旅の一行その三と怪盗騒ぎ その5
血潮に彩られた金色の指輪が、鮮やかに輝く。
響き渡る異音は、世界が書き換えられる音。
音に引きずられるように虚空に出現した陣は、恐ろしく複雑だ。
男の腕から止めどなく流れる赤から、次々と陣が生まれる。
つと、男が口を開いた。
『——————————————————————————』
男の口から溢れ出たのは、人が出せる音ではなかった。
例えるならば、魔物の咆哮。
やや低めのそれは、歌うような旋律を紡ぐ。
男から漏れ出した魔力が、部屋の中を荒れ狂った。
イメージするのは入れ子。
箱の中の箱。
箱の中に箱を入れ、さらにその箱を箱の中に入れる。次々と。
一番初めの箱に入れたものが外に出ないように、厳重に鍵をかけながら。
——遠くで《侵食》がゆっくりと抑え込まれていくのを、少年は感じ取る。
「クーちゃんグッジョブ!」
ハムスターが男に向かって親指を立てた。
男が深々と息を吐き出すとともに、荒ぶる魔力が唐突に消失する。
「時間稼ぎはしたから、消毒頼むわ」
「わかったの~」
「は?」
男が視線を向けた先では、今の今まで壁際で爆睡していた紫色の子熊が二本足で立ちあがり、雄々しく前脚を揚げていた。
「いや、プーに言ってない——」
「ぷー、がんばるの~」
男の言葉が子熊に届く前に、子熊の輪郭がぐりゃりと歪む。
——そして、子熊の姿が裏返った。
爆発的に質量を増した紫色は、新たなカタチを再構成する。
鈍い音。
鋭い棘に覆われた尾に打たれた壁が、大きく崩れた。
高く嗄れた咆哮に、大気が震える。
天井が高い位置に造られた大広間であったが、それにとっては低いようで酷く窮屈そう。細く、鋭角的な印象の体躯。羽毛のない翼。鋭い牙と爪。紫水晶の瞳と鱗は、硬質な輝きを宿す。
「ちょっと待て————————っ!!!!!」
男の叫びをよそに、本性を現した紫竜は満足げに喉を鳴らした。
「どこで竜化してんだお前っ! ここ狭いだろ! うっかり誰か潰したらどうすんだっ!!」
焦ったように怒鳴る男を見て、紫竜は首を傾げる。
数拍後。
『ひろくするの~』
「いやいや、言いたいのはそこじゃないから……って、あ~……」
紫竜の強酸の吐息により完膚なきまで溶かされた壁を前に、男は呻き声を上げた。
「プーっ!! 物を壊しちゃだめだよっ!!! もうハチミツあげないよ!」
『や~!』
叱りつける茶髪の子供に、いやいやと体を揺する紫竜。紫竜が身動きする度に床やら天井やらが削れ傷つき、大広間はますます破壊が広がっていく。
『はちみつ~!』
「え?! わ~!!!!」
「プーっ! エド持ってどこ行く気だー!!」
一体何を思ったのか、紫竜は爪先に子供を引っかけて大空へ舞い上がった。
「助けて~!」
『はちみつ~!!』
子供と紫竜の叫び声はどんどん遠ざかっていく。
「……プーが飛んでいったのって、《門》の方向やない?」
「げ!」
「不味いっ!」
「追っかけなあかんねん!」
ハムスターはビシッと前脚を上にあげ——。
「へ~ん——
「だから、狭いとこで竜化しようとすんなっっっっっ!!!!!!」
男に全力でぶん投げられた。
「ウチの扱い悪くないんかあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ——————————————????????!!!!!!!」
あっという間に小さくなっていくハムスターの甲高い絶叫は、唐突に重低音に変わった。
紫竜や男が発したものよりずっと低い、腹の底に響くような咆哮。
——黒かった夜空が、紅蓮に染まる。
何も無い虚空が燃え上がる。
遠く離れている筈なのに、強烈に伝わる熱波。
赤々と燃え盛る炎の中、天翔ける翼はなお、紅く。
硬質な輝きを有する瞳と鱗は、最上級の紅玉に勝るとも劣らぬ鮮烈な赤。頑強さと攻撃性が見て取れる体躯は、その巨体にも拘らず軽やかな動きを見せる。灼熱の紅蓮を従え、ひれ伏させるその姿は、王者のもの。
「おお~、あれだけ見ると《紅蓮の炎帝》っぽい」
「……なんであれがハムスターに……」
大迫力の火竜を呑気に見物する男に対して、可愛い太っちょハムスターとのあまりといえばあまりの落差に、少年は衝撃を受けた。
真竜の中でも特に長い年月を生き、さらに巨大な力を得るに至った古竜は、仮初の殻を被る。本来の姿のままでは、世界に与える影響が大きすぎるからである。
——だからと言って、ハムスターや子熊はどうなのか……。
世界最強種として名高い真竜。
男ならば、幼い頃に力ある存在への憧れを持つのは当然だろう。
真竜の血を色濃く受け継ぎ、しばしばよく分からない思考回路のもと行動する養父や、幼馴染に餌付けされているアホの子竜。
彼らを例外だと己に言い聞かせることで、真竜への憧れを持ち続けた少年の夢は、呆気なく粉砕された。
真竜の中でも最高峰の力を持つ竜の、威厳も迫力もへったくれもない姿を目撃すれば、憧れるのも馬鹿馬鹿しくなろう。
少年は、心の中で涙した。
幼かった自分に別れを告げて。
——そして、少年は大人になっていくのだ。
紫竜の気配が一番外側の箱を通り抜けたことを、男は感じ取る。
「マジで何考えてるんだあいつ?!」
男が作り上げた見えない箱は、中身を外に出さないことにのみ重点を置いたものだ。よって、外から中に入ることはいたって容易い。その逆が、大概の生き物にとって不可能なことであるだけで。
「あ、アーサーに会えなくなる……」
親友の大事な息子に傷を負わせて、どの面下げて会いに行けというのだ。
男は少年の首根っこをむんずと掴んだ。
「ルド、行くぞ!」
「うぐ」
何の前触れもなく、大広間の中に猛烈な風が吹き荒れた。
男は少年を引き摺るようにして、星が瞬く黒の虚海へと飛び込む。
風に煽られた男のコートが、不自然に揺らめく。
——そして、男の姿が裏返った。
夜空に高らかに響き渡ったのは、先程男が発したのと同じ咆哮。
翡翠と緑柱石を合わせたような色彩の鱗が、月明かりに映える。鱗と同じ緑と、黒曜石のような黒。互い違いの双眸は、硬質な輝きを宿す。大きさは、ちょうど紫竜と火竜の中間。すらりとした体躯は、一切の無駄を排した機能美を有していた。
緑竜は、持っていた少年を己の背へ放り投げると、いっそ優雅に虚空を泳ぎ出した。
ぽつねんと独り取り残された女は、きょろきょろとあたりを見回す。
「おいていかないでよ~!」
周囲に見方がいないと悟った女は、どこからともなくデッキブラシを取り出すと、それに跨り薄情な竜達を追いかけた。
残念竜ですが後悔はしていません