9 田邊先生は手ぶらだった
高校時代の同期と、同じ職場になった人達を知っていますが、結構楽しそうですよね。
入学式の翌日は土曜日だった。銀河の祖父、銀次は、祖母の見舞いにいそいそと出かけて行った。自宅にいると双子の面倒を見なければならないからだ。祖母の英子も手術を前に不安だろうと、菱巻家の家族からは銀次の脱出に、反対の声は上がらなかった。
母の茉莉は、隣町まで1週間分の買い物に出かけていった。銀河とのじゃんけんに勝った紫苑が母の荷物持ちとしてついていった。という訳で、双子大好きの蒔絵と銀河の2人が、いつものように菱巻家に残された。
「へー。穂高兄ちゃんって、田邊先生の同期だったんだ。高校時代の田邊先生って、どんな感じだったんだろう」
洗濯物を干しながら、銀河は蒔絵から、担任の情報を聞きだしていた。
蒔絵は器用に、2本の哺乳瓶を持って、双子にミルクをあげていた。
「『手ぶらのヨッシー』って言われていたらしい。教科書はすべて学校に置きっぱなしで、学食で使う500円玉とシャーペン1本で、学校に来ていたって」
「宿題はどうしていたの?」
「学校ですべて終わらせていたから、教科書や問題集を持ち帰らなかったんだって」
「かっけー。じゃあ、部活の道具も持ってこないなら、帰宅部だったんだ」
「帰宅部じゃなくて、バスケット部だったらしいんだけれど。体育教官室の外に、洗濯機があるじゃない。あれで洗濯して、部室に干して帰って行ったんだって」
銀河はスポーツタオルを肩にかけて、ミルクを飲み終わった藍を持ち上げ、背中を叩いた。もう、服に吐かれるのは懲りたらしい。藍は男の子らしく、ガバガバとミルクを飲んでくれるのだが、どうも空気も大量に飲み込む癖があるようだ。
「バスケット部かぁ。なんか集団生活に向かなそうなんだけれど」
「そう?奥さんは、女子バスケット部の1学年上の人みたい」
銀河は、鮫島先生がバスケット部だったことを思いだした。
なんだか、高校時代の力関係が想像できるので、それ以上、詮索することはやめておいた。
背が高いけれど、優しい鮫島先生がいじめられていた高校時代だったのだろうと、勝手に想像したのだ。
藍がゲップを出したので、銀河はバスタオルを広げて、茜の隣に並べた。双子はお互いの顔をじっと見つめ合っていた。
「仲良しだね」
「もしかして、お互いの区別がついていないのかも知れないな。茜は藍の指を自分の指だと思って、食べていることあるよ」
「まあ、お互い同じものを食べて成長していくから、匂いも同じだろうしね」
銀河は、双子の隣に寝転がった。銀河の勉強机は、双子の部屋に置いてある。寝転がりながら、新入生登校日に手に入れたままの教科書をぼーっと眺めた。机の棚には、紫苑が1年の時に使った教科書が綺麗に並べられている。
「珍しいね。銀河が、買った教科書に手をつけてないなんて」
「紫苑兄ちゃんの教科書と比べたら、内容が変わらないんだ。兄ちゃんの教科書の方が書き込みもあるし、そっちを使って、俺の教科書はネットで売ろうかな?」
「だから、綺麗なまま名前も書かずにおいてあるのね。売ったお金で何するの?」
「新しいラケット買いたい。ガットを張り替えたい。シャトルももう少しいいものが欲しい・・・」
「ああ、それね。でも、例えお金が手に入っても、ラケットを買うにしても、ガットを張り替えるにしても、町のスポーツ屋さんに行かないといけないけれどね」
バドミントンの道具は、消耗品が多い。蒔絵は、銀河の気持ちがよく分かる。パワーヒッターの2人が入部して、もう既に、バドミントン部のシャトル半分を使い切ってしまった。いくら公式戦がないとはいえ、このままでは自腹でシャトルを買わなくてはならない。
バイトも出来ない2人は、ひとまず頭を切り替えることにした。
「明日の教科書を用意するか・・・。あれ?月曜日の授業って何だっけ。時間割は昨日配られなかったよね」
「それがさ、特進クラスは時間割を配られたらしいんだよね」
蒔絵は、翔太郎から特進クラス情報を仕入れていた。
「忘れたのか?しょうがないな。全教科持っていくしかないだろう。なにが、『手ぶらのヨッシー』だ。俺たちには荷物を強要するんだな」
月曜日、教室に行くと、クラスメートはみんな、重たい思いをして全教科の教科書を持ってきていて、口々に不満を漏らしていた。
「おはよう」
朝のHR(SHR・ショートホームルーム)に、田邊先生は、新入生に配布する用紙がたくさんあるはずなのに、手ぶらでやってきた。
(やっぱり手ぶらだ)
蒔絵の囁きが聞こえたようで、田邊先生は肩をすくめた。
「いやいや、僕は朝から重労働をしたんですよ」
そう言って、部屋の隅の段ボール箱を指さした。その中には生徒に貸与するiPadが人数分入っていた。それを運び込むのが重労働だったと言いたいらしい。
「じゃあ、まず、1人1台ずつiPadを取ってください」
田邊先生の言うとおり、全員が初期設定を済ますと、「HR」というホルダーを開けさせた。
「朝の連絡はすべてここに入れておきました。個別の連絡は、個人メールに入れておきました」
翔太郎が声を挙げた。
「先生、時間割が入っていません」
「教科書は学校においておくのに、時間割って必要ですか?持ってきた教科書は教室の好きな棚に入れておいてください」
「先生。教科の先生が来た時、授業準備していないと怒られます」
田邊先生は暫く考えて答えた。
「1限はすべて数学か情報だから、朝、その日の時間割をお教えします。因みに今日は、2時間HRで、3時間春休みの宿題テスト。最後の1時間は部活動紹介だそうです」
翔太郎はまだ食い下がってきた。
「先生、板書してください」
「手がチョークで汚れるから、嫌です」
「だって、先生。宿題テストの時間割だって分からないじゃないですか」
田邊先生は頭を捻った。
「春休みに勉強が終わっているはずなので、もう何も勉強することはありませんよね。休み時間はしっかり休んでください」
翔太郎に同情した里帆が、助け船を出した。
「先生、校時表もありません」
「チャイムが鳴りますよ。チャイムが鳴らないなら、校時表がないと困りますが、それともチャイムを切りますか?」
ここを校舎として使うと決めた時に、Wi-Fiと放送設備は設置したので、チャイムはしっかり聞こえている。
銀河が、翔太郎の肩を叩いて慰めた。
「『郷に入りては郷に従え』だ。田邊流に体を慣らそう」
やっと翔太郎の質問攻勢が終わったので、HRが進み出した。
「では、次にクラスの係を決めなければならないが、iPadに係を載せておいたので、希望の係にマークをつけてください。5分後に抽選します」
係の説明もなく強引なやり方だが、いつもはすったもんだして、1時間かかる係決めも終わってしまった。何故か、翔太郎が学級委員長。銀河は体育委員。蒔絵は保健委員。そして里帆は図書委員になった。
生徒は、残ったHRの時間に何をするのか。期待の表情で田邊先生の顔を見た。
校舎案内か、親交を深めるゲームか、はたまた体育館で自由に遊ぶのか・・・。
しかし、田邊先生は冷たく言い放った。
「じゃあ、数学の教科書を出してください」
全員が、首をガクッと落とした。
「皆さんの言いたいことは分かりますが、僕は『学校は、勉強の楽しさを学ぶところだ』と考えているので」
生徒は、しおしおとロッカーから「数学Ⅰ」と「数学A」の教科書とノートを持ってきた。
田邊先生は、ベビーベッドに一番近い、一番後ろの席まで歩いて行き、銀河の新品の教科書を取り、パラパラとめくった。
「銀河さん。どこまで勉強した?」
「数学Aは全部と、数学Ⅰはデータの分析の少し前までですか」
「そうだね。数学Aの『図形の性質』まで理解していれば、数学テストの最後の問題は簡単だね。テストの時に君たちは教科書を持っていなかったよね。
銀河さんは、お兄さんの教科書を見たのかな?」
「はい。カリキュラムは同じなので」
「じゃあ、この教科書はいらないね」
「へ?」
田邊先生は、銀河の教科書を教室の隅に置いてあるカッターで、バラバラにして、すぐさま、ページスキャナーにかけてしまった。
「あっ。『自炊』」
「自炊」とは、自分の持っている本をスキャナーで読み取って電子書籍にすることだ。田邊先生は、銀河の持っている教科書を、次々と「自炊」してしまって、その上、他の生徒も見られるように、クラスホルダーに投げ込んでしまった。
残念ながら、綺麗な教科書をネットで売って、シャトル代の足しにしようという銀河の企みは潰えてしまった。
「うん、iPadで見られれば、自宅に教科書を持ち帰る必要もないよね」
「因みに銀河さんは、数学のノートはどうしている?」
「学校で貰ったプリントの裏紙で」
銀河は、ノート代として貰った小遣いも、すべてバドミントンに使っている。
「そっか、僕はプリント配る気がないからね。裏紙は使えないね」
田邊先生は少し考えた。
「ノートは、iPadのメモアプリを使おう」
そこから授業が始まった。
誰もが持っているメモアプリを使って、ノートを取る方法。
「自炊」した教科書や板書などから、必要な問題や画像を読み取りメモに貼る方法。
そして、それらを各教科のフォルダにまとめる方法。
検索用のキーワードを設定する方法など、大きなディスプレイに、自分のiPadの画面を写して、一つ一つ丁寧に教えていった。
銀河は、鈴音が大学生の時に、iPadで授業を受けていたので、見よう見まねでいくつかの技術は知っていたが、今日新しく知った技も多かった。
LHRの最初の1時間は、iPadを使い倒す技術の説明に使われ、2時間目は実際に数学の授業をそれで行った。途中から、銀河や蒔絵達も教える側に回って、2時間目が終わる時にはクラス全員が一通りの技術を身につけた。
LHRの最後に、田邊先生は、生徒一人一人にA4版の少し厚いノートを配布した。
「デジタルもいいんだけれど、全員に時間の最後に、この紙のノートに学んだことを書いて貰おう」
「まあ、こう学んだことを記録する学級日誌みたいなものだ。メモに文字を打ち込むのが苦手な者はこのノートを使って勉強して、時間の最後に、写メして、各教科のフォルダに投げ込もう」
翔太郎は貰ったノートの表紙に、でかでかと「全教科ノート」と書き込んだ。