逢いたい夜
部隊勤務にだいぶ慣れてきた……と言いたいカーリンだが、デスクワークは相変わらず苦手だった。体を動かす職種を希望していたが、よりによって不得意のこれである。
直属の上官であるランディは失敗は厳しく責めないが、さりげなく毒舌で窘めた。
「リヒター・ド・ランジェニエール伍長、ちょっといい?」
フルネームで呼ばれると要注意で、この辺りは教官だった頃のアレックスと似ている。
「はい。なんでしょうか?」
「これなんだけど、項目がずれているよ」
「本当ですか!! すぐやり直します!!」
「そうしてくれると助かるなあ。しかも大至急」
「了解です!!」
ランディからファイルを受け取ると、慌てて訂正に取り掛かった。
― やる気はあるんだけどなあ。
やる気と実績が比例しない彼女に、ランディは苦笑いで見守っている。
親友の大切な恋人を預かる身としてつい気に掛けてしまうが公私混同はしないつもりだ。だから仕事も厳しくいくのだが全てにおいて全力投球のカーリンに、アレックスが言ったことを思い出す。
『一生懸命な彼女を見ていると、つい手を差し伸べたくなるんだ』
― なるほどね。あのミュラー少佐も夢中になるはずだよ。
形のいい眉を寄せてパソコンと向き合っている彼女にほくそ笑んだ。
今日のカーリンはいつになく不調いや乱調である。原因はもちろんアレックスだ。サプライズの公園デートといい、この間の電話といい声や表情が沈んでいたのが気になる。
向こうは大人だから自分で解決するだろうが、やはり相談はしてほしい。大して役に立てないかも知れないが、一緒に悩んで笑顔が見てみたい。
「珍しく食べていないじゃない?」
食堂で昼食を取ろうすると、チェリーが向かいに座った。
「心ここにあらずね。また、ヘマした?」
「それはいつもなんだけどさ……」
いつもなのかい!? と突っ込みたかったが、カーリンが浮かない顔だったので口をつぐむ。
彼女が沈んでいる時は、大抵仕事で失敗したかアレックス絡みかこの二択に限られていた。
「また教官とケンカした?」
「またとはなんだ!! ケンカはしてないよ。ただ、様子が変だから……」
「ふうん。どんな風に?」
チェリーが訊くと、カーリンはフォークを置いてため息交じりに呟く。
「この間、電話で話してたら少佐のどこが好きかって訊かれたんだ」
「それって、ただののろけ?」
やっぱり訊くんじゃなかったとチェリーが後悔しかけていると、カーリンが首を左右に振った。
「そういう雰囲気じゃなくて、思い詰めた感じだったんだよ」
意外だった。
あの天然で鈍感なカーリンが、ここまで人の感情に敏感になっていたとは。専ら、恋人の上官限定だろう。
ー へぇ、大した進歩ね。
感心はさておき、問題の究明へと取り掛かる。
「仕事が忙しくて疲れたとか? セドリックも大変らしいし」
「そっか」
ここは友人のために一肌脱いでセドリックに探らせようかと考えたが、チェリーもまた彼の機嫌を損ねたばかりで躊躇っていた。
一方カーリンもセドリックを通してアレックスの様子が知りたいと一瞬思ったが、在学中にいろいろあった彼に頼むのも憚られる。
結局、食事そっちのけで二人暗い表情でいると、ワイワイと賑やかな声と共に三人の女子がやってきた。
「ねえ、あなた達シャトレーズ出身?」
「そうだけど」
チェリーは素早く記憶のリストと照合したが、どうやら同じ学校ではないようだ。あっという間にカーリンとチェリーを取り囲んで座っている。
「あなた達がミュラー少佐の班だったんでしょう?」
女子の一人から突然アレックスの名が出て、カーリンの心臓が飛び跳ねた。
「なんで知っているんだ?」
「有名な話よ。落ちこぼれ……」と言い掛けて女子がはっとして慌てて言い直す。
「そこそこの班をわずか半年足らずで、卒業試験を準優勝までさせたんですもの」
「さすが『フラッツェルンの英雄』よねえ」
何気ない彼女等の言葉がカーリンの胸に引っ掛かった。
私は英雄などではない――――
会って間もない頃に、寂しげな表情を見せたアレックスを思い出すと今でも胸が痛い。
「ミュラー少佐ってカッコいいけど、なんだか冷たそうよね」
「そうそう。容赦ないって感じ」
― 少佐のこと、何も知らないくせに。
カーリンのただならぬ空気を察知したチェリーがフォローに回ろうとしたが、カーリンは「仕事があるから」と静かに立ち上がった。
皿の載ったトレイを持ってその場を離れるカーリンをチェリーも後を追っていく。残された女子達は唖然として二人を見送る形となった。
「気にすることないわよ」
チェリーにしてはしおらしく慰めと、カーリンは小さく笑った。
「ありがとう。大丈夫だよ」
先ほどの女子を責める気にはならない。たまたまアレックスの教え子だったから知り得た心情で、もし関係なかったら自分も同じように思っていたに違いないのだ。
彼のさりげない優しさとか知る由もなかっただろう。
その日の夜、カーリンは電話を掛けたがいつもより長めにコールしてアレックスが出た。
「こんばんは」
『カーリン、どうした?』
「もう寝てましたか?」
『いや。今、仕事が終わって部屋へ戻ってきたところだ』
「ごめんなさい。大した用じゃないので切りますね」
『構わんよ。なに?』
アレックスが傍にいる錯覚を覚えながら、カーリンはベッドへ潜り込む。低く澄んだ声はいつ聞いても心地いい。
電話片手に動いているのか、向こう側で色々な音が聞こえてきた。部屋を歩いている音、ドアを閉める音、そしてネクタイを外す音。
今日は軍服着用の勤務だったらしい。脳裏に浮かぶのはフラッツェルン慰霊祭での礼服の彼である。凛々しくも寂しげな姿が目に焼き付いて離れない。
短い沈黙に、アレックスが悩みはないかと訊かれて一瞬ドキッとした。
― 少佐はわたしのことをお見通しなんだな。
教官だった頃もそうだった。ちょっとした表情の変化で見抜いてしまう彼にどれだけ助けられたことか。
― 今すぐ逢いたいと言えば来てくれますか?
仕事を終えて私室へ帰ってきたところに、アレックスの携帯電話が鳴った。この時間に掛けてくる人物は一人なのだが、なかなか電話を取ることができずにいる。
いつもなら四回くらいのコールで一旦切れるのだが、今回は長かった。こういう時は、心の変化があったのだと決まっている。
ようやく電話を手に取ると、受話器の向こう側でほっとした声が聞こえてきた。
『こんばんは』
必ず挨拶で始まるカーリンの会話。その第一声でだいたいの感情は掴める、今日は沈んでいた。
今帰って来たと告げると、気遣って早々に電話を切ろうとする彼女に話を促す。電話片手に、部屋の灯りを点けたり軍服を着替えたりと少々慌ただしいが大目に見てもらいたいところだ。
カーリンが沈黙して、しばらく間が空いた。
「どうした?」
訊いた後にひどく後悔する。用がなくても恋人の声が聞きたい時もあるのだと無粋な自分に心の中で舌打ちした。
何から話せばいいのか、会話の引き出しを探るも気の利いた物はなく憮然とする。
「悩みがあるなら話してくれないか?」
すると彼女は『ミュラー少佐』と改まった呼び方をしたので、思わず身を正してしまった。
『ううん、声が聞きたかっただけです。お休みなさい』
精一杯の笑顔をしているのだろうか、明るさに無理がある。
― 今すぐ逢いたいと言えばお前を困らせるのか……。
二人は窓へ歩み寄ると同じ星空を見上げるのだった。