完結編第三話 少しずつ慣れてください。私に見つめられることに
クラウディアはやっとの思いで息を吐いた。
自分が思っていたより、深く息を止めていたらしい。胸の奥が少し痛む。
「大丈夫ですか」
「ユリウス様。お気遣いありがとうございます」
「本当は、もっと穏やかな場でご挨拶したかったのですが」
「私に、ですか?」
「はい」
青い瞳が、まっすぐこちらを見る。
人の多い夜会場のはずなのに、その瞬間だけ音が遠のいたような気がした。
「王立書庫で、何度かお見かけしていました。一度だけ、話しかけたのを覚えていませんか?」
「一度だけ……?」
確かに、何度か見かけたことがある。
東方航路の資料棚の前で、同じ時刻に居合わせた。
「お茶を飲んでいらしていた時、とてもいい香りがしたので、思い切って声をかけたんです」
「あっ……!」
「あまりにも見すぎて、あの香りを覚えてしまいました」
頬に熱が集まる。
見られていた恥ずかしさより、香りを覚えられていたことへの戸惑いが大きかった。
アルノルトは、私が何を好んで飲んでいるかなど気にしたことがなかった。
疲れている日に茶を濃く淹れることも、雨の音で肩が強張ることも。
それなのに、この人は……
「クラウディア様。一曲、お願いできますか」
「……私でよろしければ」
手を重ねると、ユリウスの手は温かい。
強く握らないのに、指先までしっかり支えられている。
楽団が次の曲を始め、ユリウスに導かれて輪の中へ入る。
足を踏み出した瞬間、ドレスの裾がふわりと揺れた。
周囲の視線はまだある。ささやきも消えてはいない。
けれど、ユリウスの手に触れているところだけが妙に温かい。
「ゆっくり踊りましょう」
「周りに合わせなくてよいのですか」
「あなたに合わせます」
さらりと言われて、呼吸が乱れた。
「ユリウス様は、そういうことを自然におっしゃるのですね」
「そういうこと?」
「いえ。何でもありません。気にしないでください」
「それは難しいですね。クラウディア様のことなら、なんだって気になります」
その言葉に足を間違えそうになると、ユリウスはすぐに気づき、わずかに歩幅を小さくする。
「……すみません」
「謝らないでください。今のは私が悪い。あなたを可愛らしく動揺させました」
「からかっていらっしゃいますか」
「はい。ですが、可愛らしいと思ったのは本当です」
今度こそ、足を踏みそうになると、ユリウスはかすかに笑う。
その笑みは派手ではないのに、胸の奥をくすぐるように甘かった。
耳の後ろまで熱くなる……会場の明かりがやけに眩しい。
けれど、不思議と嫌ではない。
自分が誰かの目にどう映っているかを考えるのは、いつも息苦しかった。
妻として相応しいか、元夫に恥をかかせないか、家に迷惑をかけないか。
でも、今は違う。
この人の目に映る自分は、責められるためのものではない気がする。
一曲が終わる頃には、指先の冷たさは消えていた。
夜会の熱を少し逃がすために、クラウディアはバルコニーへ出ると、少し遅れてユリウスが来た。
庭の植え込みから、夜露を含んだ葉の匂いが上がってくる。遠くの噴水の音が、会場の音楽をやわらかく遠ざけていた。
「あの家を、本当に使用人の寮にされるのですか」
「あなたにとって、良い思い出ばかりではないでしょう」
思わず顔を上げると、ユリウスは庭を見ていた。
横顔に、室内から漏れる灯りが淡くかかっている。
「なぜ、それを……」
「あの家の話になったとき、あなたはほんの少し息を止めました」
「よく……見ていらっしゃるのですね」
「あなたのことは、見てしまいます」
あまりにまっすぐな言葉。
風が頬を撫でる。冷たいはずなのに、顔だけが熱い。
「不快でしたか」
「いいえ。ただ、慣れていなくて」
「では、少しずつ慣れてください。私に見つめられることに」
クラウディアは、返事ができなかった。
「失礼。急ぎすぎました」
ユリウスは困らせたことに気づいたのか、少しだけ目を伏せる。
「私は、あなたに近づく機会を伺っていました。けれど、離縁直後のあなたに話しかけるのは、不躾に思えて」
「それで、書庫に何度もいらしたのですか」
「正確には、見かけるたびに話しかける理由を考え、毎回諦めていました」
「なぜ」
「理由が、どれも不自然だったので。やっとお茶のことをきっかけに話しかけることができました」
「……お茶」
「いえ、よい香りだと思ったのは本当だったんです」
その答えがあまりに真面目で、クラウディアは小さく笑ってしまった。
先ほどまで胸に残っていた冷たい塊が、少しずつ溶けていく。
ユリウスも、ほっとしたように目元をやわらげた。
「今、笑ってくださいましたね」
「……失礼しました」
「よかった。今日の目標がひとつ叶いました」
「目標?」
「あなたが、私の言葉で笑顔になってくださること」
胸が甘く痛んだ。
この人は、どうしてこんなふうに言うのだろう。
大げさではなく、飾りもしない。けれど、逃げ道がないほど優しい。
「どうして、そんな……」
「好きな人のことなので」
夜風が、ドレスの裾を揺らす。
庭の噴水の音が遠くなると、胸の中で鼓動だけがやけに大きく響いた。
「……今、何と」
「好きな人のことなので、と申し上げました」
「……ユリウス様。私たちは、今日初めてまともに話したばかりです」
「私は、あなたをずっと見ていました。もちろん、見ていただけであなたを知ったつもりはありません。だから、これから知りたい」
ユリウスは、胸に手を当てた。
夜会場での礼よりも、ずっと静かで、ずっと真剣な仕草だった。
「クラウディア様。どうか、私にあなたの元を訪ねる許しをいただけませんか」
「私の元を……」
「はい。あなたが好む茶も、それ以外のことも、どんなことでも、これから少しずつでも知りたい」
「私には、離縁歴があります」
「知っています」
「社交界で、何を言われるかわかりません」
「それも知っています」
「アスター公爵家に、ご迷惑が」
「私があなたに惹かれたことを、迷惑と呼ぶ人がいるなら、その人とは少し距離を置きます」
「少し」
「必要なら、かなり」
思わず笑ってしまった。
涙が出そうなのに、笑ってしまう。
ユリウスは、そんなクラウディアを見て、ひどく嬉しそうにした。
「また笑ってくださった」
「ユリウス様のせいです」
「それは光栄です」
「褒めていませんよ?」
「それでも、嬉しい」
その素直さに、胸の奥がくすぐったくなる。
クラウディアは、自分の手を見下ろすと、手袋に包まれた指はもう震えていない。
先ほどアルノルトに声をかけられたときは、あんなに冷たかったのに。
「いつか、もしも私が誰かとまた家を持つのなら」
言葉が喉でつかえる。
ユリウスは急かすことなく、ただ静かに待ってくれる。
「雨が降る前に、リネンを取り込んでくれる人がいる家がいいです」
顔が熱い。夜風では冷えないほどに。
「すいません……忘れてください」
「忘れたくないです。大切に覚えておきます」
「恥ずかしいです」
「私は幸せです」
ユリウスは、そっと手を差し出した。
触れる前に、きちんと止まる。
「手を取っても?」
「……はい」
クラウディアが頷くと、彼は手袋越しに指先を包んだ。
強くない。逃げようと思えば逃げられる。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「冷えてきましたね。中へ戻りますか?」
「もう少しだけ、ここにいたいです……」
「はい」
返事があまりに自然で、胸の奥が甘くなる。
もう少しだけ。そう言った私のわがままを、この人は当たり前のように受け取ってくれる。
急かさず、否定せず、困った顔もせずに。
「クラウディア様。今日、あなたをお守りできたとは思っていません」
「え?」
「あなたは、ご自分で立っておられました。私は少し、横から口を出しただけです」
「そんなことは」
「けれど、次に誰かがあなたの過去を勝手に踏みつけようとしたら、また横から口を出します」
その言葉が、夜気よりも深く胸に入ってくる。
「それは、頼もしいですね」
「頼ってくださいますか」
「少しずつなら」
「では、少しずつで」
ユリウスは、クラウディアの手を取ったまま、軽く身をかがめた。
「今日のところは、手の甲に口づける許しをいただけますか」
そんなことまで尋ねるのかと思った。
けれど、その丁寧さが嬉しかった。
「はい」
答えると、ユリウスは手袋の甲に唇を落とした。
ほんの一瞬だけれど、そこから熱が広がったような気がした。
彼が顔を上げると青い瞳が、灯りを映してやわらかく揺れている。
クラウディアは、手袋の甲に残るはずのない温度を感じながらそっと笑った。
あの家は、もう自分の家ではない。アルノルトの家でもない。
いつか、別の誰かが眠る場所になる。
雨の日に慌てず帰れる、ただの寮になる。
過去の家は、過去の役目を終える。
クラウディアは、ユリウスの手をほんの少しだけ握り返した。
胸の奥が、蜂蜜を溶かしたように甘く温まっていく。
夜会場から、新しい曲が聞こえてくる。
冷たい風が吹いたが、手は温かいままだった。
この人となら、雨の日を少し好きになれるかもしれない。
そう思った瞬間、クラウディアは自分の心が、もう過去の家の中にはいないことに気づいた。
最後までお付き合いありがとうございました。
直前までがあれだったので……四苦八苦しながら、なんとか甘いお話に着地できたかな…と思ったんですがいかがでしたか。
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