落語家・葵亭美弥
信じられない話を聞いた。
葵亭美弥が——あの、美弥が、真打に昇進するというのだ。
たった八年。落語の「ら」の字も知らない小娘が、たかが八年で真打だと?
おかしい。実力では私の方が遥かに上だ。
いや、上というよりも、別格だとすら自負している。十五年。血を吐くような精進を重ね、落語会では“技巧派”と呼ばれた私に、真打の話は一度も来ない。
聞けば、美弥の昇進にはスポンサー企業の後押しがあったらしい。
「女性の登用」をアピールする狙いだとか。
滑稽だ。美弥の落語が評価されたわけじゃない。ただの政治的な演出。
本当にくだらない。
いや、最初はまだ許せたのだ。
美弥が、私を「先輩」と呼び、深々と頭を下げていた頃は——。
あの頃は、身体のつくりが女として秀でている以外は、特に面白みのない女だった。
だが、真打の話が決まってからの彼女は変わった。
変わりすぎた。まるで天狗だ。
楽屋では私に目も合わせない。
「落語って、結局、華だと思うんですよ。技巧? 聞いてる方が疲れちゃうって言ってましたよ、お客さんが」
——貴様が言うな、美弥。
私は美弥を殺してやろうと思った。
昇進披露興行の初日、会場は超満員だった。
主役は、もちろん、葵亭美弥。
化粧室で鏡の前に立つ彼女の後ろ姿を見たとき、私は、あまりの「美しさ」に、一瞬だけためらった。
白い襦袢に包まれた艶やかなうなじ。
きゅっと締まった腰と、柔らかな丸みを帯びた背中。
そのすべてが、落語というより舞台女優のような、濃密な存在感を放っていた。
ああ、もったいない——。
女としての素材は超一流なのに、それを高慢さで塗り潰してしまった。
私は懐に包丁を忍ばせていた。鋭利な一本。
「今日の私、どうですか?」
美弥が背中越しに微笑む。
「綺麗だよ、美弥さん。とても綺麗だ」
私は囁いた。包丁を握る手に力が入る。
美弥が舞台裏で待機する。
出囃子の音が聞こえてくる。そろそろ、真打の登場だ。
私は彼女の背中に包丁を突き立てた。
ブスリ
「……くっ!」
感触は意外と柔らかく、刃が沈んだ。
息を呑むような微かな吐息が、美弥の喉から漏れた。
彼女は驚いたように私の方を振り返ろうとしたが、もう間に合わなかった。
背中から血がにじみ、着物に赤が広がる。
それでも、美弥は倒れず、よろよろと高座へと向かった。
観客の拍手が響く。
彼女は、背を曲げながらも高座に上がった。
照明が、その美しい身体を照らす。
あの瞬間——私は、美弥を本当に美しいと思った。
背中に包丁を刺されたまま、頬に汗を浮かべながら、懸命に口を開こうとする姿は、落語というより、舞台芸術そのものだった。
唇はわずかに動いたが、声は観客には届かない。
観客の誰もが、異変に気づかなかった。
だが次の瞬間、美弥はその場に崩れ落ちた。
高座の真ん中で、うつ伏せに倒れた彼女。
長い黒髪が畳の上に広がり、顔は安らかだった。
背中から突き出た包丁は、まるで花の茎のように、彼女の身体から生えていた。
静寂のあと、観客席からは一斉に悲鳴が上がった。
「【短編連載】女性刺殺事件」をお読みいただきありがとうございました。新連載の執筆に集中するため、一旦完結とさせていただきます。新連載にご期待ください。




