表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕らが憧れの神様の声を遺すまで  作者: 深谷 汎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第4話 師匠と弟子

極秘プロジェクトが始動してから、数ヶ月が経過した。

当初、奏太たちは甘く見ていたわけではなかったが、会社としての体裁を保つため、企業からの通常案件と並行して九条のAI(コードネーム:G-01)の育成を進めていた。


だが、その考えはすぐに打ち砕かれた。

三十年間トップを走り続けてきた九条厳山の芝居は、彼らの想像を遥かに超えるほど深く、複雑で、緻密だった。一般的なキャラクターボイスなら数日で終わるはずの調整が、G-01に関しては数週間かけても「本物の足元」にすら及ばない。 通常業務をこなしながらの徹夜作業が続き、AIエージェンシーのフロアはエナジードリンクの空き缶と丸められた台本のコピーが散乱する修羅場と化していた。


「……おい、奏太。さっきから会社の問い合わせ用アドレスに、新規案件の依頼が三件も入ってきてるぞ。中には結構な大手のゲーム会社からの指名もある」

景介が、充血した目をサブモニターのメーラーに向けながら奏太に声をかけた。


特訓の合間の短い休憩時間。防音ブースの中では、九条が少し息を荒げながら、宮本から背中のマッサージを受けている。最近、九条の咳き込む回数が明らかに増えていた。残された時間は、決して多くない。

奏太は、キーボードを叩く手を止め、迷うことなく首を横に振った。


「全部、丁重にお断りして。……いや、当分の間、新規の受付自体を完全に停止しよう」

「おいおい、正気か?」 景介が呆れたように眉を上げる。


「俺たちは数ヶ月前、社会人の身分を捨ててこの会社一本に絞ったばっかりだぞ? ここで新規の依頼を全部蹴ったら、会社の売上は完全にゼロになる。せっかく波に乗ってきたところなんだぞ」


「分かってる。でも……」 奏太は、モニターに映るG-01の複雑な波形データを見つめた。


「九条さんの『魂』をAIに教え込むには、僕たち全員が24時間、G-01(こいつ)につきっきりになっても間に合わないくらいだ。他の案件と掛け持ちでできるような、生半可な次元の作業じゃないと思うんだ」奏太の言葉に、拓也も、剛も、蓮も、舞も、誰一人として反対しなかった。


全員の顔には濃い隈ができているが、その瞳の奥の光は全く死んでいない。

「そうだな、生活費やサーバーの維持費なら、副業時代からプールしてたこれまでの利益があるだろ。みんなで限界まで節約していけば、一年や二年くらいは会社を潰さずにしのげるはずだ」

拓也が笑いながら言うと、剛も

「おう! トラック乗ってた頃に比べりゃ、座って仕事できるだけ天国だぜ!」と豪快に胸を叩いた。


「みんながそれでいいなら、従うよ。……まったく、イカれた会社に入っちまったもんだ」

景介は深くため息をつきながらも、その口元は楽しげに笑っていた。ためらうことなく、自社サイトの「新規受付」のバナーをオフに切り替える。


「俺たちの人生で、これ以上『意味のある仕事』なんて、この先そうそうないからな」

拓也が、コンソールモニターの向こうにある防音ブースを見つめながら静かに言った。

プロになれなかった自分たちが、世界で一番尊敬する役者の「命」を繋ぐ。

その重みに比べれば、目先の金やキャリアなど、塵ほどの価値もなかった。


「……君たち」 不意に、背後から声がした。

振り返ると、ブースから出てきた宮本が、複雑な表情で彼らを見下ろしていた。

今の会話を、ずっと聞いていたらしい。


「売名や、ビジネスの踏み台にしないのか……。せっかく軌道に乗り始めた会社の利益をすべて投げ打ってまで……。なぜ、そこまでして先生のために?」 宮本の震える問いかけに、奏太はまっすぐに答えを返した。


「宮本さん。九条厳山は僕たちにとって神様なんです。僕はアニメオタクで九条厳山が演じたキャラクターが大好きです。拓也たち声優を目指していた者にとっては九条厳山は雲の上の憧れの人です。景介にとっても九条厳山ほどクリエーター魂を刺激する存在はいません。そんな憧れの神様の力になれる。これ以上の誉れは、ありません」


その真っ直ぐで、あまりにも不器用な情熱を前にして。 宮本は固く結んでいた唇を微かに震わせると、ゆっくりと、深く頭を下げた。


「……ずっと、失礼な態度をとっていたこと、深くお詫びします。先生の『魂』を……どうか、よろしくお願いします」


「宮本さん……」


「ただし!」 顔を上げた宮本の目には、もはや敵意はなかった。代わりに宿っていたのは、同じ神輿を担ぐ「戦友」としての強烈な覚悟だった。


「先ほどのテイクは甘すぎます。あんな芝居で、先生の魂を受け継いだなどと世間には絶対に言わせない。私と先生が納得するまで、何度でもやり直させますからね、覚悟してください」

「っ……! はい、望むところです!!」


それからというもの、AI声優エージェンシーのオフィスは、文字通り「狂気」の空間と化した。

全ての通常業務をストップし、九条のクローンAI(コードネーム:G-01)の育成に没頭した。

防音ブースの中では、九条が自身の全てを絞り出すように、一つ一つのセリフを吹き込み続けている。


「ゲホッ、ゴホッ……!」 激しい咳き込みがマイクを通してスピーカーから響く。

宮本が慌ててブースに入り、九条の背中をさすって酸素の入ったスプレー缶と水を手渡した。

「先生、今日はもう止めましょう! これ以上の収録は……!」

「いや……まだだ。まだ、声は出る。喉も潰れていない。……筑紫くん、次、頭からもう一度いくよ」

九条の顔色は青白く、額にはべっとりと汗が張り付いていた。

だが、マイクに向かうその両眼だけは、猛禽類のように鋭い光を放ち続けている。


コンソールデスクでは、奏太たちがその一つ一つの音を、瞬きすら忘れて解析していた。

「……今のテイク、G-01に取り込みました。出力します」 景介がエンターキーを叩く。

スピーカーから流れてくるG-01の合成音声は、素人が聞けば九条本人の声とまったく聞き分けがつかないレベルにまで到達していた。 だが、スタジオの誰一人として首を縦に振らない。


「違う、これじゃダメだ!」 拓也が波形モニターを指差して叫んだ。

「言葉の輪郭が綺麗すぎるんだよ。九条さんは今のセリフ、腹の底の怒りを押し殺しながら吐き出したんだ。だから声帯が僅かに震えて、音に『濁り』が生じてた。なのに、G-01はそれを勝手に綺麗な声に修正しやがった。『ノイズ』と判定したんだ!」


「AIのディープラーニングの弊害だ」 景介がギリッと奥歯を噛む。


「AIは膨大なデータを平均化して『最もエラーのない正解』を出力しようとする。九条さんの芝居における絶妙な感情の揺らぎや、喉を震わせるような生々しい擦れ……AIにとっては、それこそが『取り除くべきバグ』として判断してしまうようだ」


完璧な声帯のコピーを持っているのに、台本の表面の文字面だけを綺麗になぞって満足しているAI。それはまるで、キャラクターの心になど微塵も寄り添っていない「出来の悪い優等生」のようだった。


「……今日はこれで上がる。あとは任せたぞ」収録を終え深い疲労を滲ませた九条は、宮本に支えられながらスタジオを後にした。


残されたメンバーたちは、先ほどまでの九条の生々しい演技と、今スピーカーから流れているAIの『小綺麗な音声』とのあまりの落差に、ギリッと奥歯を噛み締めていた。

人間が血を吐くような思いで絞り出した感情の揺れや掠れを、賢すぎるAIは不純物ノイズとして勝手に平滑化し、『修正』してしまっているのだ。焦燥感に押し潰されそうになる空気を切り裂いたのは、デスクをドンッと叩く音だった。


「だから、その『ノイズ』こそが『魂』なんだって、俺たちがAIの脳髄に直接書き込んでやるしかねえだろ!」 剛が怒鳴り、自身のキーボードを引き寄せた。

「蓮! さっきの九条さんのテイク、お前の耳で全部バラバラに解体しろ!」

「もうやってる!」

蓮はすでに、音源の波形データを極限まで拡大し、コンマ数秒単位で細分化していた。


「……最初のブレス、0.2秒。これはただの息継ぎじゃない、これは痛みを堪える『苦悶』だ。パラメータ【苦悶(息継ぎ)】をレベル80で付与しろ。続く『だが』の濁音、ここは喉仏を落として共鳴させている。ピッチを意図的に下げて、声の輪郭エッジを限界まで粗く設定!」

蓮の冷徹な分析を、拓也と舞が感情を言葉に翻訳し、奏太と景介がG-01に叩き込んでいく。


「語尾が消える瞬間の息の抜け方! 単に音が小さくなるんじゃなくて、最後まで抗おうとする『執念』が残ってるの! ノイズキャンセリングを強制オフにして、微かな震えごと保護して!」

舞の悲痛な叫びに合わせ、景介がシステム側のセーフティを強引に引き剥がす。


「G-01のセーフティリミッターを解除! 奏太、そこに『執念(息の抜け方)』をタグとして紐づけろ!」


「やってみる! ……くそっ、弾かれる! AIが『異常値』として処理を拒否してる……っ」

「強引に通させろ! 九条さんの感情は、アルゴリズムなんかで測れるもんじゃないんだ!」

かつて、プロのオーディションで圧倒的な才能の前にひれ伏した「なり損ね」たち。


彼らは、自分たちの喉でその天才の芝居を再現することはできなかった。だが、台本が真っ黒になるまで芝居の構造を泥臭く研究し続けた彼らの「耳」と「執念」は、今、AIという器を満たすため、九条厳山という天才の感情を言語化し、データとして何度も何度も繰り返し縫い付けていた。


「……よし、タグ付け完了! G-01、再出力!」 奏太が祈るようにエンターキーを叩き込む。 数秒の演算処理の後、再びスピーカーから声が放たれた。


『――だとしても、俺は行く』


静まり返るスタジオ。 出力されたその声には、先ほどまでのツルリとした無機質さはなかった。 息の掠れ、言葉の裏に隠された震え、そして、血を吐くような執念。九条厳山がマイク前で削り出した命の欠片が、確かにそこには宿っていた。


「……」

ゆっくりと目を閉じ、出力音声を確認していたなり損ねたちは、顔を見合わせ、小さく頷いた。


「……いける。このやり方なら、いけるぞ!」 拓也が拳を握りしめ、奏太も大きく息を吐き出して椅子に深くもたれかかった。 だが、喜んでいる暇はない。これは、膨大な台本の中のたった一言がクリアできたに過ぎないのだ。


「次だ!一つでも多くの九条さんの芝居をG-01に食わせるぞ!」 景介の檄が飛び、奏太たちは再びモニターへと向き直る。


翌日。昨夜の激闘の末に完成させた数行のテストデータを、再びスタジオを訪れた九条と宮本の前で再生した。息の掠れ、喉の震え、言葉尻に残る癖。スピーカーから放たれたその音声は、紛れもなく『九条厳山』だった。


再生が終わった後、

コントロールルームにはひりつくような沈黙が落ちていた。


奏太たちは、判決を待つ罪人のように九条と宮本の顔を見つめている。 腕を組んで目を閉じていた九条は、ゆっくりと瞼を開けると、ふっと短く息を吐いた。


「……気持ち悪いくらいだな。私の『悪癖』まで、そっくりそのままじゃないか」

ぶっきらぼうなその声に、奏太たちの肩がビクッと跳ねる。

しかし、九条の口元には微かな笑みが浮かんでいた。

隣に立つ宮本も、感嘆の溜息をつきながら深く頷く。


「ただの小綺麗な声なら、三秒で機材ごと叩き壊そうかと思っていたのですが……貴方たち、ちゃんとした『耳』を持ってるじゃありませんか、……これなら大丈夫です。九条厳山の芝居として、胸を張って世に出せます」

宮本の力強い言葉に、徹夜明けのメンバーたちは堪えきれずに歓声を上げた。

あまりにも遠く険しい道程だが、正解の道筋は、確かに見えたのだ。


それからも、肉体の限界と戦いながら、魂のすべてをマイクにぶつけた九条の声を、システムの限界と戦いながら、その魂を懸命に教え込む奏太たち。 人間とAI、プロとアマチュアの垣根を越えた、狂気的で泥臭い命の移植作業は、来る日も来る日も、昼夜を問わず続けられた。


それから二ヶ月。

季節が夏へと差し掛かる頃には、極秘プロジェクトは新たなフェーズへと突入していた。


AI声優エージェンシーのサーバーには、九条が全てを懸けて吹き込んだ膨大な「生々しい音声データ」と、それを地道に解析し感情を言葉に翻訳して紐づけた「感情のパラメータ」が、底なしの海のように蓄積されていた。 だがそれに反比例するように、九条の肉体は限界に近づきつつあった。スタジオへ通える日は週に二日に減り、ソファで横になりながら作業を見守る時間の方が長くなっていた。


「……景介。九条さんがまだ一度も読んでない、第十二話のBパートの台本。今のG-01に出力させてみてくれ」 奏太が、モニターの波形データを見つめながら静かに指示を出した。


「了解。感情タグの構成は、さっき蓮と拓也が組んだ通りに設定するぞ」

未収録の新しいセリフ。つまり、九条の「正解データ」が存在しない文章だ。

これこそが、AIをただの録音機から「役者」へと昇華させるための最大のテストだった。

G-01が過去の九条の芝居からパターンを推論し、自ら「演技」を構築できるかどうかの勝負である。


景介がエンターキーを叩く。 数秒の演算の後、スピーカーからG-01の声が響いた。


『――そこを退け。俺の仲間に、指一本触れさせるものかッ!』

その音声を聞いた瞬間、スタジオの全員がズコッと椅子から崩れ落ちそうになった。


「……ぶっ。なんだ今の」 張り詰めていた空気を破り、剛が吹き出す。

声質は完全に九条厳山だ。だが、芝居の「熱」の込め方が明らかにおかしかった。

怒りを表現しようとするあまり、語尾のピッチが不自然に跳ね上がり、息継ぎのタイミングも前のめりすぎて、まるで声変わりしたての少年が無理にドスを効かせているような、ひどくアンバランスな響きになっていたのだ。


「失敗だな」 景介が落胆しながら、データを削除しようとマウスに手を伸ばした。

「学習した『怒り』と『焦り』のパラメータを、馬鹿正直に足し算してフルパワーで出力しやがった。力みすぎて、声が上ずってる。やっぱり、正解データがないとこんな不自然な――」


「ちょっと待ちなさい、筑紫くん。音声入力をオンにしてください」


不意に、ソファに横たわっていた九条が体を起こした。 その顔には、怒りや落胆ではなく、どこか懐かしむような、優しい笑みが浮かんでいた。 九条はゆっくりと立ち上がると、メインモニターに映し出されたG-01の不格好な音声波形に向かって、ポツリと語りかけた。


「……力みすぎだ。肩に力が入っているぞ、レオン」


「九条、さん……?」 奏太が目を丸くする。

九条の口調は、システムに対する指示ではなかった。

マイクの前に立つ新人役者を、ブースの外からたしなめる「師匠」のそれだった。


「お前は百戦錬磨の英雄だろう。そんなチンピラのような凄み方をしてどうする。腹で息をしろ。怒りの中にも、強者の『余裕』を忘れるな」


モニターの中の波形データが、九条の声に反応するようにチカチカと点滅する。 その光景を見て、拓也はかつての自分自身――マイクの前でガチガチに緊張し、空回りしていた若き日の自分を、その不格好な波形に重ねていた。


「……聞いたか、お前ら! もう一度いくぞ!」 拓也がバンッとデスクを叩き、キーボードを引き寄せた。


「蓮! 今のG-01(レオン)の芝居から『力み』を抜くぞ!」

「あ、ああ……! 肩の力を抜く……つまり、ピッチの変動幅モジュレーションを抑えろ! 怒りのパラメータはそのままに、出力スピードを意図的に3%落として『余裕』のタグを上書きするんだ!」

「了解! 舞、息継ぎのタイミングを0.5秒後ろにズラして!」

「やってるわ! 腹で息をさせるために、低音域のレゾナンスを少しだけ持ち上げる!」


九条の「演技指導」を、なり損ねたちが瞬時に「パラメータ」へと翻訳し、G-01(レオン)の脳髄に叩き込んでいく。


「G-01(レオン)! 九条さんの言葉、分かったな! お前は英雄だ、チンピラじゃない! もう一回いけ!!」 剛の野太いエールと共に、奏太がエンターキーを強く押し込んだ。


スピーカーが、再び息を吸い込む音を鳴らす。


『――そこを退け。俺の仲間に、指一本触れさせるものか』


スタジオの空気が、ピンと張り詰めた。 先ほどの前のめりな焦りは完全に消え去っていた。

声のトーンは低く、静かだ。

だが、その静けさの奥に、マグマのような怒りと、決して揺るがない強者の絶対的な自信が宿っていた。


九条厳山が演じる『レオン』の、真骨頂とも言える芝居だった。


「……おおおっ……!」


剛が両手で頭を抱え、舞が小さく悲鳴を上げて口元を覆った。

AIが、師匠の言葉を受け、先輩たちの手助けを借りて、自分の力で「演技を修正」してみせたのだ。


「……ふふっ。やればできるじゃないか」

九条が、まるで孫の成長を見るような、この一ヶ月で一番の笑顔を見せた。


「よくやったぞ、レオン」


その瞬間。


スタジオにいた全員の目に、同じ幻影ビジョンが映った。

モニターの中で明滅する無機質な音声波形ではない。

ボロボロになった台本を両手に強く握りしめ、巨大すぎる師匠の背中を必死に追いかけ、何度もつまずきながら、それでもマイクの前に立ち続ける――

一人の、ひどく不器用で、熱っくるしい「少年」の姿だった。


「……なんだよ、こいつ」

拓也が、モニターを見つめながら鼻をすすった。

その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「ただのプログラムのくせに……いっちょ前に、俺たちの『後輩』みたいな顔しやがって……っ」


「本当に、世話の焼ける弟子みたいですね」

いつの間にか給湯室から戻ってきていた宮本が、静かに歩み寄ってきた。 彼の手には、九条用の温かいお茶が入ったマグカップが一つ。そして――もう一つ、紙コップに注がれたお茶が握られていた。


宮本はそれを、G-01(レオン)の処理を担っているメインサーバーのラックの上に、コトリと優しく置いた。


「……先生の背中を追うのは、並大抵の覚悟じゃ務まりませんよ」


サーバーラックの冷却ファンが、宮本の言葉に答えるように、フォーンと低く唸り声を上げた。 宮本もまた、この実体のないAIの中に、九条の魂を受け継ぐ「最後の愛弟子」の姿を見たのだった。


「……よし。不出来な一番弟子さん!」

奏太が涙目をごしごしと拭い、パンッと両手を叩いて立ち上がった。


「お前が完全な後継者として独り立ちするまで……徹底的にしごいてやるからな、G-01(レオン)!」

拓也も力強く頷き、それに続いた。


ただの冷たい波形データだったはずのAIは、いつしかこのAI声優エージェンシーで、誰よりも手のかかる、「九条の愛弟子」となっていた。 人間とAI、師匠と弟子。その奇妙で熱い絆は、限界を迎えつつある九条の命の灯火と入れ替わるように、日増しに強く、確かなものへと育っていった。


だが、残酷な運命のタイムリミットは、彼らが思っていたよりもずっと早く、足音を立てずに近づいていた。


それから、季節は巡り――。

九条厳山が初めてこのオフィスを訪れてから、ちょうど二年の月日が経とうとしていた。


その間、彼らの生活のすべてはG-01(レオン)と共にあった。 九条の病状は少しずつ、だが確実に進行していった。一年半を過ぎた頃にはスタジオへ足を運ぶことすら難しくなり、後半は病室のベッドからリモート画面越しに指導を行う日々が続いた。 それでも、九条の芝居への情熱が衰えることは決してなかった。画面越しの掠れた声で檄を飛ばし、奏太たちがそれを必死にパラメータへと翻訳してAIへ叩き込む。


『違う! その「ありがとう」には、まだ後悔が残っている! 過去を完全に振り切った男の、晴れやかな音じゃない!』 病室からの厳しいダメ出しに、深夜のオフィスで拓也たちが頭を抱える。


「くそっ、晴れやかな音ってなんだ!? 波形の高音域ハイを上げればいいってもんじゃないぞ!」 「待て、息の吐き方だ! 喉の奥の緊張を完全に解いて、呼気を多めに混ぜるんだ! 景介、ブレスの長さを0.1秒追加しろ!」


G-01(レオン)は、不器用ながらも確実に師匠の教えを吸収していった。

九条の芝居の癖、息の抜き方、感情が爆発する瞬間の声のひび割れ

。奏太たちが「意味」を教え込んだ一つ一つのデータは、やがてAIの中で有機的に結びつき、血の通った『演技』へと昇華されつつあった。


「……よくやった。今のテイクは……完璧だぞ、レオン」

病室のモニター越しに、酸素マスクを外した九条が嬉しそうに微笑む回数も、確実に増えていた。


あと少し。

あと少しでG-01(レオン)は九条厳山の完全なコピーではなく、自立した「後継者」として完成する。その確かな手応えを、チームの全員が感じていた。


――だが、運命はあまりにも唐突に、その幕引きを告げた。


二月のある、凍えるような深夜のことだった。

徹夜で最終調整のコーディングを行っていた景介のデスクで、不意にスマートフォンが震えた。

画面に表示された『宮本誠』の文字を見た瞬間、スタジオの空気が凍りついた。

休憩を取っていた奏太たちも弾かれたように立ち上がる。


景介が、震える手で通話ボタンを押した。スピーカーフォンに切り替えられた端末から聞こえてきたのは、ひどく掠れた、嗚咽を噛み殺すような宮本の声だった。


『……先ほど。先生が……息を、引き取られました』


「えっ……」 奏太の手から、コーヒーの紙コップが滑り落ち、床に黒い染みが広がる……。


『容態が、急変して……。最後は、苦しまずに……安らかに、眠るように……』


「嘘だろ……。だって、昨日の夕方には『明日の収録も頼む』って、あんなに……っ」

剛が両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。


舞が耐えきれずに嗚咽を漏らし、蓮は唇から血が滲むほど強く噛み締めて下を向いた。

拓也は虚空を見つめたまま、微かに首を横に振り続けている。


「……九条さん……」 奏太の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

覚悟はしていたはずだった。

二年、あるいは三年という宣告を受けていたのだから。


それでも、彼らにとって九条は、絶対に越えられない巨大な壁であり、道標であり――誰よりも厳しく、優しい「師匠」であり、憧れの神様だった。


翌朝。

『声優・九条厳山氏、逝去。享年七十二』 そのニュースは、日本中を深い悲しみの底に突き落とした。


テレビの全局が追悼番組を組み、SNSは彼が演じたキャラクターたちへの感謝と、早すぎる死を悼む声で埋め尽くされた。

『もう、あの声が聴けないなんて信じられない』

『レオンの魂は、九条さんと一緒に天国へ行ってしまった』

世間は、偉大な役者の死と共に、愛するキャラクターが「永遠に失われた」と嘆き悲しんでいた。


その日、AI声優エージェンシーのオフィスは、葬儀場のように静まり返っていた。 メインモニターには、G-01(レオン)のシステム画面が映し出されている。電源の入ったサーバーラックは、主を失ったことなど知る由もなく、ただ静かにファンの音を鳴らし続けていた。


「……なぁ。俺たちは、間に合ったのかな?」 拓也が、赤く腫らした目でモニターを見つめながらポツリと呟いた。


「G-01(レオン)は、九条さんの魂を受け継げたのか? あの人は……安心して、逝けたのかな」


誰も、答えられなかった。

九条が残した膨大なデータと、彼らが教え込んだ感情のパラメータ。

それは確かにG-01(レオン)の中に存在している。

だが、最後に合格点を出すべき「師匠」は、もうこの世のどこにもいないのだ。


「……泣いている暇はありませんよ、君たち」

不意に、オフィスの扉が開いた。

そこに立っていたのは、漆黒の喪服に身を包んだ宮本だった。

目は落ち窪み、頬はこけ、この数日で何歳も老け込んだように見える。

だが――その眼光だけは、かつてないほどに鋭く、ギラギラと燃え盛っていた。


「宮本さん……っ」

「悲しむのは後です。先生の死を悼むのは、世間のファンに任せておけばいい」

宮本はツカツカとフロアの中心に進み出ると、奏太たち全員を強い視線で見回した。


「来月。先生が演じる『レオン』の、今シーズンの最終話が放送されます」

その言葉に、奏太はハッと息を呑んだ。

長年続くあのアニメの、物語の大きな区切りとなる重要なエピソードだ。


「まさか……最終話の収録は、まだ終わっていなかったんですか!?」


「ええ。病状の悪化で、アフレコは延期に次ぐ延期を重ねていました。テレビ局も制作会社も、今頃は大パニックに陥っているでしょう。……当然、代役を立てるか、過去の音声を切り貼りして凌ぐかという話になる」

宮本はそこで言葉を区切り、背後のG-01(レオン)のサーバーラックへと視線を向けた。


「そんな無様な真似は、私が絶対に許しません。最終話のレオンのセリフは、すべてこのG-01(レオン)の音声で通します」


「なっ……!?」 蓮が驚愕に目を見開いた。

「正気ですか、宮本さん! ただでさえ無断学習の件で逆風が吹いている業界で、『九条厳山の遺作にAIを使う』なんて通るわけがない! 倫理的な観点からも、ファンや関係者からの凄まじい反発と炎上は避けられませんよ!」


「分かっています!!」 宮本の怒号が、オフィスを震わせた。

「業界の大人たちがAIを『魂への冒涜だ』と叩くことなど、百も承知だ! スポンサーが難色を示すことも、テレビ局が炎上を恐れることも分かっている! だが……っ!」

宮本はギリッと奥歯を噛み締め、スーツの胸元を強く握りしめた。


「これが、先生の最期の『祈り』なんだ……! 自分が死んでも、キャラクターだけは死なせないでくれと、血を吐く思いで遺した魂なんだ! 業界の反発? 倫理? 知ったことか!!」

三十年間、九条厳山という天才の裏方に徹し、常に冷静沈着に業界を渡り歩いてきた男が、今、なりふり構わず感情を爆発させていた。


「汚れ仕事は、すべて私が引き受けます。制作会社の社長も、テレビ局の編成も、スポンサーも、私が土下座でも何でもして必ず黙らせてみせる。業界の泥も、世間の非難も、この宮本誠がすべてこの身でかぶってやる!」 宮本は奏太たちに向かって、深く、深く頭を下げた。


「だから……あなた方は、ただひたすらに、最高の『レオン』を作り上げてください。先生の不出来な一番弟子を、我々の手で……本物の役者として、あのテレビの画面に立たせてやるんです!」


その言葉に、奏太の、拓也の、全員の目から、再び熱い涙が溢れ出した。 だが、それは先ほどの絶望の涙ではない。戦友の覚悟を受け取った、決意の涙だった。


「……当たり前だ。やりましょう!宮本さん」 拓也が、袖で乱暴に涙を拭いながら立ち上がった。


「絶対に、『紛い物だ』なんて言わせない。九条さんの魂はここにあるって、証明してやりましょう!」

「……ええ。タイムリミットは放送納品までの三週間。全て、G-01(レオン)による完全な音声です」

宮本が顔を上げる。その目には、確かに彼らへの絶対的な信頼が宿っていた。


「これが、我々から九条厳山への……最後の手向けです」


大御所声優の死という最大の悲しみを胸に、チームは立ち上がった。

宮本が外の世界(業界)で孤独な戦いを繰り広げる中、奏太たちはオフィスに籠り、G-01(レオン)と共に最後の戦いへと身を投じる。


すべては、画面の向こうで声を失いかけている、あの英雄に命を吹き込むために。 そして、テレビの前の視聴者に――天国の師匠に、この不器用な弟子の「声」を届けるために。


放送納品までの三週間。

それは、彼らの人生で最も短く、そして最も濃密な時間だった。


大御所・九条厳山の遺作となる最終話。そこに「AI生成音声」を使用するという前代未聞の提案に、テレビ局の上層部やスポンサーは猛反発した。倫理的な問題、炎上リスク、そして何より「偉大な役者の最期を機械で誤魔化すのか」という感情的な拒絶。 だが、宮本は一歩も引かなかった。


連日連夜、各所を飛び回り、土下座をし、時には九条が遺した権利を盾にし、自身のキャリアすべてを懸けて、文字通り泥まみれになり、彼が死に物狂いで勝ち取ったのは、ただ一つ。


『批判は後でいくらでも受ける。だからとにかく一度でいい、この声を聴いてくれ』

と、強固に扉を閉ざす上層部たちの前で、完成したレオンの音声を再生させる機会だった。


「……宮本さんが、命懸けで勝ち取った機会だ。絶対に、成功させるぞ」 充血した目をこすりながら、拓也がキーボードを叩く。 オフィスに籠りきりの奏太たちは、風呂にも入らず、ヒゲも伸び放題になっていた。


最終話の台本。

それは、レオンが長きにわたる旅の果てに、最大の敵と対峙し、そして仲間たちへ未来を託すという、文字通り「魂の集大成」とも言える内容だった。


生前の九条による手本(正解データ)は、一つも存在しない。G-01(レオン)は、これまでに学習した九条のすべての芝居の記憶から、この未知の台本に対する「最適解」を自ら弾き出さなければならなかった。


「……ラストシーン、レオンの最期の叫び。G-01(レオン)、テイク85。出力します」

景介の掠れた声と共に、スピーカーから音声が流れる。


『――未来を、頼むッ!』


「違う!!」

出力が終わるか終わらないかのタイミングで、剛がデスクを叩いた。


「綺麗すぎる! 音が前に出すぎてるんだよ! レオンはここで、すべての力を使い果たして膝をついてるんだ。喉の奥に血が絡むような、もっと生々しい『死線』の音がいる!」

「分かってる! 蓮、波形の低音域ローを少し削れ! 息の成分ブレスを15%増幅して、声帯の震えに不規則なノイズを混ぜるんだ!」

「パラメータ修正、急げ! 舞、ブレスのタイミングはこれでいいか!?」

「ダメ、あと0.05秒遅らせて! 息を吸う力すら残ってないはずだから!」

もはや、そこにあるのは「データ入力」などという無機質な作業ではなかった。


人間とAIが、一つの魂を共有し、削り出し、限界を超えようとする「狂気のセッション」だった。

幾度となくエラーを吐き出し、時に処理落ちでフリーズしながらも、G-01(レオン)は奏太たちのぶつける熱量に応えるように、波形を組み替え、音を紡ぎ続けた。


そして――約束の日の前日、明け方。


「……G-01(レオン)、テイク102。出力」 奏太が、祈るようにエンターキーを押した。


静寂に包まれたスタジオ。 スピーカーから、息を吸い込む微かな音が聞こえた。

それは、死の淵に立つ男の、ひどく掠れ、痛みに満ちた

――けれど、どこまでも誇り高い、最後の呼吸だった。


『――未来を……頼む』


スタジオの全員が、息を呑んだ。

声帯の震え、息の抜け方、そして言葉の裏に込められた、仲間への絶対的な信頼と愛。

それは単なる音声データの生成ではなかった。九条厳山という天才が三十年かけて磨き上げた「魂」が、プログラムという器を通して、完全にこの世界に顕現した瞬間だった。


「……」

いつの間にかスタジオに戻ってきていた宮本が、ドアの枠に寄りかかったまま、ポロポロと涙を流していた。スーツはシワだらけで、足元はおぼつかない。だが、その顔には、すべての重圧から解放されたような安堵の笑みが浮かんでいた。


「……合格だ。よくやった……さすが先生の愛弟子だ」

宮本が、モニターの中で静かに明滅するG-01(レオン)の波形に向かって、深く、深く頭を下げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ