第五話「観測者は下請けにされる」
「……はぁ」
放課後の旧校舎三階の薄暗い廊下を歩きながら、俺は今日何度目か分からない特大の溜息を吐き出した。
ここ、宮園高校には、使われていない施設も多い。この旧校舎もその一つで、歩くたびに床板が微かに軋む音が響く。流石、木造建築だ。というかこの建物、本当に大丈夫なのか?耐震基準とか。
本校舎の喧騒から完全に切り離されたこの空間は、本来なら俺のような陰の者にとって絶好の隠れ家になるような場所である。
しかし、今の俺の足取りは鉛のように重い。
廊下の一番奥。古びた木製のドアには、手書きで『人類文化研究部』と書かれたプレートがぶら下がっていた。
ノックをニ回。返事を待たずにドアノブを回す。
「遅いわよ、讃良木くん。新入部員が重役出勤とは良い度胸してるわね。」
部室に入るなり、呆れたような声が飛んできた。
そこには、使い込まれた長机の奥で、パイプ椅子に優雅に腰掛ける白羽凛凪の姿があった。
そして、彼女の前には、なぜかコンビニのホットスナックが数種類並べられている。
「……白羽こそ、早すぎないか?まだ、HR終わって、十分も経ってないぞ。というか、それより、そのホットスナックは…?また、カロリーの大量摂取でもする気か?」
「失礼ね。このくらい、大したカロリーではないわ。それに、これは人類の豊かな食文化を研究するための『検食』よ。頭を使う前には糖分と脂質が必須でしょ?」
堂々と言い放ち、白羽は唐揚げを一つ口に放り込んだ。もぐもぐと幸せそうに咀嚼するその顔は、教室内で見せる華麗な姿とは完全に別物だ。
「あまり、その姿を見られたくないんじゃなかったのか?」
「最初はそう思ったんだけど、もう一度、あなたには見られたのだから、取り繕っても変わらないじゃない。それに、どうせ監視下に置くのだから、気にする必要もないことに気づいたわ。」
そう言いながら、白羽は次々とホットスナックを口に入れていく。お前はカー◯ィか?胃袋、ブラックホールかよ。
「で、本題だが、その『人類文化研究部』とやらは、普段何をしてるんだ? 名前からして胡散臭いんだが。」
俺が適当な空き椅子に腰を下ろしながら尋ねると、白羽はウーロン茶で喉を潤し、ふっと悪戯っぽく笑った。
「人類文化研究、すなわち、人類が歩んできた歴史やその営みをあらゆる側面から研究する……というのはもちろん建前。実質的には、生徒会の下部組織、もっと言えば、私の『私兵部隊』といったところかしら。」
「私兵部隊……」
「そう。私は生徒会役員もやってるでしょ? でも、表立って動けない案件や、生徒会が公式に受けるには細かすぎる雑務って結構あるのよ。そういうのを処理するための組織がこの部活。」
白羽は指を折って数え始める。
「主な活動内容は三つ。一つ、生徒会の事務作業の手伝いやデータ処理。二つ、生徒からの非公式な相談事やトラブルの解決。三つ、建前のための部活動。博物館見学とか、野外のフィールドワークもとい、ご当地グルメの研究とか。」
「待て、最後のはただの食料調達だろ。」
「あら、ご当地のB級グルメを実地調査するのは立派な文化研究よ?」
白羽は悪びれもせずに胸を張る。
要するに、完璧な生徒会役員としての顔を保つための「下請け」兼「ストレス発散のための隠れ家」というわけだ。俺という都合の良い労働力を手に入れた彼女は、これから思う存分、俺をこき使うつもりらしい。
「部員数は今のところ、あなたと私を入れて、三人ね。」
「三人…?いや、そもそも、俺はただ静かに高校生活を――」
俺が抗議の声を上げようとしたその時。
『コンコンッ!』
音は控えめだが、少し忙しいノックの音が部室に響いた。
その瞬間、白羽の雰囲気が劇的に変わった。ホットスナックの殻を光の速さで袋にいれ、ゴミ箱の中へと葬り去った。姿勢を正し、表情筋を『完璧な先輩』のモードへと切り替える。その間、一秒もなかった気がする。
「……どうぞ、入って。」
透き通るような、それでいて威厳のある声。
ドアが開き、ひょっこりと顔を出したのは、小柄で真面目そうな雰囲気の女子生徒だった。くりっとした大きな吊り目ぎみの瞳にダークブラウンのセミロングヘアー。小動物っぽい愛らしい見た目をしている。
そんな彼女は手に分厚いファイルの束を抱えているようだ。
「失礼します、白羽先輩! 生徒会の先月のアンケート集計資料をお持ちしまし……て、えっ?」
彼女は言葉を切り、大きな目をさらに丸くして俺を指差した。
「せ、先輩! なんでこんな薄暗い密室に、見知らぬ男子生徒がいるんですか!? まさか、この男が先輩を脅して無理やり……っ!」
「落ち着いて、月城ちゃん。彼は今日からこの部に入部した讃良木透くんだから。」
白羽が優しく宥めると、月城と呼ばれた少女は警戒心も露わに俺を睨みつけてきた。
「……ニ年ニ組の讃良木透だ。よろしく。」
「一年三組、月城紗良です。生徒会で書記を務めています。人類文化研究部にも所属しています。」
彼女は冷たい声で名乗ると、俺を一瞥して冷めた目つきで睨んでくる。
「白羽先輩が部長を務めるこの崇高な部活に、あなたのような……いかにも影が薄そうな人が入るなんて。一体、どうやって先輩を騙したんですか?」
「縁があってな。白羽から誘ってもらったんだ。」
流石に初対面の先輩に向かって失礼すぎるんじゃないかと内心思いながらも、大人の対応を取る。
「本当にそうなんですかね。何か弱みでも握って、脅してるんじゃないんですか。あなたみたいな底……いいえ、一般生徒の入部届にも判を押してしまうなんて!」
こいつ、底辺って言おうとしたか?いま。
どうやら、月城は白羽を神か何かのように崇拝しているらしい。彼女の目には、俺が白羽の慈悲につけ込んだ邪悪な悪魔のように映っているのだろう。
「月城ちゃん、讃良木くんと仲良くしてあげて。彼はパソコンの扱いに長けているの。これからのデータ処理や、細かい調査で絶対に役立ってくれるから、私が直接スカウトしたのよ。それに彼は中間テストで学年10位に入っているし、学力も申し分ないわ。」
まぁ、確かにパソコンは多少いじれないことはないが、よくもまあそんな嘘をペラペラと。それよりも、この短い間で俺のテストの順位まで把握しているのか。少し、恐ろしいな。
「え!?そうなんですか!?白羽先輩が、直々に……? そ、それなら仕方ありませんが……」
月城は不満そうに唇を尖らせつつも、持ってきたファイルを机に置いた。
「先輩、先月の『全校生徒意識調査』のデータです。これを過去のデータと比較して、今週末までに表やグラフで分かりやすいようにしてくれと会長が……。私、エクセルの使い方とか全然わからなくて……」
「大丈夫よ、月城ちゃん。ちょうどいいわね」
白羽はにっこりと微笑むと、その分厚いファイルの束を、スッと俺の目の前に滑らせた。
「讃良木くん。あなたの初仕事よ。明日までに、綺麗なグラフ付きで分析資料をまとめておいてね。」
「……は? 明日まで?」
「ええ。得意なんでしょ?こういうの。初仕事、期待しているわ?」
ニコニコと笑う白羽と、疑わしげな目を向けてくる月城。
俺はファイルの山を見下ろし、心の中で白旗を上げた。突然発生した青春の重力は、容赦なく俺をこの下請け構造へと引きずり込んだのだ。
どうやら、本当に俺の平穏な高校生活は、完全に終わってしまったらしい。




