プロローグ はじまりの契り
神様は、人を救ってくれる。
祭司はずっと、そう信じていた。
――昨日までは。
焼け焦げた家の前で、女が泣いていた。
腕の中に抱かれた幼子は、もう泣かない。
祭司は声をかけることもできず、目を伏せた。
雨は朝方にようやく止んだ。けれど、村を潤す恵みにはならなかった。
田畑は濁流に呑まれ、家々は流され、病人を寝かせていた小屋も半分が崩れている。
それでも、この村はまだましな方だった。
三つ山を越えた先では雨が一滴も降らず、井戸が枯れたという。東では病が広がり、南では食べ物を巡って争いが起きた。
どこもかしこも、おかしくなっていた。
「……なぜ?」
掠れた声が漏れる。
朝も祈った。夜も祈った。食事を忘れ、声が枯れるまで祈った日もある。
どうか――人々をお救いください。
どうか――この災いをお鎮めください。
けれど、神々から答えはない。
人々は、この災いを荒神と呼び始めていた。
神なのか、物の怪なのか、それともまったく別の何かなのか。祭司には分からない。
分かるのは、あれが現れてから人が死にすぎていることだけだった。
「神様なんて……」
言いかけて、口を閉ざした。
神を疑った罰が怖かったわけではない。
今まで信じてきたものを、自分が信じられなくなることの方が怖かった。
「では、その神にもどうにもならぬとしたら?」
「――っ!」
祭司は振り返った。
そこに、一人の誰かが立っていた。
いつからいたのだろう。
雨上がりの泥濘の中に立っているのに、不思議と汚れ一つない。
男のようにも、女のようにも見える。
若いようで、ひどく年老いているようにも思えた。
整った顔立ちであることは分かるのに、目を離せば二度と同じ顔を思い描けない気がした。
人ではない。
頭で考えるより先に、身体がそう理解した。
そして、この気配を祭司は知っていた。
慌てて膝をつく。
「オオクニヌシ様……!」
「よい。顔を上げよ」
「ですが……」
「今は礼を尽くしている場合でもあるまい」
祭司は戸惑いながら顔を上げた。
オオクニヌシは焼けた村を眺めている。
泣く者。傷ついた者。泥の中からわずかな家財を拾い集める者。
その横顔には、祭司が想像していたような神の余裕はなかった。
「……神々も、困っておられるのですか?」
「困る、か……」
オオクニヌシは少し考え、
「まあ、似たようなものだ」
「似たような……」
「あれは中ツ国だけの災いではない。高天原にまで届き始めている」
祭司は耳を疑った。
「高天原にも?」
「ああ」
「では……神々のお力でも、荒神を倒せないのですか?」
口にしてから、まずかったと思った。
ところがオオクニヌシは怒るでもなく、腕を組んだ。
「神だけでは足りぬ」
「……神だけでは?」
「人だけでも足りぬ」
「それは、まあ……そうでしょうけど」
「ならば共に抗えばよい」
「…………はい?」
あまりに簡単に言われて、間の抜けた声が出た。
「誰と、誰がです?」
「神と人が」
「無理でしょう」
即答してしまった。
さすがに今度は怒られるかと思ったが、オオクニヌシは僅かに首を傾けただけだった。
「なぜだ?」
「なぜって……私たちは人間ですよ。病にもなりますし、怪我をすれば血も出ます。腹が減れば動けません。神々のような力なんてありません」
「うむ」
「うむ、ではなくてですね……」
「では、力があればよいのだな」
「……はい?」
オオクニヌシが手を差し出した。
「我が力を貸そう」
祭司はその手と、オオクニヌシの顔を交互に見た。
「……私に?」
「汝に」
「どうして?」
自分でも失礼だとは思った。
けれど、聞かずにはいられなかった。
自分は英雄でも武人でもない。ただ神に仕え、祈りを捧げてきただけの人間だ。
なぜ自分なのか。
オオクニヌシは少しも迷わなかった。
「信じるからだ」
「……誰をです?」
「汝を」
意味が分からなかった。
いや、言葉の意味は分かる。
だからこそ分からない。
「神が……人を信じるのですか?」
「おかしいか?」
「おかしいでしょう。普通は逆です」
人が神を信じる。
神を敬い、祈り、願う。
ずっとそうしてきた。
「ならば、今日から変えればよい」
「そんな簡単に……」
「簡単ではない」
初めて、オオクニヌシの声が少しだけ強くなった。
「だから、まず我が信じる」
差し出された手は動かない。
「我が汝を信じる。汝が我を信じるかは、汝が決めよ」
祭司はその手を見つめた。
――怖かった。
神の力を人が扱ってよいのか。
自分に扱えるのか。
もし失敗したら。
誰かを……傷つけたら。
「……怖いです」
「うむ」
「失敗するかもしれません」
「そうだな。我も失敗は怖い」
思わず顔を上げた。
「神様も失敗を恐れるんですか?」
「怖い」
「……怖いんだ」
「そうだとも」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
後ろでは、まだ誰かが泣いている。
祈っているだけでは救えなかった。
ならば。
ほかにできることがあるのなら――やってみたかった。
祭司は恐る恐る手を伸ばした。
指先が触れる。
温かい。
神の手なのに、自分とさほど変わらない温度だった。
そのことが妙におかしくて、祭司は小さく息を吐いた。
そして、しっかりとその手を握る。
オオクニヌシも握り返した。
「我、汝を信じ、我が力を託す」
「我、御身を信じ、その力を預かる」
「この力、己がためのみにあらず。共に在り、共に栄えるために振るうと誓うか」
「誓います。共に在り、共に栄えるために」
二つの声が重なる。
「「この縁をもって、契りと成す」」
光が溢れた。
祭司は思わず目を閉じた。それでも、握った手だけは離さなかった。
やがて光が収まり、恐る恐る目を開く。
手の甲に、見たことのない印が浮かんでいた。
「……これは?」
「さてな」
「さて?」
「我にも初めてのことゆえな」
「えっ」
祭司はまじまじとオオクニヌシを見た。
「待ってください! 初めてなんですか?」
「当然であろう。神と人が契りを交わしたのは今が初めてだ」
「そういう大事なことは先に言ってください!」
オオクニヌシが笑った。
たぶん。
祭司には、そう見えた。
その日、人の手に初めて契印が刻まれた。
たった一つだった契りは、やがて多くの神と人へ広がっていった。獣や妖と手を取り合う者も現れ、長い戦いの果てに荒神は退けられた。
神と人が力を合わせれば、きっとどんな困難にも立ち向かえる。
少なくとも、最初の祭司はそう信じて生涯を終えた。
まさか千年以上も先の世で――。
* * *
――ピコン。
「…………」
机の上でスマートフォンが震えた。
――ピコン。
「…………」
――ピコン。
「うるせぇな!」
八坂優は机に突っ伏したまま、スマートフォンをひっくり返した。
画面には銀行口座の残高。
その横には電卓。
開いたノートには、細かな数字がびっしり並んでいる。
窓の外から楽しげな声が聞こえ、教室では弁当を広げたクラスメイトたちがくだらない話で笑っていた。
いつもと変わらない昼休み。
優だけが、この世の終わりみたいな顔をしている。
「……足りねぇ」
電卓を叩いた。
「…………足りねぇ」
もう一度。
「だから何回計算しても増えねぇって」
向かいから呆れた声が飛んでくる。
優は恨めしそうに顔を上げた。
「分かんねぇだろ、亮太。三回目くらいで奇跡が起きるかもしれねぇ」
「電卓に何を期待してんだよ」
「じゃあ神様に期待する」
優は右手を持ち上げた。
その手の甲にも、一つの契印がある。
「スサノオ」
『なんだ』
「金」
『ない』
「即答すんなよ!」
『ないものは出せん』
「神様だろ!? 奇跡くらい起こせよ!」
『我をなんだと思っている』
「こういうとき何とかしてくれる奴!」
『働け』
「働いてんだよ!!」
優が机を叩く。
クラスメイトが何人か振り返った。
みんな、呆れた苦笑いを浮かべている。
そして、すぐに昼食へ戻った。
また八坂がやっている。
そんな顔だった。
「優」
隣で弁当を食べていた伏見いなりが、おずおずと声をかけた。
「なんだよ」
「今月はいくら返せそう?」
「…………聞く?」
「聞いたんだけど」
「暗い気持ちになるぞ」
「じゃあ、やっぱりいい」
「聞けよ!」
「どっちだよ」
亮太が吹き出した。
「で、残りは?」
「…………」
「優?」
優は電卓を置いた。
天井を見上げる。
できることなら、数字も一緒に天へ昇って消えてほしかった。
「……四十七億九千万」
「…………」
亮太が黙った。
いなりも黙った。
「なんだよ」
「いや……」
亮太が何とも言えない顔をする。
「お前、確か最初は四十八億だったよな?」
「そうだよ」
「じゃあ二年間で……」
「一千万返した」
優は胸を張った。
「一千万だぞ!? 高校生が二年で一千万! もっと褒めろ!」
「それだけ聞くと、とんでもなく頑張ってるんだけどな……」
「だろ!?」
「残り四十七億九千万」
「言うな!!」
優が机を叩いた。
「数字にすると心が死ぬんだよ!」
いなりが、そっと優の肩を叩く。
「……頑張ろうね」
「その優しさが一番刺さるんだよ!」
笑い声が教室に響いた。
優は頭を抱え、再び机へ突っ伏す。
「なあ、スサノオ」
『今度はなんだ』
「一千万くらい出せない?」
『出せん』
「じゃあ百万円」
『出せん』
「十万!」
『刻むな』
「くっそぉぉぉ……!」
神と契りを交わし、その力を借りる。
千年以上前ならば、それだけで歴史に残る奇跡だった。
しかし残念ながら、現代社会には現代社会の事情というものがある。
家賃も。
食費も。
そして――四十八億円から始まった、途方もない借金も。
神の力では払えない。
優は勢いよく顔を上げた。
「神じゃなくて紙幣をくれぇぇぇぇ!!」
十七歳の春。
八坂優の戦いは、今日もだいたい金銭問題から始まる。




