第76章:砂漠の踊り子と地下オアシス
乾いた風が砂の上を吹き抜けていく。
魔獣たちの追跡を逃れた彼らは、アズラの案内に従って、砂漠のさらに奥へとあゆみを進めていた。
テオの背中に背負われたアズラは、かすれた声で、暗がりにたたずむ岩の壁を指ししめした。
「……あそこ。あの岩の、すきまに……」
ゼノリスがその場所へと歩み寄り、生い茂る硬いハーブの葉を横に払うと、砂岩の隙間に、下へと続く細い階段がひっそりと隠されているのが見つかった。
ゼノリスは、周囲の様子を素早く探った。
彼の衣服は、これまでの激しい戦いによってあちこちが擦り切れ、泥と砂に汚れていたが、その黄金と闇の瞳は、暗闇の中でも確かな輝きを宿していた。
カシムは影のようにすうっと動き、とがった岩山の陰からこちらをうかがう者がいないか、ぬかりなく見張っている。
彼の操る影の糸は、砂の上を滑るようにして広がり、周囲の微かな気配の変化を素早く捉えていた。
フィリーネは兄の隣に寄り添いながら、静かに周囲を見つめていた。
「よし、行こう。みんな、足元に気をつけて」
ゼノリスの静かな声に導かれ、若者たちは、その階段をゆっくりと下りていった。
一歩進むごとに、地上の乾いた熱風が遠ざかり、代わりにつめたい風が彼らの頬をやさしくなでた。
奥へ進むにつれて、地上の乾いた空気とは異なり、しっとりとした土と草の匂いがかすかに漂い始めた。
足元は滑りやすく、湿った砂が階段に薄く積もっていたが、テオはアズラを落とさないよう、一歩ずつていねいに足を運んだ。
階段を下りきった先で彼らを迎えたのは、地上の乾いた熱風とは対照的な、ひんやりとした空気が満ちる広大な空間だった。
地の底から湧き出る清水のせせらぎが、さらさらと心地よい音を立てて流れている。
水面は、天井から降り注ぐやわらかな光を反射して、まるで夜空の星屑を散りばめたように、きらきらと美しく輝いていた。
お日さまに代わる不思議な光の石が、天井や壁のいたる所に埋め込まれ、やわらかな、黄金色の輝きを放っていた。
その優しい光に照らされ、しっとりと濡れた緑の葉を茂らせるハーブたちが、甘くて、どこか懐かしい香りをあたりに漂わせている。
かつてオアシスの村で育ったテオにとって、その懐かしい土と緑の匂いは、強張っていた胸を優しく解すものであった。
「……懐かしい匂いだ。まるで、あの頃の村の畑にいるみたいだ」
テオが、左手に携えていた大きな黒い盾をそっと床に置き、長い耳を小さく揺らしながら呟いた。
アズラは、テオの背中からゆっくりと降ろされ、清水のほとりにある柔らかな苔のじゅうたんの上に横たえられた。フィリーネが先ほど施してくれた治療のおかげで、彼女の脇腹の傷口からは、すでに血が綺麗に止まっていた。
フィリーネは、白銀の杖の先をアズラの傷口へと向け、これ以上の痛みが彼女を襲わないよう、そっと祈りを捧げた。
「光よ、この乙女の痛みを和らげ、平穏を与えたまえ」
杖の先から放たれた温かな、黄金色の光が、アズラの痛みを優しく包み込んでいく。
テオは懐から小さな革の袋を取り、青いハーブの葉を取り出した。
不器用な指先でその葉を丁寧に押し潰し、にじみ出た青い汁を、アズラの傷を覆うフィリーネのハンカチの上から、そっと染み込ませていった。
少し苦くて、けれどお日さまのようなあたたかい香りが、地の底の静寂に溶けて広がっていった。
アズラは、テオの指先の温もりと、その香りに包まれながら、ゆっくりと瞳を閉じた。彼女の荒かった呼吸が、少しずつ、穏やかになっていく。
彼女を包むハーブの香りは、かつてテオとアズラが、あの穏やかなオアシスの村で過ごした、かけがえのない記憶を呼び起こすようであった。
その時、ハーブの茂みの奥から、物音一つ立てずに一人の女性が姿を現した。
若者たちは瞬時に身構えた。カシムが短剣の柄に手をかけ、テオが再び大盾を前に構える。
けれど、現れた女性に、戦う気配は少しもなかった。
彼女の名前は『ファティマ』。
砂漠の抵抗組織を率いる、この国の王の妹であった。
彼女は、砂漠の民特有のきらびやかな踊り子の衣装を纏っている。
風に揺れる薄い絹の布には、銀の糸で美しい刺繍が施され、彼女が歩くたびに、手首や足首に飾られた純銀の輪が、シャン、シャンと、涼しげで美しい音色を奏でた。
その佇まいは凛として気高く、その瞳には、過酷な日々を生き抜いてきた若き指導者としての強い光が灯っていた。
彼女の黒い艶やかな髪には、砂漠に咲く小さな白い花が飾られ、歩くたびにその花の香りがふわりと広がった。
「……そこまでにしてください。その子は、私たちの仲間です」
ファティマの声は、透明で、けれど芯の通った響きを持っていた。
彼女は、戦う意志がないことを示すように、両手をそっと広げ、アズラの元へと歩み寄った。
彼女のまとう砂漠の香りが、ハーブの香りと混ざり合い、広間に優しく広がる。
「アズラ……。本当によく生きて、戻ってきてくれました」
ファティマは、アズラの傍らにひざまずき、その泥に汚れた頬を、美しい手でそっと包み込んだ。
アズラもまた、かすかに目を開け、ファティマの顔を見つめて小さく微笑んだ。
「……ファティマ。……約束の、情報は、ここに……」
アズラが、破れた服の裏から、小さく折り畳まれた一通の紙片を取り出そうとした。
ファティマはそれを優しく制し、彼女の傷口を労るように首を横に振った。
「今は、何も語らなくてよいのです。……貴女の届けてくれた情報のおかげで、私たちは、ガルヴァスの不穏な動きを事前に知ることができました」
アズラとファティマ。
二人は、実は裏で密かに協力し合っていたかたい関係であった。
アズラが情報屋としての技術を使い、ガルヴァスが支配する王宮の暗闇に潜入して情報を探り、それをファティマの率いる抵抗組織へと届けていたのだ。
その身を危険に晒し、ボロボロになりながらも、アズラが泥の道を歩み続けたのは、この国の未来を取り戻すためであった。
ファティマは立ち上がり、ゼノリスたちの方へと向き直り、丁寧に一礼した。
「アズラをお救いくださり、こころから感謝いたします。皆様がいなければ、この子はあの過酷な砂漠の中で、行き倒れていたに違いありません。……ここはお世辞にも豪華な場所とは言えませんが、追っ手の目から隠れるには最適の場所です。どうか、ゆっくりと旅の疲れを癒やしてください」
ゼノリスは、少し離れた場所で、その二人の様子を静かに見守っていた。
彼女たちの間に流れる、他人が立ち入ることのできない、固い約束を感じ取っていた。
フィリーネもまた、二人の再会を見守りながら、そっと目を伏せた。
彼女たちの間に流れるあたたかい空気が、その再会を優しく包み込み、新たな時間がゆっくりと流れ始めようとしていた。
二人の姿を見つめながら、テオは、その拳を固く握りしめた。
ファティマは、傍らに置かれていたひんやりとした清水の入った器を手に取り、それをゼノリスたちへと差し出した。
おひさまの光の届かない地の底で湧き出る清水は、器の表面に細かな水滴を結び、白く透き通るような霧をまとっている。
彼女が歩くたびに、手首や足首に飾られた純銀の輪が、シャン、シャンと、涼しげで美しい音色を奏で、その響きが広間の静寂に優しく溶けていく。
「まずは、乾いた喉を潤してください。ここまで来る道のりは、さぞ過酷な旅だったことでしょう。私たちは、このつめたい水に何度も助けられてきました」
彼女の差し出した清水を、テオが両手で受け取った。
彼の大きな手は、これまでの過酷な旅路で泥にまみれて汚れていたが、おずおずと差し出された清水を口に含むと、そのひんやりとした心地よさに長い耳をそっと揺らした。
乾ききっていた彼の喉を、清水が優しく潤していく。
「本当につめたい……。なんだか、おなかの底までハーブの懐かしい香りと一緒に、ひんやりとした心地よさが広がっていくみたいだ」
テオの顔に、いつもの穏やかな笑みが戻った。
若者たちは代わる代わる器を受け取り、乾きを潤していった。
カシムは目を伏せて器を傾け、その喉を鳴らす。
フィリーネはゼノリスの隣で、差し出された清水にほっと息を吐いた。
「お兄様、本当にひんやりとしていて、良いお水です。私たちに新しい力を与えてくれる気がします」
「そうだね、フィリー」
ゼノリスもまた、器を口にした。
これまでの過酷な旅路を振り返りながら、心穏やかに水を味わった。
少しの間、広間には水のせせらぎと、彼らの息遣いだけが響いた。
しかし、その安らぎのひとときを打ち消すように、ファティマの表情が曇っていった。 彼女の美しい黒い髪に飾られた白い花が、地の底を渡る風に揺れて、香りを放つ。
「皆様に感謝を伝えると同時に、お話ししなければならない現状があります。このアル・ザハブ南方太陽国の、おそるべき姿を」
ファティマの声は、低く、けれど広間の隅々までしっかりと届く響きを持っていた。
彼女は、自身の絹のショールをそっと引き締め、語り始めた。
「この国は今、巨漢の狂戦士ガルヴァスによって、おそろしい檻に閉じ込められています。……空を見上げれば、そこには巨大な『天陽の灼熱檻』が、太陽を遮るようにして展開されているのです」
「天陽の灼熱檻……?」
ゼノリスが、聞き返した。
「はい。それは、ガルヴァスがこの国の遥か上空に展開した、魔導の檻です。彼は、私の兄であるハシム王の大切な人々を人質に取り、兄を自分の言いなりにしてしまいました。そして、その檻から放たれる、凄まじい熱線をもって、国全体を脅かしているのです」
ファティマの青い瞳に、激しい怒りと、やるせない悲しみが宿っていた。
「その檻から放たれる熱線の恐怖により、民は太陽が昇る日中、地の底に作られた『地下フィルター街』や『地下貯水回廊』へと避難することを強いられています。人々は、夜間にしか地上で生活することができず、昼夜が逆転した、歪んだ暮らしを余儀なくされているのです。かつて、おひさまの光をいっぱいに浴びて、果実やハーブが豊かに実っていたオアシスの畑は、いまや乾いた不毛の土地と化してしまいました。民は太陽を憎み、水を求め、おののきながら暗闇の中で生きている。これこそが、この美しい砂漠の国を包む、真の姿なのです」
テオが、愛用の盾を見つめながら、拳を握りしめた。
彼の脳裏に、かつて自分の故郷が崩壊したときの悲しい記憶がよぎっていた。
おひさまの光が届かず、ひんやりとした土の底で息を潜めるしかない民の苦しみが、かつてオアシスを奪われて泣いていた自分の姿とかさなり合っていたのだ。
「日中におひさまの光を浴びることができないなんて……。それじゃあ、あのあたたかい光を、誰も受けることができないのかい? ずっと、暗闇の中で隠れていなければならないの?」
テオの切実な問いに、ファティマは目を伏せて首を横に振った。
「その通りです。民は太陽を恐れ、水の一滴にすがりつくようにして、息を潜めて暮らしています。この国を包んでいるのは、熱と渇きによって、人々の心をじわじわと削り取っていく、見えざる檻なのです。日中、地下の回廊に閉じ込められた人々は、いつ上空から熱線が降ってくるかという恐怖に怯え、水が干上がっていく不安に、心をすり減らしています。その焦りや恐怖そのものが、この国の歪んだ空気をさらに息苦しくし、人々の立ち上がる意志を奪い去っているのです」
ファティマの言葉は、ありのままの真実として若者たちの胸に突き刺さった。
「……託された情報を、私たちは無駄にしません」
ゼノリスは、右手の包帯に隠された星の刻印を強く握りしめ、告げた
「……ファティマ様。私たちは、あの『天陽の灼熱檻』を破壊し、この国に優しい陽の光を取り戻します。空間を蝕む、あの不快な不協和音の源を、すべて断ち切ってみせます」
ゼノリスの声が広間の隅々まで響いた。
彼の、異なる輝きを湛える瞳は、進むべき険しい道を見据え、若き導き手としての力強い光を放っていた。
ファティマは、ゼノリスの瞳に宿る揺るぎない覚悟を見て、驚いたように目を見張った。
そして、彼らがこの国を縛るおそろしい枷を打ち破る、本物の『希望の星』であると確信し、おだやかに、優しく微笑んだ。
「……ありがとうございます、ゼノリス様。皆様のその気高い意志に、私はこの国の未来を賭けましょう」
地上の追跡を逃れた地の底で、ひっそりと灯る光の石が、一同の濡れた衣服や、使い古された装備の表面を、おだやかに照らし出している。
アズラはテオの肩に体を預け、彼がそっと差し出した清水を掠れた唇に含みながら、懐かしい温もりに小さく目を細めていた。
彼女が旅芸人の一座にいたころの、ハーブの香りに満ちたオアシスの思い出。そのすべてが、このおだやかな時間のなかで、ゆるやかに交差していた。
「……カシム。君も、飲むかい?」
テオが、ファティマに分けてもらった清水を器に注ぎ、カシムへと差し出した。
カシムは無言で受け取り、その器の心地よさを掌で確かめるようにしてから、静かに口にした。
「……悪くない。お前の差し出す水は、いつでも乾いた喉を優しく潤してくれるな」
「へへ、ありがとう、カシム」
フィリーネは、二人のやり取りを見つめながら、ゼノリスの隣でそっと微笑んだ。
彼らの間にある絆は、いかなる過酷な戦いをも乗り越える、不滅の光となっていた。
ゼノリスは、右手の包帯に隠された星の刻印を強く握りしめ、次なる目的地へと心を定めた。
これから始まる、国の中心での過酷な潜入。
けれど、彼の心に灯った『種火』は、いかなる暗闇のなかであっても、消えることはない。
若き星屑の騎士たちの進むべき路は、この渇いた熱砂の国において、さらなる激動の渦へと、今まさに動き出そうとしていた。
地の底に湧き出るひんやりとした清水が、彼らの新たな旅立ちを、あたたかく祝福するかのように、広間を優しく満たしていた。




