気づかない幸せ
一方その頃です。
緊急事態に人が出払っているアラクネスートの拠点。
人気の感じられないその一角にカチャカチャと何かがこすれるかのような音が聞こえており、その音の発信源で赤いフードの女が刃物を持ってナナシノに迫っていた。
「そう怪我をしたくないのなら騒がず言う通りにしなさい」
「はい…」
「そう、そのまま。大丈夫よ、言う事を聞いていれば大事にはならないわ」
「…了解です」
ナナシノの手は恐怖を感じているかのように細かく震えていて…刃物が振り下ろされた。
「そう!うまいうまい」
「ほっ…ありがとうございます」
綺麗に輪切りにされた果物を前に赤いフードの女が包丁を片手にぱちぱちと拍手をし、ナナシノは果汁で濡れた包丁を置いて汗を拭った。
そこは屋敷にある厨房…赤いフードの女とナナシノは二人で肩を並べて料理をしていた。
「包丁は結構使ったことあるって話だったけど、まだまだだね。あとは残った切れ端をさらに細かくするの」
「ほほう…いえまさか包丁に突き刺す以外の使い方があるとは夢にも思わず。勉強になりますです」
「なにそれ…っとそれじゃあさっき作った甘いお水に果物をどざーって入れて」
「どざー」
「はいお上手。それはしばらく冷やして寝かせておいて…んじゃ次は生地ね。この粉をばさーと入れてお水をどじゃーと」
「ふむふむ」
赤いフードの女が口頭で手順を説明しながら軽く実演をし、それをナナシノが真似をするという形で二人の料理…お菓子作りは進んでいく。
何故二人がこんなことをしているのか、それは数十分前に遡る。
────────
曲がり角から突然現れた赤いフードで顔を隠した女の登場にナナシノは一歩後ずさった。
しかしそれは恐怖と言う感情からではなく、知らない人に出会って声をかけられたからどうしていいのかわからなくなったからだ。
むしろ自分でも不思議なほどナナシノはフードの女に対して恐怖心は感じず、何故か親近感のようなものを感じていた。
「逃げないでも大丈夫よ。私はあなたに対して不利益をもたらす者ではないから」
「…そうなんです?」
「そうなんですよ。今日この場所から人がいなくなるのは分かっていたから「いい事」を教えてあげようって思ってね」
「いい事、ですか…?」
「そう。お菓子作りってしたことある?」
フードの女は手に持っていた大きな袋の中から手作り感のあるクッキーを取り出してナナシノに手渡した。
「これは…?」
「食べてみて」
促されるままにナナシノはクッキーを口にした。
サクサクとした触感と共に弾力のある別の触感が混じっていて、人工的な計算された甘さと共に柑橘系の香りとさっぱりとした自然の甘みが同居していて贅沢なおいしさを演出していた。
「おいしい…です」
「でしょう?それの作り方を教えてあげる。実はねそれ…」
赤いフードの女の女はナナシノの耳元に顔を近づけると「──ユキノちゃんの好物なんだよ」と囁いた。
────────
かくして誰もいない厨房でお菓子作りを始めた二人は、ナナシノのおぼつかない手つきを考慮しても順調といえるほどうまく工程を進めていた。
そんな中、手を止めずにナナシノがふと口を開いた。
「あの」
「うん?どうしたの、どこか分からなかった?」
「いえ…あなたはその…ユキノさんのお知り合いなのですか?」
ピタリとフードの女の手が止まる。
その様子に何かいけないことを聞いてしまったのだろうかと心配になったナナシノだったが、何事もなかったかのようにフードの女は作業を再開した。
「知り合いと言えば知り合いかな~。前に一度だけ会ってるんだよ」
「そうなんですね。今作ってるクッキーがユキノさんの好物だってその時に教えてもらったんです?」
「うーん…そういうわけじゃないのだけどね。まぁでも大丈夫だよ絶対に美味しいって食べてくれるから。信じて信じて」
「疑ってるわけではないですので」
しばらくは無言での作業が続き、記事を焼くという段階に入る。
パチパチと燃える薪がくべられた窯の中で焼かれていく生地を二人で眺めながらゆっくりと時間が流れていく。
釜を使っているためか熱が厨房内に籠りはじめ、フードの女がフードの下に手を入れて汗を拭う。
「…それ脱がないんですか?」
「うん。脱がない」
「なぜです?」
「顔を見られたくないから」
「そうですか」
そう言われたらもう何も言えないとナナシノはフードに言及することを辞めた。
そしてまた無言の時間が訪れる…かと思いきや次は自分の番だとばかりにフードの女が口を開く。
「ねね」
「はい?」
「今楽しい?」
「お菓子作りがですか?どうでしょう…まだよく分からないです」
「そうじゃなくて今の暮らしがってこと」
「うーん…どうでしょう?少なくとも辛くはないですが」
そっかそっかとフードの女は闇の奥の見えない顔でかすかに笑う。
「そうだよねぇ。今が幸せかどうかなんて知らない明日で不幸にならないとわかんないもんね。だから案外人というものは不幸だとも思わず幸せだって自覚していない瞬間が一番幸せなんじゃないかって思うんだよね」
「ふむぅ…?」
フードの女はナナシノに手を伸ばすと、その頬を優しく撫でまわす。
その行為にどんな感情が込められているのか…ナナシノには推測することすら出来ない。
「まぁ大丈夫大丈夫。あなたはこうやってクッキーでも作りながら自覚のない幸せを過ごしていればいいよ。この場所に「毒を飲んだ眠り姫」はいないから…怖い狼が不幸な明日を連れてくる前に全部を終わらせてあげる」
「えっと?」
「ただ一つだけ気になるのは…ねぇあなたはユキノちゃんの右手について何か知ってる?」
「ユキノさんの右手…」
ナナシノの脳裏に浮かぶのはスノーホワイトとユキノが呼ぶ異形の右腕。
今までそう言うものだと疑問を抱いたりはしていなかったが、問われてみると確かにアレは一体何なのだろうかと疑問に思う。
そしてそれはナナシノが「普通」や「常識」というものをわずかながら知り始めたという事でもあった。
普通を知ったから異常だと思える。
ユキノのそれは普通とはかけ離れた異常な何かだ。
そしてそれが何なのか…ナナシノは何も知らない。
「そっか…まぁたぶん何か「歪み」のようなものが出てきてるだけだとは思いたいけれど…っと、そろそろクッキーを出さないと焦げちゃうね」
「あ、はい」
話を打ち切るようにフードの女が立ち上がり、釜の火を消していく。
ナナシノも同じように立ち上がりクッキーを乗せる皿を用意するためにパタパタと戸棚を探っていて…だから漏れ出た小さな呟きを聞くことは無かった。
「スノーホワイト…私はあなたの存在を絶対に認めない。なにもかも「ここ」で終わらせてみせる。あなたが眠る冬なんていらないのだから」
包丁に食材を切るという使い道がある事を知ったナナちゃんさん。




