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ソフィアは王都の外れにある離宮にいた。大乱闘の昼食会を終えてから、騎士に秘密裏にこの離宮に連れてこられ、一日が過ぎた。
もう惚れ薬の効果も切れたようで、客観的に自分を振り返ることができる。
今考えるとあんなに大暴れせず、侯爵夫妻を冷静に諭せば良かったようにも思うが仕方ない。
それにソフィアは後悔はしていなかった。侯爵夫妻の提案はとにかく不快だったし、あんなに衝動的に気持ちが昂り体が動く自分を自分でも意外に感じたけれど、それは嫌ではなかった。
おそらく今はソフィアの処分を検討しているところなのだろう。この離宮は王族が王都近郊の視察を行う際の拠点として使うことが多いが、ここ最近は使用されていない。今いるのは最低限の騎士と女官だけのようで、ソフィアは一人、殺風景な部屋で大人しく過ごしていた。
おそらく離縁処分となるだろうなとソフィアは思った。後悔はしていないが、王太子妃として非常に不適切な行動だった。
離縁したらどうしよう。実家は兄が継いでいるし面倒はかけたくない。修道院へ入るしかないだろうか。そうしたら子どもたちにはもう会えないだろう。本当にたまにで良いので会わせてもらえないだろうか。
もともとイーサンに自分をまた好きになってもらうために色々画策したのに、結果的に離縁になってしまうなんて皮肉な話だ。
ソフィアがぽろぽろと涙を流していると、扉がノックされた。ノックされた方に目をやると、返事をする前に扉が開き、イーサンが入ってきた。ソフィアは目を見開いた。
処分が下されるのか。
ソフィアは座っていた長椅子から立ち上がり、イーサンの方を向いてその場で膝をついて胸の前で手を組んだ。イーサンはゆっくりソフィアに近付いて目の前に立ったが、ソフィアは頭を下げたままでいた。
「…まずはソフィアの話を聞こう。弁明すべきことがあるなら話してみなさい」
ありがたいことに、どうやら釈明の機会を与えてくれるようだ。ソフィアははらはらと涙を流したまま話し始めた。
「…此度の件、大変申し訳ございませんでした。色々と謝罪しなければならないことはございますが…、まずは、イーサンの羽ペンを一本勝手に拝借しました」
「……は?」
「…それから…、食事後のイーサンのナフキンも取っていきました。枕の匂いも思いっきり嗅ぎました」
「……」
「夜会では喋り過ぎて気味悪がらせてしまって申し訳ありません。昨日は侯爵夫妻と揉めてしまい、なにもかもめちゃくちゃにしてしまいました」
惚れ薬の件は黙っておいた。もしオリヴィアが咎められるようなことがあっては彼女に申し訳ない。
「…離縁の覚悟はできております。最後のお慈悲を頂けるのであれば、子どもたちの顔はたまに見せて頂けるようお取り計らい頂きたく存じます」
懺悔を終え、涙を流したまま沙汰を待った。
ーーが、いつまで経ってもイーサンはなにも話さない。疑問に思ったソフィアがふと顔を上げると、イーサンは顔を横に逸らしていた。拳を口元に当て、笑いを耐えているように見える。
「ーーあの、」
「いや、すまない。魔術師の薬は効果が絶大だということかな」
ソフィアは耳を疑った。知っていたのだろうか。イーサンは笑みをもう隠そうとしていない。
「ご存知だったのですか」
「魔術師団長から聞いた。オリヴィアが始めから師団長に報告していたそうだ。私が全てを知ったのは昨日だが」
イーサンはしゃがんでソフィアと目を合わせた。
「なんだかこの数日、様子がおかしいと思っていたんだ。ソフィアは好いた相手にはこんな風になるのだな」
「…自分でも意外なのです。匂いフェチに収集癖、会う人皆に惚気ました。そして気に入らない相手を怒鳴りつけて乱闘騒ぎを起こしました。…本当に申し訳ございません…」
イーサンはソフィアの腕を取り、長椅子に座らせた。自らもその隣に腰をかける。
「事の成り行きをオリヴィアから聞いた。そもそも私が原因のようだな」
「…その…、最近二人の時に元気がなく、よく考え事をしていらしたように見え…、私は興味を失われてしまったり、嫌われてしまったのかと思いまして…」
「私の責任だ。ソフィアに非はない」
下を向いていたソフィアは驚いて顔を上げた。そもそも自分を嫌いになったというわけではないのだろうか。イーサンは咳払いをして言いづらそうに口を開いた。
「実は少し前に父上…、陛下に呼ばれた。生前退位を考えているそうだ」
「生前退位を!?」
基本的には国王は終身制だ。生前退位の例はあるが、ここ何代かはなかった。それに現在の陛下はまだ若い。
「今すぐという話ではないようだがな。国も落ち着いているし、早めにリタイアして母上と落ち着いた生活を送りたいそうだ。まあ気持ちは分からんでもない」
イーサンは頭を撫でつけ、長椅子にもたれかかった。確かに、国王の責務は大きい。長年、そのプレッシャーに耐えなければならないのは辛いだろう。
「しかし、私はまだ未熟者だ。王太子として準備はしてきたが、覚悟が出来ていないのは事実だ。退位が数年後になったとしても私はかなり長い間国王を務めることになるだろう。それが不安だった」
「…イーサン…」
「ソフィアにも負担を強いる。子どもたちにもだ。しかし内容が内容だけに、誰にも相談できずに悩んでいた。すまなかった」
ソフィアは涙を浮かべて首を横に振った。夫は家族のことも考えて一人で悩んでいたのだ。責められるわけがない。
イーサンはソフィアを見つめて笑みを浮かべた。
「…しかし、この数日でなんだか吹っ切れた気がする。先日の夜会のソフィアはとても威厳があり王妃になっても大丈夫だなと思った。それにあんなに堂々と惚気られて悪い気はしなかった。困難があってもソフィアがいればやっていけると。…まあ、あれが薬の効果だけのもので、本心でないなら残念だが」
「薬の効果だけであるはずがありません!私の本心が薬の効果で口から溢れ出しただけです」
「知っている」
イーサンはニヤリと悪戯顔でソフィアを見た。
「オリヴィアが言っていた。惚れ薬は偽物だと。ソフィアに渡したのは弱い興奮剤で、少しの動悸と発汗作用があるだけで三日も続かないそうだ」
絶句した。なんてことだ。するとこの一連の出来事は薬の効果ではなかったのか。急に自分が恥ずかしくなってきた。
「…それはなんというか…、大変お恥ずかしい姿を…」
「良いのだ。ソフィアはいつもよくやってくれている。存分に褒められて私は嬉しかった」
穏やかに笑うイーサンを見て、また涙が出てきた。こんな風に笑う夫を見るのはいつぶりだろう。ソフィアはホッとして心が解けていくのがわかった。
「ただ、侯爵夫妻への大立ち回りは目撃者も多く、そのままにしておくのは難しい。とりあえず一ヶ月謹慎だな」
「…離縁はしないで頂けるのですか?」
「なに言ってる。これから忙しくなるぞ。王妃になる準備を急ピッチで進めなければな」
ソフィアは本格的に泣けてきてしまった。夫が頭を撫でてくれる。
「…しかし、本当に大暴れしてしまったのです。王太子妃として相応しくない行動でした。世間から批判されると思います」
「侯爵夫妻との間に何があったかは女官たちが見ていたので詳細はもう皆知っている。ソフィアは夫に一途な妻として一連の出来事は美談になっているぞ。侯爵夫妻は悪者扱いだ。それにしても酷い有様だったな」
イーサンはくすくすと笑ったので、ソフィアは思わず目の前の夫に抱きついた。
「ありがとうございます。ずっと愛しています」
「私もずっと愛しているよ、これからもよろしく頼む」
ソフィアは心から幸せな気分になり、イーサンの額にキスを落とした。
♢
謹慎が明け、ソフィアは裏山のふもとにいた。晴天だ。
「全部バラしてしまってすみませんでした」
オリヴィアが全く悪びれずに謝る。風が強く、はためく黒いフードを手で押さえている。
「いいの。私が馬鹿だったわ、ごめんなさい。あなたは当然の仕事をしただけよ」
ソフィアも飛んでいきそうなストールを押さえる。二人は少し高いやぐらに立っており、下には子どもたちが大勢集まっている。ルールの説明をされているようだ。
その中には下の娘もいる。手には可愛らしい箱を抱えており、幼なじみの友達となにかにこやかに話をしているのが見えた。
「それにしても、もし私が間違えずにイーサンに薬を飲ませていたらどう言い訳するつもりだったの?」
「私の作る薬が大したことなくてすみませんと謝ろうかと。魔術師の作る惚れ薬は、本物はかなり影響が大きいのでとてもお渡しすることはできなくて」
「私は自己暗示であんなに奇怪な行動に出てたってわけよね…恥ずかしいわ」
オリヴィアは、面白かったですよとけらけら笑った。
「もし今度また必要になったらお知らせください」
「大丈夫、もう必要ないわ」
子どもたちに説明をしていた人物がこちらに向かって大きく手を振る。準備ができた合図だ。
「では妃殿下、よろしくお願いします」
ソフィアは大きく息を吸い込み、右手に持っていた笛を思いっきり吹いた。
《 おしまい 》