17 犬ではない犬のような何か
若干湿り気のある土と緑の匂い。風が奏でる木々の音。虫の声と鳥のさえずり――。
こうも鬱蒼とした森に足を踏み入れたのは、子供の時以来かもしれない。その頃は結構な田舎に住んでいて、家は山の麓。だからこういった森や林が日常の遊び場だった。ま、大人になるにつれて虫嫌いになったし、夏は暑いし、冬は寒いし。こういう自然な環境からは、それこそ自然と離れていった。しかし、こうして久々に自然の中に包まれてみれば、一周回って気持ち良く感じる。
何年もパソコンと睨めっこする日々ばかりだったせいってのもあるかもしれない。いや確実にあるだろう。観葉植物を育てているほどだ。無意識的に自然を求めていたのかもしれない。
「――いったいどこまで行くんだ。あのトゲトゲ」
正直なところ、怖いもの見たさのような気持ちと、尾行という行為に少しワクワクしていた。もちろん犬のケツを追いかけながら観察もしているわけだが、未だに犬がやるようなマーキングは一度もしていない。餌を探しているようにもあまり見えない。益々その動向に興味がわく。俺は魔物を注視しながら、静かに後をつけていった。
そうしてしばらく、突然後方から茂みをかき分けるような音がした。それは嫌に近い距離感から聞こえ、反射的に首をうずめながら後ろを振り向いた。
俺の体は氷のように固まった。目の前に魔物がいたからだ。しかも尾行していた魔物と同種のようで、至近距離で身を伏せながら俺を見上げていた。
――そして魔物と視線が交差して一秒後。大口を開けて飛びかかってきた。
みっともない悲鳴を上げながら、本能的に体をよじって自分の左腕で体を庇ってみれば、あっけなくその左腕を喰らいつかれ、そのまま地面に倒されそうになった。俺はその突進の勢いをギリギリのところで踏ん張って堪えたが、今度は地面に向けて引っ張られ、まるで俺を地に倒して…………殺しにきてる、のか?
魔物は左腕を噛みついたまま猛獣のような唸り声をあげ、その目を真っ赤に充血させて俺を睨んでいる。噛みつきの力は魔物自身の顎が震える程に強く、何度となく力を込め直して噛み締めるせいで、ガチガチと音を鳴らしている。この音は噛みつかれた部分にあった手甲によるものだが、その手甲を挟んでいても物凄い力が腕に伝わってくる。まるで工作機械に挟まれているかのようだ。もしこの手甲がなければ、簡単に魔物の牙が腕の肉に突き刺さり、そのまま肉を千切り取られていただろう。
俺は魔物を肌で感じて、やっと動物とは何かが違うと感じた。言葉にはできないが、そう思わせるほどに何かが違う。自分でも単純だと思うが、身にかかった脅威によって魔物と呼ばれる存在が現実感を持って身に染みこんできていた。
向けられた殺意に慌てて腕を左右に振り、魔物は振り解こうとする。しかし、俺が足掻くほど魔物の噛む力は余計に強くなって離れない。加えて魔物の体重は見た目以上に重く、魔物の動きに抗うだけでも息が上がるほどだった。
中々対処できないとはいえ、必死に体を動かし続けていると、距離を置いて尾行していた方の魔物が全速力でこちらへ向かって来ているのが垣間見えた。どう考えても非常にまずい。焦った俺は幾度も膝と腰に力を込めて全力で魔物を振り回した。魔物の足が地面から離れるほどにだ。それでも左腕を離さない。離す気配すらない。
視界の中に迫ってくる新手。もう振りほどいている猶予すらない。荒々しい声をあげながら渾身の力を絞り出し、今正に飛びかかってくる魔物目掛けて喰らい付いている魔物をぶん回した。
――結果、運良く衝突させることに成功したが、鈍い音と共に体全体に強い衝撃を受け、俺は仰向けにぶっ倒れてしまった。しかも左腕に噛み付いていた魔物は、この衝突でも左腕を離しておらず、そのせいか俺の体の上に重なるように倒れてきて、肺にあった空気が強引に喉から押し出ていった。
土まみれになりながら悶え、咳き込みつつも何とか呼吸を整えていく。が、魔物がそれを待つわけもない。自分の腹の上で狂ったように首を振り、噛み付かれたままの左腕が上下左右、滅茶苦茶に振り回される。そんな状態だというのに、意外と俺の頭は冷静だった。
腰裏に装備していた短剣を噛みつかれていない右手で抜き、そのまま魔物の横っ腹へ何の躊躇もなく刺し込んだ。すると噛みつく力が一気に緩み、左腕を解放できる好機が生まれた。自分の腹の上にいる邪魔な魔物の胴体を思いっきり蹴り込んで退ける。合わせて刺し込んでいた短剣が魔物の腹から抜け、大量の血がホースの口を塞いで出てくる水のように吹き上がった。視界は一瞬で真っ赤に染まり、顔も含めて身体中にその生ぬるい血を浴びた。
俺は仰向けに倒れていた体を横にしながら、口内に混入した気持ち悪い血を唾ごと吐いて紛らわし、足の方に転がした魔物を確認した。
息はまだあるが、流石に虫の息のようだ。刺しどころが急所だったのだろう。
目に血が混入して痛いが、眉と頬できつく目を細める事で我慢し、視界を保ちつつ上半身を地面から起こした。そしてやっと解放された左腕を摩っ――。
「…………」
耳元近くで唸り声。ゆっくりと左を向けば、先ほど飛びかかって来た所を衝突させた魔物。つまり尾行していた魔物が俺の目と鼻の先にいた。
もうダメだと思う余地もない。俺の顔面か首か、ともかくその辺りに魔物が突っ込んできて、何の反抗もできないまま再び地面に倒された。しかし、俺の悪運は強かった。寸前まで肘を曲げて左腕を摩っていたため、またもや左腕の手甲が魔物の牙から体を守ってくれていた。ただ悪運にも限界がある。この衝撃によって、無情にも右手で持っていた短剣を取りこぼした。左腕を摩る動作上、握りを甘くしていたからだ。
それからは無我夢中だった。空いた右手で魔物の首から生えている角を握ってあえて引き寄せ、噛まれている左腕は魔物の口へ押し込む。この挟み込みで噛み直しによる攻撃を防ぎ続けた。
しかし、噛み直しを防げていても、魔物の動きが止まるわけではない。魔物は押し込まれている手甲を口から外そうと、俺の体ごと地面から浮かしては押し倒し、四方八方に振り回す。
もしも手甲から魔物の口が外れれば、間違いなく首に噛み付かれてしまう。俺は呻き、叫び、ひどい言葉を口に出しながら両腕の力を振り絞って耐え忍ぶ。そしてこの苦闘のさなかだというのに、奇跡的に少し遠くの方でした吠え声を俺の耳は捉えた。
既に痛いほど心臓が胸を打ちつけているのに、さらにその強さが増していく。こんな状況でもう一匹? 二対一なんて死ぬぞ? ……死ぬのか?
そう思った瞬間何かが吹っ切れ、失敗を恐れず思いくままに行動した。魔物の力の方向を読み、タイミングよく両腕の力を瞬時に裏返す。それは上からのしかかる力に対して、抵抗力を抜く事に近かった。よって魔物はぬっと俺の顔前まで近づいたが、そこで再び腕の力を込め直し、噛まれている左腕を右から左へ引き抜く。合わせて首の角を掴んでいる右手を奥から手前へ引き込む。
この腕の動きに魔物の首は半周以上回転。まるで太い木の幹をへし折るような音が鳴った。
魔物の首は不自然に伸びて俺の肩に落ちてきたが、俺自身何の余韻も感じる暇もなく、先ほどと同じように足で魔物を物扱いで退けた。そして接近してくる新手の位置を確認。同種の魔物。ソイツは右から突進してきていた。ここでようやく分かった。尾行していた最初の一匹に誘い込まれたんだと。
俺は倒れたままだったが、立ち上がる事よりも落とした短剣を拾う事を最優先とし、左腕をぐっと伸ばして短剣を逆手で掴んだ。接近してくる魔物の足音は、まるで馬が駆ける蹄の音みたいだった。
すぐに地面の上で体を右側へ勢い良く回転。この動作に合わせて弧を描くように短剣を右側に振り下ろす。
――ドンピシャだった。
短剣は突っ込んで来た魔物の首に刺さり、そのまま地面に縫いつける勢いで叩きつけた。
魔物の口から黒い血が吐き出され、俺の顔にぶちまけた。しかし今回は目に入ろうが口に入ろうが、何も感じなかった。感じる暇がなかった。首元から生える角に短剣が阻まれたのか。あるいは硬い骨や肉に阻まれたのか。この会心の一撃を受けてもなお、魔物は力強く足掻いていた。
片腕から両腕に切り替えて短剣を押し込みつつ、足掻く魔物を抑え込むために膝を乗せ、動かないよう地面へ押しつける。続いて再び刺すために短剣を引き抜こうと腕を引いた。
「あっ!?」
まるでB級ゾンビ映画のように、はたまたコメディ映画のように、本当に手から短剣がすっぽ抜けた。魔物の血を浴びたせいで、手が濡れて滑ってしまったのだ。さらにすっぽ抜けた勢いで姿勢が後ろに流れ、魔物を抑え込んでいた膝が浮いた。
心臓がギュッと握られたような気がした。
魔物はこの隙を逃さない。後ろ足に力を込めるように下半身を持ち上げ、超至近距離から飛びかかってきた。選択肢なんてものはない。咄嗟に両腕を体の前にくっつけて、ボクサーのように防御姿勢をとる他なかった――。
――なんだ!? どうなった!?
飛びつかれたはずだが、想定外に軽い衝撃。腕にかかる不可解な重み。俺は両腕の間から前を覗き見た。
「なんだよ、これ」
まったくもって訳がわからないが、手甲から無数の棘が出現しており、魔物はその棘に串刺しになっていた。不可解だった重みは、手甲から伸びた棘に刺さっている魔物の体重によるもの。魔物を貫通した棘の先からは、地面に音を立てる程の血をしたたらせ、極めて不快。
混乱覚めやぬ心理状態のまま、とりあえず俺は立ち上がり、腕を振って手甲から伸びる棘から魔物を払い落とした。魔物は絶命しており、周囲は正に血祭りといっていい状況。俺は棒立ちになって、魔物の死骸をただ見ていた。
少しばかり放心状態に陥ったあと、はっとして辺りを見渡し、他に魔物がいないか注意を払った。こうも何匹も出現したんだ。万が一の可能性もある。しばらく注意を払った後、もう出てこないと分かって俺は大きく息を吐いて脱力した。するとそれがまるで合図だったかのように、両腕の刺が手甲の中へ縮むように収まっていった。
――――だめだ。
何が起きてどうしてこうなったのか考えられない。今はそれより鼓動が強くて痛い。手が震え、目の視点が定まらない。初めて大きな動物をこの手で殺した。短剣を刺し込んだ肉の感触。首を折ったときの音と手ごたえ。体にかかったぬるい血。今になって心で感じている。
吐き気がする。
しばらくその場に座り込み、体が落ち着くのを待ちながら心の中で振り返った。
学校や習い事でやってきた武道が、まぁ役立ってないとは言わないが、たったそれだけの事で大丈夫だと思うなんて大間違いだ。大体やっていたのは学生の頃の話し。しかも相手は人ではなく獣。
「……いや魔物か」
どちらにせよ、俺が無謀だったのは変わらん。そもそも命を賭けた試合なんてしたことがないんだから、通用するわけがない。じゃあ、この世界で通用することはなんだ? あるとすれば覚えたての魔法か。だけど使う暇もなければ、使う意識すらなかった。無論使ったところで役に立ったかは分からないが、考えもしなかったのはバカだった。
自分の行動を一通り反省した後、今度は疑問点が吹き出てきた。
そういえば街の近くに生息するのは弱い魔物じゃなかったのか? あれが本当に弱い部類なのか? そりゃあ見た目は大きな犬だけど、どうみても弱い部類だとは思えないんだが。
「あ。こいつも光るのか」
心の内で反省のようで愚痴のような思いを巡らせていると、魔物の死骸に異変が起きていた。
死骸は弱々しい発光点滅を繰り返しながら、みるみるうちにミイラのような物へと変わっていく。まるで定点カメラによるビデオの早回しみたいだ。最終的には辛うじて原型はイメージできるものの、完全に干からびて風化したミイラのようになった。発光現象もミイラ化の終わりと共に離散した。
この現象を見たのはこれで二度目になる。初めて目撃したのは狐のような魔物で、たしかスリーテイルという名前だった。スリーテイルの時は尻尾だけが綺麗な形で残っていたが、この魔物は首回りにあった角が立派な状態のまま残るようだ。
そのままミイラ化していく複数の死骸を注意深く観察していれば、一体のミイラの体が部分的に赤く発光している事に気がついた。魔石だ。




