終章
数日後、春の雨がしとしとと降り続いていた。
山々は霞み、舗装の剥げた村の道路に、小さな水たまりがいくつもできていた。
バスのシートに座った咲は、膝の上のノートを開いたまま、ぼんやりと外を見ていた。
隣の席には、買い物袋を抱えたヨネばあさんが、軽い寝息を立てていた。
その音に混じるように、バスのエンジンが低く唸っていた。
佐伯はいつものようにハンドルを握り、道端の枝葉を避けながら慎重にバスを走らせていた。
バックミラーに映る咲の姿を、ふと一瞬だけ見やったが、すぐに前へ視線を戻した。
咲は数日前にもらった手紙をまだカバンの奥にしまったままにしていた。
拓海の言葉が、もう一度胸をよぎる。
「戻ってこいよ。」
でも、返事は出さなかった。
村を出る理由も、残る理由も、どちらも決めきれずに、ただ今日もこうしてバスに揺られている。
ノートのページには、企画のアイディアが中途半端に書きかけのまま、雨のしずくで滲んでいた。
佐伯もまた、後任の話を役場から聞いたまま、それっきり何も動かなかった。
引退を口にした日の夜、エンジンを切った後の静かな車庫の中で、古びたハンドルに手を置きながら、そっと目を閉じた。
だけど、次の日の朝も、彼は何事もなかったかのように運転席に座り、バスを動かした。
雨に濡れる山の景色が、静かに流れていく。
田んぼには水が張られ、小さなカエルの声が聞こえていた。
佐伯と咲、そして乗客たちを乗せたバスは、今日もいつもの道を、いつもの速度で走り続けた。
誰も何も決められないまま。
何も変わらないまま。
それでも、バスは走り続ける。
それが、この村の、変わらない日常だった。




