第二話「観測者は引き込まれる」
「キンコーン、カンコーン」
午後の授業開始を告げるチャイムが、広大な校舎に重々しく響き渡り、5限目の現代文が始まった。
いつもなら、窓際後方の特等席から、外にそびえる富士山を眺めながら、意識を無の境地へと飛ばす平穏な時間だ。
だが、今の俺の視界には、あの霊峰よりもはるかに巨大で厄介な存在が映り込んでいた。
(……のっぽパン、富士宮やきそば、バウムクーヘン、その他諸々……)
記憶を何度もデリートしようとしても、先ほどの光景が脳裏にこびりついて離れない。
旧倉庫の裏で、必死に食べ物を口に詰め込んでいた白羽凛凪の姿が、鮮明にフラッシュバックしてくる。
結局、あの致死量に近い炭水化物の山を、彼女の胃袋はどう処理したのだろうか。
ふと、斜め前方に座る彼女の背中に目を向ける。
そこには、相変わらず非の打ち所がない凛とした後ろ姿があった。ピンと伸びた背筋、陽光を反射して美しく艶めく黒髪。わずか数十分前に、地べたに座り込んで炭水化物をむさぼり食っていた人物と同一人物だとは、到底信じられない。
その時だった。
スッ、と。白羽が不自然なほど滑らかで、一切のブレがない動作で首を斜め後ろへ向けた。
「っ……」
その刹那、俺の視線と彼女の視線が、教室の空中で激突する。
そこには、普段の教室で見せる穏やかな慈愛の色など微塵もなかった。
細められた瞳の奥に宿っていたのは、獲物を仕留める直前の肉食獣のような鋭さ。いや、『口封じ』という明確な意志すら孕んだ氷の刃だ。
俺は即座に視線を開いてあった教科書へと落としたが、網膜に焼き付いた冷徹な表情が、心臓の鼓動を無駄に早めさせる。
まずい。非常にまずい。
一度、みてしまった以上、もうなかったことにはできない。
このイレギュラーな事象の危険度を冷静に分析しようと試みる。が、脳内のアラートがけたたましく鳴り響き、思考の処理速度が完全にフリーズしていた。
それからというもの、彼女は時折、髪を耳にかける優雅なフリをしながら、執拗に後方のこちらを窺ってきた。
その度に、俺の周囲だけ局地的に酸素濃度が下がっていくような息苦しさに襲われる。
「今日の白羽さん、なんだかアンニュイで素敵だ……」
前方の席に座るお気楽な男子生徒が、そんなうわ言を漏らしているのが聞こえた。
冗談じゃない。お前たちの目にはあれがアンニュイに見えるのか。あれはそんな生易しいものではない。生存者の逃走ルートを完全に塞ぐための、極めて冷酷な索敵行動だぞ。
何も起きませんようにと心の中で念じるが、一度捉えられた重力は非情である。
不意に、板書をしていた彼女の手元から、微かに『ボキッ』とシャーペンの芯が折れる音が聞こえた。次いで、周囲の誰にも気づかれないような洗練された手つきでノートの端を破り取る。
そして何かを書き込み、そっと小さく折りたたんだ。
やがて、授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
同時に彼女は流れるような動作で席を立ち、俺の机の横を通り抜ける。すれ違いざま、その小さな紙片が、ふわりと俺の机の端に落とされた。
去り際、彼女の桜色の唇が音もなく動いたのを、俺の目は確かに捉えていた。
(『逃げないでね』)
幻聴すら聞こえそうなほどの圧を伴って、そう言ったように見えた。
彼女の背中が教室を出ていった後、俺は手元に残された小さな紙片をわずかに震える指で開く。
『放課後、もう一度あの場所で。――話があります。』
丁寧で美しい筆跡。だが、紙を突き破らんばかりの凄まじい筆圧が、彼女の静かなる怒り、あるいは切羽詰まった焦りを雄弁に物語っていた。
俺がこれまで必死に守り続けてきた「絶対防衛ライン」は、このちっぽけだが確かな質量を孕んだ紙片一つで、あっけなく崩壊したのだった。
「……観測者なんて、言って呆れるな」
誰にともなく自嘲気味な溜息をつきながら、再び窓の外の富士山を仰ぎ見た。
山はただ黙って、強大な重力に捕捉され、これから翻弄されるであろう哀れな人間を、どこか冷ややかに見下ろしていた。




