33 田邊先生はアドバイスをした
日本の女子中高生は「お姫様抱っこ」に弱いですよね。でも、抱かれる方に、腹筋がないと本当に重いんですよ。なんで、自分は、こんな話をしているんでしょう?
高校1年の応援席が、異様な盛り上がりを見せているが、『借り人競争』の5走が始まった。高校1年担任は、元々田中先生だったはずだが、息子の突然のカミングアウトに動揺しているので、しょうがなく田邊先生が走った。
当然、田邊先生は、効率よく1位になることだけを考えていたが、やっかいな条件カードを引いてしまった。
「一番大切な人」
田邊先生は、ダッシュで1年生の応援席に戻った。
「蒔絵さん、手伝ってください」
蒔絵の隣にいた里帆が、田邊先生に注意をする。
「先生、蒔絵は1回出ているから、使えませんよ」
「心配しなくて大丈夫です」
そう言うと、怪訝な顔をしている蒔絵の背中を押して「未来TEC」の応援席に走って行った。
「朋実、愛実を蒔絵に預けて、一緒に走ってくれ」
娘の愛実を抱っこしながら応援していた、朋実は田邊先生の意図をすぐに理解して、抱っこ紐のバックルを外した。
「すいません、蒔絵さん。娘をちょっとだけ、抱っこしていてください」
そう言うと、朋実は、抱っこ紐が着いたままの愛実を、蒔絵に押しつけて、応援席の前のロープを飛び越えた。
田邊先生と朋実は、手をつなぎながらも素晴らしいスピードで、走り出した。前を走るのは、高校3年の学年所属の栗橋弓子養護教諭と鮫島先生だった。
「弓子、待て-」
朋実にとって、弓子は高校の同級生、負ける訳にはいかない。
「鮫島先生、田邊夫妻が追ってきます。ギアを入れます」
ゴールテープは、栗橋・鮫島コンビが切った。
息を切らしている2人に、紫苑がマイクを向けた。
「高校3年所属の栗橋先生、条件を教えてください」
「『頼りになる人』です」
顔を赤らめた鮫島先生に、栗橋養護教諭は、すんとした表情で囁いた。
「高校1年にばかり勝たせる訳にはいきませんから」
「弓子はいつもツンデレなんだから、うちらのカードを見なさい」
朋実は、弓子に条件カードを見せびらかした。
「へ?『一番大切な人』?その条件なら娘を抱っこして来た方が1位になれたのに。田邊先生は阿呆ですか?そんなに朋実が怖いんだ」
朋実の肩に手を置いて息を切らしている田邊先生は、真顔で答えた。
「娘より、妻が大切なのは当たり前でしょう?」
紫苑がそれを聞きつけた。
「先生、急にデレないでください」
「いいえ。娘より、家族より、友人より大切だから、結婚したんですよ」
鮫島先生は、そんな田邊先生を見て、何故か胸がムカムカした。
(結婚したんだから、そんなにご機嫌取らなくてもいいのに)
マイクで条件を読み上げられるのは1位のみなので、田邊先生の誠意は朋実にしか分からないのだが、妻が喜んでいるので、田邊先生は満足だった。
「一緒に走ってくれてありがとう。応援席にすぐに戻ろう。蒔絵さんに、愛実を預けていますから」
そう言って、朋実と田邊先生は、「未来TEC」の応援席まで戻ろうとした。
「あの子、さっき『ずっと好きだった人』って条件で、蒔絵さんと走った子だね」
2人の視線の先に、肩を落として学食に向かう海里が見えた。
「若いって困りますね。ライバルにカードを見せちゃいけないのに」
田邊先生の顔には冷たい表情が浮かんでいた。
「ん?どういうこと?彼は、好きな子に勇気を出して告白したんだよね」
「まあ、勝つ気がないなら、それでもいいですけれど。
ああ、蒔絵さん。ありがとうございました。昼食休憩にすぐに入ってください」
急に、教師の顔に戻った夫の顔は、知らない人のようだった。
田邊先生は学食に向かったが、学食の手前で、「取り返しのつかないことをした」という顔の海里と出会ってしまった。
(そんな顔しても、俺は手助けしたくないんだけれど)
「どうしましたか?海里さん」
あまりに情けない顔なので、田邊先生はつい海里に声をかけてしまった。
(ああ、教師って因果な商売だ)
「先生。自分に正直にいようと思って、あんなことをしちゃったけれど、取り返しがつかない」
「取り返しはつくんじゃないですか?」
「どうしてですか?」
「『冗談だった』って、言えばいいことです」
「折角、気持ちを伝えたのに?」
「本人には、そのままで良くても、ライバルや周囲の友達には、『冗談だった』ってことにしておけばいいじゃないですか」
「先生は誰の味方なんですか」
田邊先生は、海里の質問に小さく肩をすくめた。
「僕は、担任ですから、誰の味方もしません。でも、シュートはフェイントした後に打つものじゃないんですか?今の状態ではがっちりディフェンスされますよ」
そう言うと、考え込む海里を後にして、田邊先生は学食に向かった。
昼食時間が終わるといよいよパフォーマンスの時間だ。前列にいた特進クラスの女子がいなくなったので、整列順を組み直した。
1列目は正面左から、田邊先生、翔太郎、田中先生、海里、蒔絵、銀河、里帆、鮫島先生だ。
蒔絵の向こうから銀河が、海里に話しかけた。
「『好きだった人』って、過去形か?」
「当たり前じゃないか、中学からお前達は、あんなにイチャイチャしていたんだもん。普通、諦めるさ。小学時代の淡い恋だったなぁ」
「いやぁだぁ。びっくりしたよ」
そう言って、蒔絵も笑顔を取り戻して、海里の腕を強く叩いた。
「あが、馬鹿力。腕が折れた」
あまり、大げさに海里が痛がるので、蒔絵は海里の腕を覗き込んだ。
「『腕が折れた』は現在完了形」
海里は顔を寄せて、蒔絵の顔を見つめた。
そう、日本語の「~た」は過去形と現在完了形の両方を現わす。
蒔絵の前に、田邊先生が歩いてきた。
「蒔絵さんが正面に来たので、長刀は踊る時は足元に置きましょう」
そう言って、蒔絵と銀河にだけ聞こえるように囁いた。
「まあ、あの程度のことで、動揺するような関係じゃないとは思いますが・・・」
今まで、息が合っていた2人は、蒔絵が長刀を持っていても、ぶつかるようなことはなかったが、昼休みの最後の「通し練習」では、どうも動きがちぐはぐだった。
はっとする銀河の顔を見つめて、田邊先生はにっこり笑った。
「Do your best」
そう言って、親指を立てた。
銀河は、戻っていく田邊先生の背中を見つめた。
翔太郎が、気合いを入れるように叫んだ。
「次は高校1年の番だ。ここまで、競技で稼いだ。パフォーマンスも取るぞ」
翔太郎は、心の底から「高校3年を抜いて優勝する」と信じていた。
アニメ「呪術師」のオープニングテーマが流れ、後列から順番に正面に入場していった。意外な仮装もあって、「あれ誰?」などと観客席はざわついた。
最もざわめいたのは、田中先生の「三条先生」でも、銀河の「パンダ先輩」でもなかった。
鮫島先生の「八海先生」だった。今日の鮫島先生はスーツを幅広のサスペンダーで釣り、髪はハードワックスで七三に固め、目には丸いサングラスを掛けていた。
手で派手な柄のネクタイを緩めると、会場からため息が漏れた。
「穂高お兄ちゃんって、黙って立っているとイケメンなんだよな」
蒔絵は兄を改めて見直していた。
観客席でも朋実がため息をついていた。
「鮫島君って、黙っていると、本当にカッコいいのよね」
そして、鮫島先生から田邊先生に視線を移した。
前髪を下ろし口元を隠し、学生服を着ていると、高校時代の目立たない印象が戻ってきた。
「ダンスも下手なのよね。うちの人」
高校1年生の入場が完成すると、田邊先生の「猫巻棘」が、首元のジッパーを下ろし、「止まれ」と拡声器で叫んだ。
曲がおなじみの清涼飲料水の曲に変わった。
観客の視線はあっという間に、銀河と蒔絵に移った。一糸乱れぬとはこういうことを言うのだろう。ジャンプした時の膝の高さ、着地した時の膝の角度、首の方向まで、ぴったり同じだった。
しかし、朋実の目には、一番端で踊る田邊先生しか入ってこなかった。
「高校時代は、あんなに下手だったのに、別人みたい」
隣にいるのが翔太郎なので、気が合っているとは言えないが、曲の細かい拍まで捉え、指先まで決めてくるところは、ゲームセンターで多くの観客を集めて踊っていたからであろうか。
正面の8人は2人ずつ組になって踊る。
鮫島先生の相手には、嫌がる里帆を引きずり出した。特進クラスの女子4人がいなくなって、銀河、蒔絵、田邊先生、里帆の4人がその穴埋めをしている。里帆はその後のスウェーデンリレーに出ることでも憂鬱なのに、苦手なダンスでも正面で踊ることになって、かなり緊張していた。まして、鮫島先生とは身長差がありすぎて、2人で手を合せるところも、かなり背伸びをしないと手が届かない。
最後のターンで、里帆は気持ちばかり焦って着地に失敗してしまった。大きく崩れた里帆を支える手はなかった。転んでから、鮫島先生が手を差し伸べたが、立ち上がっても里帆はふらふらとしていた。
曲が終わり、全員が仮装したアニメの登場人物さながらのポーズで止まった。会場から大きな拍手が流れた。田邊先生が拡声器で「動け」と叫ぶと、全員がアニメ「呪術師」のエンディングテーマで退場した。
里帆は満足に歩けないので、鮫島先生が、里帆をお姫様抱っこをして退場した。
この行動だけで、鮫島先生ファンが増えたが、当の鮫島先生は、全く別のことを考えていた。
「里帆さんは軽くて良かった。蒔絵だったら、持ち上がらなかったな」