒼井さんに早見くん。おはよう。朝から相変わらず仲が良いわね」
少しからかうような、けれど柔らかな光留の微笑みに、蜜柑は照れくさそうに頬を緩めた。
「どうも、先輩。昨日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。それで、ですね……」
空は一歩前に出ると、少し真剣な面持ちで光留の瞳を見つめた。
「実は昨日、あの後青山先輩と……少し、やり合うことになって」
空の言葉に、光留の眉がぴくりと動いた。穏やかだった彼女の空気が、一瞬にして鋭いものへと変質する。
「やり合ったって…… 青山くんと?」
「はい。そこで少し青山先輩と話したんですけど、彼が何を考えているのか、少しだけ触れられた気がします」
「そう……なんだ」
光留は一度俯き、何かを思案するような仕草を見せると、「ここでは何だから」と、二人を誰もいない文芸部の部室へと促した。
校舎の端にあるその部屋に足を踏み入れると、空は興味深そうに室内を見回し、「へぇー」と感心の声を漏らした。
「結構広いんですね。俺が中学の頃なんて、図書準備室の片隅で書いてたんで……こんな立派な部室で活動してるなんてびっくりです」
「ふふ、これでもうちの文芸部は県内でも強豪の部類に入るのよ。学校側もそれなりに優遇してくれているわ」
誇らしげに答えた後、光留は思い出したように蜜柑へと視線を向けた。
「そういえば蒼井さん。あなたが書いた『夢幻泡影』、ネットのコンクールに応募しておいたわよ。下読みの評価もなかなか良かったみたい。後でレビューに目を通しておきなさいね」
「はい! ありがとうございます」
部室という空間が、彼女を副部長の顔に戻したようだった。そんな二人のやり取りを聞いて、空がひょいと首を突っ込む。
「へぇ、蜜柑の小説か。……どんな物語なんだ?」
「え゛っ!?」
蜜柑はビクンと体を跳ねらせん、目をまん丸に見開く。
これまで空は何度か執筆の相談には乗ってきたが、肝心の内容については一度も聞かされたことがなかった。そんな素朴な疑問に、蜜柑は耳まで赤くして視線を泳がせた。
「う、うーん……。簡単に言うと、自分の余命をあと三ヶ月だと勘違いしちゃった女の子が、悔いを残さないように精一杯頑張る……っていうお話かな」
蜜柑が恥ずかしそうに俯きながら答えると、隣にいた光留はこらえきれないといった様子でクスクスと意味深な笑みを浮かべた。
「ええ、確かに……そんな物語だったわね」
「へぇ……。蜜柑はもっと明るい話を書きそうなイメージだったけど、意外とシリアス系なんだな」
空の呑気な呟きを聞いた瞬間、光留は笑いを堪えるように口元を歪ませ、顔をヒクつかせた。そんな彼女の反応に、空は「?」と首を傾げるばかり。しかし、今は私情に浸っている場合ではないことを思い出し、彼はすぐに表情を引き締めた。
「……って、その小説の話はともかくとして。先輩、俺たちをわざわざここに呼んだのって……」
空の問いに、光留は表情から笑みを消し、静かに頷いた。窓から差し込む朝の光が、彼女の真剣な瞳を静かに照らし出していた。
「二人とも、『紫苑女子学院』って知ってるかしら?」
「紫苑女子って言ったら、海姉が通っていた学校だな。ここらじゃ有名な進学校だろ」
「……だね。お嬢様校でありながら、かなり偏差値も高い……都内でもトップクラスの女子校ですよね」
光留は空と蜜柑の言葉を受け、深く、重々しく頷いた。
「ええ。その学校に通っている私の友達から聞いた話なんだけどね――」
光留は一度言葉を切り、部室の入り口に視線を向けた。廊下に人影がないことを慎重に確認してから、さらに声を潜めて続ける。
「一年ちょっと前から、校内で妙な『箱』が見かけられるようになったそうなのよ」
「箱……ですか?」
空が怪訝そうに眉を顰めて問い返すと、光留は沈痛な面持ちで首を縦に振った。
「ええ。なんでもその箱というのが、小さな木を組み合わせて作られた細工箱のようなものでね。その一面には、投票箱のような細いスリットが入っているらしいの」
その言葉を聞いた瞬間、空と蜜柑の表情が凍りついた。二人は弾かれたように目を見開く。
「……もしかして、その箱に名前を書いた紙を入れると、書かれた相手が非業の死を遂げる……なんて、そんな話じゃないですよね?」
空が震える声でそう口にすると、今度は光留が驚愕に目を見開き、空の顔を凝視した。
「……どうして、あなたたちがそれを知っているの?」
光留の問いに、空と蜜柑は顔を見合わせ、重苦しく頷き合った。
「実は、俺たちの中学でも同じようなことがあったんです。実際に亡くなった生徒も何人か出たんですけど、結局真相はわからないまま……箱も行方不明のまま卒業してしまって」
「ということは、早見くんたちの中学で出回っていた呪いの箱が、今度はその学校に流れてきたってことなのかしら……」
光留は人差し指を口元に添え、独り言のように呟いた。しかし、蜜柑は静かに首を横に振る。
「いいえ、おそらくそれは別物だと思います。私もあの箱を見たことがありますが、それはありふれた板切れを繋ぎ合わせただけの簡素な箱でしたから」
「それに……一昨年頃に、紫苑女子に通っていた姉から、その箱の噂を聞いたことがあるんです」
二人の言葉を聞き、光留の表情はさらに険しさを増していく。
「……ということは、そんな忌まわしい箱が二つあるってこと?」
「それどころか、その箱はある人物の手によって『五つ』作られたらしいです」
その驚愕の情報に、光留の顔からは急速に血の気が引いていく。
「箱が五つ……!? というか、どうしてあなたたちはそんなに詳しいの?」
光留にそう問われ、空と蜜柑は一瞬だけ視線を合わせて頷き合った。
「その箱、うちの学校では『呪いの目安箱』って呼ばれていたんですが……蜜柑は、その箱の呪いを受けたことがあるんです」
「ええっ!? 蒼井さんが!? そ、それで大丈夫だったの?」
光留は驚いた様子で蜜柑の顔を覗き込み、身を乗り出した。
「はい。結構危ないところでしたが、なんとかこうして生きています」
「そ、そう……。本当によかったわ……」
光留は心底ホッとしたように大きなため息をついた。
「……それで、紫苑女子では今、その箱はどうなっているんですか?」
光留は目の前の二人に向き直ると、「ここからが本題よ」と告げるように、その表情をいっそう引き締めて口を開いた。
「紫苑女子には『オカルト研究部』という部活があるそうなんだけどね、今年その学校に赴任してきた女性の先生が顧問になったんだって。そしたらなぜかその箱に異常な執着を見せ始めてね。部員を総動員して、校内中を捜索させたそうなの」
「はは……。顧問の趣味に振り回されるなんて、部員も災難だな」
「まあ、もともとそういう噂に目がない連中だし、案外ノリノリで楽しんでいたのかもしれないけれど」
光留は少しだけ呆れたように苦笑いを浮かべる。
「……それで、その箱は見つかったんですか?」
蜜柑が不安を押し殺すように問いかける。
「ええ、音楽室の中に隠すように置いてあったらしいわ」
「……ってことは、誰かが意図的に出したりしまったりしていたってことですよね」
空はそう言って机に寄りかかりながら、天板を指で静かに撫でた。
「でもさ。実際、その箱を見つけてどうしたんだろうね?」
蜜柑が素朴な疑問を口にすると、光留は再び眉を顰め、重い口を開いた。
「それがね……その先生は部員たちにこう教えたらしいの。『強く恨んでいる人の名前を書いて投函すれば、その相手に相応の報いを与えてくれる』って」
「「えっ……!?」」
空と蜜柑の口から、驚愕の入り混じった短い声が漏れた。
「……ということは、その先生は箱の正体を知った上で、わざと部員たちに探させたってことですか」
「そういうことになるわね」
光留は机から椅子を引き、がっくりと肩を落とすように腰を下ろした。
「部員たちは最初、半信半疑だったみたい。でも『試してみよう』ということになって、近隣で有名な不良の名前を数人書いて投函したそうなの」
光留の言葉に、部室の空気は一段と重く沈み込んでいく。
「それで、その相手はどうなったんですか……?」
「……名前を書かれた全員が、繁華街で半グレの集団に暴行を受け、亡くなったそうよ」
空と蜜柑は、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「その一件があってから、箱はあまりに危険だということで、顧問の先生がどこかへ持ち去った……。それが、私の耳に入っている話のすべてよ」
空と蜜柑は、重苦しい空気を振り払うように大きくため息をついた。
「なかなかエグい話ですけど……獅童先輩、どうしてこの話を俺たちに? 正直、青山先輩の件とは無関係なように思えるのですが」
空の真っ直ぐな問いに対し、光留は重い沈黙を守った。やがて、覚悟を決めたように唇を開く。
「その顧問の名前は、水城摩耶」
その名が響いた瞬間、空の指先がぴくりと止まった。
「水城……?」
脳裏に浮かんだのは、かつて中学で自分のクラス担任を務めていた女性の姿だった。
「そして彼女は……青山くんの実の母親、だと思われるわ」
その予想外の告白に、空と蜜柑は思わず首を傾げた。
「母親? でも、苗字が違うってことは……」
「一輝君は父親の姓を名乗っているのよ。一年の時に彼と同じクラスだったけれど、その時の名簿はまだ『水城』だったしね」
空は肺の中の空気をすべて吐き出すように大きく息を吐くと、腕を組んで深く口を噤んだ。
「……でも、仮に先輩の言う通り二人が親子だとして、それが今の状況とどう繋がるんですか?」
「ここからは私の推測……いえ、確信に近い話よ。あの二人は、半グレや反社会的勢力に対して、とてつもない恨みを抱いている。だから青山くんは暴力で彼らをねじ伏せ、水城先生は『呪い』という力を使って悪人を排除しようとしている……そうは考えられない?」
空は少し考え込み、慎重に言葉を返した。
「でも、輩狩りをしているのは青山先輩だけじゃない。あちこちで同時多発的にそんな自警活動が始まるなんて、普通はあり得ないですよ」
「そうだよね。いくら相手が悪人でも、そんな過激なことをしてたらすぐに捕まっちゃうはずだし……。誰か強力な指導者が裏で糸を引いていない限り、組織的に動くなんて無理だと思うな」
蜜柑がふと漏らしたその言葉に、空と光留は弾かれたように視線を合わせた。
「強力な指導者、か……」
「……けれど、今の僕たちが持っている情報だけでは、これ以上踏み込むのは難しそうですね」
張り詰めていた空気を解くように、三人は同時に重い息を吐き出した。
「そうね。……またその友達から新しい話を聞けたら、すぐに連絡するわ」
光留がそう締めくくり、三人が部室を後にしたのとほぼ同時に、予鈴のチャイムが校舎に鳴り響いた。廊下からは人影が消え、しんと静まり返っている。急いで教室へ戻ると、クラスメイトたちは既にそれぞれの席に着き、次の授業の準備を始めていた。
授業開始を告げる本鈴が鳴り、教師が教壇に立つ。教科書をめくる音やチョークが黒板を叩く乾燥した音が響く中、空の意識は目の前の数式ではなく、先ほど部室で共有した仮説へと沈み込んでいた。
(水城摩耶先生が、青山先輩の母親……)
中学時代の担任だった摩耶の、穏やかでどこか影のある微笑みが脳裏をよぎる。
科学を教えるべく理科教師だった彼女が、オカルトである『呪い』を道具として扱う違和感かどうしても拭えない。
そして科学的なアプローチで極限まで肉体の性能を引き出す薬物。
(この二つが同じ首謀者から生み出されるなんて事……)
空はノートの端に、無意識のうちに「五つの箱」と書き込んでいた。聖良が作ったとされる五つの呪いの装置。紫苑女子に現れたのはその一つに過ぎない。残りの箱はどこにあるのか。
「早見、ここを読んでみろ」
「ふぇ?!」
不意に教師に指名され、空は弾かれたように立ち上がった。教科書の該当箇所を無難に読み上げることはできたが、背中には嫌な汗が伝っている。
昼休みを告げるチャイムが鳴るまで、空の頭の中では「暴力」と「呪い」という狂気が、複雑に絡み合い続けていた。
待ちに待った昼休み――。
空は、海が作ってくれた弁当を抱え屋上へと向かった。重い鉄扉を押し開けると、昨夜までの雨が嘘のような、透き通るような青空がどこまでも広がっていた。空は眩しそうに目を細め、胸いっぱいに空気を吸い込んでからベンチへと歩み寄る。……すると、そこには既に先客がいた。
「あれ、蜜柑?」
空が声をかけると、ベンチでお弁当を広げていた女子生徒が、ぱっと顔を上げた。
「あっ、空くん。空くんも屋上に来たんだね」
「ああ、天気が良かったから、ちょっと気分転換に……」
空は蜜柑の隣に腰を下ろすと、彼女の弁当箱を覗き込んだ。
「おっ、今日は鶏そぼろか。美味そうだな」
「うん、美味しいよ。一緒に食べよう?」
蜜柑に促され、空も自分の弁当をそそくさと開ける。左手が不自由なため、弁当箱を抱えながら箸を使ってご飯を一口大に分け、口へと運んだ。
「片手が使えないのに、器用に食べるね」
「まあ、三日も経てば慣れるよ」
「そっか……。それにしても、海さん体調が悪いのに、家事もお弁当も全部やってくれて申し訳ないなぁ。明日からは、私がお弁当作ろうかな」
蜜柑はもぐもぐと頬張りながら、そんなことを呟いた。
「そうだな……。家事全般、海姉に頼りきりだったし。俺も少しは動かないと……」
そんな穏やかな会話を交わしている最中、空のポケットでスマホが短く震えた。空は弁当をベンチに置き、手探りで端末を取り出す。画面には「有馬卓也」という名前が表示されていた。
「あっ、有馬先生からだ」
空は通話ボタンをタップし、蜜柑にも聞こえるようにスピーカーモードへ切り替えた。
「もしもし、早見です」
『やあ、空くん。今、電話は大丈夫かな?』
「はい。ちょうど昼休みに入ったところなので……」
空が応じると、隣から蜜柑も身を乗り出した。
「有馬先生、昨日は送っていただいてありがとうございました」
蜜柑がスマホに向かって明るく声をかけると、電話の向こうから柔らかな笑い声が返ってきた。
『ああ、蒼井さんも一緒かい。それなら話が早くて助かるよ』
有馬先生の落ち着いた声が、晴れ渡った屋上に響く。しかし、その穏やかさの裏に、どこか緊迫したニュアンスが含まれているのを、空は敏感に感じ取っていた。
『昨日の青山くんの件だけど……。病院に運んだあと、折れていた手足の手術をしてね。ついさっき目を覚ましたところだよ』
「色々と、お手数をおかけしてすみません」
『いや、それは私の仕事だから構わない。それより、事情が事情だけに本来ならすぐに警察へ届け出なければならないんだが……その前に、君たちは彼と話したいことがあるんじゃないかと思ってね。それで連絡したんだ』
卓也の提案に、空と蜜柑は顔を見合わせ、無言のまま深く頷いた。
「お心遣い、ありがとうございます。学校が終わったらすぐに病院へ向かいます。……でも、青山先輩は大丈夫なんですか? 昨日の様子だと、意識さえあれば這ってでも病院を抜け出しそうな気がするんですけど……」
『その点は心配ないよ。両手両足が複雑骨折している上に、何らかの薬物を過剰に摂取していた影響で、全身の筋肉に断裂が起きている。今は身動き一つできない状態だ』
「そ、そうですか……」
空は引き攣った笑いを浮かべ、そう答えるしかなかった。それほどまでに、青山は自らの肉体を酷使し、限界を超えて戦っていたのだ。
電話を切ったあと、空は残りの弁当を急いで平らげると、水筒のお茶を飲んでようやく一息ついた。
「……両手両足、複雑骨折か。考えただけで痛いな」
空がぽつりと呟くと、蜜柑は手元のお茶を見つめたまま眉を下げた。
「空くんと戦っていた時、青山さんの目、すごく怖かった。でも……どこか助けて欲しそうな、そんな風にも見えたんだよね」
「ああ。あの人が抱えているのは、ただの暴力じゃない。もっと根深い何かだ。光留先輩が言っていた『水城先生が母親』っていう話が本当なら、家庭の中にまであの『箱』や『輩狩り』の影が落ちていることになる」
空は空になった弁当箱を片付けながら、午後の空を見上げた。
「とにかく、本人に会って確かめるしかない。あの人が何を背負わされているのか、俺たちが知るべきことはまだたくさんあるはずだ」
「そうだね」
やがて午後の授業を告げるチャイムが、昼休みの終わりを告げるように鳴り響いた。
午後の授業中、空は黒板の文字を追いながらも、思考は絶えず「水城摩耶」と「青山一輝」の間を彷徨っていた。教壇に立つ教師の姿が、時折、中学時代の担任だった水城先生の静かな微笑みと重なり、そのたびに胃の奥が冷たくなるような感覚に襲われた。
(もし本当に親子なら、なぜ母親が息子の壊れていく姿を黙認……あるいは助長しているのか)
数式や英文が頭を素通りしていく。空は左右手でペンを握り直した。
放課後、ホームルームが終わるや否や、二人は示し合わせたように教室を飛び出した。駅までの道のりを早歩きで駆け抜け、電車を乗り継いで、有馬卓也の務める有馬病院へと向かう。
夕暮れ時の病院は、独特の消毒液の匂いと、どこか物悲しい静寂に包まれていた。空は卓也に電話をして間も無く卓也は現れ、青山のいる病室へと案内してくれた。病棟へと進む足音が、静かな廊下に規則正しく響く。空の心臓は、昨日の喧嘩の時とは違う、焦燥と緊張で激しく脈打っていた。
「……ここだ」
案内された病室のプレートには、確かに『青山一輝』の名が刻まれていた。空は一度深く呼吸を整え、重い引き戸に手をかけた。その先には、街を恐怖に陥れた「輩狩り」の象徴としての姿はなく、ただ一人の傷ついた少年が静かに横たわっていた。
「青山先輩……」
空が短く声をかけると、ベッドの上にいた青山は僅かに頭を持ち上げ、視線を入口の方へと向けた。
「また君たちか……」
青山は自嘲気味な苦笑いを浮かべる。空と蜜柑は、吸い寄せられるようにベッドの傍らまで歩み寄った。
「先輩、お身体の具合はどうですか……?」
蜜柑が消え入りそうな声で問いかけると、青山は力無い笑みを浮かべたまま、天井へと視線を逸らした。
「見ての通りさ。指一本、満足に動かせない。今は薬で感覚を麻痺させてもらっているが、これが切れたら全身に凄まじい激痛が襲ってくるんだろうな……」
三人のやり取りを、卓也はドアの傍らで静かに見守っていたが、ふいに助言を挟む。
「残念ながら、その痛みはあと四、五日は続くはずだよ。覚悟しておきなさい」
有馬先生の冷徹なまでに正確な宣告に、青山は深く、重い溜息を吐き出した。
「……というか、先輩。どうして危険な薬を使ってまで、あんな連中を退治しようなんて思ったんですか?」
空が青山の瞳を真っ直ぐに見下ろしながら問うと、病室には痛いほどの沈黙が流れた。時計の刻む音だけが響く中、青山がポツリポツリと独白を始める。
「君たちは、素のままでそれだけ強いんだ。考えたこともないだろうな……。常に強者に怯え、虐げられる恐怖を。そして、それを見て見ぬふりをする教師やクラスメイトたちの冷ややかな視線を。僕は、そんな地獄のような小中学校時代を過ごしてきたんだ」
青山の声が微かに震える。
「そんな僕にとって、唯一の救いは兄のような従兄弟の存在だった。二人で過ごす時間だけは、惨めな毎日を忘れられたんだ。……けれど、その兄さんは中学生の時、学校での執拗ないじめに遭って、この世を去った」
そこまで語ると、青山の目から一筋の涙が溢れ落ち、言葉が詰まった。
「……もしかして、その従兄弟というのは、水城彰先輩のことですか?」
空がその名を口にした瞬間、青山は目を見開き、驚愕に唇を震わせた。
「ど……どうして、その名前を……」
「苗字が同じだったってだけの単なる当てずっぽですよ。
……で、水城先輩は、僕の兄の親友だったんです。だから、少しだけその辺の事情は知っています」
空の言葉に、青山は言葉を失い、深い沈黙へと沈み込んだ。病室に響く医療機器の電子音が、やけに大きく聞こえる。長い空白の後、彼は絞り出すように再び口を開いた。
「……あの日を境に、叔母さんも、僕たちの生活もすべてが変わってしまったんだ」
青山は遠くを見るような目で、天井の一点を見つめた。
「元々、水城の一族は呪術師の血を引く家系だった。僕の母さんには全くそんな力はなかったけれど、叔母の聖良だけは、恐ろしいほど強い力を持っていたんだ。あの日以来、叔母さんはその研究に狂ったように没頭し始めた」
「研究……ですか?」
蜜柑が不安そうに問いかけると、青山は力なく頷いた。
「今の日本じゃ、人を呪い殺しても法で裁くことはできない。叔母さんはその盲点を利用して、彰兄さんを死に追いやった連中を……一人、また一人と始末していったんだ。目論見通り、何人かの加害者は消えたよ」
「……」
「でも、呪術なんて本来は制御の難しいものだ。自分の限界を感じ始めた頃、叔母さんはある組織に目をつけた。それが『連正会』だ」
青山の声に、抜き差しならない緊張感が混じる。
「表向きは宗教団体だが、実態は国家転覆さえ目論む狂信的な集団だよ。火器や銃器の調達、新種の薬物の開発、そして呪術の軍事利用……。あらゆる闇の研究が行われている場所に、叔母さんは自ら飛び込んでいったんだ」
青山は一度言葉を切り、苦しげに息を吐いた。
「叔母さんはその呪術師としての稀稀な才能を見込まれ、瞬く間に組織の中枢……研究部門の責任者へと登り詰めた。それが、すべての悪夢の始まりだったんだよ」
青山は、縋るような、あるいは己の罪を告解するかのような鋭い眼差しで、空の目をじっと凝視した。
「叔母さんは、薬物研究部門が開発した試作段階の薬を『実験』という名目で持ち出し、僕や、数人の若い連正会信者に渡したんだ。君が昨日見たあの薬は、身体の成長エネルギーを何十倍にも無理やり増幅させる代物なんだよ。だから、代謝が激しく成長過程にある十代の男子でなければ、その効力を引き出すことはできない」
その言葉を聞いた瞬間、空の脳裏でバラバラだったパズルのピースが音を立てて繋がった。
「……だから、加害者は中高生ばかりだったのか」
納得と、それ以上の戦慄が空の口から言葉を溢れさせた。呪いという不確かな手段では対処しきれない領域を、薬物で強化された少年たちに肩代わりさせる。それが、聖良の構築した「暴力と復讐」のシステムの正体だったのだ。
「ああ。薬を受け取った連中は、叔母さんの指示に従って、街に蔓延る多くの輩を葬ってきた。……僕も、それが正義だと信じて、昨日まで拳を振るい続けてきたんだ」
青山はそう言うと、力なくベッドに深く身を沈めた。その横顔には、独りよがりの救済に酔いしれていた自分自身に対する、深い嫌悪と後悔が滲んでいた。
「それじゃあ、水城摩耶先生が紫苑女子学院のオカルト研究部を利用して『呪いの箱』を探していたのも……」
空が核心に触れると、青山は力なく瞬きをして肯定した。
「そうだよ。母さんは自分の息子のように可愛がっていた彰兄さんの無念を晴らそうと、呪いの箱をかき集めることに奔走していたんだ。……父さんは、そんな狂気に染まっていく母さんについていけなくなってね。僕を引き取って、家を出たんだよ」
青山の言葉は、温かな家庭が復讐という毒に侵され、バラバラに崩壊していく過程を物語っていた。
「母さんは、僕を愛してくれていたはずだ。でも、いつの間にか母さんの目には僕じゃなく、死んだ彰兄さんの幻影しか映らなくなっていた。僕が叔母さんの薬に手を染めても何も言ってくれないほどにね」
夕暮れ時の病室に、青山の寂しげな告白が静かに溶けていった。
約一時間の面会の後、空と蜜柑は病室を後にした。二人の胸には、鉛のように重く、逃げ場のないモヤモヤとした感情が淀んでいた。
「はぁ……。なんだか、すごく辛いね」
蜜柑が力なく呟くと、空もつられるように大きなため息を吐き出した。
「そうだな……」
『復讐』
それを遂げたところで、失われた命が戻るわけではない。虚無しか残らないと分かっていても、そうせずにはいられないほどに追い詰められた者たちの末路。その痛みが、重くのしかかっていた。
二人はそれ以上言葉を発することなく、夕闇の迫る病院の敷地を出て歩いていた。……と、突然後ろからポンと肩を叩かれた。驚いて振り向くと、そこには見覚えのある制服姿の男女が立っていた。
「よっ! 空、蒼井。久しぶりだな」
そう言って片手を挙げてニカッと笑う忍と、その隣で少し照れくさそうに微笑む瑠奈の姿があった。
「シンくん、瑠奈さん……!」
「二人とも、久しぶりだね」
不意の再会に、蜜柑の声が少しだけ明るさを取り戻す。瑠奈は「お久しぶりです」と丁寧にペコリとお辞儀をした。
ふと蜜柑が何気なく視線を落とすと、二人の手がしっかりと繋がれていることに気づいた。
「あれ? もしかして……」
蜜柑が目を丸くして指差すと、忍は照れた笑いを浮かべた。
「まぁ、そういうことだ。お前らに報告しなきゃと思ってたんだよ。……って、それよりさ」
忍は繋いでいた手を離すと、わざとらしく空の顔を覗き込み、ニヤニヤと下世話な笑みを浮かべた。
「お前らそんな暗い顔で病院から出てきてどうしたんだよ? なあ空、今度は蒼井を妊娠させちまったのか?」
「ぶっ……!?」
空は盛大に咽せ返り、蜜柑は顔を一瞬でリンゴのように真っ赤に染めて固まった。
「ちょっと、忍くん! 縁起でもないこと言わないでよ!」
「そうだよ! 冗談にも程があるだろ!」
空が慌てて否定すると、隣で瑠奈も「もう、シンくんの馬鹿……」と呆れたように忍の脇腹を軽く小突いた。忍は「痛えな」と言いながらもケラケラと声を上げて笑っている。
そのあまりに直球でデリカシーのない、けれどいつも通りの忍の軽口に、先ほどまで空の胸を支配していた重苦しいモヤが、嘘のように少しずつ晴れていくのを空は感じていた。
「……ったく、相変わらずだな、お前は」
空が呆れながらも小さく吹き出すと、蜜柑も恥ずかしそうに頬を抑えながら「もう、びっくりしたよぉ」と笑みをこぼした。
「悪い悪い。お前らがあまりに死にそうな顔してたからよ。ほら、せっかく会ったんだし、どこか寄ってかないか?」
忍にそう促され、空はポケットからスマホを取り出し時間を確認した。
「……まあ、少しの時間なら大丈夫だよ」
夕暮れの病院前。先ほどまでの重苦しい沈黙は消え、四人の間には賑やかな笑い声が戻っていた。彼らは通りにあるコーヒーショップへと入り、それぞれ注文を済ませると、窓際のボックス席へと腰を下ろした。
「そういえばお前、その腕どうしたんだよ」
忍が、ギプスでがっしりと固定された空の左腕を指差して聞いてきた。
「ああ、これか。この前、街中でちょっとしたトラブルに巻き込まれちまってな」
「へぇ、空がそんな怪我をするなんて、よっぽどの相手だったんだな」
忍の感心したような言葉に、空は複雑な心境で苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そういえば、駅向こうにある上東高校ってヤンキー校あるだろ? あそこ、突然乗り込んできた『中学生』に一人残らず潰されたらしいぜ」
忍が何気なく放ったその言葉に、空と蜜柑の心臓は大きく跳ね上がった。
「マジか……。シンくん、その中学生がどこの誰かって話は知らないか?」
「いや、そこまでは知らないけどさ。最近、ヤンキーだのヤクザだのが中高生に返り討ちにされたなんて話、やけによく聞くよな?」
忍が隣の瑠奈に同意を求めると、彼女も真剣な面持ちで小さく頷いた。
「……そうか。思っていた以上に、その動きは広がっているんだな」
空が独り言のように呟くと、絶妙なタイミングで四人の前に注文したコーヒーと、色鮮やかなティラミスやモンブラン、イチゴタルトが運ばれてきた。蜜柑はさっそくモンブランを一口運び、幸せそうな笑みを浮かべる。
「うーん、美味しい! 甘さもちょうど良くて、これなら何個でも食べられそう。ねぇ空くん、これ海さんに買って帰ろうよ」
「そうだな。海姉も、これなら食べられるかもしれないな」
そう言ってコーヒーを啜る空に、忍と瑠奈は不思議そうな、どこか引っかかるような表情を向けた。
「海さん……どうかしたんですか?」
瑠奈が心配そうに身を乗り出して聞いてきた。空はその問いに対し、気まずそうに視線を泳がせ、答えを渋っていた。……が、その隣で蜜柑が、実にあっけらかんとこう応えたのだ。
「海さん、妊娠してるんだって」
「「え゛っ!!」」
忍と瑠奈は同時に、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで声を上げた。空は目を逸らし、耳まで真っ赤にして俯いてしまう。
「その反応……まさか……」
「空くんとの、赤ちゃんなの……?」
忍と瑠奈に交互に問い詰められ、空は観念したように、消え入りそうな動作でコクリと頷いた。忍は「マジかよ……」と天を仰ぎ、深いため息を吐いた。
「もしかして……駅で会ったあの時か?」
「そういえば空さんと海さん、恋人みたいにぴったりくっついていたもんね……」
瑠奈はそこまで口にした後、我に返ったようにハッとして、恐る恐る隣の蜜柑に視線を移した。
「あっ! み、蜜柑ちゃん……ごめんなさい、私……!」
最愛の人の「別の女性との子供」という衝撃的な事実。瑠奈は蜜柑が傷ついているのではないかと気が気ではなかったが、当の蜜柑は実に幸せそうな笑顔で次の一口を口に運んでいた。
「相手が海さんなら、私は大丈夫だよ。それに、今は少し体調が悪そうだけど、海さんとっても幸せそうなんだもん。それを見てると、私も嬉しくなっちゃうんだ」
屈託のない笑顔でそう応える蜜柑を見て、瑠奈は「そうなんだ……」とようやくホッと胸を撫で下ろした。
「……それにしてもだ。お前ら、なんでこんな時間に病院なんかにいたんだよ。その腕の検査か何かか?」
忍は温かいコーヒーカップを両手で包み込むようにしながら、探るような視線を向けてきた。
「いや……この怪我をさせた張本人に、面会に行ってきたんだ」
「ああぁ? なんだそりゃ。どういう状況だよ」
忍が不審そうに眉を顰める。空は、ここ最近街で起きている不気味な「輩狩り」の連鎖や、自らが負った怪我の経緯、そして学生たちの間で密かに、かつ急速に出回っている「呪いの箱」の現状について、かいつまんで話して聞かせた。
「うーん……。輩狩りの話は聞いてたけど、なんだか想像以上にヤバいことになってんな」
「まあな……」
忍は腕を組み、目を閉じて「うーん」と唸り声を上げた。十数秒ほど沈黙が流れたあと、彼はゆっくりと瞼を押し上げた。
「そういえば、その話を聞いてふと思い出したんだけどよ。その水城先生……初めて見た時、お前ら妙に気にしていただろ?」
「ああ。……結局、思い出せなかったけどな」
空が記憶の断片を辿るように答えると、忍はテーブルの上へと身を乗り出してきた。
「あの後しばらくしてから、思ったんだけどよ。……あの先生、柴田先生とどこか似てなかったか?」
「柴田先生……?」
忍の言葉に、空の脳裏にかつて文芸部の顧問を務めていた柴田真希の姿がありありと浮かび上がった。そして、彼女を最後に目撃した、あの連正会のビルでの光景――。
「……見た目も、雰囲気も全然違うとは思うけどさ」
忍はそう付け加えたが、空の思考は止まることを知らなかった。水城摩耶と、柴田真希。一方は現職の教師として教壇に立ち、もう一方は行方不明のまま闇に消えた元顧問。対照的な道を歩んでいるように見える二人が、どちらも「連正会」という不気味な結節点で繋がっている。その事実に、空は言いようのない寒気を感じ、無意識のうちにギプスで固められた左腕を強く抱きしめた。
「それにしても、呪いかぁ……」
忍は椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「今まで、彩乃の霊が瑠奈に乗り移ったり、お前らの中身が入れ替わったり、理屈じゃ説明できない不思議なことは散々見てきたけどさ。……呪いなんてもので、本当に人を殺したりできるもんなのかな」
忍の素朴な疑問に、窓の外から差し込む夕闇が答えるように深まった。
「呪いは、あるよ。日本にだって丑の刻参りや犬神なんていう伝承があるし、そもそも『おまじない』だって呪いの一種なんだから。強い思いが無意識のうちに生き霊となって相手を苦しめる……なんていうのはよくある話だし、おばあちゃんのところにも生き霊を祓ってほしいって相談に来る人は絶えないわよ」
「へぇ、瑠奈さんの口から出ると言葉の重みが違うな」
空が感心したようにそう呟くと、瑠奈は少し照れたような笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「それにその箱……。呪いそのものが直接手を下すというより、人の内に秘めた『悪意』を増幅させるための装置なんじゃないかしら」
瑠奈は冷めたコーヒーを一口啜り、静かに自説を述べた。
「そうか。確かに、何らかの実害を加えられない限り、赤の他人にそこまで強い恨みが向くことはないもんね。だから、呪いの対象になりにくい『街中の輩』を効率よく狩るために、あんな薬を持ち出して実行犯を仕立てたんじゃないかな」
瑠奈の言葉を補完するように、蜜柑が真剣な面持ちで付け加えた。
「まあ、何にせよ、そういった話が耳に入ったらすぐに教えてくれないか。街から輩がいなくなるのはいいことのように思えるけど、そのために中高生を利用して、彼らの未来を壊すなんて絶対に間違ってる。それに、連正会なんて組織が裏で何を企んでいるか分かったもんじゃないからな」
そんな話の区切りに、空はふとスマホを取り出した。画面に表示された時計は、すでに18時になろうとしている。
「もうこんな時間か……。二人は、これからどうするんだ?」
空がテーブルを挟んで座る二人に問いかけると、忍は最後の一口を飲み干してカップを置いた。
「明日も学校だしな。瑠奈を送ったら、俺もそのまま帰るよ」
「そうなんだ。瑠奈ちゃんのアパートって、ここから近いの?」
蜜柑が尋ねると、瑠奈は「うん」と微笑んで頷いた。
「歩いて十五分くらいかな」
「じゃあ、俺たちも途中まで一緒に行くよ。夜道だし、人数が多いほうが安心だろ」
空の提案に、忍が「お前、その腕でボディーガードのつもりかよ」と茶化しながらも、四人は店を後にした。
街灯が等間隔に灯る夜道を、四人の足音が重なり合って響く。コーヒーショップを出てからも他愛のない会話をかわし、空たちの昼間の病院での重苦しさはすっかり拭いさられていた。
瑠奈のアパートの入り口に到着し、彼女に手を振って別れを告げた。残された三人は、中学生だった頃に戻ったかのように肩を並べ、最寄り駅を目指して夜道を歩き始めた。
「そういえばシンくん、そっちの高校はどうなんだ? 部活とか入ったのか?」
高校入学以来、初めての再会ということもあり、空は親友の近況を尋ねてみた。
「いや、部活には入らなかったよ。高校の剣道部はガチ勢ばっかりだしな。それに……空や蒼井を見てたらさ、俺も実戦的な格闘技をやりたくなったんだ」
忍はそう言いながら、足元に転がっていた小石を無造作に蹴飛ばした。その背中からは、大切な人を守りたいという強さへの純粋な渇望が滲んでいた。
「そうか。……まあ、瑠奈さんは一度拉致されかけたこともあったしな。これから先、同じことが起きないとも限らない。シンくんが守れるくらい強くなってくれたら、俺たちも安心だよ」
空がそういうと、蜜柑は中空を見つめながら考える。
「だったら、あの道場がピッタリじゃない?」
蜜柑が名案だと言わんばかりの明るい笑顔を向けた。
「あの道場?」
忍が不思議そうに聞き返すと、蜜柑の意図を察した空が「ああ……」と頷く。
「……『極道会』か」
「ちょっと遠いけど、あそこなら間違いはないよね」
納得しきった様子の二人を置いてけぼりにして、忍はさらに首を傾げた。
「おい、それってどんなところなんだよ」
「ああ。中学の時、俺たちが『留学』って名目で三ヶ月くらい学校を休んだことがあっただろ。あの時、実はその道場の合宿に参加してたんだ。そこで稽古をつけてもらったおかげで、未経験だった蜜柑がたった三ヶ月でここまで強くなったってわけさ」
忍は「へぇ!」と目を丸くし、驚愕を隠せない様子で声を上げた。
「……まあ、あの時の合宿は特別中の特別だったけどな。今から行くにしても、同じメニューってことはないだろうけど」
「特別って、何がだよ」
「集まってたのが、地下闘技場のチャンピオン経験者とか、そんな連中ばかりだったんだ。初心者の蜜柑を除けば、あの場で俺が一番弱かったからな」
その言葉に、忍は顔を引き攣らせた。空の圧倒的な実力を知っているだけに、その彼が「一番弱い」と断言する環境の異常さが、容易に想像できたからだ。
「マジかよ。そんな中での稽古なんて、想像もつかないな……」
「まあ、普通の中高生を対象にしたクラスもあるはずだ。体験にでも行ってみるなら、師範に連絡しておいてやるぜ」
「……ああ、ちょっと考えてみるよ」
忍がそう答えた、その時だった。
街灯の光さえ届かない路地の暗がりから、一人の女性が音もなく姿を現した。
「――あら。奇遇ね、早見くん」
凛とした、けれどどこか体温を感じさせない澄んだ声。
空の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。そこに立っていたのは、端正なスーツに身を包み、薄く微笑みを浮かべた水城摩耶だった。
「水城……先生……」
空は無意識に蜜柑を庇うように一歩前に出た。ギプスで固められた左腕が、警鐘を鳴らすように鈍く疼く。
「こんな時間に三人でお散歩かしら? 仲が良くて何よりだわ。……でも、夜の道は危険よ。見えないところに、どんな『悪意』が潜んでいるか分からないもの」
彼女の瞳は笑っていない。その奥にあるのは、光留や青山から聞いた、狂気的なまでの「正義」と「執着」の色だ。
「先生……。青山先輩に会ってきました」
空が絞り出すように言うと、摩耶の眉がピクリと動いた。
「そう。一輝に。あの子、何か余計なことを言わなかったかしら?」
「余計なことなんて、何も。ただ……先輩がどれだけ苦しんでいたかは、分かりました」
摩耶は一瞬の沈黙の後、クスクスと喉を鳴らして笑った。それは夜の静寂に不気味に響く、凍てついた笑い声だった。
「苦しみ? 違うわ、早見くん。あれは『産みの苦しみ』よ。この汚れた街を浄化するために、私たちが乗り越えなきゃいけないステップ。あの子も、街を助けることを誇りに思っているはずよ」
彼女は一歩、空たちの方へ足を踏み出した。その影が長く伸び、二人を飲み込もうとする。
「ねえ、早見くん。あなたも『箱』に興味があるんでしょう? 明日、私のところへ来なさい。あなたなら、きっと私たちが目指す新しい世界の、良き理解者になれると思うの」
一方的にそれだけを告げると、摩耶は優雅な仕草で背を向け、闇の向こうへと消えていった。
後に残されたのは、凍りついたような静寂と、拭いきれない戦慄だけだった。空は、自分の手が微かに震えていることに気づき、拳を強く握りしめた。
暫くしてから空たちの耳に町の雑踏が戻ってくる。
「あれが……水城先生?」
忍はそう溢す。
担任だった一年前からは考えられない冷たさが忍の身体を震わせた。
「何だったの? 今の……」
「連正会への勧誘か、宣戦布告か――」
蜜柑と空がそう呟くと、空は僅かに口角を上げる。
「何にしても、ちょっと忙しくなりそうだな……」




