第二十話 三歳ですが、この家族と一緒に戦います
調査の当日が来た。
朝から屋敷が慌ただしかった。使用人たちが廊下を行き来し、応接室の準備をしている。お父様は早朝から書斎にこもっている。ルードは今日だけ訓練を休んで屋敷にいる。
ジルがわたしの部屋に来た。
「フィア様、今日のことは分かっていますか」
「うん。じゅんびできていましゅ」
「練習の成果を出す日です」
「うん」
「怖いですか」
「こわくないでしゅ。れんしゅうしましゅたから」
ジルがわたしを見た。
「……フィア様は、この三週間、本当によく頑張りましたね」
三週間、毎日練習した。
意識的な制御は、ほぼ完璧になった。感情連動の部分は、八割まで上がった。猫は……七割まで来た。特別カテゴリは最後まで手強かった。でも、以前と比べれば格段に良くなった。
「ジルのためいき、こんしゅうはゼロでしゅ」
「はい」
「うれしいでしゅ」
「わたしもです」
ジルが窓の外を見た。
「グレンドル翁が来たら、フィア様は部屋にいてください。約束通り」
「うん、いましゅ。でも」
「でも?」
「にげましぇん。さいごまでここにいましゅ」
「……はい、一緒にいます」
午前十時、馬車が来た。
わたしは二階の窓から見た。今日は三台だ。前回より多い。
グレンドル翁が降りてきた。紫のローブ。白髪。鋭い目。
お父様が正面で出迎えた。完全に感情を消した顔で。
(今日もお父様は戦っている)
わたしは胸の中で魔力を確認した。
落ち着いている。漏れていない。
(よし)
一度止めて、呼吸を入れた。いつもの手順だ。
制御を、最大限に絞った状態で保つ。
調査が始まった。
翁たちが屋敷を歩き回る足音が聞こえた。一階から、少しずつ近づいてくる。
わたしは部屋で静かにしていた。ノートを開いて、今日の記録を書いた。
でも実際には、ずっと魔力の制御に集中していた。
一階の廊下。玄関ホール。食堂。書斎の前。
足音が二階に上がってきた。
(くる)
廊下を歩く音。ひとつ、ふたつ、みっつ。
わたしの部屋の前で、止まった。
心臓が少し速くなった。
(感情が動いた。制御が乱れる前に)
一度止めた。
呼吸を入れた。
落ち着け。前世で何度もシステム障害に対応してきた。あの時も怖かった。でも手順通りにやった。今も同じだ。
(手順通りに)
魔力を絞った。できる限り内側に押し込んだ。
外から声がした。翁の声だ。
「この部屋に、誰かいますか」
お父様の声。
「末の娘の部屋です。体調が優れず、休んでいます」
「失礼ですが、拝見しても」
「体調が優れない子を、驚かせるわけにはいきません」
少しの間があった。
「……ふむ」
翁の声が少し低くなった。
「ヴェルター卿、この辺りで、何か感じませんか」
「古い屋敷ですから、魔力の染み込み方が均一でないことがありますが」
「なるほど」
翁がもう少し何か言いかけた。
そのとき、廊下の奥から声がした。
ルードの声だ。
「グレンドル翁、一階の庭側に少し変わった魔力反応があると聞いたのですが、確認いただけますか」
(囮だ。お兄様が引き離してくれた)
翁の足音が遠ざかった。
お父様の足音も遠ざかった。
わたしは少し息を吐いた。
(通過した)
でも、まだ終わっていない。調査は続いている。
昼過ぎまで調査が続いた。
翁は何度か二階に来た。そのたびにわたしは制御を絞った。
三回目に来たとき、少し長く部屋の前にいた。
(感じ取っているかもしれない)
わたしは制御を最大限に絞った。猫のことを考えた。一度止めた。呼吸を入れた。
猫だって制御できるようになった。これくらいできる。
翁の気配が少し揺れた。
そして、遠ざかった。
(また通過した)
午後二時、翁たちが帰った。
馬車が門を出た音がした。
ジルがわたしの部屋に入ってきた。
「フィア様、終わりました」
「うん」
「よく頑張りました」
「うん。お父様は?」
「今、見送りから戻ってきています」
わたしは部屋を出た。
廊下でお父様と鉢合わせした。
「フィア」
「おとうさま、おつかれさまでしゅ」
「……お前こそ」
「だいじょうぶでしゅたか」
「ああ。フィアは?」
「だいじょうぶでしゅ。みっかいとおりましゅた。さんかいとも、たちどまりましゅた」
「気づいていたのか」
「うん。でも、こえてきましぇんでしゅた」
お父様がわたしを抱き上げた。
「……よくやってくれた」
「うん。れんしゅうのせいかでしゅ」
「それだけじゃない」
「そうでしゅか」
「お前が逃げなかったから、俺も逃げなかった」
わたしはお父様の肩に頭をもたせかけた。
「ねこも、せいぎょできましゅた」
「本当か」
「うん。さんかいとも、みっかいとも」
「ねこを想像したのか」
「うん。でも、いちどとめましゅた。いきをすいましゅた。そしてせいぎょしましゅた」
「完璧じゃないか」
「ねこはとくべつカテゴリでしゅが、なんとかなりましゅた」
お父様が少し笑った。
ルードがやって来た。
「終わったか。フィア、大丈夫だったか」
「うん。おにいしゃまのかいもあって、とおりましゅた」
「気づいていたか、俺の動きに」
「うん。あのとき、にかいのろうかからひきはなしてくれましゅたよね。ありがとうでしゅ」
「役に立てたならよかった」
ジルも廊下に来た。四人が揃った。
「みなさん、おつかれさまでしゅ」
わたしはお父様の腕の中から言った。
「かいぎのやくわりどおり、うごけましゅたか」
「……うごけた」
「よかったでしゅ。じゃあ、つぎのかいぎは、またこんどでしゅ」
「次もあるのか」
「たぶん、またきましゅ。そのときも、おなじようにやりましゅ」
「……そうだな」
お父様が言った。
「でも、今日は少し休め。よく頑張ったから」
「うん。でも、ひとつだけ」
「なんだ」
「きょうのじっせきをきろくしましゅ。あとでやくにたつでしゅから」
「……記録するのか、今日のことを」
「はい。じっせきはだいじでしゅ」
ルードが笑った。
「システム管理者だな、完全に」
「まえのしごとのくせでしゅ」
「悪くない癖だ」
その夜、わたしは部屋でノートを開いた。
今日の記録を書いた。
調査の回数、翁が立ち止まった場所、制御できた回数、猫の特別カテゴリの成果。
最後に一行書いた。
「ちーむで、のりこえましゅた」
ノートを閉じた。
窓の外を見た。
夜の庭が静かに広がっている。
月明かりの中で、花が穏やかに光っていた。
今日は揺らさなかった。
きらきらさせなかった。
でも、心の中ではきらきらしていた。
(みんながいれば、なんとかなる)
それを今日、証明した。
前世では一人で画面と向き合っていた。障害が起きるたびに、一人で原因を探して、一人で直した。誰かに頼るのが苦手だった。
でもここでは、違う。
お父様がいる。お兄様がいる。ジルがいる。
一人じゃない。
(これが、この世界に来てよかったことのひとつだ)
わたしは目を閉じた。
まだ案件は終わっていない。翁はまた来るかもしれない。王家の動きは続く。
でも、今夜は少し休もう。
明日からまた、練習する。記録する。チームで動く。
三歳にできることは限られている。
でも、三歳でもできることがある。
(制御を続けること。記録を続けること。家族を信じること)
それで今は十分だ。
庭の花が、月明かりの中で静かに揺れていた。
わたしは窓ガラスに手を当てた。
光らせなかった。
でも、温かかった。
手のひらが、少し温かかった。
(おやすみなさい、みんな)
そっと呟いた。
誰にも聞こえない声で。
でも、届いている気がした。
この家族には、きっと届いている。
案件はまだ続く。
でも、このちーむなら、きっとなんとかなる。
数字は、そう言っている。
いや、今回は数字じゃない。
もっと別の何かが、そう言っている。
わたしはそれを、まだうまく言葉にできない。
でも、それでいい。
三歳だから。
まだ覚えることが、たくさんある。




