第一話 気づいたら三歳でした
気づいたら、天井が見えた。
白い天井だ。木の梁が走っていて、薄いレースのカーテンが風に揺れている。どこかで小鳥が鳴いている。
(……ここはどこだ)
わたしは少し考えた。
前世の記憶がある。田中みずほ、享年二十九歳。都内の中堅企業でシステム管理者をしていた。サーバーの監視、ネットワークの保守、障害対応。地味だが、やりがいのある仕事だった。
死因は過労だ。深夜のサーバー障害対応を終えて帰宅する途中、駅のホームで倒れた。次に気づいたときには、ここにいた。
(状況を整理しよう)
天井が近い。視界が広い。手足が短い。
……幼児だ。
わたしは自分の手を顔の前に持ってきた。ぷくぷくとした、小さな手だ。前世の自分の手とは全然違う。
体を動かしてみた。ゆっくりと起き上がる。視界が変わった。
部屋は広かった。天蓋付きのベッド、木製の家具、壁には刺繍のタペストリー。窓の外には手入れの行き届いた庭が見える。
(ファンタジー的な世界観、貴族階級、幼児体、か)
前世ではシステム障害が起きるたびに、まず「現状把握」から始めた。感情的になっても意味がない。まず情報を集め、状況を整理し、対処法を考える。それが自分のやり方だった。
同じようにやればいい。
扉が開いた。
「フィア様、お目覚めでございますか」
入ってきたのは、老齢の男性だった。白髪で背筋が伸びていて、執事服を着ている。目が細くて、穏やかな顔をしている。
「……うん」
声が出た。幼い声だ。自分の声とは思えない。
「おはようございます。今日もよくお眠りになられましたね」
老人はにこにこしながらそう言った。わたしは老人を観察した。
穏やかそうに見えるが、目の奥に何かある。前世で言えば、「問題は把握しているが、今は言えない」というときの上司の目に似ていた。
(情報を持っているが、開示できない状況にある人間の顔だ)
「ジル、でしゅか」
なぜかそう口をついて出た。どうやら「ジル」という名前を知っているらしい。この体の記憶が、断片的に残っているようだ。
「はい、ジルでございます。よくご存じで」
ジルはにっこり笑った。わたしはその笑顔を見ながら考えた。
この人は、何かを知っている。
朝食は食堂で食べた。
ジルに連れられて廊下を歩くと、屋敷の広さが分かった。長い廊下、高い天井、壁に飾られた絵画。かなり裕福な家だ。
食堂に入ると、先客がいた。
三十代後半に見える男性が、テーブルの上座に座って書類を読んでいた。黒髪で、背が高く、整った顔立ちをしている。表情は険しい。前世で見た「プロジェクトが炎上しているときの部長の顔」に少し似ていた。
(この人がお父様、か)
体の記憶がそう告げていた。
「おはようございます、お父様」
わたしが言うと、男性が顔を上げた。
瞬間、表情が変わった。険しさが溶けて、明らかに柔らかくなった。
「フィア。おはよう」
立ち上がって近づいてきた。しゃがんで目線を合わせてくれた。
「よく眠れたか」
「うん」
「顔色がいい。今日は体の調子はどうだ」
「ふつう、でしゅ」
お父様はわたしの顔をしばらく見てから、安堵したように息を吐いた。
(……このリアクション、おかしい)
朝に子どもの顔色を確認する親は珍しくない。でもこの確認の仕方は、普通の「体調を気にしている」とは少し違う。もっと根本的な何かを確かめているような顔だ。
前世で言えば、「重大な障害が起きた翌朝に、システムが正常稼働しているか確認するときの顔」に似ていた。
(何かあったのか。あるいは、何かが起きるかもしれないと思っているのか)
わたしは朝食を食べながら観察を続けた。
食後、ジルがわたしを庭に連れ出そうとした。
「今日はお天気がよろしいですので、お庭で少し遊びましょうか」
「うん」
庭に出た瞬間、異変が起きた。
お父様が書類から顔を上げた。それまで完全に書類に集中していたのに、わたしが庭に足を踏み入れた瞬間、ぱっと顔を上げた。まるでアラートが鳴ったかのように。
(……センサーか何かあるのか)
お父様はわたしを見て、少し顔が青くなった。それからジルを見た。ジルがわずかにうなずいた。お父様が小さく息を吐いて、また書類に目を落とした。
二人の間で、何か確認が行われた。
わたしは庭の花を見ながら考えた。
(これは何かのモニタリングだ。わたしが庭に出るたびに、誰かが状態を確認している)
前世では、重要なシステムには監視ツールを入れていた。異常が起きたら即座にアラートが上がる仕組みだ。
今の状況はそれに似ていた。わたしという「システム」に対して、家族が監視体制を敷いている。
なぜか。
(何かが起きると思っているからだ。あるいは、すでに何かが起きていて、それが広がらないように管理している)
わたしは花を眺めた。白い小さな花が、風に揺れている。
綺麗だと思った。
と同時に、気づいた。
花の周りだけ、空気が少しきらきらしている気がする。
昼食の後、お兄様が来た。
十二歳くらいの男の子だった。黒髪で、お父様に似た整った顔立ち。制服のような服を着ていて、背筋が真っすぐだ。
「フィア」
廊下でわたしを見つけて、近づいてきた。
「うん」
「今日は調子はどうだ」
(また同じ質問だ)
お父様と同じ確認の仕方だった。体の調子を聞いているようで、何か別のことを確かめている。
「ふつう、でしゅ」
「そうか」
お兄様はわたしの頭を撫でた。それからわたしの周りをぐるりと一周するように歩いた。
(……何を見ているんだ)
まるで何かを確認するように、わたしの周りを一周してから戻ってきた。
「問題ない」
誰に言うでもなく、小さく言った。
わたしはお兄様を見上げた。
「おにいしゃま、何を確認していましゅか」
お兄様がぴくりと止まった。
「……何でもない。フィアは気にしなくていい」
「でも、何か確認していましゅよね」
「気のせいだ」
お兄様は視線を逸らした。
(アクセス拒否。理由の開示なし)
前世で、システムの設定変更を申請したら「承認できません」とだけ返ってきたことがある。理由が書いていない。上司に聞いたら「今は言えない」と言われた。あのときと同じ顔だ。
「そうでしゅか」
わたしはあえて引き下がった。
前世で学んだことがある。情報が取れないときは、無理に取りに行かない。別の経路から集める。
観察を続けよう。
夜、ベッドに入りながら、わたしは今日の情報を整理した。
確認できたこと。第一に、家族全員がわたしに対して何らかの監視体制を敷いている。第二に、庭に出たとき、お父様が即座に反応した。第三に、お兄様がわたしの周りを確認する動作をした。第四に、理由を聞いても誰も教えてくれない。
不明なこと。監視の目的。隠されている情報の内容。わたし自身に何かがあるのか、それとも外部からの脅威があるのか。
(現状把握フェーズ完了。次は原因の特定フェーズに移行する)
前世でもそうだった。障害が起きたとき、まず「何が起きているか」を把握する。次に「なぜ起きているか」を探る。原因が分かれば、対処できる。
ジルが部屋に来た。
「フィア様、もうお眠りになる時間でございますよ」
「ジル」
「はい」
「ここは、どんな家でしゅか」
ジルが少し止まった。
「ヴェルター家でございます。代々、魔法を扱う家系でして」
「魔法の家、でしゅか」
「はい。由緒ある家でございます」
「みんな、魔法が使えましゅか」
「……はい、皆様お使いになれます」
「わたしも?」
ジルはわたしを見た。穏やかな目だが、その奥に何かがある。
「フィア様は、まだお小さいですから」
「でも、使えましゅか」
「……それはもう少し大きくなってから」
(アクセス制限。情報開示を先送りにされた)
「そうでしゅか」
わたしはそれ以上聞かなかった。
「おやすみなしゃい、ジル」
「はい、おやすみなさいませ、フィア様」
ジルが部屋を出た。
わたしは天井を見た。
魔法の家系。家族の監視。教えてもらえない理由。
(何かある。明らかに何かある)
前世で重大インシデントが発生したとき、まず全員が口をつぐんだ。情報を開示すると混乱が広がるから。でも隠しても問題は解決しない。
わたしは三歳だ。できることは限られている。でも観察することはできる。
明日も続けよう。
窓の外で、星が光っていた。
庭の花が、暗がりの中でも少しきらきらしている気がした。
(……あれは、なんだろう)
その疑問は、もう少し後に答えが出ることになる。




