ゴシップ その1
待ちに待った約束の日、カーリンはこういう時だけ早起きする。
宣言通り、有能な部下に仕事を押しつけてきたのかデートのキャンセルはなかった。
お目当てのケーキ屋は互いの中間地点にあり、電車でいけば駅の改札口から出てすぐの所だ。
自分なりにお洒落したカーリンが部隊の外へ出ると、クラクションを鳴らされて振り向く。
「おはよう、カーリン」
「フィリデオ、どうしてここに?」
赤いスポーツカーの窓から顔を出したのはフィリデオだった。
「君をデートに誘おうと思ってね。今から出掛けるの?」
「あ、うん。少佐と会う約束をしているんだ」
隠す必要はないが、なぜか罰悪さに彼から目を逸らしてしまう。
「だったら、送っていくよ」
「いいよ」
「心配しないで。送り届けたら退散するから」
にっこりと笑うフィリデオに何も言えなくなり、助手席へ乗り込んだ。
アレックスの車以外、助手席へ座ったのは初めてでカーリンはどうも落ち着かない。スカートの端を握り締めたかと思うと手遊びを始める。
「他の男の車に乗ったら彼に叱られる?」
「そんなことはないけど」
「それにしても残念だな。せっかく休みをもらったのに」
「フィリデオが急に来るからだよ。前もって連絡してくれれば……」
「デートしてくれた?」
語尾を重ねてきたフィリデオに、カーリンは慌てて訂正した。
「連絡してもデートはできない。おしゃべりはいいからちゃんと運転しろよ」
「はいはい」と笑いながら前を見る彼とアレックスをそっと比べる。
滑らかな曲線で形成されている輪郭と堀が深い精悍な顔立ち、長くすらりとした指と節が太い長い指、凛とした澄んだ声と低く通る声。
すべてが正反対の二人。
アレックスと出会わなければ、婚約者としてフィリデオを選んでいただろうか。禁断の選択をカーリンは慌てて頭から追い払った。
― たとえ順番が違っていても、わたしはミュラー少佐を好きになる。
車窓から見える風景は、まるでカーリンの心のように流れていく。
予定より三十分も早く着いて、カーリンは車から降りた。
「ありがとう。お陰で助かったよ」
「デート、楽しんできて」
街へ消えていくカーリンを見届けていたフィリデオだが、ルームミラーに映った異変に慌てて車を降りる。
「カーリン!!」
大声で叫ぶ彼の声は複数の悲鳴でかき消された。ふらりと路上に飛び出した男の手には刃物が握られて、地面に転々と血が滴り落ちている。
虚ろな目で突然刃物を振り回して、通行人に襲い掛かり辺りは阿鼻叫喚と化した。
やがて、男の視線はカーリンを捉えたが彼女は逃げようとはしない。休日とあって幼い子を連れた家族が多く、ここで食い止めなければ更なる犠牲者が出る。
軍人としての使命感か、真っ直ぐに見据えてすっと身構えた。
その態度が刺激したのか、男は発狂しながらカーリンに突進してくる。セカンドバッグを盾にして、男の攻撃を交わして反撃のチャンスを待った。
相手は薬物中毒らしく型にはまらない動きに苦戦する。
馴れないパンプスのせいで、カーリンは石畳のくぼみに足を取られて体勢を崩した。そこへあの男が刃物を振り上げる。
逃げ惑う人々に逆行してフィリデオは彼女の元へ駆けつけた。
「カーリン!!」
二人の間に割って入ったフィリデオの右腕に鮮血が散る。
「つっ!!」
焼けるような痛みに顔が歪んだが、彼女の前から離れなかった。
「こいつ!!」
怒りに任せたカーリンの肘鉄が男の顔にめり込むと再び鮮血が舞う。淡い色の服に返り血が飛んだが、構わず更にみぞうちへ膝蹴りを食らわした。
「ぐわっ!!」
男が血を吐いて地面にひれ伏したところへ、ようやく警察官が取り押さえる。
「フィリデオ、血が!!」
カーリンはハンカチを取り出すと、フィリデオの上腕部にきつく結んだ止血した。
「ごめん!! わたしのために!! ごめん!!」
泣きながら謝る彼女の頬に手を添える。
「このくらい大丈夫だよ。さすがに痛いけどね」
「ごめん!!」
「僕は大丈夫だからデートに行きな」
「こんな時になに言ってるんだ!! フィリデオを置いていけないよ!!」
救急車が到着してフィリデオは隊員に付き添われて立ち上がった。返り血を浴びたカーリンも負傷したと思われて一緒に乗り込む。
急な仕事が入ったアレックスは、少し遅れて待ち合い場所へ来たが普通でない光景に言葉を失った。
駅周辺は黄色と黒の規制線が所々に貼り巡らしている。事件から一時間近く経った今でも、報道関係者や警察、野次でごった返していた。
街の名物となっている石畳には、真新しい血がこびりついてアレックスを動揺させる。
携帯電話を取り出して、カーリンに連絡を取ってみたが繋がらない。
― まさか事件に巻き込まれたのか!?
掛けている最中も大勢の人間の中から彼女の姿をくまなく捜した。
「しかし、凄かったな。あんな綺麗な娘がなあ」
「なんでも軍人だったらしいぜ」
野次馬の会話にアレックスが素早く反応する。
「彼女は無事なのか!?」
突然襟首を掴む彼に、二人は驚いてすぐに声が出なかった。
「無事かと訊いているんだ!?」
鬼気迫る形相に、一人の男がぎこちなく頷く。
「あ、ああ。庇った男が怪我をしたがな」
乱暴に男を放すと、急いで人垣から抜け出してカーリンに電話を掛けた。長いコールに焦りの色が濃くなる。
― 頼むから出てくれ!!
だが、アレックスの願い虚しく留守を告げる自動音声に切り替わった。
救急車で最寄りの病院に運ばれたフィリデオはすぐに処置室へ入っていった。治療の間、カーリンは廊下をウロウロと歩き回ることで平静を保とうとしている。
やがて、ドアが開くと右腕の包帯を巻いたフィリデオが現れた。
「傷はそんなに深くないので心配ありませんよ」
医者の説明にカーリンはまた涙する。
「よかった。本当によかった」
「大袈裟だな、カーリンは」
「それにしても」と彼女の格好にフィリデオは苦笑した。せっかくのデートだというのに、お洒落な服は血しぶきで汚れて切り裂かれている。おまけに片方の足は靴がない。
「デートが台無しだな。ミュラー少佐が見たら卒倒するよ」
本当は斬られた傷が痛むのに、無理して笑うフィリデオが痛々しかった。
「もし、フィリデオがわたしを送らなかったら、こんな目に遭わなかったのに」
「それは結果論だよ。君のせいじゃない」
カーリンが彼の胸に額をこつんと当てる。恋人より怪我をした自分を選んだ彼女の優しさがたまらなく愛しい。
― やっぱり、君は誰にも渡さない。
抱き締める腕にそっと力をこめた。
アレックスは警察から事情を聞いて、ようやくカーリン達がいる病院を突き止めた。待合室でそれらしき人物を見掛けて声を掛けようとした時だ。
二人抱き合っている光景にアレックスは唖然とする。
立ち尽くす彼に気付いたのはフィリデオで、カーリンの耳元に何かを耳打ちした。
「ミュラー少佐」
こちらへ振り向いた彼女の顔色は真っ青で、頬は涙で濡れている。
「無事だったんだな」
「わたしは大丈夫です。でも、代わりにフィリデオが怪我をして」
改めて見る彼の右腕には包帯が巻かれていた。
「もう行って」
「でも……」
「ぼくの方ももうじき迎えが来る。ミュラー少佐、カーリンをお願いします」
フィリデオが渋るカーリンの背中を軽く押す。アレックスが彼女の肩を抱いて入口へ歩き出すと、カーリンは何度も振り向いた。




