第85章:星屑の錨(アンカー)と落日の影(エピローグ)
都を覆っていた重苦しい赤い霧――「天陽の灼熱檻」が消え去り、アル・ザハブには本来の涼しい風と、おだやかな太陽の光が戻っていた。
王宮の大理石を焼くようなかつての熱線はもうない。崩れた天井の隙間から差し込む光は優しく、都のあちこちからは、数ヶ月ぶりに日中の地上へ出てきた人々が、静かに風の冷たさを噛みしめる気配が伝わってくる。
王宮のテラスに、二人の男が立っていた。
アル・ザハブを統べる王、ハシム。そして、かつて一族から離れ、泥の中を幾夜も這うようにして生きてきた若きカシム。
ハシムは、テラスの石造りのテーブルの傍らに佇んでいた。
その痩せ細り、震える手で、彼は古びた素朴な木製の器を二つ手にする。それは高価な王室の金杯などではなく、砂漠の過酷な旅路を往く旅人たちが、渇きを癒すために使う安価な器だった。
ハシムは、その器に、土の匂いがかすかに残る温かいハーブ茶を黙って注いだ。湯気が、乾いた砂漠の空気に優しく溶けていく。
彼はその器の一つを、何も言わずにカシムへと差し出した。
カシムはそれを受け取り、無言で喉を潤した。少し苦く、しかしどこか懐かしい味が、胸の奥へと染み渡っていく。
ハシムは、遠く広がる砂丘の彼方を見つめたまま、静かに口を開いた。
「ガルヴァスの脅迫に屈し、泥を啜ってでも、私はこの都を、人々を繋ぎ止めようとした。……それ以外に、道はなかった」
王の背中は小さく、しかしその選択を悔いてはいないという覚悟に満ちていた。
カシムは空になった木製の器を、そっとハシムの隣に置いた。
「あんたが傷つきながら、泥の中で繋ぎ止めてくれた命だ。……なら、その先は、俺たちが守る」
それ以上、カシムは何も語らなかった。
「……カシム。一族の影に、砂漠の不屈の嵐があらんことを」
ハシムの低い声が、戻ってきたばかりの心地よい風に乗って消えていく。
二人は背を向け合い、互いの顔を見ることはなかった。だが、それぞれの胸に刻まれた「守るべきもの」への決意は、言葉を重ねずとも、ただ深く結ばれていた。
王宮を後にしたゼノリスたちは、砂塵が穏やかに舞う都の広場へと降りていた。
乾いた風が通り抜ける中、ゼノリスの懐に忍ばせた魔導通信機が、かすかに振動した。
端末を起動すると、空中に揺らめく青白い魔力光の向こうから、聞き慣れた快活な声が響いた。
「ゼノリス、フィリーネ! 聞こえる? 待たせたわね、新しい船が完成したわ!」
ナディアの声だった。弾むような音色の向こうには、ルサルカの王立造船ドックで汗を拭う彼女の、誇らしげな笑顔が浮かぶようだった。
「ルカスのこだわりが強すぎて、少し予定を過ぎちゃったけれど……その分、性能は保証するわ。今からそっちへ向かうから、驚かないで待っていなさい!」
「おい、ナディア。僕の緻密な魔導配線技術を、ただのこだわりという言葉で片付けるな。極限まで計算を尽くした、僕の最高傑作なんだぞ」
背景から割り込んでくるルカスの、不機嫌そうでいてどこか得意げな小言。
かつて学園の旧時計塔で、幾度となく繰り返された二人の騒がしい掛け合い。
イリスを失った深い傷を胸に抱えながらも、あの温かく、少し油臭い日常の残響が、確かに自分たちの元へと戻ってきたことを、ゼノリスは実感していた。
隣に立つフィリーネが、そっと嬉しそうに目を細めてゼノリスを見上げる。
「お兄様。ルカスさんもナディアさんも、相変わらずですね」
「ああ。僕たちの、新しい船が来る」
ゼノリスは頷き、通信機の向こうの仲間たちへ、アル・ザハブでのすべての戦いが終わったこと、合流の準備を始めることを伝えた。
通信が切れた後も、胸に残った温かさは消えない。
テオが小さく肩をすくめて笑う。カシムやエレナ、ガイルやリィンたちも、それぞれの武器に手を添えながら空を見上げていた。
失ったものは大きく、傷跡は未だ深く疼く。それでも、彼らは再び歩き出そうとしていた。
都の空はどこまでも青く澄み渡り、彼らを迎えに来る新たな翼を、優しく待望するように広がっている。
通信が切れてから、それほど長い時間はかからなかった。
陽光が広場の砂を黄金色に染め上げていくのを、ゼノリスたちはその場で佇みながら待っていた。やがて、乾いた砂塵の向こう、アル・ザハブの青澄んだ天空から、巨大な影がゆっくりと舞い降りてきた。
それは、陽光を浴びて白銀と蒼色に輝く、美しい一隻の魔導船だった。
ルサルカ海洋公国が誇る王立造船ドックの最高技術と、ルカスの緻密な設計が形を成したその船体は、かつてヴィオラの襲撃によって失われたエトワール号の面影を残しながらも、より力強く、洗練された翼を備えている。
船体が降下するにつれて、心地よい魔力の風が広場を吹き抜け、ゼノリスたちの髪を揺らした。
全員の視線が、滑るように着陸する船の側面へと引き寄せられる。
そこには、精巧な金色の彫刻文字で、新たな船の名が刻まれていた。
『ステラ・アンカー号(Stella Anchor)』――。
その名を目にした瞬間、ゼノリスたちの胸に、かつて帝国魔導院学園の旧時計塔、その冷え切った屋根裏部屋で交わしたあの日の記憶が鮮やかによみがえった。
自分たちを縛り、絶望の底へ引きずり込もうとした「鉄の枷」。
だが、彼らは諦めなかった。その枷の重さを受け入れ、大地を踏みしめて立ち上がるための「錨」に変えてみせると、十人の仲間全員で、涙を拭いながら手を取り合ったのだ。
船体に誇らしく輝くその名は、失われたイリスへの想いも、これまでに流したすべての血と涙も、何一つ無駄ではなかったことを証明していた。
ゼノリスは隣のフィリーネと視線を交わし、温かいものが胸を満たすのを覚えた。テオは感慨深げに鼻を鳴らし、カシムやエレナ、ガイルにリィンも、それぞれ安堵をにじませた表情で船を見上げている。
やがて、魔導エンジンの駆動音が穏やかな余韻へと変わり、船のタラップがゆっくりと開いた。
「みんな、無事だったみたいね!」
真っ先に飛び出してきたのは、潮風の匂いをまとったナディアだった。その隣からは、大きな図面を抱えたルカスが、相変わらず不満げな顔をしながらも、足早に降りてくる。
「まったく、砂漠の砂は精密機械の天敵だというのに。だが、このステラ・アンカー号の気密魔導障壁なら、この程度の塵芥など造作もないがね」
相変わらずの減らず口。だが、タラップの下で待ち構えていたガイルが歩み寄ると、ルカスはふっと言葉を止めた。
眼帯をつけた不敵な参謀と、眼鏡の奥に緻密な数式を宿した魔導工学者。二人は言葉を交わすことなく、ただ力強く、無言で互いの肩を抱き合った。
眼鏡の奥をかすかに潤ませたルカスの瞳は、誰よりも仲間の無事を喜び、安堵していた。
駆け寄るナディアを、テオとリィンが笑って出迎える。
砂漠の地に、失われていた最後の大切な日常が、力強い足音とともに戻ってきた。
再会の喜びも束の間、仲間たちは次々と『ステラ・アンカー号』の白亜の甲板へと乗り込んでいった。
ルカスが丹念に調整を重ねた船内は、かつてのエトワール号の温もりをそのままに、新調された魔導配線の淡い輝きが各部を優しく巡っている。操舵席に滑り込んだナディアは、計器類の数値を素早く指先でなぞりながら、満面の笑みを浮かべた。
「魔力回路、オールグリーン! ルカス、完璧な仕上がりよ」
「当然だ。僕の設計に妥協などという言葉はないからな。さあ、砂埃が計器に入る前に早く出発してくれ」
ルカスは眼鏡を押し上げながら自慢げに言い、すぐさまエンジン駆動状況の監視へと戻る。
展望デッキの窓辺では、カシムが腕を組み、眼下に広がる熱砂の都アル・ザハブをじっと見つめていた。王宮のテラスには、もうハシム王の姿はない。だが、二人が交わした無言の約束は、砂漠の熱風よりも熱くカシムの胸に居座っていた。
「本当に、行ってしまうのね」
いつの間にか隣に立ったエレナもまた、遠ざかる熱砂の都を見つめていた。
「ああ。だが、俺たちの錨はここにある。どれほど遠くへ行こうと、この砂漠の風を忘れることはない」
カシムは不敵に口元を緩め、腕を組み直した。
船の機関室からは、魔導エンジンが目覚める心地よい重低音が響き始め、船体全体が生命を得たように細かく震える。
甲板の中央に立ったゼノリスは、隣に佇むフィリーネの手をそっと握りしめた。フィリーネは深く頷き、まっすぐな視線で青空の彼方を見つめる。
その背後には、テオが大きな腕を組んで頼もしげに立ち、リィンとガイルが並んで計器の光の揺らめきを眺めていた。失われたイリスが遺した気高い志は、今や彼ら全員の心に深く沈む「錨」となり、決して揺らぐことのない歩みを支えている。
操舵輪を力強く握りしめたナディアが、振り返って全員を見渡した。その澄んだ瞳に、一切の迷いはない。
「みんな、準備はいい? ――ステラ・アンカー号、出航! 面舵一杯、針路、エーテルガード!」
ナディアの声が轟いた瞬間、船体からまばゆい蒼雷の魔力光が弾け飛んだ。
蒼銀の船体が力強く大地を蹴り、次の瞬間、砂漠の熱風を鋭く切り裂きながら、白銀の翼は青澄んだ大空へと駆け上がっていく。
眼下の都と黄金の砂丘がまたたく間に小さくなり、彼らの前には、どこまでも続く果てしない雲海が広がった。
数々の傷を負い、それでも絆を錨に変えた十人の星屑たちは、約束の始まりの地、そして全ての決着をつけるべき帝国魔導院学園へ向けて、まっすぐに風を切り裂いていく。
学園都市エーテルガードの白亜の塔では、学園長エレアノールが窓辺に佇んでいた。脳裏を刺す激しい頭痛と、世界が崩壊へと傾く異変の予兆に耐えながら、彼女は力なく窓枠に手をかけ、誰もいない旧時計塔の空を見上げている。愛する者たちを傷つけ、破滅へと導いてしまった過去の後悔が、彼女の胸を絶え間なく苛んでいた。
黒炎の痕跡が残る聖教国では、セレスティアが崩れかけた礼拝堂の前に立っていた。
身を挺して仲間を守り、光となって散っていった親友イリス。その尊い犠牲と残された深い祈りを胸に抱き、彼女は集まった人々の傷を癒やし、傷ついた街と人々の心を立ち直らせるために、惜しみなく温かな手を差し伸べ続けている。
学園都市の静まり返る古書庫の陰では、教官ガントが樫の木の枝でできた古びた杖を手に、じっと空を見上げていた。三千年もの途方ない刻を生き、自らの過ちが生み出してしまった哀しき我が子――ルシオンとの逃れられぬ決着の時が近づいている。その老いた瞳には、父親としての切ない哀愁と、不屈の覚悟が深く揺らめいていた。
揺れるステラ・アンカー号の甲板の片隅では、エレナが佇んでいた。
彼女は腰に差した銀色の長剣の柄にそっと指先を滑らせ、その感触を確かめる。姿を消した父ザガンとの因縁、そして己が果たすべき真の役割。迷いを振り払うように一筋の風が彼女の髪を揺らし、その瞳に静かな闘志が宿った。
それぞれの思いと運命を乗せ、世界は着実に、一つの破滅と再生の交差点へと向かって動き出していた。
崩れかけた薄暗い部屋の奥で、虚無の王ルシオンの体は黒い靄のような不気味な揺らぎに包まれていた。
二つの楔を打ち砕かれたことで、その存在の足場が大きく揺らいでいるのだ。苛立ちを隠そうともせず、ルシオンは足元にひざまずく忠臣へ視線を落とした。
古びた銀色の甲冑を纏った魔騎士ザガン。かつて亡き兄(初代魔王ゼノス)の影としてあらゆる命を奪い、今は己の右腕として従う男だ。
ルシオンはゆっくりと歩み寄り、冷え切った指先でザガンの兜の顎を押し上げた。
「あえて星屑たちを逃がし、私の完全な復活を邪魔しようとしていたのだろう。忠実な振りを装い、裏でどんな希望を抱いていたのだ?」
問い詰められても、ザガンは一切の言い訳をしなかった。
押し上げられた顔をゆっくりと払うようにして立ち上がると、自ら静かに銀の兜を脱ぎ捨てた。
兜の下からあらわれた素顔は、かつて生き別れた娘のエレナに、驚くほどよく似ていた。
ザガンは背の巨大な大剣の柄に手を添えた。張りつめた静寂の中、重厚な金属音を響かせ、鈍く輝く銀色の刃がゆっくりと鞘から現れる。
「……我が王よ。私はただ、遠い昔、貴方の兄上と交わした最後の誓いを果たすだけです」
「愚かな」
ルシオンの体から、禍々しい黒い魔力が溢れ出す。
それに対し、ザガンが構えた大剣からは、澄み切った銀色の剣気が放たれた。
亡き主君との誓いを胸に宿すザガンの銀刃と、世界を無へと導くルシオンの黒き魔力。
互いの譲れぬ思いを秘めた視線が暗闇の中で静かに交差し、息をのむような緊張感が部屋を満たしていく。




