9月22日 1
陽翔はオッサンのことを忘れようと決めた。あれが奈緒たちのいう「茂みのオッサン」なのかは分からない。だけど、これ以上関われば、何かロクでもないことになる。そんな予感がしていた。それに、いずれは両親を巻き込んでしまいそうだ。大事になるのも、家族に迷惑をかけるのも、陽翔は嫌だった。
それでも時おり、陽翔の脳裏に突然オッサンの顔が浮かんでくる。それは忘れようとすればするほど鮮明に、授業中も食事中も、夢の中でも突然にやってくる。そのたびに、陽翔は大声で叫びそうになるのを必死で堪えるのだった。ロクに眠れない日々だった。
今日は学校が休みだった。創立記念日なのだ。秋分の日と連休になるので、毎年この日が近づくとクラスの連中は浮かれている。が、陽翔は未だにクラスで気まずい状況が続いていた。もちろん、孝弘とも話せていない。悶々とベッドの上でゴロゴロしていたが、ちょっと気を抜けばあの顔が瞼の裏に現れる。陽翔は「クソッ」と一つ呟くと、ベッドから飛び起きた。
「ちょっと走ってくる」
台所で用事をしていた母親に声を掛けると、陽翔は家を飛び出した。
少し走ってから、陽翔はふと気付いた。
――こっちは、ダメだ……
何も考えずに走り出したのがいけなかった。それはあの空き地へ向かう道だったのだ。陽翔は咄嗟にブレーキをかけると、逆方向に走り出した。それからは無心で走った。最近ようやく残暑が和らいで、秋風が頬に心地いい。夢中で走る。向かい風に吹かれて、嫌なことが体から離れていくような気がした。
気が付くと、陽翔の目に大きな建物が入った。町の図書館だ。涼しくなったとはいえ、ずいぶんな距離を走ってきた陽翔の体は火照り切っていた。本に興味のない陽翔は図書館に行ったことがなかったが、きっと中は空調が効いているはずだ。それに……
陽翔は少しだけ期待していた。孝弘が図書館によく行っているのを知っていたのだ。可能性は低かったが、もし孝弘が中にいるのなら、話をする機会になるかもしれない。クラスメートの目がある中では気まずくて出来なかったが、二人きりなら孝弘にきちんと謝ることが出来るかもしれない。そんなことをふと思ったのだ。何にしてもちょっと涼もうかと、陽翔は脚を止める。
その時……
陽翔は背筋に冷たい鉄の棒を差し込まれたような感覚に襲われた。彼の目に、信じられないものが飛び込んできたのだ。今まさに、図書館に入ろうとする、人影。足を引きずりながら自動ドアをくぐるその人物の顔は、明らかに……
「オッサンだ」
陽翔は思わず呟いていた。無意識に、彼の足は動き出していた。
雑木林で見たオッサンとは服装が違っている。季節外れのよれた赤いトレーナーに擦り切れたズボン。雑木林で見たスーツとは違う。何となく、背丈も低い気がした。だが、あの恐ろしい、崩れかかった死人のような顔を見紛うはずはなかった。
陽翔は男の後を追って図書館に入った。途端、据えた臭いが鼻を突く。ロビーに並べられたソファに、薄汚れた服を着た老人たちが座っていた。
――ああ、そういえば……
この町の図書館はホームレスや貧困老人の溜まり場になっているという話を聞いたことがあった。特に暑い季節は空調を求めてやってくる人が多いのだと。残暑が和らいだとはいえ、ソファはぎっしりと埋まっていた。
陽翔はソファに座っている老人たちを見渡す。皆が皆、魂が抜けたような伽藍洞の表情をしている。きちんと洗濯された服を着た者を見つける方が難しいくらいで、どの顔も黒く薄汚れている。特にホームレスと思しき人たちの顔は、全てがあのオッサンと同じように見えた。だが、どの顔もやはりあの顔とは違っていた。赤いトレーナーも茶色いスーツも見つからなかった。
陽翔はゲートをくぐり、図書館の中を探し回った。本棚の間も、休憩用の椅子も、閲覧用の机も……しかし、ついに男を見つけることは出来なかった。
「ちくしょう! どこだ!」
急速にもどかしさが募り、陽翔は思わず叫んでいた。自習をしている高校生や、本を読んでいた人たちが一斉に陽翔を見る。だが、そんな視線に全く気が付かないほど、陽翔は冷静さを失っていた。
「どこだ! どこに隠れたんだ、オッサン! 姿を現せよ! ふざけんなよ! 俺の学校生活、お前のせいで滅茶苦茶なんだよ!」
辺りかまわず喚き散らしながら、少年は周囲にあった本棚や椅子に当たり散らした。しばらくもしないうちに職員が飛んできて、陽翔は取り押さえられた。
大柄な男性職員に羽交い絞めにされても、陽翔はしばらくジタバタしていた。だが、
「こっちに来なさい。ちょっと話を聞くから!」
痺れを切らした男性職員が非行少年を抱え上げ、どこかへ連れていこうとするのを察して、陽翔の怒りは急速に醒めていき、代わりに恐ろしい勢いで後悔が襲ってきた。
――何やってんだよ、俺。こんなことして、警察でも呼ばれたら……
両親の顔が頭に浮かんで、陽翔は泣き出しそうになった。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません、もうしません」
陽翔の口が壊れたスピーカーのように謝罪を垂れ流し始める。だが、羽交い絞めの力が緩む様子はなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お願いします! 誰にも言わないでください! お願いします!」
陽翔はとうとう泣き叫び始めた。じたばたと手足を振り回し、虚しく拘束を逃れようとする。男性職員は困惑した顔で他の職員に助けを求め、周囲からはひたすら好奇の視線が降り注いでいた。
「あ、あのう……」
喚く陽翔の耳に、聞き馴染みのある声が聞こえた。
「そ、その子、僕の友達なんです。その、は、離してもらえませんか?」
陽翔は恐る恐る声の主を見た。俯き加減で懸命に言葉を発していたのは、孝弘だった。
――え、孝弘……?
陽翔が唖然として見つめる先で、孝弘はブルブルと震えていた。
「いや、君。友だちといってもね……」
職員が困った声で言うと、孝弘はおずおずと顔を上げ、陽翔と職員の顔を交互に見た。
「は、陽翔くんはとても良い人なんです。と、友だちのいない僕とも、その、あ、遊んでくれるんです。でも、最近学校で嫌なことがあって、ちょっとイライラしてたんだと、その、思います。だから、お願いします」
孝弘が訥々と声を振り絞るたび、場の空気が変わっていく。職員は困り切って、周囲を見渡す。知らないうちに、二人の少年に対して同情の目が向けられていた。それどころか、幼い少年を羽交い絞めにしている男性職員を非難の目で見る者さえいた。職員はバツが悪そうな顔で一つ咳ばらいをすると、陽翔の体を地面に下ろした。
「今日はお友達に免じて許しますが、以降はあんなことしちゃダメですよ。図書館は静かに利用してください」
職員はそれだけ言うと、受付の中に戻っていった。
陽翔と孝弘は、図書館前のベンチに座っていた。
陽翔は情けない思いでいっぱいだった。その実、陽翔は孝弘が図書館に通っているという話を聞いて、
「あんな馬鹿、図書館に行って何するんだよ。現にいくら通っても勉強できないままじゃん」
内心、そんな風に思っていたのだ。だが、そんな孝弘に今日、陽翔は助けられた。あんな大きな男の人を前に、震えながらも、堂々と話をして。
――それに比べて、なんだよ、俺は……
二人の間を秋風が縫っていく。何とも気まずい空気の中、二人は長いこと押し黙っていた。
「そ、その……」
最初に口を開いたのは孝弘だった。
「ご、ごめんね。陽翔くん」
陽翔は唖然とした。責められるならともかく、なぜ謝られるのか分からなかった。
「ぼ、僕、すごく鈍いから、き、気付けなくてごめんね。あれからか、考えたんだけど、あのとき、ボールを、その、探しに行かなかったのは酷いことだったし……」
そんなこと、もう気にしてない。陽翔は奥歯を噛み締める。上手く言葉が出てこない。
「し、小テストのことだって、ぼ、僕はたまたま満点を取れただけで、その、陽翔くんはいつでも頑張ってるのに、その、僕はみんなにチヤホヤされて、嬉しくなっちゃって。生意気なこと言って、ごめんなさい。それに、それに……」
懸命に言葉を紡ごうとする孝弘を、陽翔は抱きしめた。
「もういいんだよ! こっちこそ、こっちこそごめんな! ごめ、ごべんだあぁぁ!」
陽翔はなりふり構わず泣き喚いた。涙も鼻水も止められなかった。孝弘がそっと陽翔の背中に手を回し、子どもをあやすようにポンポンと背を叩く。それがより一層心を抉って、陽翔の泣き声はさらに大きくなった。
しばらくして陽翔が泣き止むと、また少し気まずい空気が流れた。またしても先に口を開いたのは、孝弘だった。
「よ、良かったら、久しぶりにウチにこない?」
陽翔はまた少しだけポカンとしていたが、やがてニヤリと笑い、二人は静かなハイタッチをした。