第五話 涙の理由
私が振り向くと、桜が血を流しながら立っていた。
「桜…?」
顔を覗こうと近づく。
(あれ?)
ふと歩みを止め、身構える。
なんで息をしてないの?
しかも…
「さささ…さくっ桜!?お腹が…」
桜の腹からは、腸がダラリと垂れ下がっている。
なのに桜は平然としている。
どう考えても、おかしい。
突如、吐き気がこみ上げてきた。
刺激が強すぎる。
私は思わずしゃがみ込み、吐いた。
後で、姫璃も吐いているらしい。
苦しそうな呻き声が聞こえる。
海斗は…知らない。
「はぁ…はぁ…はぁ…桜?なんで…」
桜を見上げると、感情のない顔が私を見た。
「そんな怪我をして…なんで…平気な顔してるのよ!」
桜はピクリと耳を動かし、口を薄く開けた。
ドカンッ!
「ぅぐっ…カハッ!」
いきなり私を押し倒し、首を絞める。
床に倒され強い衝撃が私の背中に響いた。
今の衝撃で、肺から空気が全て無くなった。
「翡翠ぃいいいい!!」
「河野っ!!」
二人の叫び声が聞こえる。
ギリギリと首を絞めてくる手を、なんとか引き剥がそうと、もがく。
手を剥がそうとするが、絞める力が強くなるばかりで、効果はない。
段々視界がぼやけてきた。
(私…死んじゃうのかな?)
桜が口を開き、私に近づけてくるのが、うっすらと見える。
手の力も抜けていく。
血生臭い匂いが鼻についた。
誰か…助けて…!
あれ、これって桜が私に言ってたセリフ…。
あぁ、桜もこんな気持ちだったんだな。
私これじゃあ、死んで当然だよね。
桜にだったら殺されても、恨みっこなしだ。
死ぬのを覚悟し、瞳を閉じた。
グシャッ!!バキッ!!
骨が折れる音がし、私の首が解放される。
「ゴホッ!!ゲホッゲホッゲホッ…!!」
いきなり空気が肺を満たし、激しく咳き込む。
ぼんやりとしている視界の中に、首がおかしな方向に曲がっている桜と、血で濡れた椅子を持ち、震えている海斗がいた。
「ひっ翡翠!!深呼吸して、大丈夫!?」
姫璃が駆け寄って来て、背中をさすってくれる。
姫璃の言葉通り、咳込みながらも深呼吸をし、落ち着こうとする。
30秒くらい繰り返すと、激しく脈打っていた心臓もとくっとくっと、本来の動きを取り戻し、ひゅーひゅーしていた呼吸も楽になった。
私、生きてる。
まだ体は動かないが、視界がハッキリし口は動かせるようになった。
この様子で海斗が私を助けてくれたのは、一目瞭然だ。
まず、お礼が言いたかった。
「かいっ、と、あの…助けてくれて」
言ってる途中なのに、海斗の鋭い声で遮られた。
「言うな!それ以上…言うな」
ビクッ
体が震えた。
姫璃のさすってくれている手も止まった。
なんでよ、まだ…
「最後まで…言ってない」
泣きそうだ。
お礼を言おうとしただけなのに、なんで怒鳴られなくちゃいけないの。
今まで背を向けていた海斗が、やっとこっちを向いた。
悲しそうで、恐怖で怯えてる顔をしている。
目も赤い。
いつも活発でクラスのムードーメーカーの彼の面影は、どこにもなかった。
「俺…いくらお前の為だからといって、人をっ、人を殺したんだ!なのに、お礼なんて受け取れるかよ…」
唇を噛み締め、拳も白くなっている。
「お前を助けたのは、俺の勝手だ。だから、お礼なんて言うな」
最後はもう消えそうな声だった。
「海斗…」
姫璃が目を丸くして呟いた。
こんなにも落ち込んでる海斗を、私を始め、姫璃も初めて見た。
「でも、私、海斗のお陰で助かったんだよ!お礼くらい…」
「絶対言うな!!」
再び鋭い声が上がる。
「俺は…俺は…人殺しなんだよ…お礼言われる資格なんて、ない!」
海斗は涙を流しながら、叫んだ。
整っている顔立ちも、今はクシャッと歪んで…
あぁ…さっきの私と同じだ。
状況は違うけど、少なくとも、自分は人殺しだと思っている事は同じだ。
さっき、私が慰めてもらったように、今度は、私が
慰める、勇気づける番だ。
私は意を決して海斗に話し掛けた。
「ねぇ海斗、私、海斗が助けてくれなかったら、死んでたんだよ。今、生きてなかったんだよ。」
ズズッと鼻水をすする音が聞こえる。
「今呼吸してなかったんだんだよ。死んでたら今、姫璃と…海斗とも話せてなかったんだよ。」
姫璃の手が震えているのが、背中を伝って感じる。
顔は見えないけど多分泣いている。
「だから、私に未来をくれた海斗にお礼を言いたい。」
まだ力が入らない体に鞭を打って、足を立たせる。
体がグラグラするけど、知るもんか。
海斗は私を止めようと、近寄ってきたけど、姫璃は何も言わず体を支えてくれた。
やっぱり姫璃は私を一番理解してくれている。
私の気持ちを尊重してくれているんだ。
「おい、無理するなよ。早く座れ…」
海斗が言っている途中だけど、私は口を挟む。
「海斗も無理しないで。」
ピクリと肩が揺れる。
それを見逃さず、早口にまくし立てる。
「俺にはお礼を言われる資格がない?ふざけないで!資格があるないの問題じゃない!」
思いのほかキツい口調になってる気がするけど…
今は気にしない。
「お礼を言う言わないを決めるのは、私だ!海斗じゃない!」
頭が痛いけど構わず続ける。
「俺のプライドが許さないとか思ってるんでしょう!そんなこと知るかっ!海斗はお礼に見合った事をしたんだ!だからお礼を言いたいんだ!」
海斗はポカンと口を開けている。
何が起こっているんだか、分かっていないらしい。
「それとも何、私を助けた代わりに桜を吹っ飛ばしたの後悔してるの?」
途端海斗は首を横に振った。
「だったら、それでいいじゃん。後悔したって何も始まらないよ。それと、私にお礼を言わせて。」
視線を落としている海斗の手を握る。
ハッと私を海斗は見た。
その瞳を真っ直ぐ見て、笑う。
「私を助けてくれて、ありがとう。私に未来をくれて、ありがとう。」
海斗の瞳が揺れた。
その瞬間、海斗の瞳からボロボロと水滴が落ちてきた。
「はははっ、だらしねーな俺…河野に慰められてるよ。」
「だらしないって、どうゆう意味よ…ぅあ!?」
ついに足に力が入らなくなり、その場にへたり込んでしまう。
「翡翠っ!大丈夫?」
すかさずしゃがみ込む姫璃。
「大丈夫、ちょっと疲れただけだから…」
涙をグシグシ拭きながら、海斗もしゃがむ。
「慣れねー事やるからだろ、キャラもちーと違かったよな?」
こいつ、人が気にしてることをサラサラと…
「いいの!結果オーライよ!」
海斗の顔にはいつもの笑顔が浮かんでる。
やっぱり海斗は笑ってなくちゃ。
「ゥウゥゥゥ…」
びくりと三人で声の主を見つめる。
声の主は、志帆に首を噛まれた女の子だった。
血が大量に出ているのにも関わらず、起き上がろうとしている。
「あの子…」
姫璃が海斗を見つめる。
「あぁ、あの出血で生きているはずがない。あいつ等と同じになっちまったんだ。」
女の子の後ろで倒れていた男の子も体を起こし始めている。
「あの子もなの…?」
姫璃の問い掛けに、海斗は頷く。
「そうだ、声を出すなよ。あいつ等、なんか音に反応する。」
「外に出ないとまずくない?」
私は言われた通り、小声で話し掛ける。
「あぁ、非常にまずい。」
海斗の顔から汗が垂れてきた。
突破口を必死で考えているらしい。
私は教室を見渡す。
前後の扉は一人ずつ、あいつ等がいて通れない。
他に扉はないし、窓はあるけどここは三階だ。
窓から出れたとしても、怪我は必ずおまけでついてくる。下手したら大当たりの冥土…。
いらないおまけだ。
ふと、足元に何かがあることに気づいた。
…空き缶。
空き缶がなに?
あいつ等に対抗するための武器?
ははは、笑い物だよ。
こんなんじゃ、あいつ等うんともすんとも言わないよ。
(あいつ等は、音に反応する)
海斗の声が頭にリピートされる。
音。
あいつ等は音に反応…。
これだっ!!