第三十三話 終へ向かう者
異変が最初に確認されたのは、その日の午前四時十二分だった。
新Fフロート東京から南西へ約百二十キロ。人類の管理領域と、今なお〈神骸〉が跋扈する外領域との境界付近に設置された第五十一無人観測塔が、海岸線に沿って移動する複数の生命反応を捉えた。
確認された〈神骸〉は七体であり、その程度の数であれば特段珍しいものではない。
人類の生存圏から遠く離れた外領域では、今この瞬間にも無数の〈神骸〉が徘徊している。無人観測塔が一日に検知する数だけでも多い時には数百を超え、その中には人間の生活圏へ近づく個体も少なからず存在するため、当直の観測員たちも当初は通常業務の一環として処理するつもりだった。
しかし、監視記録を整理していた一人の観測員が、七体の進路に奇妙な共通点があることに気付いた。
「……こいつら、どこ行くつもりだ?」
薄暗い観測室の中、男は眠気を紛らわせるために飲んでいたコーヒーを机へ置くと、モニター上に表示されている七つの光点を拡大した。
種類は統一されていない。
四足歩行の獣型が三体、二足歩行の人型が二体、残る二体は背部に翼を持つ飛行型であり、本来ならば行動範囲も習性もまったく異なる〈神骸〉たちだった。
にもかかわらず、七体は一定の距離を保ちながら同じ方向へ移動している。
さらに不可解なのは、進路上に人間の居住区域が存在しているにもかかわらず、どの個体もそちらへ興味を示していないことだった。
人口三十人にも満たない小規模な居住区域とはいえ、人間の存在を察知すれば〈神骸〉は高い確率で襲撃行動へ移行する。それは長い戦争の中で積み重ねられてきた経験則であり、例外が存在しないわけではないものの、七体全てが同時に人間を無視するとなれば話は違ってくる。
「進行方向を算出してくれ」
「もう出してます。北東ですね」
もう一名の呟きに、男は眉根を寄せた。
「北東?」
そしてモニターへ視線を戻した。
地図上に一本の線が引かれる。
それを延長していった先に存在するのは、新Fフロート東京だった。
「珍しいですね……」
隣の観測員が呟いたものの、男は答えなかった。
現時点では何も分からない。七体程度なら、単なる群れの移動として説明することもできる。
「記録だけ残しておけ。念のため、第八と第九観測塔にも情報を回してくれ」
「了解です」
その時点で、誰も事態を深刻には受け止めていなかった。
――午前五時三十分、同様の報告が三件追加された。
――午前六時を回る頃には十二件となり、確認された〈神骸〉の数は五十を超えた。
――午前七時には外領域各所で百を超える〈神骸〉が同一方向へ移動していることが判明したものの、それでも警戒情報が発令されることはなかった。
〈神骸〉は時として人間には理解できない行動を取る。
季節の変化や海流、気圧、あるいは人類側には未だ解明されていない何らかの環境要因によって大規模な移動が発生した事例は過去にもあり、今回もその類いである可能性が高いと判断されたためであった。
だが、一つだけ過去の事例と異なる点があった。
百を超える〈神骸〉のほぼ全てが、同じ方向へ移動している。
同じ方向――つまり新F東京へ向かって。
そして、その数は時間の経過とともに増え続けていた。
■
「お兄ちゃん」
「……」
「お兄ちゃーん」
「……」
「おーにーいーちゃーん!」
「聞こえてるよ!」
耐えかねて綾乃が振り返ると、古びたソファの上ではナナが満面の笑みを浮かべていた。
ただ先日に比べ明らかに身体の線が細くなっている。せき込む回数も増えた。
それでも、あえて綾乃はいつも通りに振舞う。
「えへへ」
「朝から元気だね」
「約束、守ってくれたからね」
「……」
綾乃は苦笑と共に向き直る。
二人がいるのは、外領域沿岸部。
そう、沿岸部。
――海だ。
蒼を一望できる高台。
今では誰にも使われていない朽ち果てた古い建物。
かつて何のために造られた施設なのか、綾乃も詳しくは知らない。
外壁は所々崩れ、窓には補修した跡があった。恐らく綾乃たちと同じように誰かが住処として使用していたのだろう。
そして先日。
綾乃の身体には、もう一つ大きな変化が起こっていた。
視線の高さが戻り、肩幅も広がり、髪も以前の長さまで短くなっている。何度確認しても女性化していた時の面影はなく、数ヶ月に渡って悩まされ続けた身体の変化が、まるで最初から存在していなかったかのように消えていた。
「お兄ちゃん」
「はいはい」
「お兄ちゃん!」
「何回呼ぶのさ」
「だってお兄ちゃんになったから」
にぱーっと明るく笑うナナ。
「元々こっちなんだけどね」
「でも昨日までお姉ちゃんだったよ?」
「いやまぁ、それはそうだけど」
何と説明したものか思案を巡らしていると、
「じゃあ、どっちが本物?」
何とも難しい質問が飛んできた。
「……朝から難しい質問するなぁ」
綾乃は苦笑しながらナナの隣へ腰を下ろした。
「ま、どっちも僕なんじゃない?」
「ふーん」
「聞いておいて興味なさそうだね……」
「だって、ナナはどっちでもいいもん」
「え?」
「お姉ちゃんでもお兄ちゃんでも、あやのはあやのでしょ?」
あまりにも当たり前のことを言うように返されて、綾乃は言葉に詰まった。
昨夜も似たようなことを言われた。
この子にとっては、本当にそれだけのことなのだろう。
自分がどんな姿をしているのか。
どんな力を持っているのか。
そんなことは関係なく、斬崎綾乃という人間そのものを見ている。
「……子供って、たまに凄いこと言うよね」
「ナナ、もう子供じゃないもん」
「僕から見たら十分子供だよ」
「むー」
不満そうに頬を膨らませるナナの髪を、綾乃はくしゃくしゃと撫でた。
「えへへぇ」
「はは、撫でられて喜ぶのは十分子供じゃないかな」
「それとこれとは別!」
「はいはい」
笑いながら手を離す。
けれど、ナナが撫でられた髪を両手で整えようとして首を傾けた瞬間、綾乃の表情が僅かに曇った。
首筋に黒い侵食痕が見えている。
服に隠れるぎりぎりの場所まで伸びており、昨日よりも僅かに広がっていた。
「お兄ちゃん?」
不意に声を掛けられ、綾乃は我に返った。
「ん?」
「どうしたの?」
「何が?」
「怖い顔してた」
不安そうにナナが言葉を零す。
「き、気のせいだよ。ちょっと疲れが出たのかもね」
「ふーん……」
ナナが顔を覗き込んでくる。
綾乃はすぐに笑顔を作った。
「それよりさ、今日何が食べたい?」
「オムライス!」
ナナはきらきらとした目で手を勢い良く上げた。
海の高台に辿り着いた当日、偶然手に取った雑誌。
そこに描かれた「オムライス」が、ナナの心を鷲掴みにすることは想像に難くなかった。
そうして限られた材料の中、オムライスと呼べるか若干怪しい料理を振舞ったわけだが。
「また?」
どうやら気に入ってくれたらしい。
「オムライス!」
「昨日も食べたよね」
「好きだからいいの!」
ぴょんぴょんと身体を跳ねさせるナナに、綾乃は目を伏せ微笑する。
「はいはい分かったよ」
立ち上がろうとしたところで、不意に周囲の空気が低く震えた。
「……?」
綾乃は動きを止めた。
遠雷にも似ていた。
しかし、空には雨雲一つない。
綾乃はそのまま窓へ近づき、空を見渡した。
荒れ果てた大地。
遠くに残る廃墟。
そのさらに向こうには、青い空が広がっている。
見たところ何の異変もない。
「お兄ちゃん?」
ナナも後ろから近づいてきた。
「今の何?」
「……さあ」
綾乃はしばらく外を見つめていた。
妙な感覚だった。
何かがいるわけではない。
〈神骸〉の気配を感じたわけでもない。
それでも、いつもの外領域とは空気が違っていることに、今さらながら気付いた。
――静かすぎる。
普段なら遠くから獣の鳴き声や、小型の〈神骸〉が動く気配くらいは感じるものだ。
だが今日は、それがない。
「……」
「お兄ちゃん?」
「雷だね、ずいぶん遠くでなったようだけど」
「ふーん」
しかしここでナナを不安にさせる必要はない。
「腹減っただろ?」
「うん!」
「じゃあオムライス作ろうか」
「ケチャップいっぱい!」
「分かってるって」
綾乃は調理器具を取りに車へ向かった。
その途中で一度だけ、窓の外を振り返る。
何もいない。
それなのに。
胸の奥に生まれた小さな違和感だけは、いつまでも消えなかった。




