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相当間があきましたが、更新です。
誤字脱字は脳内補完でお願いします‼︎
柔らかい風が、彼女の頬にかかる髪の毛をそよがせる。窓際に椅子を引き寄せ読書に耽っていた結衣はいつの間にかまどろみに誘われ、すっかり眠り込んでいた。開かれた窓から桜の花びらが舞い込んでくる。薄桃の花弁が部屋の中にいくらか春の空気を運んできてくれる。
その空気の中に甘みを感じるのは果たして自分だけなんだろうか、と直也はその光景を眺めながら思った。窓際の壁にもたれながら、直也はじっと結衣の顔を見つめている。二人で買いに行ったレース生地のカーテンが春風に晒されて彼女の膝元をくすぐっていく。頬にかかった髪の毛が口の中に入ってしまいそうで、直也は手を伸ばしてどかしてやろうとしている。
あの日、二人が出会った時から約一年が経過していた。結衣の人事異動から間もないころに起きた事件だったから、本当にまるまる一年間である。
今はもう結衣は直也の担当からは外れている。今は窓口業務に回されて、もうすっかり仕事に慣れ始めているそうだ。《情報審査会》の内情を詳しく知ってもいいことはないからそれ以上のことは直也は知らないが、結衣が精神的に安定していることは好ましく思っていた。
そして直也自身も、こうして結衣を自分の質素なアパートに招いてしまっていることにそこまでの違和感を抱かなくなっていた。
これは好意と呼ぶべきものなのだろうか。
高遠直也という男は、そういったことに関してはとことん疎い人物だ。いや、彼に限らず《真実書記官》は人との交流をほぼ禁じられている状態だった。
情報を記録し、管理する際にはあらゆる主観情報を捨てよ。
それが彼らの金科玉条であり、破ることのできぬ鉄則だった。
主観情報は客観情報を浸食し、「想像界」と「現実界」の結合を破壊してしまう。これは最初に《真実書記官》制度を考案した学者たちが異口同音に口にしたことだった。
元々人間というのは想像界、現実界、象徴界を別々に認識している訳なのだが、特殊で過酷な訓練を積んだ《真実書記官》たちはこれらを絡めて世界を俯瞰することができる。それによって齟齬のない、矛盾のない、理路整然とした筆致で世界を描写することができる。
しかし、《真実書記官》たちにとってもそれは容易な話ではない。常に精神を一定に抑制する術を身につけなければいけなかったし、それができない人間は容赦なく候補からはずされたり、もしくは薬物の投与を受けたりした。人間としての感情を捨て、記録機械になること。これこそが《フクロウ》が《フクロウ》たるゆえんなのだ。
そういう意味では、もう自分は人間ではない。直也は常々そう思い続けてきた。
人と関わることなく、鳥瞰する存在に自分はなってしまった。人として誰かと関わることはもうないんだと、ずっとそう思っていたのだ。
だが、そこに突如として現れた存在が中谷結衣という女性だった。
二人は秘密を共有しつつ、何か特別な関係を築きつつあった。
結衣は直也と接触してしまったことを、直也は業務中に持ち場から離れて仕事を放棄してしまったことを。二人は二人の秘密を守り続け、今はこうして平穏な生活を送り続けていられる。直也も結衣もまだ職場にはこのことが露呈していない。それは二人が二人ともこの生活をどこかで望んでいるからだ。
本当なら二人はあの事件以降決して再会していい間柄ではないし、すぐに赤の他人としての人生を歩んでいくはずだった。だが、あれ以降「情報の共有」という名目で頻繁に会うようになって、直也自身どこかで自分の変化を感じていた。
今まで感じなかった、温かい胸の感触。結衣と話すと、自分の中のさび付いた血管に温かい人間の血が循環していくのが感じられる。結衣が口にするとりとめもない話で、自分が人間に戻った気がするのだ。好きな本の話。映画の話。この間行ったコンサートのこと。直也が忘れて久しい生活が、結衣の言葉で生き生きと語られた。
ただ、その感覚は直也にとっては恐ろしくもあった。
結衣との交流を経ていった先にあるのは、かつての自分の生き方を全否定することだ。
人としての生き方を捨て、親元からも離れて得た《真実書記官》という職。世界を把握することができる、全知全能に近い力。結衣に近づけば近づくほど、その力に綻びが生まれていくのを感じていた。
《フクロウ》としての力は、それまでの直也の人生にとって全てだった。それを放棄した先に、自分に一体何が残されるのか。直也にとってはそれは恐怖だった。
もし、空っぽだったら?
自分の中に残されたものが、虚無だけだったら?
それはあまりにも恐ろしい想定だった。中谷結衣という一人の人間のために、かつての自分を殺せるのか、直也にはわからなかった。もしも結衣が直也の元から離れた時、直也に残されたものはもう何もなくなってしまう。それは生き地獄と言うものだろう。
直也はそうして、結衣の頬に延ばしていった手を中空で止めた。
彼女に、このまま触れてしまっていいのか?
そういった危機感が彼の中にはあった。直也と結衣は、一線はまだ越えていない。あくまで「協力者」の関係だった。それ故に引き返せるのだとしたら、おそらくターニングポイントはもう近い。
「結衣。俺は・・・・・・」
虚空をさまよう自分の手を握りしめて、直也は唇をかみしめた。