もう一人のアレックス
アレックスと別れて一ヶ月が過ぎようとしていた。気が付けばフィリデオと過ごす時間が多くなり、今日も並木道が続くこの公園で待ち合わせをしている。
約束の時間より遅い彼を心配して携帯電話を取り出した。発着信履歴には毎日のように連絡を取り合っていたアレックスで埋まっている。
同期の話では別れた途端に名前を削除するらしいが、いつまでも踏ん切りがつかない自分が未練がましく思えて自嘲した。
― 少佐はどうしたかな……?
きっぱり公私弁える性格なのでとっくに実行しているかも知れない。それはそれで寂しい気がするのだが。
― いつまでも名前を残しておいたらフィリデオに申し訳ないな。
二人の関係は、名ばかりの婚約者で友達以上恋人未満だ。未だアレックスの面影を追う彼女に、フィリデオは詰りもせず責めもせず接してくれた。彼の優しさにつけこんでいる気がして罪悪感が支配する。
そんなフィリデオに自分はどう応えればいいのか。
《アレックス・ミュラー教官》
せめてもの誠意は元恋人の名前を消すこと。
《削除しますか?》
躊躇って迷ってなかなか決心がつかないでいると着信音に体が跳ねた。
「もしもし」
『カーリン、今どこ?』
フィリデオからだ。
「待ち合わせの公園だよ」
『ごめん。急用ができてちょっと遅れる』
相手は参事官、多忙なのは折り込み済みである。
「気にしないで安全運転に努めなよ」
『お気遣い感謝します』とおどけるフィリデオに小さく笑った。
携帯電話に視線を落とすと、通話を終えた画面は再び削除の続きを示している。震える指で押そうとするも体が言うことをきかなかった。
眺めていると、リードを付けたままの仔犬が足元にじゃれてきた。
「お前のご主人はどこだい?」
腰を折って頭を撫でると遠くから呼ぶ声がした。
「アレックス―!!」
別れた恋人の名にカーリンは弾かれたように顔を上げると、息を切らせて十歳くらいの少女が走ってくる。
「もう!! 勝手に行ったらダメじゃない!!」
アレックスと呼ばれた仔犬は叱れたのが分かるのか「クウン」と鼻を鳴らして項垂れた。
「あなたのワンちゃん?」
「はい。パパがもらってきてくれたの」
「そう」
カーリンは部隊に棲みついた野良犬を思い出していた。メス犬の妊娠をセドリックがカーリンと勘違いして大騒ぎになったのだ。
懐かしさでくすりと笑うカーリンに少女は怪訝そうに見ている。
「その名前、あなたが付けたの?」
「ううん。うちに来た時にアレックスって首輪してたの」
カーリンははっとした。
「パパは軍人さん?」
少女は大きく頷いた。
― やっぱり。あの時のアレックスだ。
メス犬が産んだ四匹のうち唯一のオスにアレックスと名付けた。新しい飼い主が名前を付け直すと思っていたが、そのままになっていたようである。
三匹のメスよりも一回り小さく生まれたが、今は順調に育っている様子に安堵した。
栗色の毛を撫でているとアレックスの髪を彷彿とさせる。寝ている彼のそれを撫でる感触が蘇る手をじっと見つめた。
「おねえちゃんも犬、好き?」
「うん、大好きだよ」
「だから、アレックスがなついたんだ」
犬は好きだ。そして、彼も好きだと言っていた。
以前、アレックスとデートしていると散歩をしている大型犬と鉢合わせになった時がある。歓声を上げて近寄るカーリンにアレックスは制した。
「迂闊に手を出すと噛まれるぞ」
「そうなんですか? こんなに大人しそうなのに」
「だから危険なんだ」
「少佐って犬に詳しいんですね」
「詳しいってほどではないが、昔飼っていたからな」
「わたしもド―ベルマンとシェパードを飼ってましたよ。屋敷の周りをウロウロしてました」
「それは警備犬だろ?」と笑う彼にカーリンがぺろりと舌を出した。そのあと、大型犬は積極的に触れ合うカーリンより頭を撫でるだけのアレックスになついたものだから悔しかったのを覚えている。
「おねえちゃん、お腹痛いの?」
心配そうに訊く少女の声で回想から醒めた。
「痛くないよ。なんで?」
「だって、泣きそうな顔してるもん」
少女に悟られるほど表情に表れていたらしい。
「大丈夫だよ。ほら」と笑ってみせると彼女も笑顔になった。
やがて、犬のアレックスを連れて帰っていく少女と入れ違いにフィリデオが小走りで駆けつける。
「ごめん、待った?」
「遅いよ。わたし達は時間にうるさいんだぞ」
「遅刻常習犯がよく言うよ」
カーリンが笑うとフィリデオが手を繋いで指を絡めた。驚いて彼を見やると目を細めて微笑んでいる。
フィリデオは容姿性格ともに申し分ない男性だ。きっと恋人としても最高だろう。だけど、いくら素敵な男性が傍にいてもカーリンの心は傾かない。
まるで、別れたあの日から時が止まっているみたいだ。
失恋を忘れるには新しい恋をすること、と同期の女子が語っていた。今よりももっと深い恋をすればいいのだと。
― もうあんな恋はしないだろうなあ。
相手を想うだけで胸が苦しくなる。そんな経験は初めてで、これ以上の恋はないと決めつける自分がいた。
「ごめん」
フィリデオには申し訳ないという気持ちが口からこぼれた。
「まだフィリデオと向き合えない」
「焦らなくていいよ。いや、ちょっと焦ってほしいかな?」
冗談めいてさりげなく本音を織り交ぜる彼は気負いなくいい。こうして、少しずつフィリデオで心が満たされてアレックスを忘れていくのだろうか。
秋の風が二人の間を吹き抜けて枯れ葉が舞う光景をしばし眺めていると、握った彼の手に力がこもった。
アレックスよりも細い指に繊細な力加減、いけないと思いつつ二人を比べる。
「カーリン」
「うん?」
「付き合ってほしい所があるんだ」
そう言ってカーリンを車に乗せた。
街を通り抜けて閑静な場所へとやって来た。やがて、車は教会の前へ停まると二人は降りてそれを見上げる。
「へえ、フィリデオは教会に興味があるんだね」
「興味ってほどでもないけど、これから必要かな?」
「何に必要なんだ?」
怪訝そうなカーリンにフィリデオが静かに微笑んだ。
「結婚しようか?」
突然のプロポーズだった。
あまりにも唐突過ぎてカーリンは唖然としてすぐ反応できない。
「……え?」
「随分急だけど、僕はずっとこの日を夢見てきた」
まるで魔法にかかったかのように、熱く語る彼から目が離せないでいた。
「君の気持ちが僕にないのは知っている。だけど、一緒にいればいつか愛情も芽生えるんじゃないかな」
そんな確信もない話をフィリデオが本気で信じているのか図れない。一生互いに気持ちが通じずに過ごすことだってあり得る。俗っぽい言い方をすれば『愛のない結婚』といったところだろう。
片想いが一生続くなどカーリンには耐えられない。
「それでフィリデオはつらくないのか?」
「カーリンがそばにいないよりはずっといいよ」
フィリデオは本気だった。自分と同じグリーンの瞳が返事を促す。
「返事は今すぐじゃなくていいから」
カーリンは頷いてみたものの頭が真っ白になって何も考えられないでいた。
手にはアレックスの履歴を削除できなかった携帯電話。
決断の瞬間にカーリンの鼓動は速さを増した。




