第83章:次元の風、灼熱の檻を穿て
黒い剣の刀身を走る白銀の光。それは、狂戦士ガルヴァスが放つ圧倒的な不協和音に対抗しうる、唯一の希望の火だった。
だが、その光が完全なる刃となるには、まだ一瞬の、されど決定的な時間が必要だった。
「ほう、まだ耐えるか。ならば、その盾ごと粉々に噛み砕いてくれよう!」
ガルヴァスが傲慢な笑みを浮かべ、さらに戦斧へと魔力を注ぎ込む。禍々しい刃から放たれる重力波が倍加し、テオの重盾がみしみしと限界の悲鳴を上げた。
テオ一人を確実に押し潰すため、ガルヴァスは胸元のカオス・コアから繰り出される全魔力を、戦斧を振り下ろす「下方向」へと極限まで集中させ始めたのだ。
「テオにこれ以上の重圧を背負わせるか……! 影よ、うねれッ!」
カシムが影から跳躍した。
極限まで濃く波立たせた彼の影魔法が、闇の蛇となってガルヴァスの足元へと這い寄る。カシムが全身の魔力を込めて放った影の縛鎖が、ガルヴァスの巨体を包み込む黒き鎧に絡みつき、その踏み込みの重心を強引に数センチだけ狂わせた。
わずかな狂い。しかし、それによってテオの重盾を直撃していた超重圧のベクトルが、横へと逸らされる。
「助かる、カシム……っ!」
血の滲む口元でテオが吠え、さらに強く大理石の床を踏みしめた。
前衛二人の、命を削るような防衛戦。
その光景を、一歩引いた後方から、ガイルは血走った右目の『解析眼』で見据えていた。眼帯の下からパチパチと青い火花が散り、彼の網膜に映る魔力の奔流が、一瞬で幾千もの数式へと分解されて超高速演算されていく。
(なぜ、あの天空の檻を最初から狙わなかったのか――)
都を包む赤黒い『天陽の灼熱檻』。その全エネルギーを維持しているのは、王宮のガラス天井の真上に浮かぶ支配の心臓部、魔導球体『天空の制御装置:ソル・カリドゥム』だ。
通常であれば、あの球体の周囲には、ガルヴァス自身の強大な『重力偏向シールド(見えないバリア)』が常時張り巡らされている。地上からどんな長距離魔法や狙撃を放とうとも、弾道は重力でねじ曲げられ、球体に傷一つ負わせることは叶わなかった。
だが、状況は劇的に反転した。
ガルヴァスがテオを確実に圧殺せんとして、魔力出力を「下方向(戦斧)」へ完全に全集中した今。
上空の球体を守る重力シールドの魔力循環回路に、ほんのわずかな歪み――魔力の流れが逆流し、相殺し合うことでバリアが完全に消滅する、致命的な「空白の隙間」が生じているのを、ガイルの右目は見逃さなかった。
「ゼノリス! リィン! エレナ! 上空の球体が、奴の重力シールドと同調する瞬間に魔力の逆転が起きる! そこを撃ち抜けば、あの檻を内側からぶっ壊せるぞ!」
ガイルが叫び、その口から放たれる声に全身の神経を尖らせる。
「だが、シールドが完全に消失する隙間は、一度きり。……その時間は、わずか五秒間だけだ!」
五秒。
お互いの呼吸を合わせるには、あまりにも短く、されど彼らの絆を爆発させるには十分すぎる刹那。
「あと五秒で奴の重力場に隙ができる! 五、四……!」
ガイルの死線のカウントダウンが、玉座の間に響き渡った。
「三――!」
ガイルの叫びが、耳元をかすめる。
あまりにも短い、されど死線を分かつ五秒のカウントダウンの中で、リィンとエレナは互いを見つめ合うことすらしていなかった。ただ、二人の意識は驚くほどの静寂の中で、完全に同じ光景を共有していた。
それは、あの雷鳴の渓谷で完璧な調和を見せた、あの風と空間の共鳴。
ナディームの放った砂鉄の嵐の中、リィンの『秘剣・疾風』が風の通り道を創り、その真空を滑るようにエレナの『空間切断』が突入して敵の魔力供給源を両断した。互いの異なる剣筋が、これ以上ないほど美しく噛み合ったあの共闘の感触。
リィンの風と、エレナが切り取る空白。その二つの特性を今度は逆に重ね合わせ、エレナが空間を切り裂いて創り出す『真空の道』へ、リィンの風の魔弾を撃ち込む。
それこそが、ガイルの解析眼が見出し、二人が特訓を重ねてきた合体技の真髄だった。
『リィンとエレナ、お前たちの剣筋は似ているが決定的に違う。だからこそ、重ね合わせれば無敵の槍になる』
あの日、二人の戦いを見ていたガイルは、眼帯の下の右目をぎらつかせながらそう言って笑った。
リィンは、空気を凝縮して鋭く放つ、素早い風の抜刀術。エレナは、空間そのものを切り裂く、特別な刃。空気の抵抗に遮られてしまうリィンの風と、空間を切り取るエレナの剣。似ているようで異なる二人の力が重なるとき、空気の抵抗を一切受けずに、どこまでも速く、遠くの標的へ真っ直ぐに突き抜ける一撃――『風穿・虚空裂』が完成する。
「二――!」
ガイルのカウントが響く。
エレナは静かに、銀色の長剣を上空へと構えた。その刀身の周囲で、大気がちりちりと音を立てて歪み始める。
リィンもまた、愛刀の柄に手をかけ、エメラルド色の風の魔力を限界まで右腕へと収束させていく。
互いの剣筋を、呼吸を、心の底に秘めた信頼を、すべて一本の線へと同調させる。
ガルヴァスの放つ不協和音など、二人の間を流れる旋律を乱すことはできない。聖都の燃え盛る黒炎の中で、そしてあの砂鉄の嵐の中で、過酷な死線を共にしてきた二人には、言葉すら不要だった。
ただ、敵の心臓部を射抜く。その一念だけで、二人の魂は極限の調律を果たしていた。
「一――!!」
その瞬間、上空数千メートルに浮かぶ魔導球体『ソル・カリドゥム』を包む重力シールドが、ガルヴァスの出力偏向によって、ほんの一瞬だけ、完全に消失した。
世界が静止したかのような、魔力の空白。
エレナの銀の刃が、そしてリィンの抜刀が、同時に虚空を裂いた。
二人の動きは、鏡に映したかのように同じだった。
エレナが長剣を横に力強く振り抜く。刃が描いた軌道に沿って、空間がわずかにズレ、そこにあった空気が一瞬で消え去った。重力も大気の抵抗も存在しない、ただ一本の「真空の道」が、王宮の真上へ向かって真っ直ぐに伸びていく。
その切れ目へ、リィンの刀から放たれた風の魔弾が吸い込まれた。
風の衣を大きくはためかせ、放たれた一撃『シルフィード・バースト』。
本来なら、上空へ進むにつれて空気の抵抗に阻まれ、威力を失っていくはずの風。しかし、エレナが切り裂いた真空の道の中では、大気が風を遮ることはない。風の魔弾は、勢いを衰えさせることなく、どこまでも速く、遠くの標的へ向かって一瞬で突き抜けた。
光を遮る重力シールドが消えた、その刹那。
風の槍が、王宮のガラス天井の真上に浮かぶ魔導球体『ソル・カリドゥム』へと、正確無比に突き刺さった。
一瞬の、静寂。
次の瞬間、耳を劈くような激しい破砕音が、都の空に轟いた。
王宮のガラス天井を震わせ、魔導球体が内側から弾けるようにして、粉々に砕け散る。
「な、何だと……!?」
ガルヴァスが驚愕に目を見開いたときには、すべてが遅かった。
球体が放っていた赤黒い光の糸が次々と断ち切られ、都を三ヶ月もの間閉じ込めていた、あの禍々しい『天陽の灼熱檻』の格子が、音を立てて崩れ落ちていった。
赤黒い檻は、熱を失い、きらきらと光る光の雪となって、太陽の光の中へと静かに溶けていく。
それはまるで、砂漠の空を舞う、きらきらとした黄金の粉のようだった。
都の空を覆っていた赤黒い靄が消え去り、そこには本来の、どこまでも高く、澄み渡った青空が広がっていた。
遮るもののなくなった優しい陽光が、都を穏やかに照らし出す。
そして、熱砂の都に、三ヶ月ぶりとなる涼しく優しい風が、さらさらと吹き抜けた。
地の底にある、日の当たらない地下街に閉じ込められていた人々が、その風の冷たさに、誰もが驚いたように天を仰ぎ、静かに涙を流す。
「……風が、吹いている」
「涼しい、本当に風だ……」
民の囁きが、都のあちこから、波のように静かに広がっていく。
だが、その安堵とカタルシスの瞬間を、地獄の底から這い上がるような絶叫が引き裂いた。
「よくも……よくも、我が『天陽の檻』をォォォッ!!」
ガルヴァスの咆哮が、玉座の間を激しく揺らした。
王宮のガラス天井の残骸が、その声の振動だけで粉々に砕け散り、床に降り注ぐ。
支配の心臓部であった球体を壊され、都を閉じ込める檻を失ったガルヴァスは、怒りに顔を真っ赤に染め、獣のように牙を剥き出しにしていた。
彼の胸元で不気味に明滅していた結晶『カオス・コア』が、ドクン、ドクンと耳障りな音を立てて、どす黒く暴走し始める。
カオス・コアから噴き出した邪悪な魔力が、ガルヴァスの巨体を包み込み、周囲の太い大理石の石柱を、衝撃波だけで粉々に粉砕していった。
「虫ケラどもが……! これ以上の侮辱は許さん! 骨の一本にいたるまで、私の手で圧殺してくれるわ!!」
ガルヴァスが、巨大な戦斧を両手で掲げる。
その瞳に宿るのは、目の前の者をただ消し去るための、剝き出しの殺意。
王宮にそよぐ冷たい風さえも、凍りついたように静止した。




