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遊史のワイシャツの見えないところを選んで、口紅を付けた女だ。
遊史が、他の女のものだとわかってて、わざわざ波風をたてるようなことをする。
あいつなら、匂いの強い香水を服にすりつけたり、自分のイアリングをポケットに忍ばせたり、遊史の家庭をもめさせたいという馬鹿げた理由だけで、やりかねない。
しかし、そのことで、遊史は、散々、向こうの両親に非難されたのだという。
遊史をとことん攻撃した挙句、強引に、離婚させると言って、香子を実家に連れ帰ったのだ。
何度か、誤解を解こうと努力はしたが、両親は、二度と遊史を香子に会わそうとしなかった。
しかし、しばらくすると、香子の兄が連絡をとってきた。
香子の両親は、香子の話をうのみにして、激昂していたが、香子の様子があまりにおかしいことに、ようやく気付いたらしい。
話がコロコロ変わる。一方通行で通じない。会話のキャッチボールができない。事情をきいても、要領を得ないし、ずっとしゃべっていたかと思ったら、突然、会話が止まる。
遊史の浮気を責めていたかと思えば、あんな優しい人はいない、あの人の為に子どもが欲しかったと泣く。遊史が、香子の為に、買ったばかりの家を手放そうと言ったのに、自分が、子どもをつくるまでは、絶対に離れないと言いはったことも告白した。
香子の兄は、香子の両親ほど、盲目的ではなかった。香子がおかしいことがわかっても、未だ浮気は疑っている両親とは違い、遊史の言い分も認めた上で、それでも、お願いしたいと離婚届を持ってきたのだ。
向こうの言い分は、香子が、妄想にしろ何にしろ、浮気を信じている以上、遊史と一緒にいることは、香子にとって、苦痛でしかない。
更に、子どもができない状況は、遊史に対する負い目になっている。
子どもができさえすれば、全てが、上手くいくと信じて、それ以外のことは、ずっと我慢していた。
我慢しないといけないという強迫観念から逃れることができないでいる。
病気のせいもあって、香子の中で、いろんなことが、絡まって、がんじがらめになっている。
全てを切り離して、香子を楽にしてやりたいと、いうことだった。
勝手な言い分だが、親ならば、わが子可愛さの当然の論理なのかもしれなかった。
「わかってもらえたんだ。良かったんじゃないか?」
一樹が言うと、遊史は、小さく首を振った。
「離婚届を、渡したあと、義兄さんから、自治会での香子への嫌がらせの原因を聞いた。俺には、ずっとわからないで通してたのに。」
「香子さんが、言ってたストレスのきっかけか?」
遊史は、うなだれるようにうなづいた。
「悪口だよ。だんなの悪口を言うことで、コミュニケーションをはかっていたんだ。あの主婦たちは。なのに、香子は、どうしても、俺の悪口を言えなかったそうだ。」
「ああ…。」
そういう人だったんだ。
「嘘でもいいから、俺を利用して、上手く立ち回ればいいものを、どうしても、俺の悪口が言えなくて、一部の主婦の反感をくらったらしい…。」
遊史から見える香子像が、一樹にも何となく見えてきた。
「ほんと、不器用なんだ…。まともにぶつかってしまう…。」
どうして、遊史が好きになったのかも、わかってきた。
「そういう奴なんだ。」
不器用なくらい、正直で、真面目な子だったんだろう。
遊史のことが、本当に好きだったんだ。
「それなのに、俺は…。」
遊史は、頭を抱えた。
「俺は、離婚届を渡した時、正直、ホッとしたんだ。」
遊史の表情は見えないが、悲痛な声だった。
「二人で解決したいとも、香子を待つとも、言えなかった。自信がなかったんだ。今の香子と一緒にいる…。それに…。」
遊史の声が、更に小さく、か細くなった。
「俺が、俺自身が、楽になりたくて…。」




