ー彼女のお話ー
――命にこたえはありますか。
………
………………
……………………
血が、流れている。
どくどくと、熱い、――それはいのちだ。いのち、そのものだ。
「なん、…で」
ぜぇはぁと肩で息をしながら、少女は喘ぐ。
何で、とか。どうして、とか。疑問はシャボン玉のように浮かんでは消えていく。
けれど、目の前の光景はあまりにも正確で。
同時に、目を逸らせないほどには、残酷だった。
「――……」
彼女は、笑う。
笑った。本当に、笑ったのだ。それは間違いはないと宥めてくれているようで、まるで頭を撫でるように。
君を殺した私を、肯定するように。
「……なかないで。お姉ちゃん」
あぁほら、また彼女が私を呼ぶ。
最低最悪な弱虫を、国を捨てた裏切り者を、あの子はいつも許してくれる。
☆
目が覚めると、よく知った固い床の上だった。
首元には趣味の悪い飼い犬の証。指先で触れるとカツリと爪が当たって、否応なしに不快な気分にさせられる。
「おかえり、私の可愛い家畜さん」
「………」
「あぁ、いい。喋らなくて。喋ると喉を潰すからね」
開きかけた口を、ひゅっと息を飲みながら閉じる。
瞬間、ぞわりと背筋をいやなものがはしった。まるで氷を押し当てられたように鳥肌が立つ。それがどうしてかも、いやなほどに、よく分かっているのだ。
は、は、と荒くなる息を整えるために心臓をおさえる。
見上げると、ソイツは、やっぱりいつもと同じ愉しそうな顔をしていた。
「喋れなくなると困るかい?」
――困らない。
困らない、と思う。事実、困らなかった。思い出しかけた『あの国』での出来事を否定するように、ローゼリッテはふるふると首を振る。
それをどう捉えたのか。男はおいで、とローゼリッテの手を取ると、ゆったりとした歩幅で歩きだした。
「私はね、怒っていないんだよ。可愛い私の少女」
ひた、ひたと進んでいく自分の足が千切れてしまえばいいのに。
「君は裏切ってなんかいない。忠実な私の部下だからね」
こんな肥溜めなんか、逆らって逃げてしまえばいいのに。
「みんなも待っていたんだよ?」
――助けに来てくれればいいのに。
ふと脳裏をかすめたその言葉は、まるで自分の心臓を鋭利な刃物で抉られたようだった。
あぁ、あの扉が開く。また自分が人間ではなくなる。
家畜に成り下がる。生きている価値などないと囁く。恐怖で足が震えて、それなのに、足はまるで望んでいるかのように扉へと向かって。
「あぁ、――可愛い声を聞かせてくれよ?№.45」
でも、喋れなくなったらアイツらが悲しむような気がして。
(……バカだなぁ)
無数の手が、自分へ向かって伸びてくる。
それなのに。分かっているのに。
ここまできて、あの楽園に縋りたがっている自分に気付いて。
涙が出た。
――そんな甘ったれたことを思えるほど、私は『人間』なんだって。
扉が閉まった瞬間、ぐん、と自分の足全体に力を入れて目の前の大男の懐へ滑り込む。
男たちの手が空を切った。その腕に思い切り手刀を叩きつけて、ぐるんと身体を旋回させる。
ひとり、投げ飛ばすと、一気に男たちが怯んだ。その隙を図って、ダン、と地面を踏みしめる。
この部屋の構造はよく覚えている。
南のはじに、ひとつ、窓がある。“餌”を投げ捨てる場所だ。性に飢えた種馬どもが何を食べているのかなんて関係ないが、いつか少女が話していた。
窓に手をかけて、渾身の力で蹴り飛ばす。
その時、ようやく扉が開いた。入って来るソイツの姿を認めながら、ふん、とローゼリッテは小さく鼻で笑った。
ざまあみろ。
次の瞬間、喉が裂けるようなことになろうとも、生きて帰られるのならば上々だ。
餌場にはむせ返るような異臭と、元の姿が想像できるような肉塊がごろごろと並べられていた。
ぽたぽたと喉元から流れる血が鬱陶しい。裸に首輪ってアイツらに知られたら馬鹿にされそうだな、と考えて、リセハにバレるのだけは絶対に阻止しようと全力で思った。
試してみるが、声帯は綺麗に掻き切られたらしい。
ひゅー、ひゅーと声にならない音が口から出る。が、何ら体に異常はない。最悪、毒が仕込まれていることも想定していたのでこれはありがたい誤算だった。
まぁ、この国の毒が私に効くとも思えないけど。
だが、餌場の異臭は身に纏っていればすぐにバレそうだ。早く外に出なければ。走り出そうとした視界のはじで、キラリと光るものを見つけてローゼリッテは思わず足を止めた。
――これは。
(………)
小さな、親指ほどのそれを手に取るとローゼリッテはぎゅっと目を瞑る。
忘れていた、わけじゃなかった。
ただ、見ないようにしていた。贖罪にもならないような気もしたから。
ごめんと謝る事すら許されないような気がした。どうせ、あの子は笑って許してくれるのだろうけど。
『35』
そのドックタグには、そう、彫られていた。
☆
日に日に与えられていく“何か”のせいで、記憶が薄れていることはじゅうぶん分かっていた。
最初は、仲間の名前から。
次に、家族の名前まで。
次々と消されていく頭の中の消しゴムを止める術を知らず。快楽と痛みと飢えと、それでも死んではいけないという呪いのような文言のせいで感情が死んでいくような気がして。
がりがりと血まみれの爪で地面に文字を彫る。
朧げな家族の名前。
知っていたであろう仲間の名前。
いつも呼んでいた友達の名前。
――グレイという名前。
そんなとき、決まって彼女は少女に声をかけた。
「私の名前も書いてっ!」
少女の名前は一度、名を問われたときに「じゃあ私はローズがいい!」と言ったからちゃんと覚えている。
よく似た名前だね、と。
少女は言うが、自分の名前などすっかり忘れてしまった。もしかすればこの記号の羅列の中に自分の名前があるかもしれないが、そう言うと決まって少女は首を振る。
「だいじょうぶよ。私はローズだもん。お姉ちゃんと一緒よ」
ジリリリ、と音が鳴って、彼女が少女の手を取って走り出す。
その光景も、初めて見た。初めてなのに、初めてじゃないような妙な感覚がしても、その手は振り払えない。
だって、彼女の手は温かかった。
それだけでじゅうぶんだった。
「お姉ちゃんの記憶は、箱庭にあるわ」
その日、彼女はいつになく真面目な表情でそんなことを言った。
それは、少女が誰の名前も彫らなくなった頃だった。ただ生きなければと義務のように生きている少女の手を取って、彼女は言ったのだ。
「私、取って来る」
次に目にした少女は、胸元のぽっかり空いた“お人形”だった。
それは少女が、いつものようにけたたましいサイレンを耳にしている時だった。
“餌”が落ちてくる。南の窓から。
小さなそれが。薄っぺらで、脆くて、でも温かかったそれが。落ちてくる。
思わず駆け出した足は、誰かの手に取られて叶わなかった。
「あ……っ」
獣が、少女に群がる。
声に、ならなかった。一瞬にして蘇ったあの子の名が、彼女との会話が、どうしても思い出せなかった自分の名前と繋がっていく。
「――ロー、…!」
血が、流れている。
どくどくと、熱い、――それはいのちだ。いのち、そのものだ。
「なん、…で」
ぜぇはぁと肩で息をしながら、少女は喘ぐ。
何で、とか。どうして、とか。疑問はシャボン玉のように浮かんでは消えていく。
けれど、目の前の光景はあまりにも正確で。
同時に、目を逸らせないほどには、残酷だった。
「――……」
彼女は、笑う。
笑った。本当に、笑ったのだ。それは間違いはないと宥めてくれているようで、まるで頭を撫でるように。
ローゼリッテの存在を、肯定するように。
「……なかないで。お姉ちゃん」
あぁほら、また彼女が私を呼ぶ。
「ローゼリッテお姉ちゃん」
その言葉すら温かいなんて、彼女が、“人形”なはずないじゃあないか。
☆
ジリリリ、とけたたましい音が鳴り響く。
血の臭いと肉の臭いを削ぎ落すため、下水路にさしかかった頃だった。悪趣味な首輪は餌場に置いてきた。もう、自分には必要のないものだから。
どうやらあの首輪はハッタリで、ハッタリのくせにGPS付きと言う非常にアイツらしい性格の悪い小道具だった。今のローゼリッテの首元にはチェーンが付けられている。胸元にはドックタグ。あの子の形見だ。
記憶は取り戻そうか迷ったが、――今はまず逃げることが最優先と考えた。記憶のある場所が分かっただけでもいいだろう。アイツらを喜ばせる手土産ができた。不謹慎だが、そんなことを思う。
恐らく、下水路に逃げたことなんてすぐにバレるはずだ。
だが、4年。こちとら生まれてこの方、4年ここに住んでいた。隠し通路なんざ把握している。それは逃げる“餌”を捕まえる仕事のためだったが、まさか自分もあれだけなりたくなかった“餌”と同じことをするなんて。
(東…はダメだ。水路を使うか)
傷口はまだ塞がっていないが、この際贅沢は言っていられない。
幸い、服は着ていない。ざぶんと下水に飛び込んで、全身を駆け巡る激痛に耐える。喉が熱を持っている。灼けそうだ。でも、そんなことどうだって良かった。
「―――…!」
必死で泳ぐ最中、突然、ぐんと足を掴まれたかと思えば、目の前を漆黒が覆いつくした。
慌てて足を振り回す。力はこちらが強いらしい。何とか振りほどくと、身の丈以上の髪を蓄えた金色の瞳の少女が、自分と同じく裸でじっとこちらを見ていた。
(『生物兵器』!!)
恐らく、自分と同じ類のもの。
考えている間に、また少女がこちらへ猛然と向かってくる。ローゼリッテは逃げる間もなく、再び身体を掴まれた。そのまま水深まで連れて行かれる。やばい。沈められる。
そう、思った瞬間だった。
「!!!」
ビカ!と光が後方から差し込む。
それに驚いたのか、少女が怯えるようにして離れて行った。しめた。今のうちだ。何とか全力で手足を動かして、息も絶え絶えに上へ上へと。
ようやく光が見えたと同時に、勢いよく顔を出す。 辺りを見回すと、そこは、何かの筒の中のようだった。
いや、筒と言うか、これは……
「うお、人がいた!?」
――どうやら、井戸の中をサルベージしようとしていた誰かと、ハチ合わせしてしまったらしい。
再び水中へ戻ろうかと考えたが、それは危険だと脳が判断を下した。だが上がっていいものかも分からない。
とにかく、上がってすぐに逃げればいいか。
半ば強引な気もするが、それしかない。ローゼリッテが腹を括って井戸から上がろうと腕を伸ばすと、何か、温かいものがその腕に触れた。
え、と。
思うより先に、ぐんと身体を引っ張られる。
「…生きてる」
「エイル!井戸から子どもが釣れた!」
「……!?」
見たことのない衣装に、見たことのない顔の男と少女がふたり。
銀髪と濃緑髪の二人組は、呆然とするローゼリッテの前で、ぱちくりと視線を合わせた。
☆
ぽかんとしている間に、水浴びをさせられ、手当てをされ、服を着せられた。
一緒に水浴びをしたのは綺麗な顔をした男、キリア。
手当てをしたのはブツクサと文句を言っている軍医らしき男、アレク。
最後に、服を貸してくれたのは、いつかのあの子と同じくらいの背格好をしている、エイルと言う少女だった。
「はい。できた」
「………」
「良かったねぇ、エイル。オトモダチができてー」
「井戸から友達ってどんなクソファンタジーだよ」
「まぁまぁ。旅は道ずれ世はなさけって言うじゃ~ん」
既に酔っ払っているのか、キリアがアレクに絡みに言って殴られている。
得体のしれない、いくら見た目は子どもと言っても自分に対し油断しすぎじゃないか。じっと様子を眺めているローゼリッテに、エイルはやれやれと呆れたように肩を竦める。
「ねぇ。病人の前でうるさいんだけど」
「首掻っ切られるとか病人っつーかどんな大罪人だよ、オイ」
「子どもなんだから大したことしてないよ、たぶん」
今度はエイルにじっと眺められ、居心地悪そうにローゼリッテは視線を逸らす。
逸らした先でふと鏡を見つけると、ぎょっと目を見開いた。今度は16歳どころか10歳前後くらいの見た目になっている。はくはくと口を動かしていると、急激に、井戸の中の少女の事を思いだした。
――食われた?
刻を、……肉体の年齢を?
そうだ。思い出す。餌場いきになった餌が逃げた先で、下水に入った瞬間姿を消したやつがいたと。
あやうく、死ぬところだった。
ようやくぞわぞわと恐怖が駆け巡ってくる。絶対に死なない自信があったから無謀なことをしていられたが、肉体を傷つけられるのではなくそもそも肉体を消滅させられるなら、いくら『生物兵器』の自分だって死んでしまう。
死ぬのは、いただけない。アイツらのもとへ帰らなければならない。
「……?」
突然がたがたと震え出したローゼリッテを眺めながら、エイルは首を傾げる。
その首に、ちらり、とチェーンが煌いた。
☆
曰く、彼らは『北の国』の人間だと言う。
ローゼリッテが地面に木の棒でがりがりと名前を名乗ると、キリアは嬉しそうな楽しそうな顔で「俺らが行くとこー!」とぴょんぴょんと跳ねて見せた。キリアが言うには『北の国』には暗躍部隊というのがあって、いわゆるスパイ的な立場にいるのが自分たちだと言うのだ。
よくもまぁ今からスパイをしに行く国の人間にそんなことを言えたなぁと思ったが、よく考えれば自分は子どもだった。当然ここでも子ども扱いをされる。ただひとり、エイルを除いて。
夜中に案の定熱を出した自分を、うつらうつらと眠そうにしながら看病してくれた眠たげな瞳の少女。
熱に浮かされた頭でぼんやりと、思った。そういえば、エイルの細い腕でいくら子どもとは言え自分の身体を抱えあげられるだろうかと。軽々と持ち上げられたその時は何とも思わなかったのに、今になって思えば、濡れタオルを変えてくれるその手は自分と同じくらい小さい。
「………」
――「生きてる」と。
エイルは言った。不思議そうな顔で。
その言葉が耳から離れない。ふと首筋を拭いてくれる彼女の手を掴むと、あー、とエイルは気まずそうに頬を掻いて「知ってる」とぼそりと呟いた。
「『35』……て、あの国の実験体ナンバーでしょ」
「――…」
「私。『15』。…こう見えても私25歳だよ。あなたは?」
エイルがドックタグを首元から取り出しながら、薄い唇で笑う。
ぐ、と喉に何かが詰まった感覚がする。苦い顔でローゼリッテが首を背けると、エイルは小さく「ごめん」と言った。
「私、…キリアたちに拾われて『北の国』にいるの」
――自分と同じだ。
「だから、キリアたちがあなたを受け入れるなら私はいいんだよね。…たとえ殺したいくらい憎い国のヤツでも」
「………」
「あぁ、あなたじゃない。…私が殺したいのは、あなたの10番後。『45』だから」
「………っ!!」
ざわり、と。
風が薙いだ。ビリビリと空気が振動する音が聴こえる。耳元で、鳴り響く。
「――お前、10番前で良かったね」
目の前の少女は笑っているのに、その目はいくらも笑っていなくて。
息をするのも忘れるほどだった。ようやく空気が動き出したかと思えば、少女はぽんぽんと優しくローゼリッテの肩を叩いてくれる。
「まぁ護衛くらいはしてあげれるから、適当に寝ててよね」
言って、エイルはまたすとんと椅子に座り直した。
バクバクと高鳴る心臓は熱のせいか、それとも、恐怖のためか。
(……ほんと、私は最低だ)
何があったのか。自分が何をしたのか。
思い当たることが多すぎて、どれが正解か分からない。こんな自分なのに。どうしようもないクズなのに、それでもあそこへ帰りたくて仕方ない。
助けられて、良かったと思ってしまう自分が浅ましい。
ぐ、とドックタグを力いっぱい握りしめた。
冷たいだけのそれが、温かいような気がして、くらくらと眩暈がしそうだった。